万年初心者のための世界史ブックガイド

2014年7月8日

山崎正和 『世界文明史の試み  神話と舞踏』 (中央公論新社)

Filed under: 史論・評論 — 万年初心者 @ 16:06

「アステイオン」誌で、副題の方をタイトルにして連載されていた文明論。

連載中から斜め読みはしていた。

著者は『鴎外 戦う家長』『不機嫌の時代』等の著書を持つ評論家・劇作家として有名。

本書では、シュペングラー、トインビーハンチントンらとは異なり、地域・民族ごと別個に成立し、盛衰を繰り広げる有機体としての文明という考え方を否定している。

独立した複数の「文明の衝突」ではなく、統一的な世界文明誕生が現在の状況でありそれが先史時代からの一貫した趨勢だとされている。

例えるなら、文明は様々な要素の束のようなもので、言語のみやや例外だが、他の要素はすべて切り替え可能なもの。

ここで二つの概念が登場する。

「する」身体=目的連鎖・画一化・集団性・「世界開豁」。

「ある」身体=自己目的・異質化・個別性・「世界洞窟(閉塞)」。

(前者が仕事や産業、後者が芸術・スポーツ・宗教を含むと書かれていた気がするが、こう単純化するのは誤読かもしれない。)

人権思想の淵源は、天賦人権説では説明がつかず、“「ある」身体”という概念の発見にあるとされる。

そしてそれは王権の世襲が契機となっており、「至高至尊の王」という考えから、それ自体尊重されるべき「ある」身体というイメージが生まれ、それが人権思想に繋がる。

王権神授説と天賦人権説は表面上正反対だが、「ある」身体という考えから見ると同種類のもの。

前近代における政治的抑圧は、「する」身体の王が、「ある」身体の臣民を抑圧していたという解釈を著者は採る。

貴族特権が普遍化して国民の権利となったという説明は聞いたことがあったが、この考えは新鮮である。

本書前半はこの両概念を使って、ベルクソン、デュルケーム、カントなどを引用しながら、意識・言語・神話・宗教・道徳・文字・国家・技術の起源を考察する。

全く訳がわからないということはなく、とりあえず文脈は追えるが、私の知的レベルを超える話なので、ひとまずあー、そうですか、と言っておくしかない。

メモするのも面倒なので、省略(すみません)。

後半部は、やや具体性を増した比較文明論。

本書では、いわゆる近代西洋文明の制覇にそれなりの理由を認める。

これを西洋中心主義・近代主義の偏見であるということに著者は同意しない。

5万年の人類史から見れば、近代化の期間を極限まで長く取り、前5世紀のギリシアから19世紀の英国までとしたとしても、全人類史の20分の1の期間に過ぎないとしている。

なお、後半で一番参照されている本は、中央公論社「世界の歴史」シリーズ旧版なので、前半よりレベルが急に下がった感がして、非常に読みやすい。

ここでのキーワードは「文明の『雑種強勢』」。

ヘレニズムとヘブライズムの複雑な混交と融合がヨーロッパ優位の根源。

それに対して、エジプト古代宗教、ゾロアスター教、ヒンドゥー教、儒教、道教は、「雑種交配」せず。

仏教はやや微妙だが、迫害による聖俗両権の分離などは起こさず、権力者の支持次第に盛衰を繰り返した。

世界文明にとって残念だったのは、中国とインドの世界観の雑種交配が生じなかったことであり、とくにせっかく母胎の民族を離れた仏教がたとえば儒教と化学反応を起こさなかったことであった。仏教の深遠な世界像と儒教の現世的な倫理学がもし結びついていたら、あるいはその結合の困難さに多くの知性が深く懊悩していたら、アジアはたんに地理的な単位に終わることなく、ヨーロッパと並ぶもう一つの文明世界になっていたかもしれない。そんな妄想を誘うのは、ユーラシア大陸の東辺に日本という小国があって、そこでささやかな実験がおこなわれていたからである。

日本では神道・仏教・儒教の混合宗教が生じ、小規模ながら雑種強勢の歴史があった。

しかし、アジアの中心・中核である中国にはそれが生じなかった。

ついでながら世界文明史にとって惜しまれるのは、中華帝国が唐代に世界文明を育む空前絶後の機会を迎え、しかし結局はこの好機を永遠に逃したことである。

シルク・ロードと首都長安の繁栄、風俗文物の東西交流、儒教・仏教・道教・マニ教・景教(ネストリウス派キリスト教)・ゾロアスター教・イスラム教の並存があったものの、しかし官製の儒教教義固定化が起こり、仏教・道教との争いも思想上ではなく朝廷の恣意によって決着がつけられ、「夷教」の漢人への布教は進行しなかった。

ユーラシアの東端(中国・日本)と西端(ヨーロッパ)では、巨視的に見て、東は連続性、西は流転と混乱・再生が顕著である。

ユーラシア中央部の騎馬民族による攻撃が西へは過酷、東へは穏和だったという偶然も作用し、さらに西にはイスラムというもう一つのライバルが近隣に生まれたことも大きかった。

西洋文明は、ギリシア合理主義とヘブライ一神教の本格的融合による雑種強勢を得て、ロシアや南北アメリカにも広まる。

イスラムと中国では、科学について過度の技術実用志向と無関心の間を揺れ動いたのに対し、キリスト教的ヨーロッパでは宗教教義による科学への抑圧と同時に、(根本的原因である神意を前提とした上での)「近接原因」への関心があり、それが近代を導くことになった。

極めて巨視的な解釈として、西洋文明の優位を認め、近代の擁護に傾く著者であるが、もちろんその問題点も見逃されていない。

私は啓蒙主義者の楽天主義に与する者ではないし、神を否認する人間中心主義者でもないが、現実に生きる人間を尊重し、そのために適切な社会を守りたいと祈念する一点で、自分が啓蒙主義者の末裔と呼ばれることを避けるものではない。

しかしそれと同時に私が懼れるのは啓蒙主義の倫理的な傲慢さであって、正義の根拠を人間の理性が与えうると信じる迷妄である。

トドロフもいうように、正義の理念は神のみが与えうるという思想も独善的だったが、それを人間の理性が決めうるという思想はさらに根拠を欠いている。トドロフは理性が善のみならず悪にも奉仕するという理由でこれに反論しているが、私は正義の観念が現に歴史的に変遷し、しかも真に有効に働くためにはいわば人間の身につき、慣習にならなければならないという点を注意しておきたい。

「殺すな」「盗むな」という正義がかくも強力になったのは、それが神話時代から人類によって引き継がれ、さらに個人が幼少時からの教育によって身体に植えつけられているからだろう。これにたいしてフランス革命、ロシア革命、中国革命があれほど凄惨な流血を見たのは、一時期の理性が極端に独善的になり、長年の「ある」身体の慣習を麻痺させたからだと考えられる。理性は無時間的に働くのにたいして、正義の観念は共同体の慣習、身体の慣習という二重の意味で時間のなかでのみ熟成する。このずれは進歩の速さを尊んだ啓蒙の時代、さらにそれを継承して変化を急ぐ現代においてすでに深刻であり、二十一世紀の社会でさらに重大さを増すと思われる。

道徳をめぐって、神に代わって理性を崇め、それに行動の基準と第一原因を求める、ルソー、カント、ロールズらの試みは破綻している。

理念的原初状態で一切の他律を排した個人から出発するという通念ではなく、最初から共同体に組み込まれた個人、物語と慣習に根ざす道徳を主張する意味で、著者はマイケル・サンデルなどの共同体主義、啓蒙主義以前のアリストテレスにまで遡る伝統的人間観を肯定している。

しかし、現代社会では、利益目的の細分化された「物語」が人為的に大量生産され、道徳の基盤を揺るがし、個人がアトム化され、慣習の規範を脱した非道徳な群衆と化している。

そして現在の「高度情報化社会」が、実際には史上最悪の衆愚社会と化す危険性を以下のように鋭く指摘。

電子媒体のより深刻な文明上の問題は、こうした感情的、断片的な情報の氾濫に人びとが慣れ、結果として論理的、体系的な思考法を面倒がるようになることである。すでに多くの先進国でいわゆる「活字離れ」が進み、書物や雑誌はもちろん、新聞でさえ売れ行きを減らしているといわれる。そこにはたんに長文を読むことを億劫がる風潮も見られるが、同時に疑われるのは長文を書くような職業的著者への不信、広く古典や専門的知識人の権威にたいする反感が潜んでいることである。控えめにいっても、選ばれた個人の思索の跡を受動的に読まされるよりは、知的に同等の仲間とブログの広場で喋りあうほうが楽しい、という漠然たる気分が人びとを書店から遠ざけているのではないだろうか。

ここに現代の商業主義が加わり、広告料という経済問題がはいりこむと事態は決定的に悪化する。・・・・・今日、大きな報道機関に期待される最重要の役割は、それが自己の責任において情報に署名をつけるということである。情報の真偽についてはもちろん、無数の情報のあいだの重要性の価値づけ、いいかえれば社会が何を知るべきかという指針を、日々みずからの名前を賭けて明示することである。自由な社会では報道機関の選択にも競争が生じ、そのなかでやがて情報は淘汰されて一つの漠然とした統一像を結ぶ。一般市民はこの世界像にもとづいてそれぞれの価値判断をくだし、自己の社会的、政治的な態度を決めるところから民主政治への参加を始めるのである。

したがってもしこの社会において情報選択の専門機関が衰え、署名つきの編集された情報が乏しくなるとすれば、人類は流言蜚語の氾濫に飲みこまれるだろう。人びとは地域や自分の嗜好にしたがって偏った情報にのみ耳を傾け、世界全体の状況について感覚麻痺(アパシー)の状態に陥るかもしれない。逆にまったくの偶然から共有された不確実な情報を妄信して、政治的なポピュリズムやファシズムへと暴走するかもしれない。現実にこれが2011年以前の中東の置かれていた状況だが、情報媒体の変化という一点だけを見れば、これは先進国を含めた全世界の将来像であるかもしれないのである。

内容豊富なので、全体をノートするのは放棄しました。

特に芸術論などの記述は完全に省略した。

全く何を言っているのかすらわからないという部分は少ないが、やはり難しいところがある。

しかし、上でメモしたような興味深い部分もあり、そこそこ面白く読める文明論。

初心者でも挑戦する価値有りです。

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