万年初心者のための世界史ブックガイド

2014年7月2日

伊藤之雄 『昭和天皇伝』 (文芸春秋)

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伊藤氏の本は『伊藤博文』(講談社)および『山県有朋』(文春新書)という重厚な二つの著作を紹介済み。

本書では、天皇を拒否権の無いロボットではなく、調停者的関与を行う政治的プレイヤーとして扱う。

ただし、それは昭和天皇が自らの個人的意志を貫徹できる絶対的存在であったことを主張するものではない。

例えば、戦前昭和期における最大の政治的課題であった軍の統制について、陸海軍大臣を罷免させたとしても、軍から後任者を得られないと政治過程は行き詰まり、かえって天皇と政党内閣が窮地に陥る。

著者には、「近代天皇は『魔力』のような権力を持っているのか」という題の論文もあるそうです。

本書において、総じて言えば、治世前半における為政者としての先帝への評価は高くない。

しかし、経験を積んだ大戦後期からは円熟した政治的判断を見せるようになる。

そうした先帝の政治的行動の障害となった風潮について、以下の文章。

右翼たちは天皇制を支持し、天皇親裁を唱えるが、彼らのあるべき天皇(またはその代理としての皇后・皇太子や皇族)像を持っており、それと異なると、なかなか従おうとはしない。後に即位して昭和天皇となった裕仁が苦しめられるのも、軍部や右翼のこのような態度である。

自らの底無しの卑しさと低劣さを棚に上げ、ここ十年来、皇太子殿下や雅子妃殿下に卑劣で醜悪な誹謗中傷を加えている恥知らずの大衆を見ていると、(戦前において軍部と右翼を熱狂的に支持した)一般民衆の愚劣さ・悪辣さは戦前・戦後・現在を通じて何一つ変わっていないと思える。

(私は、経済の長期低迷や政治の混乱ではなく、こうした皇室への品性下劣なバッシングが白昼堂々横行するようになったことに、何よりも日本の衰退と頽落を感じます。)

具体的叙述に入ると、大正期の原敬暗殺の悪影響を著者も指摘している。

昭和期に原が元老あるいは内大臣としてあれば、満州事変は起きないか拡大せず、太平洋戦争が無かった可能性すらあるとまで書かれている。

以前も書きましたが(井上寿一『山県有朋と明治国家』)、原や加藤友三郎、加藤高明が早すぎる死を迎える一方、伊東巳代治や金子堅太郎が長命を保ち、(本来民衆世論に抵抗すべき)枢密院を拠点に過激な世論に迎合して政府の穏健策の足を引っ張るのを見ると、何とも言えない気分になります。

1929年、張作霖爆殺事件をめぐる田中義一首相問責について、道義的善悪は別にして、陸軍首脳・与野党の方針を覆したのはまずい。

この時の牧野伸顕内大臣、鈴木貫太郎侍従長、一木喜徳郎宮内相の輔弼は当を得ておらず、先帝の右翼・軍部への威信を無くし、かえってそれらを統制困難にしてしまった。

むしろ田中に関係者の処分を遂行できなかったことを詫びさせ、3ヵ月ほどの時間をおいて辞任させ、穏やかに責任を問う方が良かった。

戦前日本に限らず、発展途上国での軍の統制はどこでも難しい問題だが、台湾出兵や日清戦争中の旅順虐殺の例を挙げ、これらの後には軍を暴走させることなく統制を強化できた、と著者は指摘。

強硬で一本槍な軍批判は逆効果であり、結果として軍の暴走を招きかねない。

戦後左翼に対抗して右派が、この時の先帝の言動を取り上げ、昭和天皇が平和主義者であった証拠であると主張しているが、著者はより広い視野からこの行動はやはり先帝の失策だったとしているわけ。

そしてこの田中首相問責を肯定的に捉える古川隆久『昭和天皇』(中公新書)の見解を手厳しく批判している。

続くロンドン海軍軍縮条約問題でも、やや一方的な浜口内閣支持と加藤寛治軍令部長の上奏拒否もまずい。

天皇の公平な調停者イメージが崩れ、自らの政治的基盤を掘り崩してしまった。

かつて、日清戦争直前、1893年に明治天皇は「和協の詔勅」を出し、海軍建艦計画についての、伊藤首相・民党・山県ら藩閥の三つ巴の対立を調停・緩和することに成功した(これは高校日本史教科書にも載っている)。

これに倣って、交渉妥結回訓のロンドン発電前に加藤軍令部長の上奏を受け、条約受諾とともに反対派も繋ぎ止める詔勅を出せば良かった、もっとも先帝の経験の浅さを考えれば明治帝とそのまま比較するのは酷だが、と著者は述べている。

なお、本書に記されていることではないが、このロンドン条約問題で、(アメリカが潜在的に日本の数倍の艦隊を揃えることができる国力を持っているのだから)対米7割の比率に拘った日本海軍の強硬派(いわゆる「艦隊派」)が愚かだったことは間違いないが、それを認めなかった米国も同様だと、高坂正堯氏は指摘していた。

しかし、ロンドン会議に悪い後遺症が残ったことの原因は日本側にだけあったのではない。視点を逆にして言えば、日本の反対論者がつまらない数字にこだわったのと同様、アメリカ側もそうであったと論ずることができる。ほぼ七割にするのなら、何故アメリカは対米七割という日本の主張を認めて、日本側に心理的に満足を与えなかったのかと言うこともできるのである。当時のアメリカに広い視野と大きな度量がなかったことは否定できない。

高坂正堯『世界史の中から考える』(新潮選書)より

浜口退陣後の第二次若槻礼次郎内閣の組閣において、先帝は閣僚を直ちに裁可せず、生真面目で慎重な任用を求める。

これは先の浜口内閣時代からの先帝の民政党への肩入れという、右翼勢力の潜在的不満に配慮した可能性があるが、文民首相の権限を弱めるもので望ましくない。

先帝のこうした言動は汚職の過去のある人物の閣僚入閣時にも繰り返されることになるが、善意の空回りというか、区々たることに拘りすぎた観が否めない。

満州事変において、林銑十郎朝鮮軍司令官の支援部隊独断越境が行われた。

田中義一問責、加藤寛治上奏拒否両事件では、天皇・宮中が慣行を破ったのに対し、今回は逆に陸軍が破った。

さすがの陸軍も不利な立場に置かれ、弱気となり、南次郎陸相・金谷範三参謀総長の辞職論すらあった。

無分別な対外膨張主義を支持する衆愚的な民衆世論に支えられた陸軍への統制をわずかでも回復する好機である。

元老西園寺公望が主張したように、軍越境の事後承諾と引き換えに、時間をおいて陸相・参謀総長・朝鮮軍司令に辞表を出させて予備役編入をしていれば良かった。

だが、先帝と牧野ら側近は、奉天事件・ロンドン条約では強気になり過ぎたのとは逆に、今回は弱気になり過ぎ、(クーデタ未遂の)三月事件の影響もあって、若槻首相と共に機会を逸してしまった。

上記リンクした古川氏著でも、この際に先帝が断固たる行動を取るべきだったとしているが、古川氏が述べているのは「朝鮮軍司令官の即時罷免」であり、やはりより慎重な影響力行使を良しとする本書での主張とは距離があるとすべきか。

以後は矯激な世論の支持を受けた軍がやりたい放題の状況となる。

二・二六事件では先帝の断固たる鎮圧指示が三日間も実行されず。

しかし石原莞爾ら陸軍内の支持者の力を借り、ひとまず鎮圧に成功し、多少の自信を得る。

だが、先帝も西園寺も、近衛文麿の本質を見抜けなかったのはまずかった。

1935年頃より中国軍の増強が進むと、陸軍中央で「対中一撃論」が広まる。

満州事変以来の、現地軍が主導し、参謀本部が容認し、陸軍省が抑制する様式がちょうど逆になりつつあった。

近衛は、その破滅的危険を伴う冒険主義を抑えるどころか、積極的に迎合し、煽り立てた。

その結果が、泥沼の日中戦争。

先帝は三国同盟阻止のため陸海相人事に関与。

立憲君主制とは君主が完全にロボット的存在になることではない、1931年英国でジョージ5世がマクドナルド挙国一致内閣の成立に尽くしたように、抑制的政治関与は普通である、と著者は指摘。

先帝もおおむねこの立憲君主の枠内で苦慮し悪戦苦闘して、軍部・世論の抑制に努めた。

不幸にして、日中和平は成立せず、三国同盟締結を経て、日米開戦に至るが、その過程への著者の評価は明解である。

ローズヴェルト大統領やハル国務長官がヨーロッパ戦線の問題やアジアでのアメリカの威信を考慮し、日米戦争を避けようとする日本側の妥協案に応ぜず、ハル=ノートを日本に提示した。このことから見て、その時点で戦争を避ける可能性はほとんどなかったといえる。

このような結果になった原因には、日本の中国等への侵略がある。また、外交判断が未熟で、日本は1940年に不注意にも三国軍事同盟を結び、ヨーロッパの戦争と日本の大陸政策を結び付けてしまったことがある。それに加え、直接的には南部仏印進駐によって米国の対日石油全面禁輸などの日本にとって深刻な事態が起こることはないという、日本側の甘い判断があった。

しかし米国も、日米戦争を避けたいという日本の意図をほとんど理解できなかった。また日本の軍事力を過小評価し、日米開戦によって双方に生じる膨大な犠牲について深く考慮せず、ハル=ノートという原則的対応を日本に提示した。これらの点で、日本ほどではないが、米国も日米開戦の責任を負う。

以上のように日米開戦には、両国の相互誤解の結果、誘発された戦争という一面がある。

・・・・・・

太平洋戦争の結果を知っている私たちから見れば、ハル=ノートでも受け入れるべきだとの考えを抱くのが自然である。しかし、歴史の当事者たちを、当時の経過や情報の限界を無視し、後知恵から批判するのは、意味のある歴史評価とはいえない。

様々な政治的経験を得た先帝は、戦争末期、陸海軍の資源配分問題での深刻な対立や東条内閣退陣について、円熟した判断とリーダーシップを発揮する。

両問題とも、直ちに介入せず、前者では双方の主張を述べ合わせた後に調停を行い、後者では時期を待って倒閣を容認。

終戦においてもそうであり、第三国の仲介や米国からの打診が無い以上、陸軍のクーデタなどの混乱を避けるためには、先帝が主張したような「一撃講和論」しかない、と著者は判断している。

そして、原爆とソ連参戦で陸軍の抵抗が弱まった一瞬の機を捉えて終戦を決断。

なお、終戦の詔書の中にアジア民衆への加害の自覚が無いという戦後左派の批判に対し、陸軍の反乱を抑える必要があったのに、そんなものは無いものねだりだ、戦後の言動から先帝もアジアの被害を認識していたはずだ、と著者は反論している。

終戦直後のマッカーサー訪問で、自身の責任を認めた発言はあっただろうが、それは道義的責任であって、政治的実質的責任ではないと指摘。

木戸幸一(元内大臣)が戦犯として逮捕された後も宮中に招いたり、日米戦争の最大原因を米誌の取材で尋ねられ、「両国民の相互不信」を挙げているのには、占領下の悔しい状況の中で溜飲が下がる。

占領下での米国との外交交渉での、象徴天皇の枠を超える言動も、おおむね現実に沿った妥当なものとして、本書では批判されていない。

退位論については、マッカーサーや首相、宮内府幹部の勧めがあれば可能性はあったが、基本は新日本建設に尽くす決意だった。

なお、いわゆる「富田メモ」については以下の記述あり。

本書で述べてきたように、昭和天皇は東京裁判の正当性を認めていない。しかし天皇は、三国軍事同盟から南部仏印進駐、太平洋戦争開戦と戦争への道を推進した戦争責任のある人物と、天皇や木戸幸一(内大臣)・広田弘毅(首相・外相)・東郷茂徳(外相)らのように、その道を止められず、道義的戦争責任を負っている人物を区別している。

このことは、「富田メモ」で名が上がる形で特に批判されているA級戦犯が松岡洋右と白鳥敏夫であり、より有力で有名な東条英機の名が上がっていないことの理由にもなる。天皇は、松岡や白鳥を、三国軍事同盟を推進するなど戦争への道を進めた人物として、特に許すことができなかった。東条は天皇の意を汲み取り、首相として戦争回避に最後の努力をしてくれた人物として別の扱いをしているのである。・・・・・・天皇は、合祀されたA級戦犯の十四人すべてを嫌っていたのではない。しかし、戦争責任があると思っている松岡や白鳥の合祀にとりわけ憤りを覚え、潔癖で真面目な性格から、そのような者が混じって祀られている靖国神社に参拝することはできない、と考えたのだろう。それ以上に天皇は、戦後に戦争の道義的な責任を自覚し、日本の再建に取り組んできたのであり、道義的責任すら自覚できずに、反東京裁判という立場からA級戦犯を合祀してしまう感覚に立腹したのだろう。

表面的に繁栄の絶頂にあるかの如く見えた日本の行く末に悲観的な気持ちを持ちつつ、崩御。

明治天皇も晩年は厭世的になったとも読んだことがあるが、両帝没後、国民が何をやり始めたかを思うと、その懸念は当たっている。

国の頂点にある象徴的統治者として、何か感じ取ることがあったのだろうか。

「おわりに」で結論とまとめ。

明治憲法では、形式上、天皇は首相、閣僚を罷免することすらできる。

しかし後任が得られなければ窮地に立ち、事実上の屈服を強いられ、威信が低下する。

そのような状況下でさらに個人的意志を押し通そうとすれば、革命やクーデタを誘発する危険すら生じる。

立憲国家の枠内で天皇の意向を国政に反映させるには、明治天皇のように権威を確立し、権力行使を抑制しつつ、バランスのとれた調停的政治関与を続ける必要がある。

先帝は即位から十分に権威を確立できず、田中首相問責・ロンドン条約・朝鮮軍越境という三つの重大事件で対応を誤り、自らの意志に反して日中戦争・太平洋戦争への道を止められなかった。

ただし、若く経験の無いことを考慮すれば、これを先帝の資質に求めるのは酷。

牧野内大臣ら輔弼する集団に円熟した有力政治家がおらず、元老西園寺は高齢のため常時身近で先帝を支えることはできなかった。

原敬や加藤高明がいれば、昭和史は全く変わったものになっていたかもしれない。

しかし、徐々に経験を積んだ先帝は、終戦時に諸条件が整うのを待ち、「聖断」を下すことができた。

拙速に講和を口にし、失敗すれば、唯一陸軍を抑えこめる天皇の威信が低下し、さらに降伏が遅れる。

(沖縄、広島、長崎、満州での悲劇を思えば、もう少しでも早く降伏していれば、との思いに駆られるのは自然ではある。しかし逆に、陸軍の徹底抗戦派と米国のヒステリックな世論に挟撃されていた総合的状況の細かな分析抜きに、「天皇が数日早く決断していれば原爆投下は無かった、満州でのソ連軍の暴虐も無かった、数ヶ月早く決断していれば沖縄戦は無かった、東京大空襲も無かった」と単純に言い募るのは、冷静で意味のある歴史的判断とは言えないと思う。)

戦後には日米基軸外交定着もサポートすることになる。

著者は末尾で、英米両国での伝記的著作の本格さ・豊富さを挙げて、その利点を指摘しているが、個人的にも同感です。

 

 

読みやすく、面白い。

とばし読みした、同じ著者の講談社『日本の歴史22 政党政治と天皇』より、こちらの方が良い。

古川隆久『昭和天皇』(中公新書)と読み比べてみるのも面白い。

(私は、歴史解釈の妥当性は本書が、全般的印象では古川氏著が好ましいように感じました。)

現在、文庫化されているようですので、手軽だと思います。

御一読をお勧めしておきます。

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