万年初心者のための世界史ブックガイド

2014年6月26日

西部邁 『昔、言葉は思想であった  語源からみた現代』 (時事通信社)

Filed under: 史論・評論 — 万年初心者 @ 16:01

政治、経済、社会、文化の四分野について108の術語を取り上げ、副題の通り、その語源から本来の意味を論じていく本。

非常に豊かな内容を持ち、様々な場合でのものの考え方の基本を築いてくれる作品となっている。

じっくり取り組む価値のある良書。

 

 

大衆(mass)

「マス」(mass)という英語に「大衆」という日本語を当てたのは、返すがえすも残念な成り行きでありました。マスというのは、砂山や穀物山のような「ばらばらな個の巨大な集積」のことです。現代社会はマス・ソサイアティ(mass society)とよばれます。それは、デヴィド・リースマンの「孤独な群衆」という表現に端的に示されているように、大量[マス]ではあるが団塊としてくっつき合ってはいない人々の群れ、というイメージなのです。

しかも社会学の用語としてのマスには価値論的な含意が、といっても負価値が、込められています。「財産と教養を持たない」貧弱で粗雑な連中、あるいは「自立心を持たずに世論の人気に流される」弱気で甘ったれた手合、といった人々の群れがマスなのです。もう少し理屈っぽくいえば、その時代のイデオロギーに、近代でいえば技術主義のごとき観念体系に、何一つ「懐疑[スケプティシズム]」を差し向けずに、それに馴れ親しんでいる自分についていささかも「考え深く[スケプティコン]」はないこと、それが「マスマン」(大衆人、mass man)の特徴なのです。

ところが日本語で「大衆」というと、単に民衆の代替語であり、要するに、漢語に従って、「手足を広げた」(大)人々が国家という「家の屋根」(「血」)の下に「三人も」(・・・つまり「多数」も)いるということを意味します。要するに、通常人[コモンマン]の群れ、それが大衆なのです。だから、それには価値論的な意味が付されていません。いや、民主主義における人間礼賛[ヒューマニズム]のイデオロギーが支配するこの時代では、大衆は正価値を担っております。それゆえに、「大衆の声を聞け」などという口上が到る処で聞かれるのです。

ホセ・オルテガの『大衆の反逆』という本の題名だけをみて、「悪しき権力に良き大衆が反逆している」という光景を思い描く者が少なくありません。笑止千万の話です。彼が論及したのは「社会を統治する能力を持たない大衆が、自分らの限界に反逆して、社会の統治に乗り出す」という蛮行についてでした。

ともかく、負価値のマスが(この列島で)正価値の大衆に変じる、というのは文化における東西交流の嗤うべき行き違いではあります。

 

 

民衆政治(democracy)

ギリシャ語の「デーモス」(民衆、demos)は、英語として残っているだけでなく、「民衆的」ということを意味するものとして「デモ」が接頭語としてつかわれています。「デモクラシー」(democracy)がまさにそれで、「民衆の支配」を意味します。いえ、「クラシー」(cracy)は接頭語で、クラトス(力、kratos)がクラティア(制度的支配、kratia)となり、それが英語で「政治」や「制度」にかかわる接尾語としての「クラシー」(cracy)になったわけです。

いずれにせよ、デモクラシーは「民衆政治」に対応します。それを「民主主義」と訳したのは誤訳に近い、ということに留意しておかなければなりません。「主義」という日本語の接尾語が強すぎる、といいたいのではありません。「イズム」は何らかの「強い態度」のことといえましょうが、その程度は教義から慣例までの広範囲にわたっています。民主主義という訳語で問題になるのは、民主における「主」であります。それは「サヴリンティ」(sovereignty)あるいは「サヴリン・パワー」(sovereign power)のことで、日本語では「主権」と訳されています。そして主権とは何かとなると、サヴリンティつまり「崇高性」のことで、サヴリン・パワーならば「崇高な権力」のことだとなるのです。崇高は何を意味するのかと問われたら、誰しも絶大、絶対、超越といった類の言葉をつかって説明するほかないでしょう。

民衆が「崇高、絶大、絶対、超越」の存在であると聞いて首をかしげないとしたら、その人は愚か者もしくは嘘吐きです。

民衆にかぎらず、人間はすべて真に達しようと努めても偽を克服できず、善に満たされたいと願っても悪から脱出できず、美を表したいと望んでも醜を伴ってしまいます。その意味で人間は不完全[イムパーフェクト]です。

十八世紀、啓蒙主義の時代に、知識人たちは人間の「パーフェクティビリティ」(完成可能性、perfectibility)のことを頻繁に口にしました。それがヒューマニズム(人間礼賛の思想、humanism)です。しかしそれは、人間性を神に代位させようとする迷妄であったとしかいえません。「崇高」の観念は必要でしょうが、「崇高な物や者が実存する」と考えるのは軽率の咎というべきでしょう。

古代ギリシャでは、デーモスはオクロス(衆愚、ochlos)になっていくのではないか、さらにアリストス(最優等者としての「貴族」、aristos)とは反対の者、つまりカキストス(最劣等者、kakistos)になってしまうのではないか、と懸念されていました。だから、ソクラテスとプラトンによって始められた(といってよい)政治学は、古代アテネにおける民衆政治にたいする疑念を表明したものだったのです。それが、現代政治学では民衆政治への礼賛のほぼ一色で塗り固められています。こういうのを歴史の皮肉というのではないでしょうか。ギルバート・チェスタトンの警句に倣えば、「無知は、物を知っていると思っている人間を襲う、病気だ」ということになりましょう。

漢語の「民」もまた、原義としては、「目を潰された人」つまり「物事のわからぬ人」ということです。「衆」は「家の下にたくさんの人々がいる」ということの象形ですから、「民衆」とはまさに「衆愚」のことをさす、ということになります。

古代のギリシャ人や中国人の民衆観が正しかったと断言したいのではありません。

民衆の振る舞いに疑惑を抱かずに、彼ら(つまり我々)を主権者とみなして皆で拍手しているというのは、それ自体として、最劣等の証拠だといっているだけのことです。

デモクラシーを民衆政治と素直に訳していたなら、主権という余計な規定が排されているため、それは第一に「民衆という名の多数者が集団の意思決定に参加する」ことであり、第二に「その決定を多数決で行う」ことである、と明解に定義されたでしょう。つまり、政治における「民衆制」は「多数参加と多数決制」という一個の決定方式にすぎないのです。方法にすぎないものを理念にまで昇格させるのに、民「主」主義という日本語が大いに寄与した、と認めざるをえません。そのせいもあって、戦後日本では、民衆政治への懐疑を表明するのが禁句になってしまいました。

いえ、日本における以上にそれをタブーとしてきたのはアメリカです。日本のいわゆる「戦後民主主義」とて、占領軍からいわゆる「アメリカン・デモクラシー」を有り難くも授けられた、という敗戦国にありがちの従属・属国の姿勢によって強化されたものです。アメリカにおいて、なぜ、デモクラシーが「デモクラティズム」(民主主義、democratism)となったのか、問われるべきはそのことです。

その答えは、壮大な社会実験として建国されたアメリカでは、三百五十年近くの自然時間が経過していようとも、歴史時間の意識が乏しいという点に求められます。つまり、その間に貯えられた過去の国民的な英知を大事にしようという意味での歴史の感覚が貧しいということです。そうであればこそ、アメリカでは、「トラディショナリズム」(伝統主義、traditionalism)は、あくまで、因循姑息という悪い意味の言葉としてつかわれています。とくに、1830年代の(アンドリュウ・ジャクソンの)「ジャクソニアン・デモクラシー」のあと、トックヴィルが見抜いたように、アメリカは西欧の伝統からみずからを切り離しました。で、アメリカは近代で最初の大衆社会となりました。マスとは「デモクラティズムを信奉するデーモスのことだ」と定義したくなるくらいのものです。

前章の「伝統」および「処方箋」の項で示したようにトラディッションが国民の認識と実践のプレスクリプション(予規定、prescription)となるとわきまえているなら、主権の概念に新たな光を当てることができます。つまり、「崇高な権力を宿すのは伝統である」という見方です。伝統がその国の死者たちが残した歴史の「ウィズダム」(智慧、wisdom)であることをさして、チェスタトンは、大事なのは「死者の民衆政治」なのだ、と比喩しました。この感覚が乏しい先進国の代表、それが太平洋両岸の日米両国だ、といって間違いありません。

 

 

 

民衆煽動(demagogy)

大衆政治が大量(情報)媒体によって膨張と破裂を繰り返すようになると、そこに「デマゴギー」(民衆煽動、demagogy)が強く作用していることに多少とも気づかされます。

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ほとんど確認されることがないのは、「デマ」とは何か、それはデマゴギーのデマである、つまり「民衆的」ということである、という一事です。まとめていうと、「民衆政治[デモクラシー]にあって民衆[デーモス]は嘘話[デマ]による煽動[デマゴギー]に誑らかされやすい」という真実が、古代ギリシャにおいてすでに明瞭であったにもかかわらず、忘れられているのです。逆にいうと、そのことが広く知られていたなら、民主主義を礼賛する声がこうまで広くこうまで高くならなかったに違いありません。

民衆自身が、民衆的であることに主権までをも与えよと要求しながら、民衆的であることの証拠ともいうべきデマを楽しんだあと、デマはよくないと触れて回る、これが民主主義の偽らざる姿なのです。

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民「主」政治とは、大衆政治のことにほかなりません。

おのれらに主権ありと僭称することそれ自体が、民衆が堕落したことの証左です。

そして大衆は、伝統を足蹴にしつつ、自分らの欲求と意見を世論の運動として展望しつづけております。社会のあらゆる権力の座に自分らの代理人を送り込むのに成功したという意味で、「大衆[マス]の支配[クラシー]」はきわめて高度の段階に到達したとみるしかないのです。

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