万年初心者のための世界史ブックガイド

2014年5月24日

秦郁彦 『日中戦争史』 (河出書房)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 08:50

初版が1961年と半世紀以上前の本を復刊したもの。

内容は詳細な戦史ではなく、時期も限定されており、前史として1935年の情勢から1938年の戦線泥沼化まで。

第一章は「梅津・何応欽協定」、二章「華北分離工作の失敗」、三章「日中戦争」、四章「盧溝橋事件」、五章「日中戦争における拡大派と不拡大派」、六章「日中戦争をめぐる列国の動向」、七章「軍事作戦概史」、八章「戦前期における日本の海外投資の展開過程」という構成。

合計320ページ余り。

各章各節は短いので、版形の大きさと分厚さから考えた事前の予想よりは読みやすい。

巻末の付録資料のうち、陸海軍省・外務省主要職員一覧表と関係主要外交官と陸海軍軍人の略歴は他の本を読むときにも役に立つ貴重なもの。

以下、気になった部分のものすごい適当なメモ。

満州事変が1933年塘沽(タンクー)停戦協定で一応終結した後、蒋介石政権は共産党討伐を最優先し対日融和策を採る。

35年米国の銀買い上げ政策によって銀本位国の中国経済が不況に陥り、米中関係が悪化。

それを背景に(広田弘毅外相自身の硬直した姿勢もあり結局失敗したが)「広田和協外交」が展開。

一方、国民政府の華北統治は汪兆銘派の黄郛が率いる北平政務整理委員会に委ねられていた。

しかし、34年1月黄は辞任、以後中央政府を代表する軍事委員会北平分会の何応欽と華北反蒋軍閥の宋哲元が関東軍支那駐屯軍(天津軍)と対峙する情勢となる。

ここで関東軍は大日本帝国に破滅的結果をもたらした華北分離工作を始める。

35年6月天津軍司令官梅津美治郎と何応欽との間で梅津・何応欽協定が結ばれ、国民政府は河北省より撤収を余儀なくされる。

同月末の土肥原・秦徳純協定によって国民政府はチャハル省(河北の西北・熱河の西)からも撤収(土肥原は関東軍特務機関長)。

宋哲元はチャハル省主席で日本と南京政府の間で日和見を決め込んでいたが、35年末、宋は河北・北平入りし、冀察政権主席になり、秦徳純が新チャハル主席になるが、国民政府に接近していた宋は日本側の圧力で解任。

この時期、ソ連は五ヵ年計画による国防力充実と人民戦線戦術による西側資本主義国への接近により、満州事変当初の融和策を捨て、対日牽制策へと転換。

英国も対中経済援助(幣制改革)を用いた積極的極東政策へ向かう。

(米国はひとまずは消極的孤立主義の態度を崩さず。)

日本の中国本土への南下を告げる両協定によって、中国の排日意識が高揚、国民政府内では汪兆銘・唐有壬ら親日派と宋子文・孔祥熙ら欧米派との対立が深刻化。

蒋介石は表面上汪の外交政策を支持し、中共討伐に専念、何応欽に対日処理を委ねるが、35年末汪・唐へのテロが勃発、親日派は凋落していく。

両協定で国民党諸機関と于学忠(旧東北系)・宋哲元(旧西北系)両軍は河北・チャハルから撤退。

平津衛戍司令として復活した宋と新河北省主席商震の両頭政治が行われ、山東・山西は韓復榘・閻錫山両軍閥が割拠し南京政府の中央化政策に反抗する。

関東軍・天津軍はこのような情勢をさらに煽り、華北と華中・華南を分離し、国民政府の統治領域を長江流域のみに留めようとした。

いくらなんでも中国を舐めすぎですよ。

そんなこと可能なわけが無い。

中国本土の割譲容認など、中国内のどんな勢力にとっても即政治的自殺行為です。

わざわざ中国が、それこそ中央政府の徹底した弾圧の対象だった共産党も含めて、狂的な排日運動で一致団結する土壌を作ってしまった。

共産党を徹頭徹尾武力鎮圧していた国民政府の背後を襲うような真似が、果たして日本の真の国益に資するものだったのか。

日中双方の粗暴・低俗なナショナリズムと(主に日本側の)因循姑息な権益意識が、日中両国民に対する真の脅威たる共産主義勢力を蘇らせてしまった。

35年11月冀東防共自治委員会(殷汝耕ら)が日本の肝煎りで作られ、それが12月冀東防共自治政府に発展。

それに対抗して作られた、宋哲元の冀察政務委員会は「冀」=河北と「察」=チャハルのみを管轄し、南京政府の統制が強く、自治権も制限されており、結果として日本側の圧力をかわすことに成功した。

この冀東政権と冀察政権の性格の違いは記憶しておきましょうか。

冀東防共自治政府は高校日本史でごくまれに出てくるだけですが、日本が破滅する第一歩となった1935年華北分離工作を代表する固有名詞として憶えておく価値あり。

日本側の予想に反して、南京国民政府の幣制改革は成功、西南派は屈服し、華北軍閥は中央化、経済的政治的全国統一が進行。

西南派の胡漢民は36年5月死去、広東・広西軍閥も36年6月南京政府に開戦するが9月には降伏。

にもかかわらず、日本は支那駐屯軍を増派し、冀東を通じた密輸で国民政府の関税収入に打撃を与え、綏遠事件を起こす。

(最後の綏遠事件で中央軍が北上し、日中間の緩衝地帯が消滅。)

36年川越茂駐華大使と張群外交部長との交渉が続くが、抗日テロが続発。

37年林銑十郎内閣の佐藤尚武外相による「中国再認識論」など日中融和への動きもあり、冀東政権解消も検討されたが、結局立ち消え。

ここで日英交渉の記述あり。

英国内の対外関係態度について、(1)親日・反米・反独派(ロザミーア卿、バイウォーター)、(2)親独・反日派(ロシアン卿)、(3)反日・親米派(ヤング・トーリー=保守党左派)という分類が載せてあった。

続いて、運命の盧溝橋事件を受けた態度について。

不拡大派は、参謀本部の石原莞爾、戦争指導課、陸軍省軍務課、外務省、海軍。

拡大派は、参謀本部作戦課・支那課、陸軍省軍事課、関東軍・朝鮮軍・天津軍参謀の一部。

後者の拡大派には政党政治家中島知久平鉄道相らも含まれ、今村均もややそうした傾向があったとされている。

(今村の名は意外だが、たぶんメモのミスではないと思う。なおこの時期の統制派実力者である陸軍次官の梅津は、本書ではそれほど批判的に記されていない。)

全面戦争化の後、37年8月の船津工作、同年のトラウトマン工作、38年6月の宇垣・孔工作、40年の銭永銘工作と、何度か和平工作が試みられたが、不幸にして成功せず。

なお、トラウトマン工作時に、杉山陸相と並んで賀屋興宣蔵相が条件を加重したとの記述があった。

個人的にはこれが気になる。

賀屋は、福田和也『昭和天皇 第五部』では日中和平の確固たる支持者として描かれてるので。

日中戦争は、8年間の無通告戦争となり、軍事作戦のサイクルが初期の2年間に集中して事実上終結、後は戦闘と政治工作と内戦が間歇的に交錯する奇妙な「半戦争」であり、戦後は交戦両国内部の政治社会体制の変化が激しい、と書かれている。

最後に、冒頭で書いた巻末付属資料から以下の職務のみ書き写してみる。

陸相=34年1月林銑十郎、35年9月川島義之、36年3月寺内寿一、37年2月中村孝太郎、同月杉山元、38年6月板垣征四郎、39年8月畑俊六、40年7月東条英機。

外相=33年9月広田弘毅、36年4月有田八郎、37年3月佐藤尚武、37年6月広田、38年5月宇垣一成、38年10月有田、39年9月野村吉三郎、40年1月有田、40年7月松岡洋右。

メモがきつい。

これが限界だ。

細かなところは飛ばせば良い。

概括的記述をチェックするだけでも結構有益。

出来ればノートを取った方がいいが、自分も完全には出来ないことを他人に勧めることはできないか。

7000円近くするので、買うには高いが、内容的には古くても手堅い印象なので、図書館にあれば借りてください。

広告

WordPress.com Blog.

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。