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2014年3月19日

中野剛志 『国力とは何か  経済ナショナリズムの理論と政策』 (講談社現代新書)

Filed under: 史論・評論 — 万年初心者 @ 10:43

中野氏は『TPP亡国論』の著者としても有名。

本書では、まず、ナショナリズムの重要性、共同体意識の必要を説く。

それが攻撃的排外主義、近隣窮乏化政策、極端な資源ナショナリズムに結びつく危険性は確かにあるものの、ナショナリズムの重要性は変わらないとみる。

他の重要な論点として、グローバリズムにおける金融資本・巨大企業と国民との利益が乖離していることを指摘する。

これは著者のような伝統的保守派のみならず、リベラル派の内田樹氏もしばしば主張しているところである。

(なおブックマークにある内田氏のブログとツイッターは是非お読みになることをお勧めします。ネットを主な意見発信の手段としている言論人では、ほとんど唯一内田氏にだけ耳を傾ける気になります。現下のように卑しい新自由主義者と醜い排外的民族主義者の狂った連合が跋扈している世の中では、かつては毛嫌いしていた内田氏のようなリベラルな言説が清涼剤のように心に染み透る感を覚えます。)

一国資本主義では、賃上げが購買力の増大と企業収益の拡大に繋がる好循環をもたらしていたが、今や貿易障壁が限りなく低くなり、安価な労働力を求め資本が世界中を自由に移動するようになると、資本は規制と保護のある国を避けるようになり、結果として労働条件の果てしない切り下げが始まる。

グローバルに展開する資本と企業にとってデフレは利益だが、国家と国民にとっては最悪である。

需要不足が供給力の破壊をもたらし、失業・社会不安・分裂と秩序崩壊を経て、ついには大衆煽動による全体主義確立という破滅にまで至る。

この四半世紀、どれほどの弊害があってもしぶとく理想化されてきた「構造改革」こそがまさにデフレ政策である。

それによって、積極財政は無条件に罪悪視されてしまってきた。

だが、リーマン・ショック以前の米国など一部の国ではグローバル化による賃下げ圧力にも関わらず、長期間にわたって好景気を謳歌しているように見えた。

実は、これは民間債務の膨張による過剰消費によってデフレが表面化しなかっただけであり(「民営化されたケインズ主義」)、それがサブプライム問題によって一気に破綻したもの。

加えてグローバル・インバランス(世界レベルの経常収支不均衡)によって、国際資本市場の自動調節が効かない。

EUや新興国も危機にあり、あわや世界恐慌の再来かと思われるほどの危険が続発している。

民間の資本と企業が暴走し、それを抑えるべき国家の経済統治能力と危機管理能力が弱体化していることが世界的経済危機の根本原因にも関わらず、貿易と資本の自由化が相も変わらず金科玉条視されている。

ワシントンの政治がウォール街によって支配されている。

ニュースを見ても、米国の「小さな政府」へのこだわりは異常です。

大資本が「ティーパーティ」など都合の良い民衆運動を背後から組織し、実質的に社会を支配し、言論の自由をほぼ完全に形骸化しているのではないかとさえ思えてくる。

著者は自らの経済ナショナリズムに対して、経済自由主義を対置。

経済自由主義は、主流派の新古典派経済学であり、合理的で原子的に孤立し自律的な個人という想定をその基礎に据え、国民という概念すら無い。

それに対する経済ナショナリズムは決して偏狭で硬直した国家主義などではなく、ネイション(国民)とステイト(国家)において、ネイションを重視し、ステイトは手段と捉え、保護貿易や産業政策もプラグマティックな手段に過ぎない。

自律した個人が国家を創設したという社会契約説は歴史的にも理論的にも間違いであり、前近代的共同体秩序が排除された結果生まれたものこそ近代国家権力。

個人主義を保障するにも国家は必要。

加えて、最も強力な(時に暴走する)国家とは実は民主主義国家。

「絶対王政」はその名称に反して、教会・都市・ギルドの特権を改廃できず。

権威主義体制を持つ国が民主国家に敗れてきたのは、民主国家が「正しい」からというより単純に国民の力を動員できる体制だったから。

その民主国家の国民主権成立のためには誰が国民かを決めなければならないが、それを民主的に決めるのは不可能。

なぜなら「何者にも制限されない至高の権力」と定義される主権を持つ国民の範囲を決定する、「至高」以上のものとは一体何なのかというパラドクスが生じるから(ということだと思う)。

そこから非民主的な権威とその象徴の必要が生まれる。

日本国憲法にも、第一条において、天皇は国民統合の「象徴」であると書いてある。それは、天皇が実体のない単なるお飾りだということではない。国民を統合する力の源泉が「象徴」であり、それが日本の場合は天皇であるということである。・・・・・・護憲派が何と言おうと、日本国憲法の根幹にはナショナリズムがあるのである。

「民主的伝統」を持つとされる、アメリカでもピューリタニズム・独立革命・憲法・建国の父たちなどの歴史的象徴がナショナル・アイデンティティを成し、フランスでは自由・平等・博愛理念がそのままナショナル・シンボルとなっている(個人的にはそれらは国家神話としては決して出来が良くないと思えるが。独立後最初の半世紀でアメリカ建国理念は変質したと思われるし[引用文(西部邁9)]、社会の分裂と歴史の断絶をもたらした事件を国家の起源に置くことに根本的疑問を感じる。)

社会の出発点として個人を据えるのではなく、「はじめに国家ありき」との考え方。

それは通常想像されるような国家主義的極論ではない。

英国の法哲学者ハートは、法制度はその権威を受け入れる諸個人が共通の理解・慣習・文化・常識を共有している場合にのみ有効に機能するとしている。

そうでなければ解釈の違いなどで無限の対立が生じ、法がその役割をほとんど果たせず、社会自体が成り立たない。

(表面的な成文法のみを過大評価し、それのみをもって社会秩序の維持に充分だと高を括る「法化社会」の問題点については荒井一博『自由だけではなぜいけないのか』参照。)

何の背景も持たない、原子的個人が合理的契約で社会を作り上げたという観念は真っ向から否定される。

共同体に帰属しているときのみ人間は道徳的になりうるのであり、近代においては、国家という大きな共同体だけでなく、家族・地域社会・協同組合・産業組織・社交クラブ・政治団体などの「中間組織」が重要性を持つ。

そうしたものを豊かに含んだ社会が「市民社会」である。

決して、平等な個人がバラバラに存在するだけの社会ではない。

それはコーンハウザーの分類では(「市民社会」としての「多元的社会」ではなく)「大衆社会」だ。

市民社会を内包した国家では、民主政治においても、大衆が直接的に国家の意志決定過程に参加するのではない。人々は、孤独な個人ではなく、中間組織に属し、道徳規範をもって自らを律することができる。国家と民衆の間には、様々な政治団体や政党があり、そういった政治的中間組織の代表が国政に参画する。また、国家は、議会や行政機関をもち、民衆の意志は、政治組織、議会、行政組織における議論や検討のスクリーニングを経て、レベルを高められる。このため、こうした国家の意志決定は、大衆の生の欲望のままに行われるのではなく、世論から一定の距離を置いて、ある程度自律的に行われる。間接民主制とは、国家と個人との間に市民社会を挟むことによって、より賢明で理性的な民主国家を実現するための制度なのである。

中間組織の活動保障のために、国家が積極的役割を果たす必要があり、国家と市民社会は対立関係にあるのではなく、むしろ相互依存的なもの。

経済面でも、大規模な近代的市場は、共同体・ギルド・宗教的戒律の撤廃などによる、近代国家の意図的創造によるものであり、それを考えれば、国家の介入を「市場の失敗」時のみに行われる例外事と扱うことは出来ず、より恒常的に必要とされるものと捉える必要がある。

「利己的個人」という想定では長期的経済活動があり得なくなり、「非契約的関係」(デュルケイム)が無ければ近代経済法も成り立たない。

技術革新も国家だけが支援できる部分が多い。

そして、改めて直接民主制の恐るべき危険性と、間接民主制の必要を説く。

近代民主国家が健全であるためには、それが市民社会を内包している必要がある。市民社会とは、国家と個人との間の共同体や中間組織の分厚い層のことである。個人のモラルや賢明な判断は、複数の共同体や中間組織に帰属することによって得られるからである。

国家の意志決定は、確かに国民の意志に依存している。しかし、その国民の意志は、政党や議会における議論というフィルターによって濾過される必要がある。それによって、国民の意志は、大衆の生の欲望や気紛れな世論とは異なる、思慮深い判断として国政に反映されるのである。行政組織と議会をもつ民主国家は、結果として、ある程度、世論とは自律的な意志決定を行うことができる。市民社会を基礎にもつ健全な民主国家だからこそ、世論調査とは異なる政治判断を行うのだと言ってよい。

国家と民衆との間に、議会、政党、行政組織、政治団体そして市民社会が介在することによって、民衆のナショナリスティックな情念は穏健化し、正常なものとなる。しかし、もし、こういった政治機関や市民社会が堅固に存在しなければ、どうなるか。民衆のナショナリスティックな欲求が、そのまま直接国政を左右してしまうであろう。あるいは、逆に、国家権力がナショナリズムを悪用して、民衆を意のままに操作することを可能にしてしまうであろう。

これこそが全体主義である。全体主義とは、民主国家と個人が、直接接触し、大衆の意志がそのまま国家に反映されることによって発生するのだ。言い換えれば、全体主義は民主主義に対立するものではない。直接的に民主的になりすぎた結果が全体主義なのである。

何度強調してもし過ぎることがないほど、重要な認識である。

いかなる意味においても、直接民主制は文明の破壊と野蛮への転落へと直結する。

党派の別を問わず、「直接的な民意の反映」を善とする考えが蔓延しているが、根本的に狂っているとしか言い様が無い。

誰もが「政治と経済と社会の運営に、いかに大衆の世論と選好を効率的に反映するか」を憑かれたように論じているが、その世論と選好が本当に尊重するに足るものなのか、何の資質も問われない多数者の意見が反映されることは真に良いことなのか、という根本的な問いは誰も考えようとしない。

中間組織無き民主主義こそが全体主義と自己破壊的ナショナリズムをもたらすことは、フランス革命以来、バークトクヴィルが指摘しているところである。

また、ポランニーによると、規制なき市場経済の破壊力も全体主義の原因である。

1879~1914年、大西洋のグローバリゼーションは今日よりも活発であった。

経済自由主義は全体主義を防ぐどころかその原因である。

市場経済への社会防衛運動が大衆民主主義と結びつき全体主義を生んだ。

その反省から、戦後の国際経済秩序は、自由貿易主義の建前にも関わらず、国家間の調整と妥協を重視するもの。

GATTにも国家による社会保護規定あり。

戦前のブロック経済と保護貿易から戦後の自由化というイメージは表面的である。

国内の社会と経済の安定に責任を持つ国民国家の能力発展があってこその話である。

著者は、ケインズ主義を経済ナショナリズムに近いものとして評価する。

ここで、ラーナーの機能的財政論が紹介される。

国債は、内国債の場合には、その金利はネイションの負担にならず、企業負債や家計借金と同じではない。

外国債でない限り、財政破綻のリスクは少ない。

よって債務の絶対額ではなく、財政が国民経済に好影響を与えよく機能しているかを見るのが、機能的財政論の考え方。

この場合、財政を民間のマネー保有量の調整手段と見なす。

これに対して健全財政論はステイトの状態のみを重視する、(国家を君主所有のものと見なす)国民国家以前の考え方。

国民通貨と内国債こそが経済的国民自決を実現する。

戦前の金本位制時代には、国際経済ルールが国民経済の独立よりも上位に置かれていた。

戦後のブレトン・ウッズ体制ではその両立が図られたが、1971年金・ドル交換停止、73年変動相場制移行以後、徐々に「国際」状況の重みが増し、「国民」の独立が低下してしまった。

各国の協調が重要であり、長く見れば通貨制度はナショナリゼーション化している。

結局国民国家は乗り越え不可能な制度である。

中国など新興国の国家資本主義はステイトに重点を置きすぎたものであり、米国も「財務省・ウォール街複合体」による巨大金融機関の支配が政治と社会を歪めている。

それに対して、日本はネイションの力で対抗すべきだと著者は主張する。

素晴らしい。

目の冴える様な知見と端正な文体。

重要な指摘があちこちに見つかる。

新書とは思えない程、異様に内容が濃い。

是非お勧めします。

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