万年初心者のための世界史ブックガイド

2014年2月19日

西部邁 『ソシオ・エコノミックス』 (イプシロン出版企画)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:24

原本は中央公論社から1975年に刊行。

西部氏の処女作か。

理性的な原子論的個人と社会的均衡・完全競争市場の仮定に基づく新古典派(主流派)経済学を批判する書。

これはきつい。

途中までは何とか通読できたが、第3章あたりからはやむを得ずとばし読み。

以下、印象深い部分だけ引用。

マルクス経済学がフェティシズムつまり物神崇拝の病理の世界を資本の運動法則とやらで否定的に隠喩する弁証であるのにたいし、近代経済学はヘドニズムつまり快楽主義の世界を市場競争の効率性とやらで肯定的に暗喩する論理である・・・・・・

マルクス経済学が論理的に欠陥だらけでその実践の結果、史上最悪の全体主義的独裁政治がもたらされたことは絶対に間違いないが、近代経済学の人間観・社会観も途方も無く歪んでいることに違いは無い。

新自由主義的・リバタリアン的政策がもたらす社会の荒廃を描写するに当たっては、マルクス経済学をあくまで直感的な批判の道具として用いるだけならば有効性すら感じないこともない(引用文(佐伯啓思3)参照)。

実際、今のアメリカ(や日本を含む先進民主主義国)の社会のあり方を見ると、マルクス主義が戯画化した資本主義社会とあまりにも近似していることに寒気を覚える。

カネがカネを生む投機的活動だけが跋扈し、それが実体経済を歪め破壊しているのに、財力と金権による政治と情報産業の支配によって何の対策も取られず、富める者は益々富み、貧しき者はますます貧しくなり、「下部構造」が「上部構造」を決定するように、社会内の全ての言動が金銭的動機から行われ、言論の自由は形骸化し、拝金主義と市場主義・競争主義が蟻地獄のように全国民を引き込み、極少数の富裕層を除き、煉獄の苦しみを与えているにも関わらず、それに対する根源的批判はデマゴーグ的多数決原理によって自動的に排除されるシステムが出来上がってしまっている。

著者は、近代経済学の中で、自由市場の欠陥に相対比較として自覚的かと思われる公共経済学においてすら、以下の錯誤があることを指摘し、それを超える非個人主義的・非市場主義的な「参加原理」という視点を提示する。

公共経済学は「市場の失敗」という概念を中心にして構成されている。費用-便益アプローチによるテクニカルな分析からいくつか有益な情報がえられたことは認めなければならないとしても、市場をコミュニティ全体の中にどのように位置づけるかという最も基本的な点で、公共経済学はわれわれと逆の捉え方をしている。公共的諸問題を市場の部分的機能障害(すなわちパレート効率性からの逸脱)とみなす個人主義的見地は、それを貫こうとすると、機能障害に対する社会的解決の基準を、これまた個人主義的な多数決の場に求めるほかない。そこでは理性的個人の「自由」が最大限に重んじられる。たとえ平等とか安全とかいった類の制限が自由に課されたとしても、それらの制限の実質的内容を規定するのはやはり(政治の場における)自由な活動にあるとされる。だから、残されるのは自由の態様にかんする判断の差異だけである。消費者主権と市民主権がどの程度発揮されているか、それを客観的に判定するための証拠は少ないのが通常であるから、評価の主観性をめぐってとめどない議論が続く。

これに対し、参加原理は、公共的諸問題を諸個人の個別的活動に対する前提条件として解釈する。それは、いわば共同の容れ物である。平等や安全にまつわる諸条件は、諸個人に自由な活動を許すための先決条件だとみなされる。そして、それらの実質的内容は(具体的な量的水準についての決定はともかくとして)範囲としてはコミュニティの全成員に共通なるものとして客観的に定まると考えるわけである。公共的諸問題の重大化は、市場の失敗ではなくて、むしろ、市場の前段階にある共同的秩序の形成における失敗である。

市場が正当性を付与された制度として存在するのは、それが諸個人の自発的意志にもとづく平和的交換のシステムだという了解があるからである。人々におしなべて自発性を保証するのは、交換が何がしか平等であり安全であるという社会的通念である。この交換の前提となる通念こそ、参加条件の確保によってえられたものである。むろん、参加条件を考慮することなしに市場的交換や多数決の活動を営んだとしても、参加原理が必ずしも保証されないわけではない。ただ、「市場の失敗」論の欠陥は、その個人主義への行き過ぎた偏りのために、問題が効率の次元から公正の次元に移行したとき、すなわち参加条件の危機が明瞭になったとき、コミュニティの全成員にとって一致した規準をどこにもみつけられないという点にある。諸個人の社会的重要度にかんするウェイトづけを多数決にまかせる仕方は、現状肯定的もしくは容認的態度につながりやすい。なぜなら、表面に観察される社会的決定はすべて多数決だからである。多数決の場に構造的安定性を与えるのが、ほかならぬ公正を実現することだという認識は公共経済学において見出し難いのである。

他者の健康、他者の教育、他者の所得について一定水準が確保されていなければ(すなわち他者がコミュニケーションの構造的要素として登場することを予想できるのでなければ)、社会的コミュニケーションは困難になる。また、交通施設や環境がある程度以上備えられていなければ(すなわちコミュニケーション・チャンネルが不足していれば)、コミュニケーションが狭隘になってしまう。このような平凡な社会的事実の上に、公共的諸問題の解決規準が組み立てられなければならない。多数決による決定はこの事実に具体的表現を与えるにすぎないのであって、それに根本的に代りうるものではない。あるいは、代りうるという迷妄にとり憑かれたときに、コミュニティの統一性が危うくなりはじめるといった方が適切かもしれない。

卑しい新自由主義者の市場競争主義でも、愚鈍な進歩的左翼の福祉主義でもない、保守主義者によるナショナル・ミニマムとしての社会保障という著者の考えが処女作から一貫していることに感嘆する。

そして、個人主義的自由論と「自由で理性的な個人」への身の程知らずの過大評価、それに基づく現代のビジネス文明と市場社会の持つ根本的欠陥を述べる。

・・・・・・新古典派の人々は、どんな消費選好もそれが強制されたものでない以上は本質的に自立的なのだ、とみなそうとする。しかし個人の消費選好は、消費財に付与されるイメージ特性を媒介にして、文化の場における拘束を受けているのだから、選好の自立性はそう安直に主張できることではない。もちろん、新古典派といえども、文化による拘束を認めないわけではない。むしろ、それをあっさりと認めた上で、「しかし自由な選択は自立的である」というふうに理路をたどる。だが新古典派の弱点は、実は、文化の拘束を当り前のこととして前提してしまい、その実質的意味について深くは考えない、という姿勢の中にこそ隠されている。この姿勢によって、文化の問題は新古典派に特徴的な個人と社会にかんする個人主義的解釈を覆すほどの重要性を持っているのではないか、という方向での推理が封じこめられてしまう。消費選好の問題に限定していえば、文化による拘束の問題は、次の二点で新古典派の個人観と社会観とに抵触するはずだと思われる。

一つは無意識の問題である。文化は、法律や道徳のように諸個人にとって外在的な規範システムとしてあるばかりでなく、諸個人の知覚、感情、および思考の共有パターンとして、(諸個人のパーソナリティを構成する最も基底的な層として)諸個人に内在するものである。そして当然のことであるが、諸個人は自らに内在する文化を、完全に理性的に認識することは不可能であり、文化の一部はつねに、無意識の形で保有される。たとえば、習慣的あるいは情動的といわれる行為を分析することによって、われわれは無意識の世界の構造を窺うことができる。

現代の技術的環境が、このようにして諸個人の行動をその深層においてパターン化していると考えるならば、表層においてみられる自由選択の個人性をもって“自立的”と呼び、さらにはその延長戦上に「効率的」という「望ましさ」にかんする形容詞をもってくるのは、一種の誤魔化しのレトリックだといわれても仕方ない。レトリックの話ならば、自動車を乗り回す快楽に浸っている人々を自立的な人々だと呼ぶのがおかしいのは、ちょうどトーテム崇拝を守りつづけている未開人を指して自立的だと呼ぶのがおかしいのと同じである、ということもできる。社会科学としては、あらゆる選好を社会心理の現れとして客観的に分析することができるだけであり、あれこれの規範概念を探すのは実践倫理に属することなのである。

もう一つは、すでにふれた、変化を公共イメージとする文化の問題である。物理的特性とイメージ特性がともに安定している静態的文化の下でならば、文化の実質的内容は時間を通じて不変であるから、自由選択にみられる個人差に関心が集中するのもうなずけるところである。そこでは、文化の内容はあらゆる人々にとって(分析者にとっても)、特別に考慮する必要のない自明のこととしてあり、むしろすべての思考の前提をなすようになる。未開の占い師や中世の神学者は、ほぼそのような前提の下で思考してきた。しかし、変化することそれ自体を新たなイメージとして取り入れた現代文明の下では、文化についても明示的に考慮することが要求される。変化のイメージにおいては、変化の実質的内容は生産者によって一方的に決められる。したがって、われわれが消費の実質的変化の自立性を問うときには否応なく変化の形式に吸い寄せられている消費者と経済計算にもとづいて変化の実質を誘導している生産者との間の、互いに異化された関係を分析しなければならない。そして、変化のイメージがその他の慣習的イメージなどといかに衝突し、さらには、自然の秩序をいかに破壊するかを調べなければならない。

ともかく、二つの論点が示しているのは、文化に拘束された消費者の自由選択が自立的だといえるためには、消費者が文化の総体を反省的に認識するというもう一つの意識過程がなければならない、ということである。しかし、変化のイメージの真の恐しさは、無限に複雑化・細分化していく変化の予感の中に人々を投げ入れ、このようなトータルな反省的認識を阻害するところにある。だから、現状の選択が自立的だという結論は受け入れられない。観察される消費は、ガルブレイスのいうように「虚偽の欲望」でもなく、新古典派のいうように「自立的欲望」でもない。それは、技術的環境の中で技術的イメージによってパターン化された人々が、変化のイメージにつき動かされながら、マージナルなところで個別性を競い合っていることの結果である。このようにいう著者自身もその一人なのである。

共同の企てはあくまで潜在的なものであるから、それが実際の活動として顕現するときには、多数決や市場的交換を経由しなければならない。しかし、表面に観察された現象だけをみて、世界をホッブズ的なものとして描くわけにはいかない。多数決や市場的交換を成り立たせる同意や契約のシステムそのものが、諸個人の葛藤から派生した第二次的な産物なのではなく、彼らのコミュニカティブな相互作用を可能にする最も基礎的な枠組なのだ。そしてこの枠組を安定的に保つためには、参加と統合の保証が何がしか必要になる。ルソーのいう一般意思、すなわち、常に不平等を志向する諸個人の特殊意思に枠をはめて全員一致の平等を志向する一般意思とは、歴史の始源における合意なのではなく、コミュニケーション・システムにおいて保証せざるをえないこのような条件のことであろう。

初心者には通読困難だが、極めて重要な視点が含まれている。

上記に引用した部分だけでも、いろいろ深く考えさせられた。

機会があれば、ご一読下さい。

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