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2014年2月1日

マイケル・サンデル 『公共哲学  政治における道徳を考える』 (ちくま学芸文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 16:06

以前ベストセラーになった『これからの正義の話をしよう』と同じ著者と訳者。

本文は380ページ超だが、全30章なので、比較的短い章が多く、読みやすくはある。

第1部でアメリカの政治的伝統の考え方を概観し、第2部では個々の具体的問題について論じ、第3部でリベラルな政治理論の検討。

第1章は「道徳を法制化する」ことへの反対について。

現代社会で普通尊重すべきと考えられているのは、「価値中立的自由」。

要するに、他者に明白で直接的な危害を加えない限り、何をするのも自由だという考え方。

その典型として、リベラル派が主張するのが政教分離、保守派は市場介入への反対。

それに対して、米国の建国理念の一つである「共和主義」は、自由を「自己統治の分かち合い」に支えられたものと見なす、個人主義的自由を超える概念であることを著者は指摘。

(普通共和主義という言葉は、単に世襲の君主制や貴族身分の存在に反対する政治的立場を指すが、この通俗的定義はひとまず忘れて下さい。)

この意味での「共和主義」が目指すものは、国家を単に個人的自由の保障と経済的利益の分配のための機械的装置と見なす「手続き的共和国」とは異なるもの。

ジェファソンはそのための条件として農業立国主義と工業化への懐疑を持っていたが、20世紀初頭、アメリカが一大工業国となると、資本と経済力の集中が巨大企業の専横を招き、社会の自己統治を危機に陥れる。

それに対して、いわゆる「革新主義」時代に、セオドア・ルーズヴェルトは連邦政府の権限強化と大企業の規制を行い、ウィルソンも同様に反トラスト法などの政治介入による経済力の分散に努める。

これらはまだ「共和主義」理念に基づいていたと言えるが、一方30年代のニューディールと(俗流)ケインズ主義は単に経済成長と配分的正義にのみその関心を集中させたものであり、それが60年代の対抗文化による社会秩序の弛緩・紊乱に繋がる。

これに反発した人々が、80年代レーガン政権下の草の根的な「市民的保守主義」を支持することになったが、著者はこれを真に「共和主義」的ものとは認めない。

なぜなら、それは「大きな政府」のみを批判の対象とし、「大きな企業」は放任し、民間活力との美名の下、巨大企業によるコミュニティの破壊をただ傍観しているからである。

一方、それに抗すべきリベラル派は、個人主義的な権利と自由のレトリックに囚われ、コミュニティと中間組織再建への道筋を提示できず、自らの長期低落の傾向を止められなかった。

この第1章の要旨を頭に入れて、以後の文章を読むと良い。

伝統的価値観を何よりも蝕むのは、リベラル派の裁判官ではなく、保守派が無視している現代経済の特徴なのだ。たとえば、自由な資本の移動は、地域、都市、町への破壊的な影響を及ぼす。大企業に力が集中しているのに、そうした企業は事業の場となるコミュニティに説明責任を負わない。

文化的保守派が、人を堕落させる大衆娯楽の影響を懸念するのは間違いではない。こうした娯楽は、それを売り込む宣伝と相まって、人びとを衝動的な消費に走らせたり、市民道徳と食い違う政治に従わせたりする。だが文化的保守派が何より強力な力を、つまり制限のない市場経済の腐食力を無視するのは間違いだ。企業がみずからの力を利用して、減税、建築規制の変更、環境政策の譲歩などを、雇用を切望する市や州に押しつければ、かつてのどんな連邦政府命令よりも大幅に、コミュニティの力を奪うことになる。貧富の差の拡大に伴い、公立学校、公園、公共交通機関から富裕層が逃げ出し、特権的な領域に閉じこもってしまえば、市民道徳を維持するのは困難になり、共通善は視界から消える。コミュニティを復興させるためのいかなる試みも、社会組織を食いつぶす文化的勢力はもちろん、経済的勢力とも戦わなければならない。われわれに必要な政治哲学が問うのは、自己統治やそれを支える市民道徳にふさわしい経済制度は何かということだ。

市民は顧客ではないし、民主主義とは単に人びとに望むものを与えることではない。自己統治が適正に行われれば、人びとは自己の欲求について反省し、対立する視点を踏まえてそれを改めることができる。顧客とは違い、市民は公共善のために自己の欲求を抑えることもある。それが政治と商業の違いであり、愛国心とブランド・ロイヤリティの違いなのだ。政府が漫画のキャラクターや最先端の広告から拝借した人気に頼りすぎると、支持率は上がるかもしれないが、公共部門の尊厳と権威は失われてしまう。公共部門の手入れを怠れば、民主的市民が市場の力や商業的圧力を制御することはまず望めない。こうした力や圧力は日ごとに勢いを増し、無数のやり方でわれわれの生活の形を決めているのである。

上記の文章は極めて重要な意味を持っていると思う。

昨今の日本社会の有様が、ますます米国(と韓国)に似たものになりつつあることに恐怖を覚える。

左翼・進歩派・リベラルに対する罵詈雑言は溢れているが、それは伝統に基づく真の保守主義の勝利を全く意味しない。

保守的立場からの、市場経済への規制や暴力に等しいような粗暴な言論の制限の主張は、「左翼」とのレッテル貼りと誹謗中傷の的になり、自動的に退けられる構造が完成してしまっている。

結果、真の同胞意識など持てないほど貧富の差は拡大し、究極の格差社会に転落する。

それを誤魔化すために、薄っぺらで安易極まる粗暴なナショナリズムと奇矯で愚かな宗教的原理主義が、大企業と富裕層の財力で新旧のメディアで煽られ、それ自体が「商売」になる。

国民は「自己の欲求について反省し、対立する視点を踏まえてそれを改める」ことなど全くせず、ただ大々的な宣伝に煽られ、表面上は言論の自由が保たれているように見えつつ、実質的にはごく一部の勢力の思うがままに行動することとなる。

その大きな流れの中では、著者のような立場の言論すら、単にアリバイ作りやガス抜きとして利用されるためにのみ、その存在を許されるという具合になるんでしょう。

結局、アメリカに(そして日本にも)真の保守派はいない、いるのは卑しい市場原理主義者と愚劣な右派的ポピュリストだけだ、ということになってしまいました。

著者はコミュニタリアン(共同体主義者)として、上記の(通俗的)「保守派」批判の後、リベラル派をも批判し、それを超える視点を以下のように示す。

リベラル派がしばしば主張するのは、共通善の政治は、特定の忠誠、義務、伝統に頼らざるをえないため、偏見と不寛容への道を開くということだ。現代の国民国家はアテネの都市国家ではないと彼らは指摘する。現代の生活の規模と多様性のせいで、アリストテレスの政治倫理は、よくて郷愁をそそるもの、悪くすれば危険なものになってしまった。どんなやり方にせよ、善の構想によって統治を行おうとすれば、坂道を転げ落ちるように全体主義へと誘い込まれる可能性が高いのである。

コミュニタリアンの反論は次のようなものだが、私はこの意見が正しいと思う。すなわち、不寛容が蔓延するのは、生活様式が混乱し、社会への帰属意識がゆらぎ、伝統が廃れるときだというのだ。現代において、全体主義への衝動は、確固とした位置ある自己の信念から生じているわけではない。そうではなく、ばらばらにされ、居場所を失い、フラストレーションを抱えた自己の困惑から生じているのだ。こうした自己は、共通の意味が力を失った世界で途方に暮れているのである。ハンナ・アーレントはこう述べている。「大衆社会の存立がこれほど難しいのは、そこに含まれる人びとの数が多いからではない。あるいは少なくとも、それが主要な原因ではない。人びとのあいだを埋める世界が、彼らをまとめ、結びつけ、また引き離す力を失ってしまった事実が原因なのだ」。公共生活が衰退するかぎり、われわれは共通の充足感を徐々に失い、全体主義を解決策とする大衆政治に陥りやすくなる。共通善派の権利派に対する反論は以上のようなものだ。共通善派が正しいとすれば、われわれにとって喫緊の道徳的・政治的課題は、わが国の伝統に内在するが現代では姿を消しつつある、市民共和制の可能性を蘇らせることである。

リベラリズムは、善に対して正を優先し、道徳的宗教的中立を保とうとする。

それに対して、狭く単純な意味のコミュニタリアニズムは、共同体の多数派の価値を法制化することを正当と見なす立場だが、著者のそれは、社会の中の多様で異なる信念・価値観の対話を重視する熟議型の相互尊重を目指すものだという。

その例として、本書では言論の自由とヘイトスピーチの問題が論じられている。

ホロコーストの犠牲者遺族が多く住む地域でのネオナチ集会と、人種差別主義の強い南部でのキング牧師の集会という、両極端の集まりがもたらす混乱に対して、国家と社会はどう対峙すべきか。

リベラリストは形式的観点から両方の自由を認め、(通俗的)コミュニタリアンは双方を認めないとするしかない。

しかし、その言説が何を推進し、何を目的としているのか、それが共同体の善にかなうのかを論じなければならない、ネオナチのヘイトスピーチと人種間の平等を説くキング牧師の演説は価値的に同じではない、それについてどれほどの困難があろうとも冷静に熟慮しながら議論を重ねていき、それを行動の原則とするしかないというのが著者の立場。

面白い。

『これからの正義~』を読んで、著者についてもっと読みたいという場合は、本書を勧める。

続刊の『それをお金で買いますか』(早川書房)が、立ち読みしたところ、もう一つ食い足りない印象があったので。

アメリカ的限界があっても、自由民主主義を前提とせざるを得ない以上、著者のコミュニタリアニズムはあの国の中で最も良心的な思想だと思います。

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