万年初心者のための世界史ブックガイド

2014年2月27日

トウェイン 『トム・ソーヤーの冒険』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 08:49

マーク・トウェインの手に成る児童文学の傑作。

内容的には、ひそやかな社会批評が読み取れ、児童文学の枠に収まりきらない部分があるが、一応形式的にはそうである。

小学生の頃、読んだ方も多いんじゃないでしょうか。

ペンキ塗りの罰の話とか、聖書暗唱と色付きカードの話とか、洞窟での探検とか、「ああ、あったあった、そういう話」と懐かしくなりました。

ユーモアに満ちた作品で、非常に読みやすい。

これまで古典文学など全く読んだことがないという方は、リハビリのつもりで本書から入るのも悪くないでしょう。

広告

2014年2月22日

塩野七生 『十字軍物語 3』 (新潮社)

Filed under: ヨーロッパ — 万年初心者 @ 09:05

1巻2巻を記事にしてから、ものすごく間隔が空きましたね・・・・・・。

何かめんどくさくて、読む気がしませんでした・・・・・・。

全3巻で、2巻において描かれたのが、第2回十字軍まで。

山場と言える第3回、第4回を残したままで、相変わらずペース遅いなあと思っていたら、案の定この3巻はやたら分厚い。

第3回十字軍の描写を読み始めて、まず驚いたのが、英国王リチャード1世の評価が相当高いこと。

「獅子心王」のあだ名通り、勇猛果敢で中世騎士の理想像であっても、猪突猛進の猪武者で、国王と政治家としては思慮分別に欠ける、というイメージがあり、クレバーな現実主義者を評価する著者の好みには合わない人物かと思っていたら、意外なほど好意的な筆致にびっくりする。

第3回十字軍参加者は、英王リチャード1世、仏王フィリップ2世、独帝フリードリヒ1世だが、フリードリヒはシリアに入る直前に事故で溺死(フリードリヒ指揮下の一部が現地に残留し、史上有名なドイツ騎士団となる。)。

フィリップと仲違いしたリチャードは単独でサラディンと互角以上に戦い、イェルサレムこそ奪還できなかったものの、イェルサレム巡礼の自由と安全の確保、ティロス・アッコン・ハイファ・カエサリア・アルスーフ・ヤッファの海港都市のキリスト教側確保という条件で休戦協定を結ぶ。

本書では、これは当時望みうる最善のものだったとされている。

確かに、史上屈指の名将サラディン相手にこれだけの条件を勝ち取れば、御の字でしょう。

高校世界史レベルでは、イェルサレムを奪還できなかったことをもって、単純に「失敗」と述べられている、この第3回十字軍の評価が変わります。

また、その途上で、当時ビザンツ帝国から半独立状態にあったキプロス島を征服し、西欧勢力の強力な拠点としたことも、リチャードの大きな功績とされている。

それに引き換え、リチャード1世と弟のジョン王を手玉に取って大陸から英国勢力をほぼ一掃することに成功した、冷徹なリアリストのイメージがあるフィリップ2世に対しては、その狡猾さと悪辣さを強調し、冷ややかな記述がなされている。

「先生、ちょっと個人的な趣味が入りすぎてませんか?」と言いたくなりますが、まあいいでしょう。

中東での西欧勢力をかなりの程度回復させたリチャードは1199年死去(奇しくも源頼朝没年と同年だ)。

著者は、十字軍研究の大家ランシマンの獅子心王への酷評に同意せず、キリスト教徒側の制海権を奪還・維持したリチャードを高く評価している。

第4回十字軍は、言うまでも無く教皇インノケンティウス3世の発案から、脱線してコンスタンティノープル攻略に至ったものだが、本書では、サラディンの弟アラディールと暗黙の了解に達し、攻撃目標をイスラム勢力ではなく、ビザンツに向けた、ヴェネツィア元首エンリコ・ダンドロの怜悧な手腕を好意的に記している。

第5回十字軍は1218~21年。

これは高校世界史では数えないので、以後回数がずれる。

教皇ホノリウス3世主唱だが、ヨーロッパからの遠征は無く、パレスチナ現地のキリスト教勢力が主導し、エジプトのナイル・デルタの扇型、東端ダミエッタ(西端はアレクサンドリア)を攻撃。

この最中にアラディールが死去、息子のアル・カミールが即位。

ダミエッタ攻撃は、結局失敗に終わる。

この時の休戦交渉で、中世修道会創立で著名な聖フランチェスコが使者として出てくることに驚く。

名著、藤沢道郎『物語イタリアの歴史』(中公新書)でのフランチェスコ伝の章では記されていたのか覚えていない。

第6回、神聖ローマ皇帝兼シチリア王フリードリヒ2世が遠征、アル・カミールと一戦もせず講和、教皇グレゴリウス9世と対立。

だがその条件は、内部対立を懸念するアル・カミールが妥協に傾いたせいで、意外なほど有利であり、イェルサレムのうち、東側三分の一のイスラム教徒側を除く地区を回復、巡礼・通商の自由安全確保、ティロスの北、シドン・ベイルート含め海岸部がキリスト教徒側であると確認し、その結果トリポリ・アンティオキアとも陸続きとなる。

ここでも、著者はランシマンの低評価に同意していない。

第7回、1248~54年、仏王ルイ9世主導。

始まった時には、フリードリヒ2世はまだ生きていた(没年は1250年)。

開始前に、1244年エジプト・アイユーブ朝に従わないシリア勢力がイェルサレムを占領している。

ルイは「聖王」と呼ばれ、内政では名君と言えるが、この外征は完全に失敗。

ダミエッタを攻撃するが、大敗し捕虜となる。

身代金を支払って釈放されるが、この敗北の巻き添えを食って、宗教騎士団も衰退。

この前後にイスラム世界では、大激動が続く。

まさにこの第7回十字軍の最中に、1250年エジプトの王朝がアイユーブ朝からマムルーク朝に交替。

1258年モンゴルのフラグ軍がバグダードに入城し、アッバース朝滅亡。

1260年アイン・ジャールートの戦いで、マムルーク朝バイバルスがモンゴル軍を撃退。

第8回、再びルイ9世が、今度はチュニスを攻撃するが、すぐに病死。

以後急坂を転げ落ちるように、アンティオキア公領・トリポリ伯領が消滅、1291年アッコン陥落、続いてシドン・ティロスも喪失。

昔の概説書だと、1291年のアッコン陥落が十字軍の終幕として書かれており、史的解釈としては現在でもそれで間違いないのかもしれないが、シドンとティロスの喪失は時期的にはアッコン陥落の後らしい。

これは本書を読むまで、気付かなかった。

本書でのアッコン陥落の描写は感動的であり、同じ著者の『コンスタンティノープルの陥落』(新潮文庫)と同じく、感慨深いものがある。

宗教騎士団のうち、ヨハネ騎士団はロードス島からマルタ島に移って存続、ドイツ騎士団は東方植民へ、テンプル騎士団は仏王フィリップ4世によってスケープゴートとされ弾圧、という流れになります。

本書では、最後にフィリップ4世の残酷さを厳しく指摘し、仏人教皇クレメンス5世とアヴィニョン教皇庁に触れてラストです。

まあ、いい方じゃないですか。

歴史読物としては良くできている。

分量が気にならない。

私程度のレベルではそれだけで有難いと思って、読了すればいいんでしょうが、やはりどうしてもかつてのようには絶賛する気は起きません。

著者は現在、本書でも登場する(13世紀の神聖ローマ皇帝であって、18世紀のプロイセン王ではない方の)フリードリヒ2世についての作品を書いているようですが・・・・・・。

一定水準は必ずクリアしているとわかっていても、即座に手に取るつもりにはなれませんねえ。

2014年2月19日

西部邁 『ソシオ・エコノミックス』 (イプシロン出版企画)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:24

原本は中央公論社から1975年に刊行。

西部氏の処女作か。

理性的な原子論的個人と社会的均衡・完全競争市場の仮定に基づく新古典派(主流派)経済学を批判する書。

これはきつい。

途中までは何とか通読できたが、第3章あたりからはやむを得ずとばし読み。

以下、印象深い部分だけ引用。

マルクス経済学がフェティシズムつまり物神崇拝の病理の世界を資本の運動法則とやらで否定的に隠喩する弁証であるのにたいし、近代経済学はヘドニズムつまり快楽主義の世界を市場競争の効率性とやらで肯定的に暗喩する論理である・・・・・・

マルクス経済学が論理的に欠陥だらけでその実践の結果、史上最悪の全体主義的独裁政治がもたらされたことは絶対に間違いないが、近代経済学の人間観・社会観も途方も無く歪んでいることに違いは無い。

新自由主義的・リバタリアン的政策がもたらす社会の荒廃を描写するに当たっては、マルクス経済学をあくまで直感的な批判の道具として用いるだけならば有効性すら感じないこともない(引用文(佐伯啓思3)参照)。

実際、今のアメリカ(や日本を含む先進民主主義国)の社会のあり方を見ると、マルクス主義が戯画化した資本主義社会とあまりにも近似していることに寒気を覚える。

カネがカネを生む投機的活動だけが跋扈し、それが実体経済を歪め破壊しているのに、財力と金権による政治と情報産業の支配によって何の対策も取られず、富める者は益々富み、貧しき者はますます貧しくなり、「下部構造」が「上部構造」を決定するように、社会内の全ての言動が金銭的動機から行われ、言論の自由は形骸化し、拝金主義と市場主義・競争主義が蟻地獄のように全国民を引き込み、極少数の富裕層を除き、煉獄の苦しみを与えているにも関わらず、それに対する根源的批判はデマゴーグ的多数決原理によって自動的に排除されるシステムが出来上がってしまっている。

著者は、近代経済学の中で、自由市場の欠陥に相対比較として自覚的かと思われる公共経済学においてすら、以下の錯誤があることを指摘し、それを超える非個人主義的・非市場主義的な「参加原理」という視点を提示する。

公共経済学は「市場の失敗」という概念を中心にして構成されている。費用-便益アプローチによるテクニカルな分析からいくつか有益な情報がえられたことは認めなければならないとしても、市場をコミュニティ全体の中にどのように位置づけるかという最も基本的な点で、公共経済学はわれわれと逆の捉え方をしている。公共的諸問題を市場の部分的機能障害(すなわちパレート効率性からの逸脱)とみなす個人主義的見地は、それを貫こうとすると、機能障害に対する社会的解決の基準を、これまた個人主義的な多数決の場に求めるほかない。そこでは理性的個人の「自由」が最大限に重んじられる。たとえ平等とか安全とかいった類の制限が自由に課されたとしても、それらの制限の実質的内容を規定するのはやはり(政治の場における)自由な活動にあるとされる。だから、残されるのは自由の態様にかんする判断の差異だけである。消費者主権と市民主権がどの程度発揮されているか、それを客観的に判定するための証拠は少ないのが通常であるから、評価の主観性をめぐってとめどない議論が続く。

これに対し、参加原理は、公共的諸問題を諸個人の個別的活動に対する前提条件として解釈する。それは、いわば共同の容れ物である。平等や安全にまつわる諸条件は、諸個人に自由な活動を許すための先決条件だとみなされる。そして、それらの実質的内容は(具体的な量的水準についての決定はともかくとして)範囲としてはコミュニティの全成員に共通なるものとして客観的に定まると考えるわけである。公共的諸問題の重大化は、市場の失敗ではなくて、むしろ、市場の前段階にある共同的秩序の形成における失敗である。

市場が正当性を付与された制度として存在するのは、それが諸個人の自発的意志にもとづく平和的交換のシステムだという了解があるからである。人々におしなべて自発性を保証するのは、交換が何がしか平等であり安全であるという社会的通念である。この交換の前提となる通念こそ、参加条件の確保によってえられたものである。むろん、参加条件を考慮することなしに市場的交換や多数決の活動を営んだとしても、参加原理が必ずしも保証されないわけではない。ただ、「市場の失敗」論の欠陥は、その個人主義への行き過ぎた偏りのために、問題が効率の次元から公正の次元に移行したとき、すなわち参加条件の危機が明瞭になったとき、コミュニティの全成員にとって一致した規準をどこにもみつけられないという点にある。諸個人の社会的重要度にかんするウェイトづけを多数決にまかせる仕方は、現状肯定的もしくは容認的態度につながりやすい。なぜなら、表面に観察される社会的決定はすべて多数決だからである。多数決の場に構造的安定性を与えるのが、ほかならぬ公正を実現することだという認識は公共経済学において見出し難いのである。

他者の健康、他者の教育、他者の所得について一定水準が確保されていなければ(すなわち他者がコミュニケーションの構造的要素として登場することを予想できるのでなければ)、社会的コミュニケーションは困難になる。また、交通施設や環境がある程度以上備えられていなければ(すなわちコミュニケーション・チャンネルが不足していれば)、コミュニケーションが狭隘になってしまう。このような平凡な社会的事実の上に、公共的諸問題の解決規準が組み立てられなければならない。多数決による決定はこの事実に具体的表現を与えるにすぎないのであって、それに根本的に代りうるものではない。あるいは、代りうるという迷妄にとり憑かれたときに、コミュニティの統一性が危うくなりはじめるといった方が適切かもしれない。

卑しい新自由主義者の市場競争主義でも、愚鈍な進歩的左翼の福祉主義でもない、保守主義者によるナショナル・ミニマムとしての社会保障という著者の考えが処女作から一貫していることに感嘆する。

そして、個人主義的自由論と「自由で理性的な個人」への身の程知らずの過大評価、それに基づく現代のビジネス文明と市場社会の持つ根本的欠陥を述べる。

・・・・・・新古典派の人々は、どんな消費選好もそれが強制されたものでない以上は本質的に自立的なのだ、とみなそうとする。しかし個人の消費選好は、消費財に付与されるイメージ特性を媒介にして、文化の場における拘束を受けているのだから、選好の自立性はそう安直に主張できることではない。もちろん、新古典派といえども、文化による拘束を認めないわけではない。むしろ、それをあっさりと認めた上で、「しかし自由な選択は自立的である」というふうに理路をたどる。だが新古典派の弱点は、実は、文化の拘束を当り前のこととして前提してしまい、その実質的意味について深くは考えない、という姿勢の中にこそ隠されている。この姿勢によって、文化の問題は新古典派に特徴的な個人と社会にかんする個人主義的解釈を覆すほどの重要性を持っているのではないか、という方向での推理が封じこめられてしまう。消費選好の問題に限定していえば、文化による拘束の問題は、次の二点で新古典派の個人観と社会観とに抵触するはずだと思われる。

一つは無意識の問題である。文化は、法律や道徳のように諸個人にとって外在的な規範システムとしてあるばかりでなく、諸個人の知覚、感情、および思考の共有パターンとして、(諸個人のパーソナリティを構成する最も基底的な層として)諸個人に内在するものである。そして当然のことであるが、諸個人は自らに内在する文化を、完全に理性的に認識することは不可能であり、文化の一部はつねに、無意識の形で保有される。たとえば、習慣的あるいは情動的といわれる行為を分析することによって、われわれは無意識の世界の構造を窺うことができる。

現代の技術的環境が、このようにして諸個人の行動をその深層においてパターン化していると考えるならば、表層においてみられる自由選択の個人性をもって“自立的”と呼び、さらにはその延長戦上に「効率的」という「望ましさ」にかんする形容詞をもってくるのは、一種の誤魔化しのレトリックだといわれても仕方ない。レトリックの話ならば、自動車を乗り回す快楽に浸っている人々を自立的な人々だと呼ぶのがおかしいのは、ちょうどトーテム崇拝を守りつづけている未開人を指して自立的だと呼ぶのがおかしいのと同じである、ということもできる。社会科学としては、あらゆる選好を社会心理の現れとして客観的に分析することができるだけであり、あれこれの規範概念を探すのは実践倫理に属することなのである。

もう一つは、すでにふれた、変化を公共イメージとする文化の問題である。物理的特性とイメージ特性がともに安定している静態的文化の下でならば、文化の実質的内容は時間を通じて不変であるから、自由選択にみられる個人差に関心が集中するのもうなずけるところである。そこでは、文化の内容はあらゆる人々にとって(分析者にとっても)、特別に考慮する必要のない自明のこととしてあり、むしろすべての思考の前提をなすようになる。未開の占い師や中世の神学者は、ほぼそのような前提の下で思考してきた。しかし、変化することそれ自体を新たなイメージとして取り入れた現代文明の下では、文化についても明示的に考慮することが要求される。変化のイメージにおいては、変化の実質的内容は生産者によって一方的に決められる。したがって、われわれが消費の実質的変化の自立性を問うときには否応なく変化の形式に吸い寄せられている消費者と経済計算にもとづいて変化の実質を誘導している生産者との間の、互いに異化された関係を分析しなければならない。そして、変化のイメージがその他の慣習的イメージなどといかに衝突し、さらには、自然の秩序をいかに破壊するかを調べなければならない。

ともかく、二つの論点が示しているのは、文化に拘束された消費者の自由選択が自立的だといえるためには、消費者が文化の総体を反省的に認識するというもう一つの意識過程がなければならない、ということである。しかし、変化のイメージの真の恐しさは、無限に複雑化・細分化していく変化の予感の中に人々を投げ入れ、このようなトータルな反省的認識を阻害するところにある。だから、現状の選択が自立的だという結論は受け入れられない。観察される消費は、ガルブレイスのいうように「虚偽の欲望」でもなく、新古典派のいうように「自立的欲望」でもない。それは、技術的環境の中で技術的イメージによってパターン化された人々が、変化のイメージにつき動かされながら、マージナルなところで個別性を競い合っていることの結果である。このようにいう著者自身もその一人なのである。

共同の企てはあくまで潜在的なものであるから、それが実際の活動として顕現するときには、多数決や市場的交換を経由しなければならない。しかし、表面に観察された現象だけをみて、世界をホッブズ的なものとして描くわけにはいかない。多数決や市場的交換を成り立たせる同意や契約のシステムそのものが、諸個人の葛藤から派生した第二次的な産物なのではなく、彼らのコミュニカティブな相互作用を可能にする最も基礎的な枠組なのだ。そしてこの枠組を安定的に保つためには、参加と統合の保証が何がしか必要になる。ルソーのいう一般意思、すなわち、常に不平等を志向する諸個人の特殊意思に枠をはめて全員一致の平等を志向する一般意思とは、歴史の始源における合意なのではなく、コミュニケーション・システムにおいて保証せざるをえないこのような条件のことであろう。

初心者には通読困難だが、極めて重要な視点が含まれている。

上記に引用した部分だけでも、いろいろ深く考えさせられた。

機会があれば、ご一読下さい。

2014年2月17日

アリストパネース 『雲』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 04:22

アリストファネスが活動した当時のアテネで跋扈していたソフィストを真正面から批判した作品。

詭弁を弄し、デマゴーグとして国政まで動かしていた、それら醜悪な連中を散々に揶揄する記述は痛快である。

より具体的に、当時実在の有力政治家クレオンへの非難もある。

議論の正邪・真偽・善悪を問わず、ただ勝ち負けだけにこだわる詭弁家どもが大手を振ってまかり通る状況を見ると、伝統・信仰・常識が潰えた後での「言論の自由」の空しさと表面的多数決制の弊害がつくづく感じられる。

以上の主題は心から共感できるものなのだが、しかし、その卑しいソフィストの代表として、よりにもよってソクラテスを槍玉に挙げるのは、勇み足であり、とんでもない誤解としか言いようが無い。

そうした瑕疵はあるものの、面白く読めて、なおかつ深い内容を持つ本。

強くお勧めします。

2014年2月15日

ドストエフスキー 『地下室の手記』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 06:12

空想的社会主義サークルに関与して逮捕され、シベリア流刑を経験した後の著者が、初期の進歩的人道主義の作風と決別し、わかりやすく単純化して言うと、政治的に「反動化」する転機となった作品。

合理的な社会改造という考えを否定し、浅薄な進歩思想を根本的に拒否している。

これも分量はそれほどでもないので、通読は比較的容易。

『貧しき人々』と同じく、ドストエフスキー入門には最適ではないでしょうか。

2014年2月13日

アリストパネース 『女の議会』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 04:07

『女の平和』ほど有名ではないが、これも実に面白い。

当時のアテネの民主制への皮肉と批判をはっきりと感じ取れる。

ただちょっと構成が変だ。

『女の平和』でも感じたことだが、後半がダレてラストがあっけない。

とは言え、実に楽しい作品。

2500年前に書かれた、異文化の作品が、これだけ面白く読めるということ自体、すごいことだ。

それを是非実感して下さい。

2014年2月10日

アイスキュロス 『アガメムノン』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 07:12

トロヤ戦争から凱旋してきた王アガメムノンが、不義をはたらいていた妻に殺される話。

アガメムノンはオレステスとエレクトラの父。

感想は・・・・・同じですね。

特に感銘を受けない(私には受ける能力が無い)が、勉強と思ってこなしましょう。

ストーリーは一般常識の範囲内と言っていいくらい有名ですから。

軽くこなして次に行きます。

2014年2月7日

アイスキュロス 『縛られたプロメーテウス』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 17:00

三大悲劇作家の筆頭に置かれる人の著作。

人間に火などの文化を与えて、ゼウスに罰せられたプロメテウスを描いた作品。

正直言って、もう一つ面白くない。

終わり方が何とも唐突に思える。

まあ読めただけで良しとするか。

こんな感想ばっかりですね・・・・・・。

でも私程度の初心者じゃあ、しょうがないですよ。

2014年2月1日

マイケル・サンデル 『公共哲学  政治における道徳を考える』 (ちくま学芸文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 16:06

以前ベストセラーになった『これからの正義の話をしよう』と同じ著者と訳者。

本文は380ページ超だが、全30章なので、比較的短い章が多く、読みやすくはある。

第1部でアメリカの政治的伝統の考え方を概観し、第2部では個々の具体的問題について論じ、第3部でリベラルな政治理論の検討。

第1章は「道徳を法制化する」ことへの反対について。

現代社会で普通尊重すべきと考えられているのは、「価値中立的自由」。

要するに、他者に明白で直接的な危害を加えない限り、何をするのも自由だという考え方。

その典型として、リベラル派が主張するのが政教分離、保守派は市場介入への反対。

それに対して、米国の建国理念の一つである「共和主義」は、自由を「自己統治の分かち合い」に支えられたものと見なす、個人主義的自由を超える概念であることを著者は指摘。

(普通共和主義という言葉は、単に世襲の君主制や貴族身分の存在に反対する政治的立場を指すが、この通俗的定義はひとまず忘れて下さい。)

この意味での「共和主義」が目指すものは、国家を単に個人的自由の保障と経済的利益の分配のための機械的装置と見なす「手続き的共和国」とは異なるもの。

ジェファソンはそのための条件として農業立国主義と工業化への懐疑を持っていたが、20世紀初頭、アメリカが一大工業国となると、資本と経済力の集中が巨大企業の専横を招き、社会の自己統治を危機に陥れる。

それに対して、いわゆる「革新主義」時代に、セオドア・ルーズヴェルトは連邦政府の権限強化と大企業の規制を行い、ウィルソンも同様に反トラスト法などの政治介入による経済力の分散に努める。

これらはまだ「共和主義」理念に基づいていたと言えるが、一方30年代のニューディールと(俗流)ケインズ主義は単に経済成長と配分的正義にのみその関心を集中させたものであり、それが60年代の対抗文化による社会秩序の弛緩・紊乱に繋がる。

これに反発した人々が、80年代レーガン政権下の草の根的な「市民的保守主義」を支持することになったが、著者はこれを真に「共和主義」的ものとは認めない。

なぜなら、それは「大きな政府」のみを批判の対象とし、「大きな企業」は放任し、民間活力との美名の下、巨大企業によるコミュニティの破壊をただ傍観しているからである。

一方、それに抗すべきリベラル派は、個人主義的な権利と自由のレトリックに囚われ、コミュニティと中間組織再建への道筋を提示できず、自らの長期低落の傾向を止められなかった。

この第1章の要旨を頭に入れて、以後の文章を読むと良い。

伝統的価値観を何よりも蝕むのは、リベラル派の裁判官ではなく、保守派が無視している現代経済の特徴なのだ。たとえば、自由な資本の移動は、地域、都市、町への破壊的な影響を及ぼす。大企業に力が集中しているのに、そうした企業は事業の場となるコミュニティに説明責任を負わない。

文化的保守派が、人を堕落させる大衆娯楽の影響を懸念するのは間違いではない。こうした娯楽は、それを売り込む宣伝と相まって、人びとを衝動的な消費に走らせたり、市民道徳と食い違う政治に従わせたりする。だが文化的保守派が何より強力な力を、つまり制限のない市場経済の腐食力を無視するのは間違いだ。企業がみずからの力を利用して、減税、建築規制の変更、環境政策の譲歩などを、雇用を切望する市や州に押しつければ、かつてのどんな連邦政府命令よりも大幅に、コミュニティの力を奪うことになる。貧富の差の拡大に伴い、公立学校、公園、公共交通機関から富裕層が逃げ出し、特権的な領域に閉じこもってしまえば、市民道徳を維持するのは困難になり、共通善は視界から消える。コミュニティを復興させるためのいかなる試みも、社会組織を食いつぶす文化的勢力はもちろん、経済的勢力とも戦わなければならない。われわれに必要な政治哲学が問うのは、自己統治やそれを支える市民道徳にふさわしい経済制度は何かということだ。

市民は顧客ではないし、民主主義とは単に人びとに望むものを与えることではない。自己統治が適正に行われれば、人びとは自己の欲求について反省し、対立する視点を踏まえてそれを改めることができる。顧客とは違い、市民は公共善のために自己の欲求を抑えることもある。それが政治と商業の違いであり、愛国心とブランド・ロイヤリティの違いなのだ。政府が漫画のキャラクターや最先端の広告から拝借した人気に頼りすぎると、支持率は上がるかもしれないが、公共部門の尊厳と権威は失われてしまう。公共部門の手入れを怠れば、民主的市民が市場の力や商業的圧力を制御することはまず望めない。こうした力や圧力は日ごとに勢いを増し、無数のやり方でわれわれの生活の形を決めているのである。

上記の文章は極めて重要な意味を持っていると思う。

昨今の日本社会の有様が、ますます米国(と韓国)に似たものになりつつあることに恐怖を覚える。

左翼・進歩派・リベラルに対する罵詈雑言は溢れているが、それは伝統に基づく真の保守主義の勝利を全く意味しない。

保守的立場からの、市場経済への規制や暴力に等しいような粗暴な言論の制限の主張は、「左翼」とのレッテル貼りと誹謗中傷の的になり、自動的に退けられる構造が完成してしまっている。

結果、真の同胞意識など持てないほど貧富の差は拡大し、究極の格差社会に転落する。

それを誤魔化すために、薄っぺらで安易極まる粗暴なナショナリズムと奇矯で愚かな宗教的原理主義が、大企業と富裕層の財力で新旧のメディアで煽られ、それ自体が「商売」になる。

国民は「自己の欲求について反省し、対立する視点を踏まえてそれを改める」ことなど全くせず、ただ大々的な宣伝に煽られ、表面上は言論の自由が保たれているように見えつつ、実質的にはごく一部の勢力の思うがままに行動することとなる。

その大きな流れの中では、著者のような立場の言論すら、単にアリバイ作りやガス抜きとして利用されるためにのみ、その存在を許されるという具合になるんでしょう。

結局、アメリカに(そして日本にも)真の保守派はいない、いるのは卑しい市場原理主義者と愚劣な右派的ポピュリストだけだ、ということになってしまいました。

著者はコミュニタリアン(共同体主義者)として、上記の(通俗的)「保守派」批判の後、リベラル派をも批判し、それを超える視点を以下のように示す。

リベラル派がしばしば主張するのは、共通善の政治は、特定の忠誠、義務、伝統に頼らざるをえないため、偏見と不寛容への道を開くということだ。現代の国民国家はアテネの都市国家ではないと彼らは指摘する。現代の生活の規模と多様性のせいで、アリストテレスの政治倫理は、よくて郷愁をそそるもの、悪くすれば危険なものになってしまった。どんなやり方にせよ、善の構想によって統治を行おうとすれば、坂道を転げ落ちるように全体主義へと誘い込まれる可能性が高いのである。

コミュニタリアンの反論は次のようなものだが、私はこの意見が正しいと思う。すなわち、不寛容が蔓延するのは、生活様式が混乱し、社会への帰属意識がゆらぎ、伝統が廃れるときだというのだ。現代において、全体主義への衝動は、確固とした位置ある自己の信念から生じているわけではない。そうではなく、ばらばらにされ、居場所を失い、フラストレーションを抱えた自己の困惑から生じているのだ。こうした自己は、共通の意味が力を失った世界で途方に暮れているのである。ハンナ・アーレントはこう述べている。「大衆社会の存立がこれほど難しいのは、そこに含まれる人びとの数が多いからではない。あるいは少なくとも、それが主要な原因ではない。人びとのあいだを埋める世界が、彼らをまとめ、結びつけ、また引き離す力を失ってしまった事実が原因なのだ」。公共生活が衰退するかぎり、われわれは共通の充足感を徐々に失い、全体主義を解決策とする大衆政治に陥りやすくなる。共通善派の権利派に対する反論は以上のようなものだ。共通善派が正しいとすれば、われわれにとって喫緊の道徳的・政治的課題は、わが国の伝統に内在するが現代では姿を消しつつある、市民共和制の可能性を蘇らせることである。

リベラリズムは、善に対して正を優先し、道徳的宗教的中立を保とうとする。

それに対して、狭く単純な意味のコミュニタリアニズムは、共同体の多数派の価値を法制化することを正当と見なす立場だが、著者のそれは、社会の中の多様で異なる信念・価値観の対話を重視する熟議型の相互尊重を目指すものだという。

その例として、本書では言論の自由とヘイトスピーチの問題が論じられている。

ホロコーストの犠牲者遺族が多く住む地域でのネオナチ集会と、人種差別主義の強い南部でのキング牧師の集会という、両極端の集まりがもたらす混乱に対して、国家と社会はどう対峙すべきか。

リベラリストは形式的観点から両方の自由を認め、(通俗的)コミュニタリアンは双方を認めないとするしかない。

しかし、その言説が何を推進し、何を目的としているのか、それが共同体の善にかなうのかを論じなければならない、ネオナチのヘイトスピーチと人種間の平等を説くキング牧師の演説は価値的に同じではない、それについてどれほどの困難があろうとも冷静に熟慮しながら議論を重ねていき、それを行動の原則とするしかないというのが著者の立場。

面白い。

『これからの正義~』を読んで、著者についてもっと読みたいという場合は、本書を勧める。

続刊の『それをお金で買いますか』(早川書房)が、立ち読みしたところ、もう一つ食い足りない印象があったので。

アメリカ的限界があっても、自由民主主義を前提とせざるを得ない以上、著者のコミュニタリアニズムはあの国の中で最も良心的な思想だと思います。

WordPress.com Blog.

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。