万年初心者のための世界史ブックガイド

2014年1月29日

ウィリアム・シェイクスピア 『マクベス』 (新潮文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 05:04

年が明けてから、更新頻度は上がったものの、一部を除いて、やたら短くて内容が薄い記事ばかりになり、ブログ自体「万年初心者のための世界文学ガイド」の観を呈していますが、まあいいじゃないですか。

さて、これも四大悲劇のうちの一つで、非常に有名だが・・・・・。

うーん・・・・・。

もう一つ。

四大悲劇で最も密度が高いとの評価もある作品らしいが、あんまり面白くない。

野心家の武将が欲得に目がくらみ、卑劣な簒奪行為に手を染め、ついには破滅する様を描く。

私には正確な価値が理解できない。

それと、どうも福田恆存氏の翻訳が合わない。

福田氏は、『日本を思ふ』『日本への遺言』西部邁『思想史の相貌』を読んで、思想家としてはこれ以上ないほど尊敬している方なんですが、新潮文庫収録のシェイクスピア翻訳は、格調が高すぎるのか、私にはどうも読みにくく感じてしまう。

気のせいかもしれませんが、シェイクスピアには本当に多種多様の翻訳があるので、自分に合ったものを探して、その版で読むのがいいでしょう。

これで四大悲劇は一応全部読んだか。

四大悲劇と『ヴェニスの商人』、そして史劇のうち、『リチャード三世』あたりを読んでおけば、「シェイクスピア? ああ、ほとんど読みましたよ」という顔をしていても、まずバレないと思います。

2014年1月27日

ウィリアム・シェイクスピア 『リア王』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 12:53

恩知らずの娘たちの甘言に騙され、唯一誠実な娘を信じなかった老王の悲劇を描いた作品。

全然面白くないわけではないが、『オセロー』に比べるといまいち。

自分にはあんまり合わない作品でした。

まあ、私には理解できないだけで、作品の価値はすでに歴史の中で十二分に認められている古典ですから、とりあえずこなしただけで良しとします。

こういう著作は読了しただけで価値がある。

そう考えて、次に行きます。

2014年1月25日

アリストパネース 『女の平和』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 08:29

古代ギリシアの喜劇作家アリストファネスの代表作。

「戦争を続けるばかりの男たちに対して、女たちがセックス・ストライキを敢行し、戦いを止めさせる」という粗筋は高校世界史でも出てくるし、これがペロポネソス戦争中に上演されたことも知ってる人が多いでしょう。

実際読んでみたら、これは面白い。

これはわかる。

読みやすい。

ラストがやや唐突で盛り上がりに欠けるかと思うだけで、現代に読んでも充分通じる面白さ。

古典古代の戯曲では、悲劇よりも喜劇の方が読みやすい。

悲劇は何と言うか、雰囲気が今と違いすぎて、シェイクスピアのようにはスラスラと読めない。

これだけ有名な作品で、しかも内容がわかりやすいんだから、是非こなしておくべき。

強く勧める。

2014年1月23日

ウィリアム・シェイクスピア 『オセロー』 (ちくま文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 07:02

四大悲劇の一つ。

これは、すごい。

一読して衝撃を受ける。

もっとも後味は最悪である。

誹謗と中傷というものが、この世でも最も厭うべき根源的悪であることを示している作品。

人間を人間たらしめている言葉というものを、確信犯的に悪用したとき、どれほど醜悪な悲劇が訪れるかを迫真の筆致で描いている。

中傷者のイアーゴーのおぞましさに寒気がする。

人間の持つ負の側面を真正面から見つめ、この作品を書いた著者に混じり気の無い尊敬の念を覚える。

素晴らしい。

傑作。

自分のような文学的素養に乏しい人間でも、この作品のすごさは感じ取れた。

是非勧める。

2014年1月21日

ドストエフスキー 『貧しき人々』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 07:39

ドストエフスキーの処女作。

貧しい小役人と不幸な少女の間の書簡体小説。

哀歓と切なさに満ちた佳作という印象。

それほど長くないし、この大作家の入門としてはいいんじゃないでしょうか。

もちろん知的体力のある人は後期の諸大作に即取り組んでもいいですが、ドストエフスキーの場合、主要作品を刊行順に読んでいくのも面白い。

間違いなく、それだけの労力をかけるに値する作家でしょうし。

2014年1月19日

ソポクレス 『コロノスのオイディプス』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 13:15

タイトル通り、これも『オイディプス王』の続き。

テーマは『アンティゴネ』と同一なのか。

まあ普通に読めるし、深遠な真理を語っているのかも、と少々思えなくも無い。

でも書くことが無いのは同じ。

とりあえず読んだという事実は作ったので、次行きます。

2014年1月17日

ソポクレース 『アンティゴネー』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 15:56

『オイディプス王』の後日譚。

政治など俗世の論理を超えた、人間の根本的倫理の大切さを述べた作品、なんてまとめ方は正しいのか?

えー、まあそんな話です。

楽に読めるが、私程度の読者には書くことが無い。

これも特に面白くはないが、読んで損することはない。

損したと思ったら、そう思わせる自分の感性の方を疑いましょう。

こういう古典は、数をこなしただけでも良しとすべき。

それが自信になって、次を読む意欲が出て来ます。

2014年1月9日

服部龍二 『日中国交正常化  田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦』 (中公新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 15:32

著者の作品では同じ中公新書で『広田弘毅』を紹介済み。

1972年日本と中華人民共和国との国交正常化を成し遂げた田中角栄首相、大平正芳外相の政治決断を描く。

1945年日本を敗北させた米国は、アジア政策の重心を蒋介石政権の中華民国に置き、中国は米英ソと並んで「四人の警察官」として国際社会で中心的な役割を果たすものと構想されていた。

それが、米ソ冷戦の進行および中国の国共内戦再発と国民政府の敗北、中国大陸全土の共産化という事態によって、根本的に破綻する。

1949年中華人民共和国成立当初、米国は硬直した敵視や封じ込め政策は採らず、むしろ外交関係調整と中ソ離間策(「中国のチトー化」[1948年にユーゴスラヴィアはコミンフォルムから追放されたが、チトー政権は崩壊せず存続し続け、対ソ自主路線を歩むことになった])を追求しようとしていた。

1950年には同盟国イギリスが中華人民共和国を承認する。

しかし、同年朝鮮戦争が勃発、それが事実上の米中戦争に発展した結果、以後20年間続くアジアにおける米中対立が始まる。

以後、米国は台湾に退避した国民政府を支持・防衛する政策を採り、国連における「中国」の代表権と常任理事国の地位も蒋介石政権が保持し続けることを主張し、それを押し通す。

共産政権への警戒は当然だが、中国共産党の大陸支配を認めず、実現する見込みの全く無い「大陸反攻」を唱える国民政府を支持し、中華人民共和国の存在を無視し、通常の外交関係すら持たないという政策は、明らかに無理があった。

米国は戦後同盟国となった日本にも、同様の政策を採ることを強く要求し、1951年サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約調印の翌52年、日本と台湾国府間に日華平和条約が結ばれる。

(サンフランシスコ講和会議には中国・台湾双方が招かれず。英国は中共、米国は国府の出席を主張して意見が一致しなかった。ちなみに、この大陸政府[もしくは中国共産党]を「中共」、台湾の蒋介石政権を「国府」と呼ぶ言い方もある時期までの独特のもの。私が物心ついた頃にはもうすでに死語になってましたが、このブログでは「中共」は時々使っています。)

日本と中華人民共和国の関係調整に当たって、中国はこの日華平和条約が「不当・不法」であり「最初から無効」と主張したのに対し、日本はそれに反対、これが両国間の対立の焦点となる。

これが原因で、双方の主張に配慮した結果、72年の正式な外交関係樹立が「国交回復」や「国交樹立」ではなく、「国交正常化」という名称で呼ばれるようになった。

(1956年日ソ共同宣言の結果は、「日ソ国交回復」でよい。)

1964年1月、対米自立外交を掲げるド・ゴール政権のフランスが、英国に続き中華人民共和国を承認するが、安全保障上や経済的に対米依存度の高い日本はそのような政策を取れず、同年11月成立した佐藤栄作政権下でも、日中の外交交渉は停滞し続ける。

日中戦争に対する贖罪感や親社会主義的傾向から、この中国問題は日本国内の左翼勢力の格好の宣伝材料および自民党政権への攻撃手段となってしまった。

そうするうちに、アメリカは1965年以後のヴェトナム戦争介入という大失策を犯し、中国は66年に始まる文化大革命による国内混乱に、69年国境紛争によって戦争の危機さえ帯びるようになった中ソ対立、65年インドネシア9・30事件によるスカルノ政権凋落、アルジェリア・クーデタによるベン・ベラ政権崩壊と第2回アジア・アフリカ会議流産などの外交敗北が重なり、米中両国が国際的威信と国力を低下させる。

ソ連という「共通の敵」に対する懸念を媒介として、ついに米中両国の秘密交渉が始まり、それが1971年7月ニクソン政権の大統領補佐官キッシンジャー訪中に繋がる。

それまで米国の中国政策に追随せざるを得なかった日本にとっては驚天動地の出来事であり、(経済面でのドル固定相場制放棄と合わせて)ニクソン・ショックと呼ばれる。

なお、この米中接近を仲介した国としてパキスタンにやや注目。

分離独立後、パキスタンはインドと激しく対立。

中立主義路線を採りながら、インドはソ連にやや接近、中国とは国境紛争を起こす。

パキスタンは「敵の敵は味方」の論理から中国の支援を得て、同時に親ソ的なインドへの対抗勢力として米国の援助も受けた結果、冷戦と米中対立の期間でありながら、例外的に米中両国と友好関係を持つ国となっていた。

パキスタンは、アイゼンハワー政権下ダレス外交で成立した、東南アジア条約機構(SEATO)・中東(バグダード)条約機構(METO)・中央条約機構(CENTO)の加盟国だったことにも注意(これらの同盟網は実効性はほとんど無かったが)。

71年10月第三世界諸国の支持で中国国連代表権が交替、台湾国民政府は国連を追放され、中華人民共和国が国連に加盟、安保理常任理事国となる。

翌72年2月米大統領ニクソンが中国を訪問、米中共同声明(上海コミュニケ)を発表(ただし正式国交樹立はカーター政権下の79年)。

72年7月、窮地に追い込まれていた佐藤長期政権は退陣、田中角栄内閣が成立、外相は大平正芳、この二人が9月25~30日に北京を訪問して日中交渉を行うこととなる。

サブプレイヤーとしては、法眼(ほうげん)晋作外務次官、中江要介アジア局外務参事官、橋本恕(ひろし)アジア局中国課長、高島益郎(ますお)条約局長ら。

この72年は毛沢東・周恩来の晩年にあたり、両者は76年に死去している。

対日外交が極めて頻繁に中国の国内闘争と関連し、利用される傾向があることを考えると、絶対的権威者の毛とそれを支える実務能力抜群の周が健在なうちに正常化を果たしたのはとりあえず良かったと言えるか。

鄧小平体制下で行われたとしても、あるいは不測の事態があったかもしれないと思わせるものがある。

中国が以前から主張していた「復交三原則」は、1.中華人民共和国が中国の唯一の合法政府である、2.台湾は中華人民共和国領土の一部である、3.「日蒋条約」(日華平和条約)は不法であり破棄されなければならない、というもの。

交渉の結果、日本は、1は承認、2は「中国の主張を理解し尊重する」という表現となり、台湾との民間交流は継続され、3は「1952年の条約はその役割を終え、失効した」と曖昧で日中双方が都合よく解釈できるような形で解決され、9月29日、日中共同声明が出される。

細かな話ですが、日ソ復交時の文書は日ソ共同「宣言」、日中間のそれは日中共同「声明」です。

これは意識して覚えて、混同しないようにして下さい。

頭越しの米中接近で苦杯を舐めさせられた日本だが、中国との正式の国交は米国に先んじた。

サンフランシスコ条約と日米安保体制内での日中正常化が実現し、日米安保反対を主張する日本社会党など親中的左翼勢力は中ぶらりの状態に置かれた。

この共同声明で、中国は日中戦争の賠償請求を放棄した。

高坂正堯氏は60年代の著作『海洋国家日本の構想』で、日本自身の長期的国益の観点から相応の額を払うべきだと書いているし、猪木正道氏の著作集を読むと、賠償を支払わなかったことでかえって中国に日本国民の贖罪感を政治利用される余地を残し、結果的に高くついた、と書かれている。

確かに以後30年近く続いた、対中迎合的な「日中友好第一主義」の跋扈を考えると、対中円借款という形ではなく、戦争賠償を支払った方が良かったと思えぬでは無い。

90年代の末辺りまで続いた偏った親中感情は、同様に偏った反中感情が氾濫する現在を生きている若い方には想像もつかないでしょうね。

しかし、本書によると、蒋介石が日華条約で行ったのと同等の態度を示して威信を保ち、対ソ連携と近隣関係の安定、国内の経済建設を最重要視する視点から、日本に戦時賠償を求めないという中国側の交渉姿勢は完全に固まっていた、もし賠償の可能性を日本から申し出ていたら、その事実だけで毛・周と言えども後世中国人の怨嗟の的になりかねず、中国指導層の面子を潰すことになったかもしれなかった、よって日本側としては有り難く受け入れるしかなかったとの評価を下している。

なお、田中首相のスピーチで、戦争中に日本は中国に「ご迷惑」をかけたとの表現が、中国語に翻訳した場合軽すぎるとして問題になった。

このスピーチを執筆した橋本恕氏は以下のように語ったとのこと。

「戦争が終わって、ずいぶん経っているしね。日本が敗戦国で、中国が戦勝国だということは、みんな理屈ではわかっている。けれど日本人の大多数はね、その当時も現在も、アメリカと戦争して敗けたのだと思っている。中国と戦争して敗けたと思ってないのだよね。日本軍が中国にひどいことをしたと率直に認めなければならんけれどもね。しかし、日本民族の矜持をなんとしても保てる努力がしたい。そういうつもりで書いているものだから、大平外務大臣も、田中総理も、まったく修正しなかった。」

橋本氏については、以前から名前だけは知っていて、中江要介氏と並んで、「ベタベタの親中派」というイメージしかなく、あまり好意を持っていなかったのですが、「この人でもそういう発想をするのか」と少々驚いた。

いやむしろ、中国・韓国などある特定の国家と民族に対して、呆れるほど単純で脊髄反射的な敵対心や憎悪を垂れ流し、他者を口汚く罵るしか能が無い、「愛国者」や「ナショナリスト」を自称する見下げ果てた下賤な愚か者に比べれば、こういう人の「愛国心」が尊いものにすら感じられる。

著者は、スピーチ全体としては戦争についての謝罪の意志があったのは明らかであり、日本国内の右派勢力への配慮も必要だったこともあり、これを問題視していない。

そして結論として、田中の決断実行型、大平の熟慮調整型のリーダーシップを称えている。

で、その後、私が書いたノートには以下のようなことが書いてある。

「外務省で非主流派となった岡崎久彦は当時の日中交渉が中国ペースで、国内の親中世論の影響を受けすぎている、対ソ戦略上、日中国交をより強く求めていたのは中国側だったのだから、日本はより台湾を重視する政策を貫けたはずだと、日中国交正常化20周年頃に書いているが、それが現実的に可能であったかは疑わしい。」

これ、たぶん本書に書いてあったことだと思うんですが、もしかしたら自分の意見のつもりで書いたのか?

情けないが、どっちかわからない。

本書が手元に無いので確認できない。

岡崎氏の意見はかなり前から知っているので、自分がそう思った可能性も無いでは無いが・・・・・・。

たぶん本書の最後の方にあった記述を写したんだと思います。

なお以下、例によって、主流の世論と全く異なるのはもちろん、ほんのわずかいると思われる、このブログの定期的閲覧者の方にもほとんど誰一人同意して頂けないような意見を書きますので、鬱陶しい方は無視して下さい。

90年代を通じて、歴史問題で中国(および韓国)側に偏した主張が大々的に取り上げられ、閣僚が「問題発言」で辞任したりするのを、私は本当に苦々しい思いで眺めていました。

それが98年の江沢民訪日辺りから、中国側の余りに傲岸な態度が反発を買い、世間の風潮が変わり始めたのを見て、やっとまともな中国観が形成されつつあるのかと思いました。

しかし世論というものは、どんな問題についても、適切なバランスで穏当な位置に留まるということがなく、必ず極端から極端に走るもののようです。

今の日本の対中感情は明らかに異常です。

中国社会の暗部や否定的側面を、嬉々として、面白おかしく、嘲笑的に(としか思えない)報じる新旧メディア、それを「娯楽」として楽しむ大衆。

地震などの天災に際してさえ、中国人の犠牲者に対して哀悼と同情の念を充分表明する前に、「被災者が政府の対応への不満を募らせている」式の報道で、「中国社会の欠陥」を言い立て、暗に自国の優位性を誇示し、自己慰安に耽る。

阪神大震災や東日本大震災での一部海外メディアの報道に心底嫌気がさしていたが、自国のメディアが同じことをしているのを見ると、何とも言えない気分になります。

ネット上ではもっと下劣な発言も溢れているが、日本の地震を喜ぶ反日中国人とどこが違うんですかと言いたい。

中国・韓国の反日活動に反発しているうちに、自分たち自身がそれと同レベルに落ちて、相手方と低劣さの「底辺への競争」をしているといった状況にすらなりつつある。

一方、最近のテレビやネットを見れば、「日本が大好きな(中韓以外の)外国人」のオンパレード。

私にもそういう現象を喜ぶ気持ちはもちろんあるが、しかしここまで氾濫すると正直言って気持ち悪いです。

「集団的な自己満悦」特有の退廃を感じる。

(いちいち言うまでも無いでしょうが、極論に煽動され、間歇的に狂気じみた反日言動を繰り返す中韓両国の国民も、日本国民と全く同様に、頭がどうかしてます。他人におかしなレッテルを勝手に貼って、「論破」したイメージを捏造する、卑怯で下劣な愚か者がネット上には腐るほど存在しているので、念のため付け加えておきます。)

「愛国心」や「ナショナリズム」もずいぶんお手軽になったもんです。

それを成り立たせているものが、「少数者による義務・規範意識」から「多数者の自己満悦・自己慰安」に決定的(かつ致命的)に移行してしまった観があります。

一昔前なら、左翼的たわ言を述べていたような、程度の低い多数の人間が、時流に乗って右派を自称するようになっただけでしょう(私自身も九割九分九厘九毛そういう程度の低い人間であることは否定できませんが。残りの一毛で何とか自覚をして、自己批判の気持ちを十二分に込めてこの文章を書いているだけです)。

左翼に属することは、右翼に属するのと同様、人が愚かになるために選択しうる無限にある方法の一つである。つまり、両者はあきらかに、精神的半身不随の形態である。その上、こうした呼び方を固執していることが、それ自体がすでに偽りである今日の実情を、なおいっそうゆがめるのに少なからず貢献している。

オルテガ『大衆の反逆』より)

という文章の意味がようやくここ6、7年でわかってきました(あまりにも遅すぎましたが)。

結局、愚かで醜い多数者が、昔は左翼を自認して正気の少数者を「右翼」と罵り、今は右翼を自称して穏健な少数者に「左翼」とレッテルを貼って罵詈讒謗を加えているだけです。

現在の「右翼的」主張によって何か破滅的事態がもたらされれば、匿名の衆愚世論は何の反省も無く、自己の責任を感じることも一切無く、そして何の罰も受けることも無く、また正反対の主張をヒステリックに喚きたて、目に付いた少数者をリンチにかける快感に酔うでしょう。

相手側に無原則な一方的譲歩を繰り返すことも、逆に思慮分別もなく脊髄反射的な強硬論一本槍を貫くことも、外交において共に避けるべき愚行だということが、粗雑で感情的な議論しかできないくせに数を嵩にきて自身の幼稚な意見を押し通そうとする連中にはどうしても理解できないようです。

前者を主張して「保守反動」を罵ったかつての左翼も、後者を主張して「売国奴」を罵っている現在の(自称)「愛国者」(というかただの醜い右派的ポピュリスト)も、国家にとって有害無益な存在であることに変わりはない。

自分がまさかこんな意見を持つようになるとは15年前、あるいは7、8年前でも夢想だにしませんでした。

私が変わったことは間違いありませんが、それより世間の方が極端から極端にブレ過ぎです。

ある特定の民族や国家への敵対心や差別意識を煽れるだけ煽り、それが近い将来どんな結果をもたらし、国がどうなろうとも、今現在部数や視聴率やアクセス数が稼げればそれでよいと構える新旧のメディア関係者、何の懐疑心もなくそれに乗せられてますます極端に感情的で幼稚で粗暴な言動を採る一方になる国民、それに少しでも反対する人間には「反日」「左翼」という馬鹿の一つ覚えのレッテルを貼り、集団リンチに等しいような下劣な誹謗中傷と揶揄嘲笑を浴びせて卑しい笑いを浮かべる輩を見ていると、「ああ、戦前もこんな感じで国が滅んだのかな」と感じます。

少しでも多くの、そして良質の知識に触れ、自分の意見をより良いものにしていく努力をするという、ごく当り前のことをしようとせず、断片的で浅薄で偏った情報のみを鵜呑みにし、それ以上の知見を得る努力を最初から放棄し、一端の評論家気取りで、本当はわかりもしないことをわかったつもりになって、表面的な多数派の意見に脊髄反射的に盲従し、群集心理に駆られて、冷静で穏健な反対者を口汚く罵ることで卑しい快感を得て、偉そうな綺麗事を並べつつ、実はそういう下劣な嗜虐心を動機として異様なほど攻撃的な言動を繰り返す、本来言論の自由など享受する資格の無い、底無しの愚者がますます増え、社会を埋め尽くしつつある。

それでいて、「戦前は非民主的な体制のせいで戦争になったけれど、今の日本は民主的な国だから大丈夫だ」なんてほとんどの国民は考えてるんですから、もう絶望を通り越して、嗤うしかない。

近い将来、何か破局的事態が起こったとしても、それはデマゴーグに煽られるままになった国民自身の責任であり、そうした国民に自由と権利を与えることを絶対的に正当視する民主主義という考えがもたらしたことです。

ですが、それが自覚されることは決して無いでしょう。

真の原因が自覚されず、表面的な(それもしばしば誤った)原因だけが問題とされるのですから、もう国家が完全に滅びるまで事態は止まりません。

それが近代の宿命だと言えば、それまでですが、そうした愚行を少しでも避ける点において、日本および中国・韓国といった東アジア諸国は平均的に見て他の地域(特に英国を中心とするヨーロッパ[北米は違う])に比して明白に劣っているように感じられるのは残念至極です。

「自由と民主主義の価値観を共有する日米両国が協力して、共産党独裁の非民主的な体制を持つ中国を封じ込めて屈服させる」というシナリオが、昨今の日本の「保守派」のお気に入りのようです(私も昔そう思っていた時期がありました)。

しかし、今の中華人民共和国は、全人民の絶対的平等と特権階級の完全な抹殺、人民に対する全ての伝統的拘束の廃絶を高らかに謳いあげた中国共産党が、国民の狂信的支持を受けて成立した体制のはずです。

共産主義者は、実質的な真の自由と民主主義を未来永劫確立するという目的のために、暴力革命と独裁が(一時的に)必要だと主張したわけです。

つまり、共産主義は自由民主主義の単線的発展上にある思想に過ぎない。

共産党が「手続き的な民主主義」を廃絶したことをもって、「非民主的」との非難を浴びせるのは表面的である。

なぜなら、そうした民主主義の自己崩壊を、圧倒的多数の民衆が容認し、支持したからこそ、革命が成就したのだから。

共産主義・社会主義を自由民主主義に反するという理由で批判するのは、論拠としては極めて薄弱である。

むしろ真に共産主義を否定しようと思えば、その源泉とも言うべき、自由民主主義の理念自体を否認しなければならないはず。

「共産党政権が倒れ、中国社会の民主化が実現すれば、日中はもっと分かり合える」との意見もあるが、私は全くそう思わない。

共産党の支配が緩んだ後の中国の姿は、現在すでにその兆候が現れているように恐ろしいほどの社会的混乱と衆愚による狂信的世論の跋扈である可能性が高い。

そして、その醜い社会の有様は、日米などの民主主義国家と、程度の差はあれ、完全に同質のものです。

そう考えれば、「非民主的な中国に対抗する民主的な日米同盟」との構想は、思想的には底が抜けてます。

さらに、現実政治上でも、日本が日米同盟を嵩に来て硬直した対中外交を継続し、反中政策を自己目的化した場合、「日中間には、何があっても、根本的な和解はもちろん部分的な連携もありえない、日中の反目は半永久的に続く」とアメリカが見なし、しかも日本には自主防衛の覚悟も能力もなく、ただひたすら対米追従路線を続けるしかないと見透かされたならば、それはむしろ米国が核兵器を持つ中国と正面対決し戦争の危険を冒すのを避け、日本の頭越しの米中両国の談合とアジアの分割支配に向かう誘因にすらなりかねない。

(前年末、尖閣国有化による日中関係悪化後に行われた、米国の世論調査で、有識者と一般市民の双方で日米安保維持への支持が急落し、アジアにおける最重要のパートナーとして挙げた国で、中国が日本を逆転したと報道されたが、私にはこれがその不吉な前兆のように思える。)

ロシア・インド・オーストラリアなどの諸国と連携した対中包囲網についても同じです。

日中関係が何をしても改善できない程の最悪の状況となれば、露印豪は対中包囲政策を日本に高く売りつけることができるし、さらに日本に別の選択肢が無い以上、いつでも自国の都合次第でそれを緩め、自ら適当と思う程度まで中国と部分的な接近を図ることもできる。

「いや、アメリカは長年の同盟国の日本を決して見捨てない」「露印豪などの諸国でも反中感情が高まっている」という「現実主義者」には、旧敵国の善意とお情けにこれほど哀れっぽく縋る「リアリズム」とは一体何なんですか、「国民感情」が国際関係に大きな影響(往々にして負の影響)を与えることは事実でしょうが、それだけを過大評価して国策を決定するというのは、外交を子供の喧嘩か何かと勘違いしてるんじゃないんですか、と言いたいです。

中国に一定の警戒が必要なのは、いちいち言うまでもなく、当たり前の事です。

しかし現在の余りに単純な反中世論は、中国脅威論・中国敵視策が自己実現的予言となった場合、それがどんな危険をもたらす可能性があるのかを真摯に考慮しておらず、政策決定の基準を日本の安全と国益にではなく、敵対意識の発散に置いているように思える。

コンパクトで読みやすい。

史実の評価も穏当で信頼できる。

前世紀末までの能天気な親中感情の裏返しのような、昨今の陰湿な反中感情の解毒剤としても有益。

安心してお勧めできる良書。

2014年1月7日

ソポクレス 『オイディプス王』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 16:07

ソフォクレスの代表作で、ギリシア悲劇の中での最高傑作とも言われる作品。

粗筋は非常に有名であり、一般常識としても知っておくべきレベル。

感性の鈍い私では、強い感銘を受けるというところまで行かなかったが、その価値の一端には触れることが出来た気がする。

あまり興味の無い人でも、教養の一部として読了しておくべき本だと割り切って、手に取ってみましょう。

2014年1月5日

ウィリアム・シェイクスピア 『ヴェニスの商人』 (白水社uブックス)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 16:03

これも、極めて著名な作品。

分類としては喜劇か。

ものすごい大雑把な粗筋だけは知っていたが、実際読んだことはなかった。

で、この度読んでみました。

面白い。

非常に面白い。

話の展開がスリリングで、ぐいぐい引き込まれて、古典的作品ながら全く退屈しない。

ユダヤ人商人シャイロックが悪役として登場し、当時の庶民の反ユダヤ感情が垣間見れるが、一方そのシャイロックが雄弁に自己の主張を述べ立てるシーンもあるし、実際後の時代にはシャイロックを主人公格にした大胆な演出も行われたそうである。

これもいいです。

古典的作品だからといって、気後れする必要無し。

初心者でも充分読める。

楽しく、わかりやすい作品。

お勧めします。

2014年1月1日

ウィリアム・シェイクスピア 『ハムレット』 (白水社uブックス)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 01:19

ものすごーく久しぶりに新規カテゴリを作って何をやるのかと言うと、自分のあまりの無教養ぶりにさすがに嫌気が差してきて、せめて高校世界史の教科書に出てくるような文学書に出来るだけ触れてみようと思ったわけです。

ただし、詩は、叙情詩はもちろん叙事詩もわからないので基本除外して、小説と戯曲を中心に、学生時代読んだものの再読も含め(ものによっては再読しないで記事にする可能性がありますが)、こつこつやっていくつもりです。

それで、まず第一弾がこれ。

誰でも知ってるシェイクスピアの代表作。

大学生の頃、一度読んでいるのを、この度再読。

戯曲なので短いし、文学など全く読んだことがないという人でも読みやすく、筋を追うのは全く問題ない。

母親の不義に絶望し苦悩する王族青年が、父の復讐を果たし、結果登場人物のほとんどが死んでしまうという粗筋は、まあ一般常識の範囲内ですから、こんな機会にでも一読して、知っておくべきでしょう。

私の能力では、ものすごい感動と衝撃を受けたとかいうことはないが、まあまあ面白いと感じることはとりあえずできました。

文学に触れる初回としては、これくらいの感じでいいんじゃないでしょうか。

なお、近日中に、これまでこのブログで歴史小説あるいは史劇として記事にしてきたシェイクスピア『ジュリアス・シーザー』プーシキン『大尉の娘』などを、「文学」カテゴリにも登録し、書名一覧のテーマ的カテゴリの中に新設する「文学」の部分でリンクを作成しておきます。

その場合、リンクの並び順は、記事更新順ではなく、著者の(大雑把で、かつ同時代の国籍[言語]は一つにまとめた)時代順にするつもりです。

なお、「文学」カテゴリに入れる既存記事は、上記2点のように古典的な外国の作家に限り、(主に日本人の)現代作家の手に成る歴史小説は入れません。

例外として、シュテファン・ツヴァイクの『マリー・アントワネット』『ジョゼフ・フーシェ』などの伝記文学は、著者の文学的想像力の産物が多く含まれているんでしょうが、表面上かつ形式的にはノンフィクション的作品とも見なされるので、「文学」カテゴリには入れないつもりです。

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