万年初心者のための世界史ブックガイド

2013年12月18日

戦前昭和期についてのメモ その8

Filed under: おしらせ・雑記, 近代日本 — 万年初心者 @ 05:47

その7に続き、福田和也『昭和天皇 第五部』(文芸春秋)の記事。

1941(昭和16)年。

3月米武器貸与法、4月日ソ中立条約、6月22日独ソ戦開始、7月関東軍特別演習(関特演)、7月第3次近衛内閣(第2次内閣に引き続いての組閣)、同月南部仏印進駐、在米日本資産凍結・対日石油輸出禁止、8月大西洋憲章、日米交渉、10月東条英機内閣、12月8日真珠湾奇襲攻撃、日米開戦、独伊対米宣戦。

1月「戦陣訓」が東条英機陸相より示達。

日清・日露とは桁違いの不祥事が戦場で頻発したため出された、軍人勅諭を補足する道徳訓であり、「生きて虜囚の辱を受けず」の部分は主旨ではないとのこと。

これほど悪名高い事例においても、民衆は一方的犠牲者ではないんだなと感じた。

世界では、米国が武器貸与法によっていよいよ孤立主義から脱却し、本格的な英国支援に向かう兆しを見せる。

またバルカンでの勢力争いをめぐって、水面下で独ソ関係が急激に悪化しつつあるのに、第2次近衛内閣外相松岡洋右は4月日ソ中立条約を結ぶ。

しかしそのわずか二ヵ月後にヒトラーはソ連に侵攻し、独ソ戦が始まる。

日独間には、何の戦略のすり合わせも政策協調も無い。

実質両国は全く単独行動を取りつつ、ただ相手を可能な任意の時に利用しようとしていただけである。

7月の南部仏印進駐と、前年行われた北部仏印進駐とは、もたらした結果とその意味合いは桁違いに異なったものになった。

このことはしっかりと意識しましょう。

以前も書きましたが、満州国を越えて中国本土にすら支配権を拡張する日本と対決する意志を蒋介石に固めさせたことをもって、華北分離工作と冀東防共自治政府成立が日中戦争勃発の「ポイント・オブ・ノーリターン」だったというのと同様に、この南部仏印進駐が太平洋戦争の直接的・短期的第一原因だったという見方があることに注目。

南部仏印進駐によって、ルーズヴェルト米政権は、日本の軍事的膨張が止めどないものであると認識し、それを防止するため対日戦も辞さずとの決意を完全に固めてしまった。

日本としてはさしたる決意も覚悟も無く、北部進駐に続き、資源確保の目的での南部進駐だったが、米英の受け止め方は全く異なり、英領マレー・シンガポール、蘭領東インドに対する攻撃の前段階と見なされた。

その結果が在米日本資産凍結と対日石油禁輸。

日露戦の日本海海戦があった20世紀初頭と違って、世紀半ばのこの時期には海軍艦艇の燃料は全て石油になっている。

世界第三位の規模を誇り(実質的戦闘力では、空母戦力の充実を考えると英海軍を抜いて二位と言ってもよいのではないかとさえ思える)、日本の国力の中核部分を成していた帝国海軍の戦力が、一気に無力化されかねない状態に置かれる。

前回記事でも指摘したように、この時期の日本が絶対に守るべきだった国家戦略は「とにかく時間を稼いで中立状態を維持し形勢を展望すること、軽挙妄動せず、決定的措置を採らず、負ける側にだけは絶対につかないこと」だったはず。

それが対日石油禁輸で、開戦への導火線に火が点いたというか、時限爆弾のスイッチが入ったというか、断崖絶壁に追い詰められたというか、ダモクレスの剣が常に頭上に吊るされた状況というか、とにかく政策決定にとてつもない制約が課され、日本の指導層に異常な心理的プレッシャーがかかる状態になる。

そしてついには俗に「ジリ貧避けて、ドカ貧」と呼ばれる、対米宣戦という選択肢を選んでしまう結果となる。

以後の日米交渉で、日中戦争をめぐる根本的妥結はどの道難しかったとしても、せめて日米関係を南部仏印進駐前に戻す暫定協定案が成立しなかったことは、本当に痛恨の極みです。

それさえ成立していれば、まだ冷静に世界情勢を見る時間を稼げたのに。

事前に石油禁輸は戦争を意味すると大々的に宣言して、米世論に釘を刺していれば、この期におよんで孤立主義の雰囲気の強かった米国内の分裂を誘い、ルーズヴェルト政権の行動を制約することが出来たかもしれないし、また開戦が避けられなかったとしても、それに至る経緯が上記の通りだったならば、ヒステリーじみた反日世論の勢いも少しは静まり、史実通りの無条件降伏の前に妥協的講和のチャンスがわずかなりとも生じたのではないかと思える。

ともあれ、もうこの時期の米政権には戦争を避ける気はほとんどありません。

「何もせず屈服するのならそれでもいいし、歯向かってくるのならドイツと一緒に叩き潰してやる」という態度。

もう腹が立ってしょうがないが、しかし、日本としてはそこに追い込まれるまでに何とかすべきだったんでしょう。

6月独ソ戦開始直後に、満州では状況次第で対ソ開戦に踏み切るつもりで、いわゆる「関東軍特別演習(関特演)」が行われた。

ここで、「同じ破れかぶれなら、南進して米英とぶつかるより、北進してソ連を叩いた方が良かったんじゃないか」との考えが頭に浮かぶ。

つまり緒戦で圧倒的に優勢だったドイツ軍の尻馬に乗って、41年7月の時点で対ソ開戦を決断し、ソ連という国家を消滅させることを目指すわけです。

十数年にわたり、自国民にありとあらゆる暴虐と残忍を欲しい侭にしていたスターリン体制を打倒することに道義的問題があったとは全く思えない。

そのことは疑い得ない。

しかし、問題はヒトラーという指導者を持つナチス・ドイツと同盟してそれを行う意味です。

以前東京書籍版の世界史教科書『世界史B』の記事で、私は以下のように書きました。

ナチによるユダヤ人への差別・迫害は政権掌握当初からだが、アウシュヴィッツなどの絶滅収容所稼動という最悪の事態が生じるのはあくまで独ソ戦開始以後。

本書を含む教科書でもそのことは読み取れるようになっているが、これは宥和政策などの評価にも係わるので、現場の先生には強調して教えて頂きたいです。

1935年ニュルンベルク法という差別法令、38年「水晶の夜(クリスタルナハト)」という迫害事件などによって、ナチ政権のおぞましい反ユダヤ主義の実態は世界に明らかにされていたが、ユダヤ人を根こそぎ強制連行し、アウシュヴィッツなどで組織的機械的手段で集団的に抹殺する民族皆殺し政策が発動されるのは、独ソ戦開始以後、正確には1942年1月の「ヴァンゼー会議」以後である。

そのことを高校の授業で強調して教えて欲しい理由として「宥和政策に対する評価」を挙げていますが、実は書かなかった理由がもう一つあります。

それは戦前の日本の政策に関わる評価の問題です。

今から見て、たとえ純粋なパワー・ポリティクスの戦略からであったとしても、日本が、戦前から低劣・醜悪な人種主義を国是としていたナチス・ドイツと結んだことは間違った行為であったことは間違いない。

しかし、さすがにホロコーストを知りつつ、それを容認して同盟していたと思われるのはかなわない。

ユダヤ人への集団的抹殺は、第二次大戦の双方の陣営が完全に固まった後で起こったことで、戦時下のこともあり一定の情報が漏れ伝わってくるだけであり、戦前において誰も予想だにしないほど極端で常軌を逸した残虐行為で、戦勝国の側もこれを防ぐために参戦したのではないし、敗戦国である日伊両国もヒトラーがここまで狂っているとは思いもよらず同盟を結んだわけです。

結果として三国同盟は道義的にも重大な過ちだったとする評価には異議は無いが、日本を「ホロコーストの意図的な共犯」とする意見には反論したくなる。

しかし、この時期、日独両国がソ連を粉砕していたら、どうなっていたでしょうか。

ヒトラーの妄想的人種理論によれば、スラヴ民族はアーリア民族に奉仕することによってのみ生存を許される存在に過ぎない。

ナチス・ドイツの勝利は、即ユダヤ人の絶滅とスラヴ人の奴隷化を意味する。

実際の史実では、アウシュヴィッツなどの絶滅収容所を解放したのが、ソ連軍であったことは間違いない。

(東欧諸国の「解放」の場合とは異なり、ここは括弧を付けない文字通りの解放でしょう。[私も含め]ソ連の体制に絶大な嫌悪感[と憎悪]を持つ人間でも、それだけは認めざるを得ない。ただし、農業集団化と大粛清によって1000万人単位で自国民を死に追いやっていたスターリン体制のソ連に、総体としてホロコーストを断罪する資格があったとは思えないが。)

勢力圏を接することになったドイツがおぞましい限りの残忍な人種政策を実施し、その情報が嫌でも伝わって来るのに、日本はただ傍観するのか。

そうなれば、一気に「ホロコーストの実質的共犯者」としての様相が強くなる。

そんな歴史に残る汚名を祖国が着るのは真っ平御免である。

「自国民が300万人以上死ぬよりかはいいだろう?」との悪魔の囁きが聞こえてくる気がするが、やはりこれは何があっても実行すべきではなかった国策だと思う。

加えて、そもそも1941年に日ソ開戦を決断したとして、「本当に勝っていたのか?」という疑問が生じる。

ゴーロ・マンは一応そう判断している。

日本がアメリカではなくソ連に全力を投入したとすれば、恐らくボリシェヴィキ国家は崩壊したであろう。そうだったとすれば、今日の世界は別の様相を呈していただろう。といってもよりよいことはないが、別なことは確かだ。

ゴーロ・マン『近代ドイツ史』より。

確かに緒戦での赤軍の惨敗は、ソ連もポーランド、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランス、ユーゴといった諸国に続いて電撃戦で敗北させられ、崩壊すると思わせるものがあった。

スターリンは、数年後の対独戦を意識していながら、この時点でのドイツの攻撃については様々な情報を無視、赤軍の高級将校を大粛清で抹殺し、自ら破滅的結果を招いていた。

しかし、このような劣悪な政治指導下におかれても、ソ連(ロシア)はその性質上、極めて強靭な一面を持っていた。

ソヴィエト連邦がフランスほどの大きさか、あるいは、その数倍の大きさであったとしても、ソヴィエトの実験は1941年に、事実上、終わっていたと思われる。それゆえ、この体制がスターリンの過ちにもかかわらず生き延びた第一の理由は、ソヴィエト連邦の巨大な面積と膨大な人口が、ほかのヨーロッパ国家なら滅びていたであろう損失を支えることができたのである。ソヴィエト政権は、こうした途方もない犠牲を払って、ついに形勢を一変させることになる過ちをヒトラーが犯すまで、必要な時間を稼いだにすぎなかった。

マーティン・メイリア『ソヴィエトの悲劇 下』より。

前々回記事で述べた通り、中国と同じくロシアのような巨大な大陸国家は基本「拒否力」を持っており、余程の好条件に恵まれない限り、外部勢力がこれを完全に征服することは極めて困難だと思われる。

確かにあの恐ろしいほど広大な国土を考えると、日独が東西から攻め込んでも、シベリアのどこかの地点で、ウラル山脈を越えてきたドイツ軍と沿海州から攻め上った日本軍が邂逅するという光景は想像し難い。

ドイツが勝てるとしたら、ロシア人とその他の諸民族に対して、共産政権とスターリンの暴政からの、真の意味での解放者として接することだったはず。

実際、初期にはソ連軍から大量の投降者が生まれ、一部には対独協力に走る人々も出た。

しかし、それも余りに暴圧的なドイツの占領政策に裏切られ、ソ連国民は「ファシスト・ドイツの残虐さ」についてのみは、政府当局のプロパガンダが真実であったことを思い知らされた。

ヒトラーは、全く愚かにも、軍事的には勝てなくとも政治的には勝てる可能性があった機会を自ら潰した。

敗北が自らの奴隷化に直結すると知ったならば、ソ連国民は自然とスターリンのような残忍な指導者の下にであっても団結せざるを得ない。

当時の日本はさすがにそのような極端に抑圧的な占領政策は採らなかっただろうが、一方で国力的な問題がある。

全くフリーハンドを持った状態で、総力を挙げ、満を持して、対ソ戦に入るのではないわけです。

もう一つの大陸国家たる中国と4年にわたって戦い続け、戦線の泥沼に足を捕られ疲弊し切った状態で、海軍力に比して明らかに国際的に二線級の装備しか持たない陸軍を主力に、日ソ戦争を始めたとして、果たしてどこまで進撃出来たか。

短期間でソ連を屈服させることができなかった場合、さらにもう一つの大陸国家アメリカの影が浮かび上がってくる。

すでに第二次世界大戦が始まり、英独は死闘を繰り広げている。

ドイツと開戦した国はほぼ自動的かつ必然的に英国と同盟関係に入る力学が働く。

ナチス・ドイツを国際社会における最も有害な勢力と定義し、そのために英国支援に動いている米国が果たしてソ連の崩壊を傍観するか。

「ルーズヴェルト側近ニューディーラーらの容共的傾向」なんて陰謀論じみた考えを持ち出さなくとも、日独によるソ連覆滅とユーラシア分割を世界的な勢力均衡への致命的打撃と捉えて、純粋なパワー・ポリティクスの観点から、実際の史実よりもはるかに露骨な挑発行為を日独に行い、何が何でも参戦するという政策が、保守派を含めてアメリカ指導層の一致したコンセンサスになっても、全くおかしくない。

(ちなみに米国がナチを敵視するのはもっともだとしても、それを打倒するためにソ連というもう一つの全体主義国家と同盟しなければならなかった意味を十分には理解していなかったように思える。ソ連との同盟が無ければドイツを破れなかったということは、その勝利に極めて大きな道義的限界を課すものであり、それを厭うならば、西側諸国は軍事的により強くあらねばならなかった、そしてそもそもドイツのような歴史ある文明国をナチのような勢力の手に落としたこと自体が西側諸国にとって深刻な敗北だったとジョージ・ケナンが述べているが、非常に示唆的な意見ではある。その結果、ソ連のような全体主義国家がこの時期の国際政治においてキャスティング・ヴォートを握るような有利な地位を占めてしまったのだから。)

そうなれば、実際の第二次世界大戦と同様の陣営が、同様の戦争を繰り広げただけになってしまう。

いや、日ソ間の戦線が、1945年ではなく41年から、ソ連ではなく日本の側からひらかれていたことだけが違う。

その結果は、赤軍の反撃と日本国土のソ連軍占領、少なくとも国土の東半分の共産化であり、米国の占領下におかれるであろう西日本も完全にアメリカ化され共和政となり、冷戦後の今日も(朝鮮半島がそうであるように)グロテスクな独裁と放埓な衆愚民主主義に祖国が分裂した状況が続くという、ゾッとする展開になったかもしれない。

やっぱり、どう考えても「1941年の対ソ開戦」は決断すべきではない。

あくまで中立を守り、ナチス・ドイツとの関係を有名無実化し、一時的孤立も持さず、形勢を展望し、大勢が明らかになるまで決定的措置を取るべきでは無かった。

日本がそうしているうちに、米国の挑発に耐えかねたヒトラーが、大西洋上で米独戦を始め、米ソ両国に挟撃されたドイツは史実の通り、惨敗を喫する。

国際情勢の激変を受けて、日本国内では軍部の威信が失墜し、政党政治が復活、日中戦争は日本の大幅な譲歩で終結。

そして、これも史実の通り、ドイツの戦後処理と東欧での戦後体制をめぐって米ソ冷戦が始まれば、フランコのスペインがそうであったように、いずれ米国が接近してきて、国際的孤立は解消します(日本の国力と戦略的地位はスペインの比ではないし、中国共産党を西北部で枯死させたであろう蒋介石政権下の中華民国よりも、結局は日本帝国の方が共産主義への対抗勢力として有力で安定した存在であることを米国も認めざるを得なくなったでしょう)。

もちろん、現実性の乏しい空想ではありますが、どうしてそうならなかったのかなあと慨嘆したくなります。

日本が真珠湾を攻撃したのとまさに同時期、12月上旬にドイツ軍はモスクワ正面で撃退され、短期決戦での勝利はあり得なくなった。

・・・・・象徴的にも実際的な意味においても、もっとも重要なことは、モスクワが保持されたということである。なぜなら、これほど中央集権的で、しかも脆弱な体制の首都が陥落すれば、全体制の崩壊を招く可能性がきわめて高かったからである。

マーティン・メイリア『ソヴィエトの悲劇 下』より。

持久戦に入ったならば、もう独ソ戦がどう転ぶか、わからなくなる。

もしその時点まで時間を稼げていたら、ドイツ敗北の可能性が日本の軍と政府の指導層の眼前に浮かび、対米開戦などという選択は余程のことが無い限りできなかったはず。

これがよりによって真珠湾攻撃と全く同時期に起こるとは・・・・・・。

もう戦前の日本は悪魔にでも魅入られていたのか、と思えてくる。

それとも、これが運命だとして諦めるしかなかったのか。

本書の最後の方、開戦直前の首相経験者の重臣会合について、以下の描写がある。

「私は・・・・・」若槻礼次郎が、涙声をしぼった。「勝算なき戦争を開始して、悠久二千六百年の歴史を賭ける気持ちがどうしても解りません」

著者は末尾の後書きで、日米開戦の決断は後世より見れば愚かで馬鹿気たものだが、歴史の曲折を経験しながら結局その選択を受け入れたという事、その意味合いの深さと大きさは単純に裁けないと述べている。

巨視的に見れば、確かにそうかもしれないが、戦後と今日の日本を見ると・・・・・。

帝国という枠組みを何とか残して、自由と民主主義への懐疑をわずかでも持てる体制になっていれば良かったのではないかとの思いは、個人的にどうしても禁じ得ない。

国家に左翼運動を鎮圧された戦前日本の民衆は、右翼革新運動の中に自らの邪悪で低劣な世論を押し通す機会を得た。

そうして、結果として帝国を滅ぼし、民衆の自由に対する一切の束縛を排除した上で、戦後は出鱈目で支離滅裂な左翼思想にのめり込み、再び何度も国家を破滅寸前まで追いやる。

そして左翼思想が完全に破綻するや、十年ほど前から、またもや何の反省も自己懐疑もなく、野蛮・低俗・愚昧・醜悪・卑劣・粗暴、その他何と言っても足りないほど見下げ果てた形式のナショナリズムを喚き立てている。

「多数者による、一方的で無責任で煽情的な政治と社会への批判」という、根源的悪は戦前も戦後も現在も、全く変わることなく一貫している。

自称「右派」が「日中戦争や日米開戦はコミンテルンの策略」といった陰謀論を持ち出すのなら、上記のような民衆の邪悪な潜在的欲求による、一貫した国家破壊の歴史を考慮したほうがいいし、その方がよっぽど説得力のある「陰謀論」ではないですか、と言いたい。

戦前の国粋主義など、民衆による底の浅い無意識の演技に過ぎず、その本質は「一君万民」の理想の名を借りた過激な平等主義運動です。

それによって帝国を滅ぼした後、民衆は、占領下の憲法を受け入れ、華族制度を廃止し、皇室を丸裸にし、頭の単純な勝者に洗脳され、自由と民主主義を教条的に崇拝するようになった。

現在では、大衆は自らの世論こそが唯一絶対の価値判断の基準だとますます狂信し、皇室を「善き自由民主主義国」日本に最後に残った「異物」扱いにし、皇族個人へ陰湿・卑劣・低俗・邪悪な誹謗中傷を加え、それを「娯楽」として愉しんでいます。

もはやこの状況を是正することは全く不可能です。

唯一の希望は、遅かれ早かれ、こんな国は間違い無く滅びるということ、そして不遜と驕慢を極める我々大衆と下賤で汚らわしい煽動家に(それを神罰と呼ぶかどうかは別にして)確実かつ完全な破滅がもたらされるであろうということだけです。

さすがにこれまでの巻の進行が遅いので、話を早めたのか、内容にやや粗さを感じる。

それと月刊「文芸春秋」で連載していた分から、省略があるのか?

ドイツの対仏戦でのマジノ線突破の話が見当たらない。

連載時には軽く目を通していただけだが、たぶん思い過ごしではないはず。

先帝や著名な政治家・軍人だけでなく、小説家・実業家・俳優・芸人・左翼活動家など、驚くほど多様な人びとの視点を積み重ねて、時代を描写するという手法は、非常に読みやすく、面白い。

このシリーズの記事は、特に第四部から、内容紹介は部分的で、自分流の史実の整理と史的評価を中心に記していますので、あまり選書の参考にはならないかもしれませんが、読みやすさは保証します。

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