万年初心者のための世界史ブックガイド

2013年12月9日

戦前昭和期についてのメモ その7

Filed under: おしらせ・雑記, 近代日本 — 万年初心者 @ 08:07

福田和也『昭和天皇 第五部』の記事続き。

いよいよ、日本と世界の運命が決した、1939~41年の叙述に入ります。

この3年間の歴史を読むに当たって、以下のことをお願いしたいと思います。

まず、出来事の年はもちろん、月(場合によっては日も)も記憶して、前後関係をしっかりと把握すること。

そして、実際の史実の展開を、一度頭の中から取り除いてすっかり忘れて頂き、別の可能性とあり得たかもしれない「もう一つの歴史」を常に想像してみること。

1939(昭和14)年。

1月平沼騏一郎内閣、8月阿部信行内閣。

3月スペイン内戦終結、チェコスロヴァキア解体、5~8月ノモンハン事件、8月23日独ソ不可侵条約、9月1日独ポーランド侵入、9月3日英仏対独宣戦、第二次世界大戦開戦。

日中全面戦争を勃発させ、その任期中に、日本の運命に途方も無い重荷を背負わせた近衛文麿内閣は、結局自らの手で事態を収拾できず、この年の初めに政権を投げ出す。

以後3年間、日本の内閣は「1年で2内閣」とイメージして覚える。

39年が平沼・阿部内閣、40年が米内・近衛内閣、41年が近衛・東条内閣。

世界では、ヒトラーがチェコを併合、スロヴァキアを保護国化し、前年英仏に強要した、あれほど自国に有利なミュンヘン協定を自ら踏みにじり、国際協定の遵守など端から眼中に無く、どこまでも侵略と征服を進める姿勢を示す。

この膨張主義を前にして、英仏もついに独との対決姿勢を固めるが、ソ連との同盟交渉は、根強い相互不信と支援対象国のポーランドなど東欧諸国の激しい反ソ感情もあって進捗せず、そのうちにスターリンはヒトラーとの妥協に走り、8月23日独ソ不可侵条約締結。

これがゴーサインになり、ヒトラーはポーランドに侵攻、ソ連も独との事前協議通り、ポーランドの東半分を征服・併合。

ソ連は、さらに9~10月にかけてバルト三国にも軍を進駐させ、翌40年には自国に併合。

このヒトラーとの談合・協力した結果の侵略行為と領土拡大が1991年まで続いたんだから酷いもんです(ポーランド東部については以下の通り現在も当時の状況には戻っていない)。

悪逆としか言いようの無い、この時期のソ連ですが、あえて公平のために述べれば、ポーランドの東部は1920年ソヴィエト・ポーランド戦争の結果、民族的には白ロシア(ベラルーシ)・ウクライナなどソ連構成民族が多数居住する地域だったので、形式的民族自決の立場からすれば、正当性が絶無というわけではない(もっともそれらの民族にとってポーランド統治下より同族と共にソ連支配下に入ることが幸福だったとは全く思えないが)。

戦後もソ連は旧ポーランド東部を手放さず、共産化したポーランドにはドイツの東部領土の一部を与え、ポーランド国家は大きく西に移動した形になった。

ドイツの旧領回復要求を恐れるポーランドは、ソ連に依存するしかないとの目論見もあったと思われるが、この辺のスターリンの策略は悪魔的である。

敗戦直後のドイツ人追放時、報復行為で悲惨な事件が頻発したこともあり、戦後の西ドイツでは、この新たな東独・ポーランド国境である「オーデル・ナイセ線」を認めない世論が強かったが、1969年成立のブラント政権の東方外交によってついにその立場を放棄、現状国境の維持を前提にポーランド・ソ連との緊張緩和が進んだ、みたいなことは(この時期の歴史と直接関係無いですが)頭の片隅に入れておきましょう。

話を戻すと、5月から満州国とモンゴルとの国境地帯のノモンハンで日ソ両軍は大規模な戦闘状態に入っていたが、8月末独ソ不可侵条約の報に日本は驚愕、平沼内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」との、歴史に残る「迷言」を発して退陣。

直後の第二次世界大戦勃発に当たって、阿部内閣は欧州大戦非介入を声明。

どうにも「失態」のイメージは残るが、この展開は意外と悪くない。

ヒトラーが日本に何の事前通告も無く、了解も得ず、ソ連と結んだことによって、対独不信感が広がり、加速する一方だった日本国内の対独接近熱が一気に冷めた。

実際、細々した解釈はどうあれ、少なくとも協定の根本精神から言って、独ソ不可侵条約は紛れも無い日独防共協定違反である。

もう、この時点で日独間の協定は空文・死文化してるんです。

まともな政治指導のコントロールを失い、破滅に向かって暴走するナチス・ドイツから身を引くには絶好のチャンスである。

この時期の日本に必要だった国家戦略は「とにかく決定的な措置を採ることを避け、重ね重ね慎重な検討を加えて形勢を展望すること、そして最低限負ける側には絶対に付かないこと、そのために時間を稼ぎ、可能な限り中立状態を維持すること、アジアの戦争とヨーロッパの戦争を絶対に連動させず、日中戦争を一刻も早く終結させてフリーハンドを回復すること」だったはず。

ところが、日本国内では反英運動が広範に巻き起こるような状況なんですから、偏った感情に煽られた群集心理の理不尽さには歯止め無しという幻滅に捕われる。

この年の7月には日米通商航海条約の廃棄通告が米国より為されている。

1894年日英通商航海条約と共に調印されたもので、1911年小村寿太郎外相の下、改定され関税自主権を回復した。

その廃棄通告の翌年発効により、輸出制限・禁輸などの経済制裁が可能となり、これが結果として日本の死命を制す手段として用いられることになった。

1940(昭和15)年。

1月米内光政内閣、7月第2次近衛文麿内閣、北部仏印進駐、9月日独伊三国同盟締結。

大政翼賛会成立、皇紀2600年式典、元老西園寺公望死去、汪兆銘政権樹立。

6月フランス降伏。

ヴィシー政権、英チャーチル政権、バトル・オブ・ブリテン。

この年の最大の事件は何と言ってもフランスの降伏という驚天動地の出来事。

これについては論じたいことが山ほどあるんですが、まず国内情勢を片づけます。

(本書ではしばしば批判的記述がなされているとは言え)海軍穏健派の米内内閣が成立した流れは悪くない。

しかし、どうも精彩に欠ける。

高坂正堯氏が『現代史の中で考える』で指摘したように、この後は近衛内閣で三国同盟、東条内閣で日米開戦となってしまい、これが避戦への最後のチャンスかとも思われるのだが、三国同盟派に押されて為すすべなく辞職してしまった印象である。

なお、この辺りで武藤章陸軍軍務局長の描写が出てくる。

この人については、日中戦争初期の拡大派の中心で、不拡大派の石原莞爾に向かって「昔閣下が満州でやったことと同じことをしているだけです」という意味の放言を吐いた人物であることは知っており、以前持っていた印象は文字通り「最悪」でした。

だが、この人物が欧州大戦不介入と日米対立緩和を唱え、そのために尽力する様が描かれており、その好意的記述に意外な感がした。

前年ドイツがポーランドに侵攻、これを粉砕して始まった第二次大戦だが、その年には西部戦線では実質的な大規模戦闘は起こらず、「奇妙な戦争」と呼ばれる。

だが、この1940年、ドイツが西部戦線で大攻勢に出る。

電撃戦と呼ばれた勢いで、まず北に向かいデンマーク・ノルウェー両国を占領した後、次いでオランダ・ベルギーに侵攻、ついにはフランスに大攻勢をかけ、6月にはこれを降伏させてしまった。

これがすべての歯車を狂わせてしまう。

日本では対独接近派が急激に勢いを盛り返し、米内内閣を倒して第2次近衛内閣が成立、フランス降伏のどさくさ紛れに「援蒋ルート」遮断のためとして仏領インドシナの北部に進駐、そして9月27日、日独伊三国軍事同盟が締結、日本は枢軸陣営に自らを縛りつけるという最大級の愚行を犯し、破滅への決定的一歩を踏み出す。

ムッソリーニのイタリアも、仏降伏直前に宣戦、日本と同様に亡国への道を歩んでしまうこととなる。

第一次世界大戦でドイツの猛攻勢を4年以上耐え抜き、ついにはドイツを打ち負かしたフランスが、開戦翌年、しかも実質的戦闘が始まって間もない時期に敗北したのは確かに驚天動地の出来事であり、ドイツの圧倒的な軍事的優位をこれ以上無いほど明白に示したと言えなくもない。

しかし、もう一度よく考えて下さい。

第一次大戦と第二次大戦の国際情勢の比較です。

そんな難しい話ではない。

むしろごく単純な話です。

第一次大戦では、ドイツは実質オーストリアのみを同盟国として、仏・露・英の三国協商と、後に参戦してきた伊、米の諸国と戦い、4年の間持久したわけです。

(同盟国[独墺]側には他にトルコとブルガリアが加わり、「四国同盟」との言い方もなされるが、両国にはまことに失礼ながら、トルコとブルガリアは軍事的には「誤差」の範囲内でしょう。)

それが第二次大戦ではどう変わったか。

まずドイツ側。

アルザス・ロレーヌはフランスに奪還されたままだが、東部国境はポーランド西半を占領することで回復。

オーストリアとチェコを併合することによって、前者の人口と後者の軍需産業を手に入れ、かつての同盟国ハプスブルク帝国の主要部分は味方にしているのと変わらない状態になっている。

さらに、ポーランドを粉砕した結果、他の東欧・バルカン諸国は、恐怖心からか野心からかは別にして、ほとんどの国がドイツに靡く情勢。

それに対して協商(連合)国側はどうか。

ロシア(ソ連)は独ソ不可侵条約によって、中立国ではあるが、はっきり言えばこの時期枢軸側にいたわけです(後述の通り、それがどれだけ長期的だったかはともかく)。

もちろんイタリアはドイツと「鋼鉄同盟」を結んでいた枢軸陣営の中心国です。

アメリカは国内世論の孤立主義に縛られ、当面は参戦できない状況。

つまり、ドイツは「背後」(ロシア)と「脇腹」(イタリア)を脅かされることなく、([第一次大戦では中立国だった]フランコのスペインを意識せざるを得ず、むしろ自らが「背後」の脅威を感じつつ)イギリスのみの支援を受けたフランスと実質一対一で戦って、これを破っただけなんです。

これがそんなに驚くべきことでしょうか?

第一次大戦でも、ドイツは緒戦のマルヌの会戦で阻止されなければ、もう少しでシュリーフェン・プランを実現させるところだったし、東部戦線ではタンネンベルクの戦いで勝利してからは常に敵領深く進攻して戦っており、帝政崩壊後のソヴィエト・ロシアにブレスト・リトフスク講和を押し付け広大な領土を奪い、続いて西部戦線で大攻勢に出て、英仏軍の戦線をあとわずかで突破するところだったわけです。

実際、1918年、前年参戦していたアメリカの軍事力が無ければ、フランスが敗北していた可能性は極めて高かったはず。

(余談ですが、私は第一次大戦が、西部戦線ではドイツが押し返され、やや不利な条件で妥協的講和をし、一方東部戦線では、疲弊しきった西側連合国がドイツを完敗に追い込むことができず、加えてドイツへの懸念よりも共産政権への嫌悪感を優先することから、帝政崩壊後のロシアを放置し、その結果、ドイツがソヴィエト政権を圧殺し、ロシアをその覇権下に組み入れるという終わり方をしなかったものかなあと空想することがあります[つまり講和の順番が東部と西部で実際の史実とは逆になる]。ドイツが帝政の復活したロシアを傀儡的立場に置き続けることは長期的には不可能だと思いますし、ブレスト・リトフスク条約以前のドイツ軍は、白衛軍や後の干渉戦争での日米英仏軍、社会革命党右派の農民反乱に比べて極めて有利な状況で、まるで無人の野を行くが如く快進撃を続けていたわけですから、もしソヴィエト政権を崩壊させ、レーニン、トロツキー、スターリンらボリシェヴィキ指導者を雁首並べて銃殺か絞首刑に処していたら、1871年のパリ・コミューン鎮圧よりもはるかに輝かしい人類文明への貢献となったはずです。西部戦線ではやや劣勢の引き分けでも東部戦線で大勝利を得た形で講和を結んだドイツでは帝政が続き、民主化にも一定の歯止めがかけられ、ナチズムのような大衆運動が躍進する可能性が大いに狭められることになる。埒も無い空想ではありますが、その後のソヴィエト・ロシアとナチズムに冒されたドイツが自他にもたらした被害を思うと、こんなことでも考えたくなります。)

ドイツにとって二正面作戦は致命的だったと言われますが、しかし、英米が参戦しないという条件で、露仏同盟だけが相手だったならば、ドイツが勝利していたのではないかと思える。

(ヨーロッパ大陸を統一的に支配する勢力が海という天然の防壁を越えて自国を脅かすことを防ぐため、弱体勢力を助け、強国が一方的覇権を打ち立てるのを阻止するという、伝統的な勢力均衡政策を厳守する英国が、仏露の決定的没落とドイツのヨーロッパ大陸制覇を傍観するわけがない、露仏二正面作戦は必然的に英露仏三正面作戦に繋がる、さらに英国と妥協し共同覇権を行使する立場の米国も同様に一大国のヨーロッパ大陸支配と英国敗北を容認せず、いずれ介入してくる、だから結論としてやはりドイツは何があっても二正面作戦を避けるべきだった、というのは恐らく正しいでしょうが、今は純粋に軍事力の客観的評価の話をしているので、それはひとまず措きます。)

結局、国際情勢を考えれば、この1940年のドイツの勝利は、別に不思議でもなんでもない、ごく平凡な出来事であり、ドイツの真の優勢を示すものではないわけです。

周辺情勢とは関係なく、ドイツ自身が(追記:退廃し衰退しつつある民主主義を脱し)全体主義・「統制主義」によって再生し強大化した、という見解が当時日本の世論で主流だったのかもしれません。

(これは現在の自由民主主義を理想視する考え方からすれば、途方も無く歪んだ見方だということになるでしょうが、私はむしろ、ナチズムという全体主義[だけでなく共産主義という左翼全体主義も]は、自由な言論活動と無制限な市場経済がもたらした混乱と無秩序の中で、伝統的価値観の束縛を脱した民衆の多数派が世俗イデオロギーの狂信に囚われ主体的に生み出したものである以上、民主主義と全体主義は表面上は対照的に見えても、基本的には同根であり、両者は断じて根本的に対立するものではない、という意味において間違っており、倒錯した見方だと思います。)

もし、そうした考えに多少とも当たっている点があるとすれば、国民生活を徹底的に犠牲にして軍備を拡張したソ連と、究極の専制君主制に則っていると言われながら弱体な国家権力しか持ち得なかった帝政ロシアとの対比にこそ当てはまる。

・・・・・・おおざっぱなマクロ経済の数字でみても、ソ連の国民総生産にたいする個人消費の割合は51ないし52パーセントときわめて低水準に抑えられ、同じころ工業化へ向けて「離陸」をはたしていた他の国の80パーセントという数字とくらべても格段に低かった。・・・・・・国民総生産にたいする個人消費の割合を、近代社会では類がないほど――たとえば、ナチス政権下のドイツでさえ考えられなかったほど――低く抑えた結果、ソ連は国民総生産の25パーセントという驚くべき額を工業投資にあてることができ、そのうえに教育、科学、軍事力に多大の資金を投入することが可能になったのである。

ポール・ケネディ『大国の興亡』より。

確かに自国民を数百万から一千万人以上餓死させておきながら、重工業と軍需産業を短期間に建設するような真似はソ連にしかできず、ナチス・ドイツですら少なくとも平時にはこれほど極端な措置は取れなかったでしょう。

こんな国家が望ましいわけがなく、道義的問題を一切無視し、ただ国家を軍事力のみで評価するという大前提の上でですが、体制の変革が軍事力の飛躍的拡張に結びついた例としては、当時のドイツよりソ連を挙げるほうが適切だったでしょう。

そして、敗北寸前と思われたイギリスはチャーチルの指導下、驚異的な粘りを見せ、アメリカの参戦まで持ちこたえ、その強靭な橋頭堡となる。

これについても、そもそも英独間の海軍力の格差は圧倒的なわけです。

ドイツ海軍が英仏海峡の制海権を奪取することは、お得意の潜水艦戦を展開しても、まず不可能です。

大規模陸軍を持たないが、その強大な海軍力で自国の安全は十全に確保し、それがもたらす行動の自由を用いて大陸諸国のバランサーとして振る舞うという英国の地位は近世以降、全く不変である。

ただ、この時代では「空軍力の急激な発達」という事象を考慮する必要がある。

これが海軍力の優位を覆す可能性は確かにある。

だからフランス降伏後の英本土航空戦である「バトル・オブ・ブリテン」が決定的意味を持ったわけです。

ここでドイツ空軍は結局、制空権(この言葉は最近使われず、今は「航空優勢」と言うそうですが)を確保できなかった。

そうなったら海軍力の差がもろに効いてくる。

何年経とうが、ドイツ軍は英国に上陸できない。

直接的軍事制圧ではなく、Uボートによる潜水艦作戦で英国の海上交通網を寸断し、その国民経済を破壊して降伏に追い込むこともまず不可能です。

第一次大戦時と同じく、一度厳重な護送船団方式が採用されれば、潜水艦による商船への脅威は大いに減殺されますし、この時期、駆逐艦だけでなく航空機が潜水艦の「天敵」として加わったことによって、潜水艦の技術的発達はそれと相殺されてしまうでしょう(この場合空軍力の発達は水上艦艇の現状戦力差を固定化する方向に働くことになる)。

なおかつ、そうした大西洋での軍事行動が米国が参戦するに当たって、格好の口実として用いられるであろうことも、第一次大戦と同様です。

上で英国の粘りを「驚異的」と書きましたが、実はそうでもなく、ある意味当然の結果です。

チャーチル政権は国民の士気を喪失さえさせなければ良かった(表面的にはドイツが圧倒的優勢に見えた当時の状況下で、それを成し遂げただけでもチャーチルは偉大だとの見方はもちろんあり得ますが)。

要するに、英本土上空の航空戦でドイツが圧勝しない限り、英国は抗戦を続け、米国の介入は時間の問題となり、ドイツに勝機は無くなるわけです。

こう考えれば、なぜ対独接近派が盛り返し、それに反対する人間が暗殺の危険すら常に感じなければならないことになったのか、全く不可解である。

「いや、こんなのは各国の軍事力・経済力についての具体的数値とその変化の度合いを何も示さずに、ごくごく表面的な印象論だけでモノを言ってるだけじゃないか、それに政治体制の特質や政治指導者の質など、数値化に馴染まないが極めて重要な要素も捨象している、こんな子供じみた単純な算術で歴史を論じた気でいるのか、馬鹿馬鹿しいにも程がある」という反論があることは百も承知です。

しかし、逆に言えば、専門知識も何も無い当時の一般庶民でも、この程度のことは思いついてもおかしくなかったのであり、なぜ「バスに乗り遅れるな」という三国同盟推進派が世論の圧倒的支持を受けたのかがわからないと言いたいです。

「すでにオランダ・フランスは降伏し、イギリスも時間の問題だ、このままでは英仏蘭の東南アジア植民地は全てドイツのものとなる、その前にドイツと話をつけてそれを日本が領有すべきだ」という、欲得に目がくらんだ焦燥と短慮が、結果として全てを失う破滅を導くことになった。

一度偏向した世論が生み出されると、その愚かしさが自己拡大を続け、集団ヒステリーが国策を動かし、国が破滅するまで止まらないということなのか。

そして、繰り返しますが、当時のソ連は中立国とは言え、実質枢軸側にいたわけです。

三国同盟推進派にとって、実は三国同盟は日ソ独伊の「四国同盟」構想とイコールだった。

このユーラシアを東西に覆う同盟によって米国の参戦を牽制し防止するとされた。

彼らが構想した世界の様相は以下のようなもの。

英国敗北後に、ドイツ(と伊)、ソ連、日本がそれぞれ自国の南部に進出し、独伊はアフリカ、ソ連はインド、日本は東南アジアを勢力下に置く。

盟友英国を失った米国は南北アメリカ大陸のみを固守し逼塞するしかない。

世界はこの四大勢力によって分割される。

世界史上、まれに見る大激動期であったことを思えば、この考えを頭から妄想と決め付けることはすまい。

しかし、このような構想の前提条件には「英国の早期敗北」「米国の工業力・軍事力の過小評価」の他、「独ソ関係の安定」がある。

前二者も間違っていたが、最後のものも事実は全く異なっていた。

「日ソ独伊四国同盟」構想の全てが、この「独ソ関係の安定」という、ただ一点にかかっている。

ところが、実際は安定どころじゃないわけです。

この時期、ヒトラーは、スターリンにペルシア湾やインド方面への進出を慫慂していたが、異様な猜疑心と権力意識の持ち主であり、英仏と独の開戦を待つことに成功し、資本主義国同士が闘争し疲弊することを傍観し、漁夫の利を得ることを基本政策にしていたスターリンが、英国との対立を決定的にし、自国を枢軸陣営に完全に縛り付けるそのような行為にでるわけがない。

モロトフ[ソ連外相]はこのあまりにも誇大な提案に興味を持たなかった。ドイツは、提供すると伝えたものをまだ所有しておらず、ソ連邦は自らのためにこれらの領土を占領するのにドイツを必要としなかった。

キッシンジャー『外交』(日本経済新聞社)より。

スターリンはむしろ近い将来の対独戦を意識し、緩衝地帯を得るためバルカンでの勢力拡大を意図し、すでに英国との戦争状態にあるドイツの足元を見て、独ソ関係を悪化させる。

一方ヒトラーの側も、「独ソの長期的共存」という発想など微塵も無い。

年来の主張である、ソ連を打倒した上での「ドイツ民族の生存圏」拡大という妄想はこの独裁者の脳裏から離れたことはない。

ヒトラーの望んでいたのは、ヨーロッパにおけるドイツの覇権的地位とロシアに対する直接の支配だった。そのほかにはアフリカと、アジアおよび大洋州の大部分に対してヨーロッパの支配を維持することだった。それは、旧いヨーロッパの海外植民地と新しいドイツの植民地ロシアを基底とし、ドイツの隣国、支援民族、衛星国、および表面上の、もしくは半独立の同盟国といったように階層づけられた他のヨーロッパの国々を中央の構築物とし、ドイツが最上層にいるという一種の力のピラミッドだった。ドイツが支配するこの巨大な力の構築物が作られたら、のちにアメリカおよび日本と世界支配をめぐる闘いをやっても十分に勝算があるはずであった。

セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』(草思社)より。

加えて以下のような考えがヒトラーの頭に浮かんでいた。

・・・・・1940年6月のフランスの敗北後もイギリスが対独抗戦の姿勢をかえなかったとき、ヒトラーは、それまでとちがった関連において対ソ戦を考慮せざるをえなくなった。7月なかば、ヒトラーは、軍の首脳にむかって、「イギリスが抗戦をつづけているのは、ソヴェートの対独政策の変化に期待をつないでいるからである」という趣旨の考えを述べた。ここから、イギリスに対独抗戦を断念させるためには、まずソヴェートをたたかなければならないという思想までには、ほんの一歩にすぎなかった。

・・・・・

いまやヒトラーの頭のなかでは、目的と手段とが位置を逆転させつつあった。本来はヒトラーは、ソヴェートを攻撃するために西方諸国を屈服させなければならないと考えた。ところが、イギリスを講和にかたむけることが容易ではないことがわかったいま、彼は、こう考えた。西方での戦争をおわらせるためには、まずソヴェートを屈服させなければならない、と。

自己の大陸支配をイギリスに承認させるために、まずロシアを屈服させる――それは、一世紀以上もまえにナポレオンをとらえた魔の考えであった。おなじ考えにおちこんだヒトラーは、やがて、それによってみずからの没落をはやめてゆくことになろう。

野田宣雄『ヒトラーの時代 下』(講談社学術文庫)より。

国家の存亡に関わる大戦略を、自らの妄想じみた偏見に沿って、こうまで安易に変更していたら、勝てる戦争も勝てないですよ。

日本も、こんな男に引きずりまわされ、なぜ国を滅ぼさなければならなかったのか。

心の底から慨嘆したくなります。

終わらねえ・・・・・。

あと1年、1941年は次回にまわします。

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