万年初心者のための世界史ブックガイド

2013年12月1日

福田和也 『昭和天皇 第五部  日米交渉と開戦』 (文芸春秋)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 04:34

第四部の続き。

1937~1941年を叙述。

第三部より恒例の一年刻みの年表風メモを以下に記述。

1937(昭和12)年。

広田弘毅内閣退陣、宇垣一成内閣流産、2月林銑十郎内閣に続き、6月第1次近衛文麿内閣成立、7月7日盧溝橋事件、8月第2次上海事変、日中戦争(支那事変)、第2次国共合作、南京陥落。

英ネヴィル・チェンバレン内閣成立、仏ブルム人民戦線内閣崩壊、伊が日独防共協定に加入し国際連盟脱退、ソ連では大粛清で赤軍のトハチェフスキーら処刑、米不況再到来。

日中全面戦争勃発で、日本(と中国)が地獄への決定的第一歩を踏み出した年。

二・二六事件以後、陸軍中央から皇道派が一掃され、梅津美治郎中将が統制派の領袖として台頭(広田内閣寺内寿一陸相の下で次官に就任)。

(満州事変以前の陸軍主流派だった長州閥の最高実力者で)1931年6月より5年間朝鮮総督を務めた宇垣一成に、広田退陣後、大命が降下。

しかし大正期にいわゆる「宇垣軍縮」を成し遂げ、昭和期にはとりあえず穏健派と見なしうる宇垣への大命降下に陸軍は反抗。

その際、穏健派の枠を踏み越えていたと思われる、1931年三月事件への関与が反対の口実として用いられた(軍の政治介入を当然視するような連中がこの口実を持ち出すのは倒錯もいいところだが)。

建川美次、松井岩根らは宇垣を支持するが、杉山元教育総監、小磯国昭朝鮮軍司令官などかつての宇垣派の盟友も反対に回る。

(陸軍の人脈については川田稔『満州事変と政党政治』を参照。)

結局、統制派の傀儡的表看板である林銑十郎が組閣。

林内閣成立時、石原莞爾は盟友板垣征四郎を陸相にして蒋介石政権との宥和を図るが、梅津ら新統制派によって失敗、陸相には杉山元就任。

大幅な軍拡予算を容認した広田内閣の馬場鍈一蔵相に比して、林内閣の結城豊太郎蔵相の予算はやや理性的だが、それでも軍に配慮したものだった。

その予算通過後の総選挙で政党勢力は後退せず、民政党が第一党となり、社会大衆党が躍進。

民衆もやや正気を取り戻した感があるが、そもそも世論の圧倒的支持を受けて陸軍が増長し専横を極めるようになったのだから、一般国民の民意が最初の、そして最重要の契機を与えた結果、日本が軍国主義化したという事実に変わりは無い。

それに盧溝橋事件勃発で、民衆世論はまたも逆の極端に走り、「暴支膺懲」の集団ヒステリーに囚われ、好戦論一色となるのだから、もう始末におけない。

総選挙後、短命の林内閣退陣、近衛文麿内閣成立、よりによってこの無責任な宰相の下、7月7日盧溝橋事件を迎える。

民意が異常を極めそれに国家の実力装置が煽られるような状況下で指導者個人が果たして何ができるかは疑問であり、またあくまで相対的に適任と思われるだけであるという前提ではあるが、この時の総理が、せめて宇垣なら、というのは日本帝国が地獄に転げ落ちた実際の史実を思うと、どうしても考えたくなる歴史のイフである。

それにしても広田弘毅が、林の後任総理が文官の場合、中国が侮日的になるとして杉山元を推す姿勢を見せたのは、全く不可解だ。

客観情勢の観察と状況判断を経て態度を決定するのではなく、とにかく何があっても強硬論一点張りというのは異様である。

近衛内閣は外相広田弘毅、蔵相賀屋興宣(おきのり)、陸相杉山元、海相米内光政。

盧溝橋事件の収拾に失敗、第2次上海事変で戦火は中国中心部に及び、全面戦争の様相となり、イギリスはじめ列強の権益が集中する華中に侵攻することで、それらの諸国との関係も急激に悪化。

事態が全面戦争に移行するかどうかの瀬戸際だった上海事変での対応について、賀屋蔵相と石原莞爾参謀本部第一部長が反対するのに対し、穏健派のはずの米内海相が出兵を主張してしまっている。

ここでも、著者の「海軍良識派」に対する冷たい視線を感じる。

近衛が南京を訪問し、蒋介石との(戦前の外交では極めて珍しい)首脳会談で事態を打開しようとする動きもあったが、外相広田が阻止。

もう、本当に勘弁してくださいよ、という感じ。

日中宥和を常に妨害するのが広田の弊、と著者は書いているが、全くその通りだ。

12月に国民政府の首都南京が陥落するが、中国の抗戦意欲は衰えず、事態は文字通り泥沼化する。

それまで共産党覆滅を最優先とするため忍従していたものの、何とか妥協できる範囲内である満州国建国を越えて日本が華北分離工作に乗り出し、中国本土の主権的統一まで脅かすようになったことで、蒋介石政権は完全に対日戦の決意を固めてしまった。

どれほど自国民が死んでも、どれほど国土が占領され荒廃しようとも、どれほど国富が失われようとも、結果として中国自身が地獄に落ちようとも、日本をその道連れにして打倒できればそれでよいという考え。

ここまで腹括られたら、そりゃ勝てないですよ。

実際その通りになった。

広大な国土を占領し、ほとんどの大規模な会戦では戦術的勝利を得たものの、結局日本は中国を屈服させることができず、米国を巻き込む形においてのみ実現したことではあるが、何にせよ、中国は戦勝国となり、日本は敗戦国となったことは間違いない。

現在も中国は国連安保理常任理事国であり、国際連盟で「五大国」の一員だった日本と入れ替わったような形になっている。

しかし、日本の敗戦直後は蒋介石の思惑通りだったとは言え、その後の国共内戦での敗北と中国本土の共産化、台湾への撤退は全く予想だにしないことだったはず。

その後中国大陸では「大躍進」政策と文化大革命で、日中戦争に匹敵するか、それを上回る犠牲者を出し、20世紀後半の世界で最も悲惨で最大規模の地獄を経験することになってしまった。

それを考えれば、やはり蒋介石をはじめ当時の中国指導層には、一般国民のナショナリズムに押し流されず、もう少し冷静に考えてもらいたかったところではある。

(そういう立場に追い込んだ責任が少なからず日本にあるし、日本国民も中国国民と同様に無分別な排外的ナショナリズムに流されたこともまた事実だが。)

双方の愚かしい排外主義が低劣な多数派民衆に感染し、自国の穏健な人々を押し潰し、本来戦うべきではなかった国同士を激突させた戦争を象徴するようなのが、以下の記述。

(おそらく人民戦線事件で)投獄された荒畑寒村の回想より。

次第に、牢獄はお祭り騒ぎの様相を呈してきた。私服刑事に春画を売りつけようとして逮捕された貧乏画家、郵便貯金通帳を偽造して捕まった大学生、マンホールの蓋を盗むのを稼業としている朝鮮人の少年たち。あらゆる職業について、こと細かな知識を備えた詐欺師・・・・・。こうした連中も、召集令状がやってくると、たちまち名誉ある帝国軍人になるのだ。「天に代わりて不義を討つ」 にわか仕立ての襷(たすき)をかけられ、放免と同時に前線に送られる犯罪者を、同房の者や看守が、軍歌で送りだす。「不義を討つ、も何も、おまえたち自身が悪人じゃあないか・・・・・」寒村は、嗤うこともかなわず、屈託は腹にわだかまった。・・・・・

その結果が、以下のような有様。

戦場特派員として取材した石川達三の視点。

連隊の従軍僧は、銃こそ持たないものの、青竜刀をかざして前線に出ていた。僧は二十人を超える敵兵を殺したという。「敵の戦死者は、弔うのですか」どういう修行を積んできたのか、輓馬(はんば)のような、みっちりした身体を火照らしている。「いや、しません。してやる僧もいますが、私はしない。戦死した兵士のことを考えたら、とても出来ない」「それは人情でしょう。でも死んだら仏じゃないんですか」僧は無関心を糊塗するように「駄目ですなあ」と云った。隊には、女物の指輪をしている兵士が何人もいた。「くれたんですよ」悪びれたふりすらせずに答えた。忠実に精勤していた中国人料理人を、砂糖を舐めたというだけで殺した上等兵。射殺された母親の側でずっと泣いていた娘を、刺し殺した一等兵。光景を傍観しながら、「勿体ねえことしやがる」とごちる伍長。その一言が、皆を解きほぐすのだった。「敵の命を軽く見ているうちに、自分たちの命も軽蔑するようになるんですよ」少尉はインテリらしく自己観察をした。南京に入るかなり前から、捕虜は殺すことになったという。軍令ではなかった。ただ、進軍の速度が速いので、捕虜を捉えておく施設も要員もなかったのだ。南京では、大きな建物に何千人も押し込めて焼き殺した、武装解除した捕虜を機銃で葬った、というような噂を何度も聞いた。

普通の(低俗な自称)「保守派」はこういうことは書かないんでしょうが、軍の大衆化が軍紀の退廃を招くという観点は極めて重要に思える。

一昔前の左翼は、こうした事実を(往々にして大いなる誇張を交えて)語り、それをもって日本国家を攻撃するのを常習にしていた。

しかし、こういう犯罪行為を犯していたのは、第一線で兵士として従軍していた一般民衆なわけです。

国家の指導層は、敵国民衆の無用な恨みを買い、戦争遂行上百害あって一利無しの、こうした行為を取り締まろうとしていたはず。

軍規を破り、無秩序状態をいいことに、邪悪な欲求を満たそうと、残忍・卑劣な行為に走ったのは民衆自身です。

それを、国家によって過酷な戦場に追いやられ自暴自棄になった不幸な民衆の逸脱行為であり、最終的責任は国家にある、とは決して言わせない。

本シリーズの第四部井上寿一『山県有朋と明治国家』古川隆久『昭和天皇』の記事で述べた通り、昭和初年以来、過激で好戦的な世論で、穏健な指導者を圧殺し、陸軍少壮将校らを煽動して、国内のテロリズムと対外膨張主義に導いたのは、紛れも無く民衆自身です。

少なくとも平均的な国民に、大日本帝国の既成支配層の「戦争責任」を追及する資格があるとは毛頭思えない。

国家政策のレベルでなく、一般兵士に軍規を守らせるための周到な配慮が戦前の日本国家に欠けていたとの批判ならば、まだしも成り立ちはする。

しかし、その場合、(私を含めた)民衆は厳格な拘束を課せられず無秩序状態に置かれれば、何をするかわからない畜生同然の生き物ということですね、そんなことを認めた上で、まだ左翼でいられるのか自問自答して頂きたい、と皮肉を言いたくなる。

また、旧軍の非行を少しでも取り上げると、脊髄反射のようにいきり立ち、「左翼」「反日」という馬鹿の一つ覚えのレッテルを貼り、集団的な誹謗中傷を浴びせ、相手に沈黙を強いるような、自称「保守派」「愛国者」にも最近強い嫌悪を感じる。

本当に「大東亜戦争肯定論」のような立場に立つのなら、その理想を汚した、上記のような民衆を批判する視点を持たなければならないはず。

そもそも、たとえアジアを侵略し続けてきた欧米列強への戦いに正当性があるとしても(私は極めて巨視的な史観に立てばあると思っていますが)、民衆の好戦世論に押し流され、全く勝ち目の無い時点で日本帝国は戦いを強いられ、帝国という国家の枠組み自体が滅んでしまった。

戦後日本は、戦勝国の「自由と民主主義」という「理想」に完全に侵食され、それを疑う力を全く失い、馬鹿げた左翼全盛時代が数十年続いた後、残ったのは現在のような粗野・低俗・卑怯・愚劣を極め、もはや「動物的」とすら表現したくなる、種族的ナショナリズムなわけです。

戦前の右翼革新思想も、戦後の左翼思想も、現在の排外的ナショナリズムも、結局衆愚世論の現われとして懐疑し批判する視点を持たない限り、真に保守的な考えとは言えないと思える。

1938(昭和13)年。

3次にわたる近衛声明、トラウトマン工作打ち切り、張鼓峰事件、国家総動員法。

オーストリア併合、ズデーテン危機、ミュンヘン会談。

国内では近衛内閣が続き、日中戦争泥沼化、世界では第二次世界大戦前哨戦としての外交交渉の年。

ヒトラー政権成立が1933年、第二時世界大戦勃発が39年、終戦が45年。

(以前ここで書きましたが、覚え方は「ムッソリーニが2のぞろ目[1922年]、ヒトラー[とルーズヴェルト]が3のぞろ目」でしたね。)

ナチ体制12年のうち、開戦時でちょうど6年ごとに分けられる。

だが、これも以前書いたように、「平時のナチズム」は実質前年で終わり、この1938年から「戦時のナチズム」に入ると考えた方がよい。

伝統的保守派に属する外相ノイラートと国防相ブロムベルク、陸軍司令官フリッチュが解任され、後任外相にはリッベントロップ就任、国防相の地位は廃止され、ヒトラーが軍と外交を完全に掌握することになる。

かつてヒトラー内閣成立を手助けした保守派はその愚かさの恐るべき代償を支払うことになった。

(その過程については、グイド・クノップ『ヒトラー 権力掌握の二〇ヵ月』の記事をご覧下さい。数回に分かれる長い記事ですが、ここでも私が現在の日本について持っている危機意識を感じ取って頂ければ幸いです。勘のいい方には私が何を言いたいのかわかって頂けると思います。)

完全な独裁権を握ったヒトラーはいよいよこの年から本格的対外膨張策に乗り出し、欧州情勢は一気に戦争の危機を帯びる。

エチオピア戦争を媒介に、イタリアへの接近を成し遂げたドイツは、かつて強硬に反対していたムッソリーニの黙認を得てオーストリアを併合。

(「英仏伊三国同盟」による避戦あるいはドイツ早期敗北の可能性の追求についてはニコラス・ファレル『ムッソリーニ 下』参照。)

続くチェコ・ズデーテン地方要求に対して、宥和政策の頂点であるミュンヘン会談で、英仏はそれを容認。

ここここで少し書きましたが、宥和政策の評価については、「ナチとヒトラーに対して宥和なんてとんでもない、あんな邪悪な相手は戦って叩き潰すしかない」という先入見をひとまず捨てないといけない。

ナチの反ユダヤ主義は満天下に明らかになってはいたものの、工場的手段を用いた集団的民族抹殺としてのホロコーストはまだこの時点では起こっていなかった。

となると、問題は1938年の時点で開戦した場合、英仏がドイツに勝てたかどうかの一点にかかっている。

私は不勉強で、この時点での各国軍事力を詳しく、具体的に比較した本を読んだことが無い。

ポール・ケネディ『大国の興亡 下』(草思社)には以下の記述がある。

西側諸国には戦争を決意するだけの政治的意思も世論の支持もなかったから、ここで長いあいだつづけられた論争を蒸しかえし、イギリスとフランスがチェコスロヴァキアのために戦っていたら、その後のなりゆきにどんな変化が生じたかを考えるのは無駄かもしれない。しかし、宥和政策の支持者がいうほど、軍事力のバランスがドイツに有利だったのではないことを指摘しておいてもよいかもしれない。戦力のバランスがヒトラーに有利になるのは、ミュンヘン協定以後なのだ。チェコスロヴァキアが消滅したために、1939年3月にはヨーロッパに実力のある中級国家がなくなってしまい、ドイツはチェコの軍事力、工場、原料を手に入れた。さらにスターリンの西側諸国への不信がつのって、ロンドンおよびパリへの親近感をしのぐことになった。イギリスでは兵器の生産が増え、フランスとの軍事協力がさらに緊密になって、イギリスの世論もヒトラーに立ち向かうべきだという方向に動きつつあったが、ソ連は西側諸国を信用できないと感じていた。同時に、チェンバレンが(1939年1月に)イタリアを枢軸から切り離すことに失敗し、バルカン半島における侵略を阻止できないことが明らかになった。

正確に言えば、ドイツの高級軍人がクーデタを起こし、ヒトラーを失脚させる可能性も考えなければならず、その場合たとえ軍事力において劣勢でも、リスクを冒して対独対決姿勢を取るべきだったとの意見も十分あり得るが、これは数値化がほとんど不可能な分、軍事情勢よりもはるかに判定しにくい。

ナチの勝利がもたらす破滅的事態を考えれば、(上記引用文のような見方ももちろんあろうが)やはり開戦時期については慎重な検討が必要でしょう。

軍事力が勝利を見込めるほど十分ではなく、軍拡のために時間を稼ぐ必要があるのならば、たとえどれほど非道徳的で、腹立たしく、すっきりしない気分が残ろうとも、一時的に宥和政策を採ったことは正しかったという結論になる。

実際、ネヴィル・チェンバレン英首相はミュンヘン以後、猛烈な勢いで軍備を拡張し、議会で以下のように言明している。

「長い期間にわたって、われわれは、わが国の再軍備の大計画をおしすすめてきており、それは、日ごとにそのペースとヴォリュームを増している。ミュンヘンで四大国間のこの協定に調印したからといって、われわれがこの時点で再軍備計画にかんする努力をゆるめてよいなどと、だれにも考えさせないようにしよう。わが国の側が一方的に縮小することは二度とありえないのである」

「これはこの場合だけでなく、他の場合にもいえることなのだが、外交の背後にそれを効果的ならしめる力が横たわっているという自覚がなければ、外交というものは効果をあげることはできないということをわたしは熟知している」

野田宣雄『ヒトラーの時代 下』より。

ナチとヒトラーの本質を見抜けず、退嬰的で一時しのぎの策にはしった愚かな政治家、というチェンバレンの評価はもはや揺るぎようがないものの、こうした見方があることは知っておいた方がいいとは思います。

日本に話を戻すと、いわゆる近衛声明はこの38年に3回出された。

第1次が1月、「国民政府を対手とせず」としトラウトマン工作を打ち切り。

第2次が11月、東亜新秩序声明。

第3次が12月、「近衛三原則」=善隣友好・共同防共・経済連携、汪兆銘脱出に呼応して出されたもの。

駐華ドイツ大使トラウトマンを通じた和平工作を打ち切ることに、多田駿参謀次長は反対するが、広田と杉山が押し切り、米内も賛同。

近衛の浮薄とともに、広田の鞏固な偏見と、米内の無責任な強硬姿勢が、再びより深い淵に国家を引きずり込んだ。

と記されているが、確かに、特に広田については専門分野でこれほど致命的な大失策を重ねる外相とは一体何なのか?という気分にさせられる。

内閣改造が行われ、広田が外相を離れ、宇垣が後任外相、陸相は板垣、蔵相は池田成彬(しげあき)。

5月に徐州作戦、中国軍の主力を捕捉・殲滅できず、中国は焦土作戦を採る。

焦りの見えた日本では、日独伊防共協定の強化と攻守同盟化が浮上。

(これにはさすがに米内海相が反対するが、本書の筆致からすると、なぜその前にもう少し毅然たる態度で日中和平を支持してくれなかったのかという気分になる。)

「中国が屈服しないのは米英が支援しているからだ、だからその敵対勢力たる独伊に接近すべし」との筋道であり、米英への対抗意識と対独接近の双方が結局日中戦争の泥沼化から帰結している。

しかし、「そんなこといってもしょうがないでしょう、そもそも米英の支援があろうと無かろうと、日本に中国大陸の全面的軍事制圧なんて出来るわけないんだから」と言いたくなる(当時のアメリカですら可能だったのか疑わしい)。

あの広大無辺の国土と膨大な人口、そしてその国民がしばしば狂的な程度にまで高まるナショナリズムに目覚めた以上、中国を外部勢力が完全に征服することはほとんど不可能です。

軍事力・経済力共に、日本に比べれば貧弱な当時の中国だが、その国土と人口によって、敵対勢力の攻撃を事前に阻止する「抑止力」は持たなくても、その意志に完全に屈服することを拒絶できる「拒否力」は持っていたとしか言いようが無い。

(上記の一文、理解のあやふやな安全保障論の用語を用いて述べていますので、あるいは誤用があるかもしれませんが、私の言いたいことは大体解かって頂けるかと思います。)

だとしたら、どこかで妥協するしかないのに、威勢がいいだけで思慮分別に欠ける矯激な強硬論に突き動かされ、日本は破滅することになってしまった。

それに日中戦争序盤では、ゼークトら軍事顧問団を派遣し、大量の兵器を輸出していたナチス・ドイツは、はっきり言って中国側に付いていて、「日中戦争は一面日独戦争だ」との観察すらあったわけです(松本重治『上海時代』)。

もっとも「だから中国は悪い」という気は私にはあまり無いです。

共産党討伐のためなら、(ホロコーストを起こす前の)ナチス・ドイツからの軍事援助も(もちろん違和感や嫌悪感がまるで無いわけではないが)一つの手段としてあり得るし、むしろその努力を背後から妨害したのは、長期的に見て日本の大きな失敗だと思えます。

それと日本が英国の在華権益が集中していた華中地域に侵攻して、英国がある程度対日強硬姿勢を採るのは当然であって、それに敵意を持っても始まらない。

むしろ情緒的親中感情と中国市場への非現実的期待から事あるごとに日本に敵対的言動を繰り返すアメリカに比べれば、イギリスはまだしも妥協の余地のある相手であって、実際「1935年の対日宥和策」(戦前昭和期についてのメモ その4参照)に乗っていれば、日本の運命は全く変わっていたはずである。

ともかく、外交を何か単純かつ感情的に捉える国民心理によって、「アジアとヨーロッパの戦争を連動させる」という、当時の国家戦略上、絶対にやってはいけないことを、この前後数年で日本はやってしまった。

10月広東と武漢三鎮(漢口・漢陽・武昌)が陥落すると、国民政府内非主流派の汪兆銘・梅思平・周仏海・高宗武らとの和平交渉が始まる(高は後に脱落)。

(この和平交渉を描いた犬養健『揚子江は今も流れている』は素晴らしい本です。)

防共協定締結、満州国承認、日本人の居住営業の自由、治外法権と租界返却、居留民への賠償はするが戦時賠償は無しといった条件で交渉。

しかし、本書には以下のような記述も。

「まさかね、欺されてはいないと思うのだけれどもね。何しろ支那人のことだから」[近衛]総理は、梅思平が耳にしたら、悶死しかねない言葉を、平然と発した。

汪兆銘らがどれほどの危険を冒して行動したかを思うと、あまりに酷薄すぎる言葉であり、根本的な日中和平が成立しなかった事実を象徴するような発言でもある。

汪は重慶を脱出、国民党ナンバー2の重慶政権離脱だが、汪の腹心もこれに従わず、地方の軍指揮官の蒋介石からの離反も起こらず。

なお、この年、河合栄治郎『ファシズム批判』『時局と自由主義』などが発禁になり、貴族院の精神右翼の攻撃を受けた。

3年前の天皇機関説問題でも貴族院の菊池武夫が口火をきっている。

世論・民意から超然として、その暴走に歯止めをかけるための国家機関であるはずなのに、一体何のための貴族院か。

これを「非民主的な制度が国民の自由を圧迫した」と捉えるのは無意味である。

衆愚的世論の影響が国家の上位機関にまで及び、それを押し流したことこそを問題にすべき。

長い・・・・・。

疲れた。

1939~41年の残り3年は次の記事に回します。

(追記:続きは以下。

戦前昭和期についてのメモ その7

戦前昭和期についてのメモ その8

広告

WordPress.com Blog.

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。