万年初心者のための世界史ブックガイド

2013年12月27日

『孫子』 (中公クラシックス)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 15:34

珍しく中国古典の記事。

冒頭に湯浅邦弘氏(『諸子百家』(中公新書)の著者)の解説。

春秋時代、呉王闔廬(こうりょ)に仕えた孫武の著とされる。

戦国時代に、他にもう一人、「孫子」と称された人物による、『孫臏(そんびん)兵法』もあった。

中国古典思想でも普遍性・合理性の高さでは際立っており、多くの翻訳がある。

岡崎久彦氏が、本書をクラウゼヴィッツ『戦争論』より上だとどこかで書いていた。

読んではみました。

比較的楽に読み通せました。

しかし、『論語』の記事(「世界の名著」シリーズ)でも書いたように、私にとっては本書も「片言隻句のあつまり」にしか思えない。

歴史上の実例に本書の文句を当てはめて教訓を得るというふうな読み方は、私には無理でした。

全部で100ページ余りとごく短く、全13篇のうち、本訳書ではほとんどが10ページ以下と、分量的には楽なので、とりあえず読んでおいても良い。

『孟子』、『老子』、『荘子』、『墨子』、『韓非子』などの類書のうちでは、本書が圧倒的に読みやすいはず。

誰でも知ってる中国古典の一つをとりあえず読了したという事実だけは作ることができる。

それだけですね。

私のレベルではそんなもんです。

2013年12月18日

戦前昭和期についてのメモ その8

Filed under: おしらせ・雑記, 近代日本 — 万年初心者 @ 05:47

その7に続き、福田和也『昭和天皇 第五部』(文芸春秋)の記事。

1941(昭和16)年。

3月米武器貸与法、4月日ソ中立条約、6月22日独ソ戦開始、7月関東軍特別演習(関特演)、7月第3次近衛内閣(第2次内閣に引き続いての組閣)、同月南部仏印進駐、在米日本資産凍結・対日石油輸出禁止、8月大西洋憲章、日米交渉、10月東条英機内閣、12月8日真珠湾奇襲攻撃、日米開戦、独伊対米宣戦。

1月「戦陣訓」が東条英機陸相より示達。

日清・日露とは桁違いの不祥事が戦場で頻発したため出された、軍人勅諭を補足する道徳訓であり、「生きて虜囚の辱を受けず」の部分は主旨ではないとのこと。

これほど悪名高い事例においても、民衆は一方的犠牲者ではないんだなと感じた。

世界では、米国が武器貸与法によっていよいよ孤立主義から脱却し、本格的な英国支援に向かう兆しを見せる。

またバルカンでの勢力争いをめぐって、水面下で独ソ関係が急激に悪化しつつあるのに、第2次近衛内閣外相松岡洋右は4月日ソ中立条約を結ぶ。

しかしそのわずか二ヵ月後にヒトラーはソ連に侵攻し、独ソ戦が始まる。

日独間には、何の戦略のすり合わせも政策協調も無い。

実質両国は全く単独行動を取りつつ、ただ相手を可能な任意の時に利用しようとしていただけである。

7月の南部仏印進駐と、前年行われた北部仏印進駐とは、もたらした結果とその意味合いは桁違いに異なったものになった。

このことはしっかりと意識しましょう。

以前も書きましたが、満州国を越えて中国本土にすら支配権を拡張する日本と対決する意志を蒋介石に固めさせたことをもって、華北分離工作と冀東防共自治政府成立が日中戦争勃発の「ポイント・オブ・ノーリターン」だったというのと同様に、この南部仏印進駐が太平洋戦争の直接的・短期的第一原因だったという見方があることに注目。

南部仏印進駐によって、ルーズヴェルト米政権は、日本の軍事的膨張が止めどないものであると認識し、それを防止するため対日戦も辞さずとの決意を完全に固めてしまった。

日本としてはさしたる決意も覚悟も無く、北部進駐に続き、資源確保の目的での南部進駐だったが、米英の受け止め方は全く異なり、英領マレー・シンガポール、蘭領東インドに対する攻撃の前段階と見なされた。

その結果が在米日本資産凍結と対日石油禁輸。

日露戦の日本海海戦があった20世紀初頭と違って、世紀半ばのこの時期には海軍艦艇の燃料は全て石油になっている。

世界第三位の規模を誇り(実質的戦闘力では、空母戦力の充実を考えると英海軍を抜いて二位と言ってもよいのではないかとさえ思える)、日本の国力の中核部分を成していた帝国海軍の戦力が、一気に無力化されかねない状態に置かれる。

前回記事でも指摘したように、この時期の日本が絶対に守るべきだった国家戦略は「とにかく時間を稼いで中立状態を維持し形勢を展望すること、軽挙妄動せず、決定的措置を採らず、負ける側にだけは絶対につかないこと」だったはず。

それが対日石油禁輸で、開戦への導火線に火が点いたというか、時限爆弾のスイッチが入ったというか、断崖絶壁に追い詰められたというか、ダモクレスの剣が常に頭上に吊るされた状況というか、とにかく政策決定にとてつもない制約が課され、日本の指導層に異常な心理的プレッシャーがかかる状態になる。

そしてついには俗に「ジリ貧避けて、ドカ貧」と呼ばれる、対米宣戦という選択肢を選んでしまう結果となる。

以後の日米交渉で、日中戦争をめぐる根本的妥結はどの道難しかったとしても、せめて日米関係を南部仏印進駐前に戻す暫定協定案が成立しなかったことは、本当に痛恨の極みです。

それさえ成立していれば、まだ冷静に世界情勢を見る時間を稼げたのに。

事前に石油禁輸は戦争を意味すると大々的に宣言して、米世論に釘を刺していれば、この期におよんで孤立主義の雰囲気の強かった米国内の分裂を誘い、ルーズヴェルト政権の行動を制約することが出来たかもしれないし、また開戦が避けられなかったとしても、それに至る経緯が上記の通りだったならば、ヒステリーじみた反日世論の勢いも少しは静まり、史実通りの無条件降伏の前に妥協的講和のチャンスがわずかなりとも生じたのではないかと思える。

ともあれ、もうこの時期の米政権には戦争を避ける気はほとんどありません。

「何もせず屈服するのならそれでもいいし、歯向かってくるのならドイツと一緒に叩き潰してやる」という態度。

もう腹が立ってしょうがないが、しかし、日本としてはそこに追い込まれるまでに何とかすべきだったんでしょう。

6月独ソ戦開始直後に、満州では状況次第で対ソ開戦に踏み切るつもりで、いわゆる「関東軍特別演習(関特演)」が行われた。

ここで、「同じ破れかぶれなら、南進して米英とぶつかるより、北進してソ連を叩いた方が良かったんじゃないか」との考えが頭に浮かぶ。

つまり緒戦で圧倒的に優勢だったドイツ軍の尻馬に乗って、41年7月の時点で対ソ開戦を決断し、ソ連という国家を消滅させることを目指すわけです。

十数年にわたり、自国民にありとあらゆる暴虐と残忍を欲しい侭にしていたスターリン体制を打倒することに道義的問題があったとは全く思えない。

そのことは疑い得ない。

しかし、問題はヒトラーという指導者を持つナチス・ドイツと同盟してそれを行う意味です。

以前東京書籍版の世界史教科書『世界史B』の記事で、私は以下のように書きました。

ナチによるユダヤ人への差別・迫害は政権掌握当初からだが、アウシュヴィッツなどの絶滅収容所稼動という最悪の事態が生じるのはあくまで独ソ戦開始以後。

本書を含む教科書でもそのことは読み取れるようになっているが、これは宥和政策などの評価にも係わるので、現場の先生には強調して教えて頂きたいです。

1935年ニュルンベルク法という差別法令、38年「水晶の夜(クリスタルナハト)」という迫害事件などによって、ナチ政権のおぞましい反ユダヤ主義の実態は世界に明らかにされていたが、ユダヤ人を根こそぎ強制連行し、アウシュヴィッツなどで組織的機械的手段で集団的に抹殺する民族皆殺し政策が発動されるのは、独ソ戦開始以後、正確には1942年1月の「ヴァンゼー会議」以後である。

そのことを高校の授業で強調して教えて欲しい理由として「宥和政策に対する評価」を挙げていますが、実は書かなかった理由がもう一つあります。

それは戦前の日本の政策に関わる評価の問題です。

今から見て、たとえ純粋なパワー・ポリティクスの戦略からであったとしても、日本が、戦前から低劣・醜悪な人種主義を国是としていたナチス・ドイツと結んだことは間違った行為であったことは間違いない。

しかし、さすがにホロコーストを知りつつ、それを容認して同盟していたと思われるのはかなわない。

ユダヤ人への集団的抹殺は、第二次大戦の双方の陣営が完全に固まった後で起こったことで、戦時下のこともあり一定の情報が漏れ伝わってくるだけであり、戦前において誰も予想だにしないほど極端で常軌を逸した残虐行為で、戦勝国の側もこれを防ぐために参戦したのではないし、敗戦国である日伊両国もヒトラーがここまで狂っているとは思いもよらず同盟を結んだわけです。

結果として三国同盟は道義的にも重大な過ちだったとする評価には異議は無いが、日本を「ホロコーストの意図的な共犯」とする意見には反論したくなる。

しかし、この時期、日独両国がソ連を粉砕していたら、どうなっていたでしょうか。

ヒトラーの妄想的人種理論によれば、スラヴ民族はアーリア民族に奉仕することによってのみ生存を許される存在に過ぎない。

ナチス・ドイツの勝利は、即ユダヤ人の絶滅とスラヴ人の奴隷化を意味する。

実際の史実では、アウシュヴィッツなどの絶滅収容所を解放したのが、ソ連軍であったことは間違いない。

(東欧諸国の「解放」の場合とは異なり、ここは括弧を付けない文字通りの解放でしょう。[私も含め]ソ連の体制に絶大な嫌悪感[と憎悪]を持つ人間でも、それだけは認めざるを得ない。ただし、農業集団化と大粛清によって1000万人単位で自国民を死に追いやっていたスターリン体制のソ連に、総体としてホロコーストを断罪する資格があったとは思えないが。)

勢力圏を接することになったドイツがおぞましい限りの残忍な人種政策を実施し、その情報が嫌でも伝わって来るのに、日本はただ傍観するのか。

そうなれば、一気に「ホロコーストの実質的共犯者」としての様相が強くなる。

そんな歴史に残る汚名を祖国が着るのは真っ平御免である。

「自国民が300万人以上死ぬよりかはいいだろう?」との悪魔の囁きが聞こえてくる気がするが、やはりこれは何があっても実行すべきではなかった国策だと思う。

加えて、そもそも1941年に日ソ開戦を決断したとして、「本当に勝っていたのか?」という疑問が生じる。

ゴーロ・マンは一応そう判断している。

日本がアメリカではなくソ連に全力を投入したとすれば、恐らくボリシェヴィキ国家は崩壊したであろう。そうだったとすれば、今日の世界は別の様相を呈していただろう。といってもよりよいことはないが、別なことは確かだ。

ゴーロ・マン『近代ドイツ史』より。

確かに緒戦での赤軍の惨敗は、ソ連もポーランド、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランス、ユーゴといった諸国に続いて電撃戦で敗北させられ、崩壊すると思わせるものがあった。

スターリンは、数年後の対独戦を意識していながら、この時点でのドイツの攻撃については様々な情報を無視、赤軍の高級将校を大粛清で抹殺し、自ら破滅的結果を招いていた。

しかし、このような劣悪な政治指導下におかれても、ソ連(ロシア)はその性質上、極めて強靭な一面を持っていた。

ソヴィエト連邦がフランスほどの大きさか、あるいは、その数倍の大きさであったとしても、ソヴィエトの実験は1941年に、事実上、終わっていたと思われる。それゆえ、この体制がスターリンの過ちにもかかわらず生き延びた第一の理由は、ソヴィエト連邦の巨大な面積と膨大な人口が、ほかのヨーロッパ国家なら滅びていたであろう損失を支えることができたのである。ソヴィエト政権は、こうした途方もない犠牲を払って、ついに形勢を一変させることになる過ちをヒトラーが犯すまで、必要な時間を稼いだにすぎなかった。

マーティン・メイリア『ソヴィエトの悲劇 下』より。

前々回記事で述べた通り、中国と同じくロシアのような巨大な大陸国家は基本「拒否力」を持っており、余程の好条件に恵まれない限り、外部勢力がこれを完全に征服することは極めて困難だと思われる。

確かにあの恐ろしいほど広大な国土を考えると、日独が東西から攻め込んでも、シベリアのどこかの地点で、ウラル山脈を越えてきたドイツ軍と沿海州から攻め上った日本軍が邂逅するという光景は想像し難い。

ドイツが勝てるとしたら、ロシア人とその他の諸民族に対して、共産政権とスターリンの暴政からの、真の意味での解放者として接することだったはず。

実際、初期にはソ連軍から大量の投降者が生まれ、一部には対独協力に走る人々も出た。

しかし、それも余りに暴圧的なドイツの占領政策に裏切られ、ソ連国民は「ファシスト・ドイツの残虐さ」についてのみは、政府当局のプロパガンダが真実であったことを思い知らされた。

ヒトラーは、全く愚かにも、軍事的には勝てなくとも政治的には勝てる可能性があった機会を自ら潰した。

敗北が自らの奴隷化に直結すると知ったならば、ソ連国民は自然とスターリンのような残忍な指導者の下にであっても団結せざるを得ない。

当時の日本はさすがにそのような極端に抑圧的な占領政策は採らなかっただろうが、一方で国力的な問題がある。

全くフリーハンドを持った状態で、総力を挙げ、満を持して、対ソ戦に入るのではないわけです。

もう一つの大陸国家たる中国と4年にわたって戦い続け、戦線の泥沼に足を捕られ疲弊し切った状態で、海軍力に比して明らかに国際的に二線級の装備しか持たない陸軍を主力に、日ソ戦争を始めたとして、果たしてどこまで進撃出来たか。

短期間でソ連を屈服させることができなかった場合、さらにもう一つの大陸国家アメリカの影が浮かび上がってくる。

すでに第二次世界大戦が始まり、英独は死闘を繰り広げている。

ドイツと開戦した国はほぼ自動的かつ必然的に英国と同盟関係に入る力学が働く。

ナチス・ドイツを国際社会における最も有害な勢力と定義し、そのために英国支援に動いている米国が果たしてソ連の崩壊を傍観するか。

「ルーズヴェルト側近ニューディーラーらの容共的傾向」なんて陰謀論じみた考えを持ち出さなくとも、日独によるソ連覆滅とユーラシア分割を世界的な勢力均衡への致命的打撃と捉えて、純粋なパワー・ポリティクスの観点から、実際の史実よりもはるかに露骨な挑発行為を日独に行い、何が何でも参戦するという政策が、保守派を含めてアメリカ指導層の一致したコンセンサスになっても、全くおかしくない。

(ちなみに米国がナチを敵視するのはもっともだとしても、それを打倒するためにソ連というもう一つの全体主義国家と同盟しなければならなかった意味を十分には理解していなかったように思える。ソ連との同盟が無ければドイツを破れなかったということは、その勝利に極めて大きな道義的限界を課すものであり、それを厭うならば、西側諸国は軍事的により強くあらねばならなかった、そしてそもそもドイツのような歴史ある文明国をナチのような勢力の手に落としたこと自体が西側諸国にとって深刻な敗北だったとジョージ・ケナンが述べているが、非常に示唆的な意見ではある。その結果、ソ連のような全体主義国家がこの時期の国際政治においてキャスティング・ヴォートを握るような有利な地位を占めてしまったのだから。)

そうなれば、実際の第二次世界大戦と同様の陣営が、同様の戦争を繰り広げただけになってしまう。

いや、日ソ間の戦線が、1945年ではなく41年から、ソ連ではなく日本の側からひらかれていたことだけが違う。

その結果は、赤軍の反撃と日本国土のソ連軍占領、少なくとも国土の東半分の共産化であり、米国の占領下におかれるであろう西日本も完全にアメリカ化され共和政となり、冷戦後の今日も(朝鮮半島がそうであるように)グロテスクな独裁と放埓な衆愚民主主義に祖国が分裂した状況が続くという、ゾッとする展開になったかもしれない。

やっぱり、どう考えても「1941年の対ソ開戦」は決断すべきではない。

あくまで中立を守り、ナチス・ドイツとの関係を有名無実化し、一時的孤立も持さず、形勢を展望し、大勢が明らかになるまで決定的措置を取るべきでは無かった。

日本がそうしているうちに、米国の挑発に耐えかねたヒトラーが、大西洋上で米独戦を始め、米ソ両国に挟撃されたドイツは史実の通り、惨敗を喫する。

国際情勢の激変を受けて、日本国内では軍部の威信が失墜し、政党政治が復活、日中戦争は日本の大幅な譲歩で終結。

そして、これも史実の通り、ドイツの戦後処理と東欧での戦後体制をめぐって米ソ冷戦が始まれば、フランコのスペインがそうであったように、いずれ米国が接近してきて、国際的孤立は解消します(日本の国力と戦略的地位はスペインの比ではないし、中国共産党を西北部で枯死させたであろう蒋介石政権下の中華民国よりも、結局は日本帝国の方が共産主義への対抗勢力として有力で安定した存在であることを米国も認めざるを得なくなったでしょう)。

もちろん、現実性の乏しい空想ではありますが、どうしてそうならなかったのかなあと慨嘆したくなります。

日本が真珠湾を攻撃したのとまさに同時期、12月上旬にドイツ軍はモスクワ正面で撃退され、短期決戦での勝利はあり得なくなった。

・・・・・象徴的にも実際的な意味においても、もっとも重要なことは、モスクワが保持されたということである。なぜなら、これほど中央集権的で、しかも脆弱な体制の首都が陥落すれば、全体制の崩壊を招く可能性がきわめて高かったからである。

マーティン・メイリア『ソヴィエトの悲劇 下』より。

持久戦に入ったならば、もう独ソ戦がどう転ぶか、わからなくなる。

もしその時点まで時間を稼げていたら、ドイツ敗北の可能性が日本の軍と政府の指導層の眼前に浮かび、対米開戦などという選択は余程のことが無い限りできなかったはず。

これがよりによって真珠湾攻撃と全く同時期に起こるとは・・・・・・。

もう戦前の日本は悪魔にでも魅入られていたのか、と思えてくる。

それとも、これが運命だとして諦めるしかなかったのか。

本書の最後の方、開戦直前の首相経験者の重臣会合について、以下の描写がある。

「私は・・・・・」若槻礼次郎が、涙声をしぼった。「勝算なき戦争を開始して、悠久二千六百年の歴史を賭ける気持ちがどうしても解りません」

著者は末尾の後書きで、日米開戦の決断は後世より見れば愚かで馬鹿気たものだが、歴史の曲折を経験しながら結局その選択を受け入れたという事、その意味合いの深さと大きさは単純に裁けないと述べている。

巨視的に見れば、確かにそうかもしれないが、戦後と今日の日本を見ると・・・・・。

帝国という枠組みを何とか残して、自由と民主主義への懐疑をわずかでも持てる体制になっていれば良かったのではないかとの思いは、個人的にどうしても禁じ得ない。

国家に左翼運動を鎮圧された戦前日本の民衆は、右翼革新運動の中に自らの邪悪で低劣な世論を押し通す機会を得た。

そうして、結果として帝国を滅ぼし、民衆の自由に対する一切の束縛を排除した上で、戦後は出鱈目で支離滅裂な左翼思想にのめり込み、再び何度も国家を破滅寸前まで追いやる。

そして左翼思想が完全に破綻するや、十年ほど前から、またもや何の反省も自己懐疑もなく、野蛮・低俗・愚昧・醜悪・卑劣・粗暴、その他何と言っても足りないほど見下げ果てた形式のナショナリズムを喚き立てている。

「多数者による、一方的で無責任で煽情的な政治と社会への批判」という、根源的悪は戦前も戦後も現在も、全く変わることなく一貫している。

自称「右派」が「日中戦争や日米開戦はコミンテルンの策略」といった陰謀論を持ち出すのなら、上記のような民衆の邪悪な潜在的欲求による、一貫した国家破壊の歴史を考慮したほうがいいし、その方がよっぽど説得力のある「陰謀論」ではないですか、と言いたい。

戦前の国粋主義など、民衆による底の浅い無意識の演技に過ぎず、その本質は「一君万民」の理想の名を借りた過激な平等主義運動です。

それによって帝国を滅ぼした後、民衆は、占領下の憲法を受け入れ、華族制度を廃止し、皇室を丸裸にし、頭の単純な勝者に洗脳され、自由と民主主義を教条的に崇拝するようになった。

現在では、大衆は自らの世論こそが唯一絶対の価値判断の基準だとますます狂信し、皇室を「善き自由民主主義国」日本に最後に残った「異物」扱いにし、皇族個人へ陰湿・卑劣・低俗・邪悪な誹謗中傷を加え、それを「娯楽」として愉しんでいます。

もはやこの状況を是正することは全く不可能です。

唯一の希望は、遅かれ早かれ、こんな国は間違い無く滅びるということ、そして不遜と驕慢を極める我々大衆と下賤で汚らわしい煽動家に(それを神罰と呼ぶかどうかは別にして)確実かつ完全な破滅がもたらされるであろうということだけです。

さすがにこれまでの巻の進行が遅いので、話を早めたのか、内容にやや粗さを感じる。

それと月刊「文芸春秋」で連載していた分から、省略があるのか?

ドイツの対仏戦でのマジノ線突破の話が見当たらない。

連載時には軽く目を通していただけだが、たぶん思い過ごしではないはず。

先帝や著名な政治家・軍人だけでなく、小説家・実業家・俳優・芸人・左翼活動家など、驚くほど多様な人びとの視点を積み重ねて、時代を描写するという手法は、非常に読みやすく、面白い。

このシリーズの記事は、特に第四部から、内容紹介は部分的で、自分流の史実の整理と史的評価を中心に記していますので、あまり選書の参考にはならないかもしれませんが、読みやすさは保証します。

2013年12月9日

戦前昭和期についてのメモ その7

Filed under: おしらせ・雑記, 近代日本 — 万年初心者 @ 08:07

福田和也『昭和天皇 第五部』の記事続き。

いよいよ、日本と世界の運命が決した、1939~41年の叙述に入ります。

この3年間の歴史を読むに当たって、以下のことをお願いしたいと思います。

まず、出来事の年はもちろん、月(場合によっては日も)も記憶して、前後関係をしっかりと把握すること。

そして、実際の史実の展開を、一度頭の中から取り除いてすっかり忘れて頂き、別の可能性とあり得たかもしれない「もう一つの歴史」を常に想像してみること。

1939(昭和14)年。

1月平沼騏一郎内閣、8月阿部信行内閣。

3月スペイン内戦終結、チェコスロヴァキア解体、5~8月ノモンハン事件、8月23日独ソ不可侵条約、9月1日独ポーランド侵入、9月3日英仏対独宣戦、第二次世界大戦開戦。

日中全面戦争を勃発させ、その任期中に、日本の運命に途方も無い重荷を背負わせた近衛文麿内閣は、結局自らの手で事態を収拾できず、この年の初めに政権を投げ出す。

以後3年間、日本の内閣は「1年で2内閣」とイメージして覚える。

39年が平沼・阿部内閣、40年が米内・近衛内閣、41年が近衛・東条内閣。

世界では、ヒトラーがチェコを併合、スロヴァキアを保護国化し、前年英仏に強要した、あれほど自国に有利なミュンヘン協定を自ら踏みにじり、国際協定の遵守など端から眼中に無く、どこまでも侵略と征服を進める姿勢を示す。

この膨張主義を前にして、英仏もついに独との対決姿勢を固めるが、ソ連との同盟交渉は、根強い相互不信と支援対象国のポーランドなど東欧諸国の激しい反ソ感情もあって進捗せず、そのうちにスターリンはヒトラーとの妥協に走り、8月23日独ソ不可侵条約締結。

これがゴーサインになり、ヒトラーはポーランドに侵攻、ソ連も独との事前協議通り、ポーランドの東半分を征服・併合。

ソ連は、さらに9~10月にかけてバルト三国にも軍を進駐させ、翌40年には自国に併合。

このヒトラーとの談合・協力した結果の侵略行為と領土拡大が1991年まで続いたんだから酷いもんです(ポーランド東部については以下の通り現在も当時の状況には戻っていない)。

悪逆としか言いようの無い、この時期のソ連ですが、あえて公平のために述べれば、ポーランドの東部は1920年ソヴィエト・ポーランド戦争の結果、民族的には白ロシア(ベラルーシ)・ウクライナなどソ連構成民族が多数居住する地域だったので、形式的民族自決の立場からすれば、正当性が絶無というわけではない(もっともそれらの民族にとってポーランド統治下より同族と共にソ連支配下に入ることが幸福だったとは全く思えないが)。

戦後もソ連は旧ポーランド東部を手放さず、共産化したポーランドにはドイツの東部領土の一部を与え、ポーランド国家は大きく西に移動した形になった。

ドイツの旧領回復要求を恐れるポーランドは、ソ連に依存するしかないとの目論見もあったと思われるが、この辺のスターリンの策略は悪魔的である。

敗戦直後のドイツ人追放時、報復行為で悲惨な事件が頻発したこともあり、戦後の西ドイツでは、この新たな東独・ポーランド国境である「オーデル・ナイセ線」を認めない世論が強かったが、1969年成立のブラント政権の東方外交によってついにその立場を放棄、現状国境の維持を前提にポーランド・ソ連との緊張緩和が進んだ、みたいなことは(この時期の歴史と直接関係無いですが)頭の片隅に入れておきましょう。

話を戻すと、5月から満州国とモンゴルとの国境地帯のノモンハンで日ソ両軍は大規模な戦闘状態に入っていたが、8月末独ソ不可侵条約の報に日本は驚愕、平沼内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」との、歴史に残る「迷言」を発して退陣。

直後の第二次世界大戦勃発に当たって、阿部内閣は欧州大戦非介入を声明。

どうにも「失態」のイメージは残るが、この展開は意外と悪くない。

ヒトラーが日本に何の事前通告も無く、了解も得ず、ソ連と結んだことによって、対独不信感が広がり、加速する一方だった日本国内の対独接近熱が一気に冷めた。

実際、細々した解釈はどうあれ、少なくとも協定の根本精神から言って、独ソ不可侵条約は紛れも無い日独防共協定違反である。

もう、この時点で日独間の協定は空文・死文化してるんです。

まともな政治指導のコントロールを失い、破滅に向かって暴走するナチス・ドイツから身を引くには絶好のチャンスである。

この時期の日本に必要だった国家戦略は「とにかく決定的な措置を採ることを避け、重ね重ね慎重な検討を加えて形勢を展望すること、そして最低限負ける側には絶対に付かないこと、そのために時間を稼ぎ、可能な限り中立状態を維持すること、アジアの戦争とヨーロッパの戦争を絶対に連動させず、日中戦争を一刻も早く終結させてフリーハンドを回復すること」だったはず。

ところが、日本国内では反英運動が広範に巻き起こるような状況なんですから、偏った感情に煽られた群集心理の理不尽さには歯止め無しという幻滅に捕われる。

この年の7月には日米通商航海条約の廃棄通告が米国より為されている。

1894年日英通商航海条約と共に調印されたもので、1911年小村寿太郎外相の下、改定され関税自主権を回復した。

その廃棄通告の翌年発効により、輸出制限・禁輸などの経済制裁が可能となり、これが結果として日本の死命を制す手段として用いられることになった。

1940(昭和15)年。

1月米内光政内閣、7月第2次近衛文麿内閣、北部仏印進駐、9月日独伊三国同盟締結。

大政翼賛会成立、皇紀2600年式典、元老西園寺公望死去、汪兆銘政権樹立。

6月フランス降伏。

ヴィシー政権、英チャーチル政権、バトル・オブ・ブリテン。

この年の最大の事件は何と言ってもフランスの降伏という驚天動地の出来事。

これについては論じたいことが山ほどあるんですが、まず国内情勢を片づけます。

(本書ではしばしば批判的記述がなされているとは言え)海軍穏健派の米内内閣が成立した流れは悪くない。

しかし、どうも精彩に欠ける。

高坂正堯氏が『現代史の中で考える』で指摘したように、この後は近衛内閣で三国同盟、東条内閣で日米開戦となってしまい、これが避戦への最後のチャンスかとも思われるのだが、三国同盟派に押されて為すすべなく辞職してしまった印象である。

なお、この辺りで武藤章陸軍軍務局長の描写が出てくる。

この人については、日中戦争初期の拡大派の中心で、不拡大派の石原莞爾に向かって「昔閣下が満州でやったことと同じことをしているだけです」という意味の放言を吐いた人物であることは知っており、以前持っていた印象は文字通り「最悪」でした。

だが、この人物が欧州大戦不介入と日米対立緩和を唱え、そのために尽力する様が描かれており、その好意的記述に意外な感がした。

前年ドイツがポーランドに侵攻、これを粉砕して始まった第二次大戦だが、その年には西部戦線では実質的な大規模戦闘は起こらず、「奇妙な戦争」と呼ばれる。

だが、この1940年、ドイツが西部戦線で大攻勢に出る。

電撃戦と呼ばれた勢いで、まず北に向かいデンマーク・ノルウェー両国を占領した後、次いでオランダ・ベルギーに侵攻、ついにはフランスに大攻勢をかけ、6月にはこれを降伏させてしまった。

これがすべての歯車を狂わせてしまう。

日本では対独接近派が急激に勢いを盛り返し、米内内閣を倒して第2次近衛内閣が成立、フランス降伏のどさくさ紛れに「援蒋ルート」遮断のためとして仏領インドシナの北部に進駐、そして9月27日、日独伊三国軍事同盟が締結、日本は枢軸陣営に自らを縛りつけるという最大級の愚行を犯し、破滅への決定的一歩を踏み出す。

ムッソリーニのイタリアも、仏降伏直前に宣戦、日本と同様に亡国への道を歩んでしまうこととなる。

第一次世界大戦でドイツの猛攻勢を4年以上耐え抜き、ついにはドイツを打ち負かしたフランスが、開戦翌年、しかも実質的戦闘が始まって間もない時期に敗北したのは確かに驚天動地の出来事であり、ドイツの圧倒的な軍事的優位をこれ以上無いほど明白に示したと言えなくもない。

しかし、もう一度よく考えて下さい。

第一次大戦と第二次大戦の国際情勢の比較です。

そんな難しい話ではない。

むしろごく単純な話です。

第一次大戦では、ドイツは実質オーストリアのみを同盟国として、仏・露・英の三国協商と、後に参戦してきた伊、米の諸国と戦い、4年の間持久したわけです。

(同盟国[独墺]側には他にトルコとブルガリアが加わり、「四国同盟」との言い方もなされるが、両国にはまことに失礼ながら、トルコとブルガリアは軍事的には「誤差」の範囲内でしょう。)

それが第二次大戦ではどう変わったか。

まずドイツ側。

アルザス・ロレーヌはフランスに奪還されたままだが、東部国境はポーランド西半を占領することで回復。

オーストリアとチェコを併合することによって、前者の人口と後者の軍需産業を手に入れ、かつての同盟国ハプスブルク帝国の主要部分は味方にしているのと変わらない状態になっている。

さらに、ポーランドを粉砕した結果、他の東欧・バルカン諸国は、恐怖心からか野心からかは別にして、ほとんどの国がドイツに靡く情勢。

それに対して協商(連合)国側はどうか。

ロシア(ソ連)は独ソ不可侵条約によって、中立国ではあるが、はっきり言えばこの時期枢軸側にいたわけです(後述の通り、それがどれだけ長期的だったかはともかく)。

もちろんイタリアはドイツと「鋼鉄同盟」を結んでいた枢軸陣営の中心国です。

アメリカは国内世論の孤立主義に縛られ、当面は参戦できない状況。

つまり、ドイツは「背後」(ロシア)と「脇腹」(イタリア)を脅かされることなく、([第一次大戦では中立国だった]フランコのスペインを意識せざるを得ず、むしろ自らが「背後」の脅威を感じつつ)イギリスのみの支援を受けたフランスと実質一対一で戦って、これを破っただけなんです。

これがそんなに驚くべきことでしょうか?

第一次大戦でも、ドイツは緒戦のマルヌの会戦で阻止されなければ、もう少しでシュリーフェン・プランを実現させるところだったし、東部戦線ではタンネンベルクの戦いで勝利してからは常に敵領深く進攻して戦っており、帝政崩壊後のソヴィエト・ロシアにブレスト・リトフスク講和を押し付け広大な領土を奪い、続いて西部戦線で大攻勢に出て、英仏軍の戦線をあとわずかで突破するところだったわけです。

実際、1918年、前年参戦していたアメリカの軍事力が無ければ、フランスが敗北していた可能性は極めて高かったはず。

(余談ですが、私は第一次大戦が、西部戦線ではドイツが押し返され、やや不利な条件で妥協的講和をし、一方東部戦線では、疲弊しきった西側連合国がドイツを完敗に追い込むことができず、加えてドイツへの懸念よりも共産政権への嫌悪感を優先することから、帝政崩壊後のロシアを放置し、その結果、ドイツがソヴィエト政権を圧殺し、ロシアをその覇権下に組み入れるという終わり方をしなかったものかなあと空想することがあります[つまり講和の順番が東部と西部で実際の史実とは逆になる]。ドイツが帝政の復活したロシアを傀儡的立場に置き続けることは長期的には不可能だと思いますし、ブレスト・リトフスク条約以前のドイツ軍は、白衛軍や後の干渉戦争での日米英仏軍、社会革命党右派の農民反乱に比べて極めて有利な状況で、まるで無人の野を行くが如く快進撃を続けていたわけですから、もしソヴィエト政権を崩壊させ、レーニン、トロツキー、スターリンらボリシェヴィキ指導者を雁首並べて銃殺か絞首刑に処していたら、1871年のパリ・コミューン鎮圧よりもはるかに輝かしい人類文明への貢献となったはずです。西部戦線ではやや劣勢の引き分けでも東部戦線で大勝利を得た形で講和を結んだドイツでは帝政が続き、民主化にも一定の歯止めがかけられ、ナチズムのような大衆運動が躍進する可能性が大いに狭められることになる。埒も無い空想ではありますが、その後のソヴィエト・ロシアとナチズムに冒されたドイツが自他にもたらした被害を思うと、こんなことでも考えたくなります。)

ドイツにとって二正面作戦は致命的だったと言われますが、しかし、英米が参戦しないという条件で、露仏同盟だけが相手だったならば、ドイツが勝利していたのではないかと思える。

(ヨーロッパ大陸を統一的に支配する勢力が海という天然の防壁を越えて自国を脅かすことを防ぐため、弱体勢力を助け、強国が一方的覇権を打ち立てるのを阻止するという、伝統的な勢力均衡政策を厳守する英国が、仏露の決定的没落とドイツのヨーロッパ大陸制覇を傍観するわけがない、露仏二正面作戦は必然的に英露仏三正面作戦に繋がる、さらに英国と妥協し共同覇権を行使する立場の米国も同様に一大国のヨーロッパ大陸支配と英国敗北を容認せず、いずれ介入してくる、だから結論としてやはりドイツは何があっても二正面作戦を避けるべきだった、というのは恐らく正しいでしょうが、今は純粋に軍事力の客観的評価の話をしているので、それはひとまず措きます。)

結局、国際情勢を考えれば、この1940年のドイツの勝利は、別に不思議でもなんでもない、ごく平凡な出来事であり、ドイツの真の優勢を示すものではないわけです。

周辺情勢とは関係なく、ドイツ自身が(追記:退廃し衰退しつつある民主主義を脱し)全体主義・「統制主義」によって再生し強大化した、という見解が当時日本の世論で主流だったのかもしれません。

(これは現在の自由民主主義を理想視する考え方からすれば、途方も無く歪んだ見方だということになるでしょうが、私はむしろ、ナチズムという全体主義[だけでなく共産主義という左翼全体主義も]は、自由な言論活動と無制限な市場経済がもたらした混乱と無秩序の中で、伝統的価値観の束縛を脱した民衆の多数派が世俗イデオロギーの狂信に囚われ主体的に生み出したものである以上、民主主義と全体主義は表面上は対照的に見えても、基本的には同根であり、両者は断じて根本的に対立するものではない、という意味において間違っており、倒錯した見方だと思います。)

もし、そうした考えに多少とも当たっている点があるとすれば、国民生活を徹底的に犠牲にして軍備を拡張したソ連と、究極の専制君主制に則っていると言われながら弱体な国家権力しか持ち得なかった帝政ロシアとの対比にこそ当てはまる。

・・・・・・おおざっぱなマクロ経済の数字でみても、ソ連の国民総生産にたいする個人消費の割合は51ないし52パーセントときわめて低水準に抑えられ、同じころ工業化へ向けて「離陸」をはたしていた他の国の80パーセントという数字とくらべても格段に低かった。・・・・・・国民総生産にたいする個人消費の割合を、近代社会では類がないほど――たとえば、ナチス政権下のドイツでさえ考えられなかったほど――低く抑えた結果、ソ連は国民総生産の25パーセントという驚くべき額を工業投資にあてることができ、そのうえに教育、科学、軍事力に多大の資金を投入することが可能になったのである。

ポール・ケネディ『大国の興亡』より。

確かに自国民を数百万から一千万人以上餓死させておきながら、重工業と軍需産業を短期間に建設するような真似はソ連にしかできず、ナチス・ドイツですら少なくとも平時にはこれほど極端な措置は取れなかったでしょう。

こんな国家が望ましいわけがなく、道義的問題を一切無視し、ただ国家を軍事力のみで評価するという大前提の上でですが、体制の変革が軍事力の飛躍的拡張に結びついた例としては、当時のドイツよりソ連を挙げるほうが適切だったでしょう。

そして、敗北寸前と思われたイギリスはチャーチルの指導下、驚異的な粘りを見せ、アメリカの参戦まで持ちこたえ、その強靭な橋頭堡となる。

これについても、そもそも英独間の海軍力の格差は圧倒的なわけです。

ドイツ海軍が英仏海峡の制海権を奪取することは、お得意の潜水艦戦を展開しても、まず不可能です。

大規模陸軍を持たないが、その強大な海軍力で自国の安全は十全に確保し、それがもたらす行動の自由を用いて大陸諸国のバランサーとして振る舞うという英国の地位は近世以降、全く不変である。

ただ、この時代では「空軍力の急激な発達」という事象を考慮する必要がある。

これが海軍力の優位を覆す可能性は確かにある。

だからフランス降伏後の英本土航空戦である「バトル・オブ・ブリテン」が決定的意味を持ったわけです。

ここでドイツ空軍は結局、制空権(この言葉は最近使われず、今は「航空優勢」と言うそうですが)を確保できなかった。

そうなったら海軍力の差がもろに効いてくる。

何年経とうが、ドイツ軍は英国に上陸できない。

直接的軍事制圧ではなく、Uボートによる潜水艦作戦で英国の海上交通網を寸断し、その国民経済を破壊して降伏に追い込むこともまず不可能です。

第一次大戦時と同じく、一度厳重な護送船団方式が採用されれば、潜水艦による商船への脅威は大いに減殺されますし、この時期、駆逐艦だけでなく航空機が潜水艦の「天敵」として加わったことによって、潜水艦の技術的発達はそれと相殺されてしまうでしょう(この場合空軍力の発達は水上艦艇の現状戦力差を固定化する方向に働くことになる)。

なおかつ、そうした大西洋での軍事行動が米国が参戦するに当たって、格好の口実として用いられるであろうことも、第一次大戦と同様です。

上で英国の粘りを「驚異的」と書きましたが、実はそうでもなく、ある意味当然の結果です。

チャーチル政権は国民の士気を喪失さえさせなければ良かった(表面的にはドイツが圧倒的優勢に見えた当時の状況下で、それを成し遂げただけでもチャーチルは偉大だとの見方はもちろんあり得ますが)。

要するに、英本土上空の航空戦でドイツが圧勝しない限り、英国は抗戦を続け、米国の介入は時間の問題となり、ドイツに勝機は無くなるわけです。

こう考えれば、なぜ対独接近派が盛り返し、それに反対する人間が暗殺の危険すら常に感じなければならないことになったのか、全く不可解である。

「いや、こんなのは各国の軍事力・経済力についての具体的数値とその変化の度合いを何も示さずに、ごくごく表面的な印象論だけでモノを言ってるだけじゃないか、それに政治体制の特質や政治指導者の質など、数値化に馴染まないが極めて重要な要素も捨象している、こんな子供じみた単純な算術で歴史を論じた気でいるのか、馬鹿馬鹿しいにも程がある」という反論があることは百も承知です。

しかし、逆に言えば、専門知識も何も無い当時の一般庶民でも、この程度のことは思いついてもおかしくなかったのであり、なぜ「バスに乗り遅れるな」という三国同盟推進派が世論の圧倒的支持を受けたのかがわからないと言いたいです。

「すでにオランダ・フランスは降伏し、イギリスも時間の問題だ、このままでは英仏蘭の東南アジア植民地は全てドイツのものとなる、その前にドイツと話をつけてそれを日本が領有すべきだ」という、欲得に目がくらんだ焦燥と短慮が、結果として全てを失う破滅を導くことになった。

一度偏向した世論が生み出されると、その愚かしさが自己拡大を続け、集団ヒステリーが国策を動かし、国が破滅するまで止まらないということなのか。

そして、繰り返しますが、当時のソ連は中立国とは言え、実質枢軸側にいたわけです。

三国同盟推進派にとって、実は三国同盟は日ソ独伊の「四国同盟」構想とイコールだった。

このユーラシアを東西に覆う同盟によって米国の参戦を牽制し防止するとされた。

彼らが構想した世界の様相は以下のようなもの。

英国敗北後に、ドイツ(と伊)、ソ連、日本がそれぞれ自国の南部に進出し、独伊はアフリカ、ソ連はインド、日本は東南アジアを勢力下に置く。

盟友英国を失った米国は南北アメリカ大陸のみを固守し逼塞するしかない。

世界はこの四大勢力によって分割される。

世界史上、まれに見る大激動期であったことを思えば、この考えを頭から妄想と決め付けることはすまい。

しかし、このような構想の前提条件には「英国の早期敗北」「米国の工業力・軍事力の過小評価」の他、「独ソ関係の安定」がある。

前二者も間違っていたが、最後のものも事実は全く異なっていた。

「日ソ独伊四国同盟」構想の全てが、この「独ソ関係の安定」という、ただ一点にかかっている。

ところが、実際は安定どころじゃないわけです。

この時期、ヒトラーは、スターリンにペルシア湾やインド方面への進出を慫慂していたが、異様な猜疑心と権力意識の持ち主であり、英仏と独の開戦を待つことに成功し、資本主義国同士が闘争し疲弊することを傍観し、漁夫の利を得ることを基本政策にしていたスターリンが、英国との対立を決定的にし、自国を枢軸陣営に完全に縛り付けるそのような行為にでるわけがない。

モロトフ[ソ連外相]はこのあまりにも誇大な提案に興味を持たなかった。ドイツは、提供すると伝えたものをまだ所有しておらず、ソ連邦は自らのためにこれらの領土を占領するのにドイツを必要としなかった。

キッシンジャー『外交』(日本経済新聞社)より。

スターリンはむしろ近い将来の対独戦を意識し、緩衝地帯を得るためバルカンでの勢力拡大を意図し、すでに英国との戦争状態にあるドイツの足元を見て、独ソ関係を悪化させる。

一方ヒトラーの側も、「独ソの長期的共存」という発想など微塵も無い。

年来の主張である、ソ連を打倒した上での「ドイツ民族の生存圏」拡大という妄想はこの独裁者の脳裏から離れたことはない。

ヒトラーの望んでいたのは、ヨーロッパにおけるドイツの覇権的地位とロシアに対する直接の支配だった。そのほかにはアフリカと、アジアおよび大洋州の大部分に対してヨーロッパの支配を維持することだった。それは、旧いヨーロッパの海外植民地と新しいドイツの植民地ロシアを基底とし、ドイツの隣国、支援民族、衛星国、および表面上の、もしくは半独立の同盟国といったように階層づけられた他のヨーロッパの国々を中央の構築物とし、ドイツが最上層にいるという一種の力のピラミッドだった。ドイツが支配するこの巨大な力の構築物が作られたら、のちにアメリカおよび日本と世界支配をめぐる闘いをやっても十分に勝算があるはずであった。

セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』(草思社)より。

加えて以下のような考えがヒトラーの頭に浮かんでいた。

・・・・・1940年6月のフランスの敗北後もイギリスが対独抗戦の姿勢をかえなかったとき、ヒトラーは、それまでとちがった関連において対ソ戦を考慮せざるをえなくなった。7月なかば、ヒトラーは、軍の首脳にむかって、「イギリスが抗戦をつづけているのは、ソヴェートの対独政策の変化に期待をつないでいるからである」という趣旨の考えを述べた。ここから、イギリスに対独抗戦を断念させるためには、まずソヴェートをたたかなければならないという思想までには、ほんの一歩にすぎなかった。

・・・・・

いまやヒトラーの頭のなかでは、目的と手段とが位置を逆転させつつあった。本来はヒトラーは、ソヴェートを攻撃するために西方諸国を屈服させなければならないと考えた。ところが、イギリスを講和にかたむけることが容易ではないことがわかったいま、彼は、こう考えた。西方での戦争をおわらせるためには、まずソヴェートを屈服させなければならない、と。

自己の大陸支配をイギリスに承認させるために、まずロシアを屈服させる――それは、一世紀以上もまえにナポレオンをとらえた魔の考えであった。おなじ考えにおちこんだヒトラーは、やがて、それによってみずからの没落をはやめてゆくことになろう。

野田宣雄『ヒトラーの時代 下』(講談社学術文庫)より。

国家の存亡に関わる大戦略を、自らの妄想じみた偏見に沿って、こうまで安易に変更していたら、勝てる戦争も勝てないですよ。

日本も、こんな男に引きずりまわされ、なぜ国を滅ぼさなければならなかったのか。

心の底から慨嘆したくなります。

終わらねえ・・・・・。

あと1年、1941年は次回にまわします。

2013年12月1日

福田和也 『昭和天皇 第五部  日米交渉と開戦』 (文芸春秋)

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第四部の続き。

1937~1941年を叙述。

第三部より恒例の一年刻みの年表風メモを以下に記述。

1937(昭和12)年。

広田弘毅内閣退陣、宇垣一成内閣流産、2月林銑十郎内閣に続き、6月第1次近衛文麿内閣成立、7月7日盧溝橋事件、8月第2次上海事変、日中戦争(支那事変)、第2次国共合作、南京陥落。

英ネヴィル・チェンバレン内閣成立、仏ブルム人民戦線内閣崩壊、伊が日独防共協定に加入し国際連盟脱退、ソ連では大粛清で赤軍のトハチェフスキーら処刑、米不況再到来。

日中全面戦争勃発で、日本(と中国)が地獄への決定的第一歩を踏み出した年。

二・二六事件以後、陸軍中央から皇道派が一掃され、梅津美治郎中将が統制派の領袖として台頭(広田内閣寺内寿一陸相の下で次官に就任)。

(満州事変以前の陸軍主流派だった長州閥の最高実力者で)1931年6月より5年間朝鮮総督を務めた宇垣一成に、広田退陣後、大命が降下。

しかし大正期にいわゆる「宇垣軍縮」を成し遂げ、昭和期にはとりあえず穏健派と見なしうる宇垣への大命降下に陸軍は反抗。

その際、穏健派の枠を踏み越えていたと思われる、1931年三月事件への関与が反対の口実として用いられた(軍の政治介入を当然視するような連中がこの口実を持ち出すのは倒錯もいいところだが)。

建川美次、松井岩根らは宇垣を支持するが、杉山元教育総監、小磯国昭朝鮮軍司令官などかつての宇垣派の盟友も反対に回る。

(陸軍の人脈については川田稔『満州事変と政党政治』を参照。)

結局、統制派の傀儡的表看板である林銑十郎が組閣。

林内閣成立時、石原莞爾は盟友板垣征四郎を陸相にして蒋介石政権との宥和を図るが、梅津ら新統制派によって失敗、陸相には杉山元就任。

大幅な軍拡予算を容認した広田内閣の馬場鍈一蔵相に比して、林内閣の結城豊太郎蔵相の予算はやや理性的だが、それでも軍に配慮したものだった。

その予算通過後の総選挙で政党勢力は後退せず、民政党が第一党となり、社会大衆党が躍進。

民衆もやや正気を取り戻した感があるが、そもそも世論の圧倒的支持を受けて陸軍が増長し専横を極めるようになったのだから、一般国民の民意が最初の、そして最重要の契機を与えた結果、日本が軍国主義化したという事実に変わりは無い。

それに盧溝橋事件勃発で、民衆世論はまたも逆の極端に走り、「暴支膺懲」の集団ヒステリーに囚われ、好戦論一色となるのだから、もう始末におけない。

総選挙後、短命の林内閣退陣、近衛文麿内閣成立、よりによってこの無責任な宰相の下、7月7日盧溝橋事件を迎える。

民意が異常を極めそれに国家の実力装置が煽られるような状況下で指導者個人が果たして何ができるかは疑問であり、またあくまで相対的に適任と思われるだけであるという前提ではあるが、この時の総理が、せめて宇垣なら、というのは日本帝国が地獄に転げ落ちた実際の史実を思うと、どうしても考えたくなる歴史のイフである。

それにしても広田弘毅が、林の後任総理が文官の場合、中国が侮日的になるとして杉山元を推す姿勢を見せたのは、全く不可解だ。

客観情勢の観察と状況判断を経て態度を決定するのではなく、とにかく何があっても強硬論一点張りというのは異様である。

近衛内閣は外相広田弘毅、蔵相賀屋興宣(おきのり)、陸相杉山元、海相米内光政。

盧溝橋事件の収拾に失敗、第2次上海事変で戦火は中国中心部に及び、全面戦争の様相となり、イギリスはじめ列強の権益が集中する華中に侵攻することで、それらの諸国との関係も急激に悪化。

事態が全面戦争に移行するかどうかの瀬戸際だった上海事変での対応について、賀屋蔵相と石原莞爾参謀本部第一部長が反対するのに対し、穏健派のはずの米内海相が出兵を主張してしまっている。

ここでも、著者の「海軍良識派」に対する冷たい視線を感じる。

近衛が南京を訪問し、蒋介石との(戦前の外交では極めて珍しい)首脳会談で事態を打開しようとする動きもあったが、外相広田が阻止。

もう、本当に勘弁してくださいよ、という感じ。

日中宥和を常に妨害するのが広田の弊、と著者は書いているが、全くその通りだ。

12月に国民政府の首都南京が陥落するが、中国の抗戦意欲は衰えず、事態は文字通り泥沼化する。

それまで共産党覆滅を最優先とするため忍従していたものの、何とか妥協できる範囲内である満州国建国を越えて日本が華北分離工作に乗り出し、中国本土の主権的統一まで脅かすようになったことで、蒋介石政権は完全に対日戦の決意を固めてしまった。

どれほど自国民が死んでも、どれほど国土が占領され荒廃しようとも、どれほど国富が失われようとも、結果として中国自身が地獄に落ちようとも、日本をその道連れにして打倒できればそれでよいという考え。

ここまで腹括られたら、そりゃ勝てないですよ。

実際その通りになった。

広大な国土を占領し、ほとんどの大規模な会戦では戦術的勝利を得たものの、結局日本は中国を屈服させることができず、米国を巻き込む形においてのみ実現したことではあるが、何にせよ、中国は戦勝国となり、日本は敗戦国となったことは間違いない。

現在も中国は国連安保理常任理事国であり、国際連盟で「五大国」の一員だった日本と入れ替わったような形になっている。

しかし、日本の敗戦直後は蒋介石の思惑通りだったとは言え、その後の国共内戦での敗北と中国本土の共産化、台湾への撤退は全く予想だにしないことだったはず。

その後中国大陸では「大躍進」政策と文化大革命で、日中戦争に匹敵するか、それを上回る犠牲者を出し、20世紀後半の世界で最も悲惨で最大規模の地獄を経験することになってしまった。

それを考えれば、やはり蒋介石をはじめ当時の中国指導層には、一般国民のナショナリズムに押し流されず、もう少し冷静に考えてもらいたかったところではある。

(そういう立場に追い込んだ責任が少なからず日本にあるし、日本国民も中国国民と同様に無分別な排外的ナショナリズムに流されたこともまた事実だが。)

双方の愚かしい排外主義が低劣な多数派民衆に感染し、自国の穏健な人々を押し潰し、本来戦うべきではなかった国同士を激突させた戦争を象徴するようなのが、以下の記述。

(おそらく人民戦線事件で)投獄された荒畑寒村の回想より。

次第に、牢獄はお祭り騒ぎの様相を呈してきた。私服刑事に春画を売りつけようとして逮捕された貧乏画家、郵便貯金通帳を偽造して捕まった大学生、マンホールの蓋を盗むのを稼業としている朝鮮人の少年たち。あらゆる職業について、こと細かな知識を備えた詐欺師・・・・・。こうした連中も、召集令状がやってくると、たちまち名誉ある帝国軍人になるのだ。「天に代わりて不義を討つ」 にわか仕立ての襷(たすき)をかけられ、放免と同時に前線に送られる犯罪者を、同房の者や看守が、軍歌で送りだす。「不義を討つ、も何も、おまえたち自身が悪人じゃあないか・・・・・」寒村は、嗤うこともかなわず、屈託は腹にわだかまった。・・・・・

その結果が、以下のような有様。

戦場特派員として取材した石川達三の視点。

連隊の従軍僧は、銃こそ持たないものの、青竜刀をかざして前線に出ていた。僧は二十人を超える敵兵を殺したという。「敵の戦死者は、弔うのですか」どういう修行を積んできたのか、輓馬(はんば)のような、みっちりした身体を火照らしている。「いや、しません。してやる僧もいますが、私はしない。戦死した兵士のことを考えたら、とても出来ない」「それは人情でしょう。でも死んだら仏じゃないんですか」僧は無関心を糊塗するように「駄目ですなあ」と云った。隊には、女物の指輪をしている兵士が何人もいた。「くれたんですよ」悪びれたふりすらせずに答えた。忠実に精勤していた中国人料理人を、砂糖を舐めたというだけで殺した上等兵。射殺された母親の側でずっと泣いていた娘を、刺し殺した一等兵。光景を傍観しながら、「勿体ねえことしやがる」とごちる伍長。その一言が、皆を解きほぐすのだった。「敵の命を軽く見ているうちに、自分たちの命も軽蔑するようになるんですよ」少尉はインテリらしく自己観察をした。南京に入るかなり前から、捕虜は殺すことになったという。軍令ではなかった。ただ、進軍の速度が速いので、捕虜を捉えておく施設も要員もなかったのだ。南京では、大きな建物に何千人も押し込めて焼き殺した、武装解除した捕虜を機銃で葬った、というような噂を何度も聞いた。

普通の(低俗な自称)「保守派」はこういうことは書かないんでしょうが、軍の大衆化が軍紀の退廃を招くという観点は極めて重要に思える。

一昔前の左翼は、こうした事実を(往々にして大いなる誇張を交えて)語り、それをもって日本国家を攻撃するのを常習にしていた。

しかし、こういう犯罪行為を犯していたのは、第一線で兵士として従軍していた一般民衆なわけです。

国家の指導層は、敵国民衆の無用な恨みを買い、戦争遂行上百害あって一利無しの、こうした行為を取り締まろうとしていたはず。

軍規を破り、無秩序状態をいいことに、邪悪な欲求を満たそうと、残忍・卑劣な行為に走ったのは民衆自身です。

それを、国家によって過酷な戦場に追いやられ自暴自棄になった不幸な民衆の逸脱行為であり、最終的責任は国家にある、とは決して言わせない。

本シリーズの第四部井上寿一『山県有朋と明治国家』古川隆久『昭和天皇』の記事で述べた通り、昭和初年以来、過激で好戦的な世論で、穏健な指導者を圧殺し、陸軍少壮将校らを煽動して、国内のテロリズムと対外膨張主義に導いたのは、紛れも無く民衆自身です。

少なくとも平均的な国民に、大日本帝国の既成支配層の「戦争責任」を追及する資格があるとは毛頭思えない。

国家政策のレベルでなく、一般兵士に軍規を守らせるための周到な配慮が戦前の日本国家に欠けていたとの批判ならば、まだしも成り立ちはする。

しかし、その場合、(私を含めた)民衆は厳格な拘束を課せられず無秩序状態に置かれれば、何をするかわからない畜生同然の生き物ということですね、そんなことを認めた上で、まだ左翼でいられるのか自問自答して頂きたい、と皮肉を言いたくなる。

また、旧軍の非行を少しでも取り上げると、脊髄反射のようにいきり立ち、「左翼」「反日」という馬鹿の一つ覚えのレッテルを貼り、集団的な誹謗中傷を浴びせ、相手に沈黙を強いるような、自称「保守派」「愛国者」にも最近強い嫌悪を感じる。

本当に「大東亜戦争肯定論」のような立場に立つのなら、その理想を汚した、上記のような民衆を批判する視点を持たなければならないはず。

そもそも、たとえアジアを侵略し続けてきた欧米列強への戦いに正当性があるとしても(私は極めて巨視的な史観に立てばあると思っていますが)、民衆の好戦世論に押し流され、全く勝ち目の無い時点で日本帝国は戦いを強いられ、帝国という国家の枠組み自体が滅んでしまった。

戦後日本は、戦勝国の「自由と民主主義」という「理想」に完全に侵食され、それを疑う力を全く失い、馬鹿げた左翼全盛時代が数十年続いた後、残ったのは現在のような粗野・低俗・卑怯・愚劣を極め、もはや「動物的」とすら表現したくなる、種族的ナショナリズムなわけです。

戦前の右翼革新思想も、戦後の左翼思想も、現在の排外的ナショナリズムも、結局衆愚世論の現われとして懐疑し批判する視点を持たない限り、真に保守的な考えとは言えないと思える。

1938(昭和13)年。

3次にわたる近衛声明、トラウトマン工作打ち切り、張鼓峰事件、国家総動員法。

オーストリア併合、ズデーテン危機、ミュンヘン会談。

国内では近衛内閣が続き、日中戦争泥沼化、世界では第二次世界大戦前哨戦としての外交交渉の年。

ヒトラー政権成立が1933年、第二時世界大戦勃発が39年、終戦が45年。

(以前ここで書きましたが、覚え方は「ムッソリーニが2のぞろ目[1922年]、ヒトラー[とルーズヴェルト]が3のぞろ目」でしたね。)

ナチ体制12年のうち、開戦時でちょうど6年ごとに分けられる。

だが、これも以前書いたように、「平時のナチズム」は実質前年で終わり、この1938年から「戦時のナチズム」に入ると考えた方がよい。

伝統的保守派に属する外相ノイラートと国防相ブロムベルク、陸軍司令官フリッチュが解任され、後任外相にはリッベントロップ就任、国防相の地位は廃止され、ヒトラーが軍と外交を完全に掌握することになる。

かつてヒトラー内閣成立を手助けした保守派はその愚かさの恐るべき代償を支払うことになった。

(その過程については、グイド・クノップ『ヒトラー 権力掌握の二〇ヵ月』の記事をご覧下さい。数回に分かれる長い記事ですが、ここでも私が現在の日本について持っている危機意識を感じ取って頂ければ幸いです。勘のいい方には私が何を言いたいのかわかって頂けると思います。)

完全な独裁権を握ったヒトラーはいよいよこの年から本格的対外膨張策に乗り出し、欧州情勢は一気に戦争の危機を帯びる。

エチオピア戦争を媒介に、イタリアへの接近を成し遂げたドイツは、かつて強硬に反対していたムッソリーニの黙認を得てオーストリアを併合。

(「英仏伊三国同盟」による避戦あるいはドイツ早期敗北の可能性の追求についてはニコラス・ファレル『ムッソリーニ 下』参照。)

続くチェコ・ズデーテン地方要求に対して、宥和政策の頂点であるミュンヘン会談で、英仏はそれを容認。

ここここで少し書きましたが、宥和政策の評価については、「ナチとヒトラーに対して宥和なんてとんでもない、あんな邪悪な相手は戦って叩き潰すしかない」という先入見をひとまず捨てないといけない。

ナチの反ユダヤ主義は満天下に明らかになってはいたものの、工場的手段を用いた集団的民族抹殺としてのホロコーストはまだこの時点では起こっていなかった。

となると、問題は1938年の時点で開戦した場合、英仏がドイツに勝てたかどうかの一点にかかっている。

私は不勉強で、この時点での各国軍事力を詳しく、具体的に比較した本を読んだことが無い。

ポール・ケネディ『大国の興亡 下』(草思社)には以下の記述がある。

西側諸国には戦争を決意するだけの政治的意思も世論の支持もなかったから、ここで長いあいだつづけられた論争を蒸しかえし、イギリスとフランスがチェコスロヴァキアのために戦っていたら、その後のなりゆきにどんな変化が生じたかを考えるのは無駄かもしれない。しかし、宥和政策の支持者がいうほど、軍事力のバランスがドイツに有利だったのではないことを指摘しておいてもよいかもしれない。戦力のバランスがヒトラーに有利になるのは、ミュンヘン協定以後なのだ。チェコスロヴァキアが消滅したために、1939年3月にはヨーロッパに実力のある中級国家がなくなってしまい、ドイツはチェコの軍事力、工場、原料を手に入れた。さらにスターリンの西側諸国への不信がつのって、ロンドンおよびパリへの親近感をしのぐことになった。イギリスでは兵器の生産が増え、フランスとの軍事協力がさらに緊密になって、イギリスの世論もヒトラーに立ち向かうべきだという方向に動きつつあったが、ソ連は西側諸国を信用できないと感じていた。同時に、チェンバレンが(1939年1月に)イタリアを枢軸から切り離すことに失敗し、バルカン半島における侵略を阻止できないことが明らかになった。

正確に言えば、ドイツの高級軍人がクーデタを起こし、ヒトラーを失脚させる可能性も考えなければならず、その場合たとえ軍事力において劣勢でも、リスクを冒して対独対決姿勢を取るべきだったとの意見も十分あり得るが、これは数値化がほとんど不可能な分、軍事情勢よりもはるかに判定しにくい。

ナチの勝利がもたらす破滅的事態を考えれば、(上記引用文のような見方ももちろんあろうが)やはり開戦時期については慎重な検討が必要でしょう。

軍事力が勝利を見込めるほど十分ではなく、軍拡のために時間を稼ぐ必要があるのならば、たとえどれほど非道徳的で、腹立たしく、すっきりしない気分が残ろうとも、一時的に宥和政策を採ったことは正しかったという結論になる。

実際、ネヴィル・チェンバレン英首相はミュンヘン以後、猛烈な勢いで軍備を拡張し、議会で以下のように言明している。

「長い期間にわたって、われわれは、わが国の再軍備の大計画をおしすすめてきており、それは、日ごとにそのペースとヴォリュームを増している。ミュンヘンで四大国間のこの協定に調印したからといって、われわれがこの時点で再軍備計画にかんする努力をゆるめてよいなどと、だれにも考えさせないようにしよう。わが国の側が一方的に縮小することは二度とありえないのである」

「これはこの場合だけでなく、他の場合にもいえることなのだが、外交の背後にそれを効果的ならしめる力が横たわっているという自覚がなければ、外交というものは効果をあげることはできないということをわたしは熟知している」

野田宣雄『ヒトラーの時代 下』より。

ナチとヒトラーの本質を見抜けず、退嬰的で一時しのぎの策にはしった愚かな政治家、というチェンバレンの評価はもはや揺るぎようがないものの、こうした見方があることは知っておいた方がいいとは思います。

日本に話を戻すと、いわゆる近衛声明はこの38年に3回出された。

第1次が1月、「国民政府を対手とせず」としトラウトマン工作を打ち切り。

第2次が11月、東亜新秩序声明。

第3次が12月、「近衛三原則」=善隣友好・共同防共・経済連携、汪兆銘脱出に呼応して出されたもの。

駐華ドイツ大使トラウトマンを通じた和平工作を打ち切ることに、多田駿参謀次長は反対するが、広田と杉山が押し切り、米内も賛同。

近衛の浮薄とともに、広田の鞏固な偏見と、米内の無責任な強硬姿勢が、再びより深い淵に国家を引きずり込んだ。

と記されているが、確かに、特に広田については専門分野でこれほど致命的な大失策を重ねる外相とは一体何なのか?という気分にさせられる。

内閣改造が行われ、広田が外相を離れ、宇垣が後任外相、陸相は板垣、蔵相は池田成彬(しげあき)。

5月に徐州作戦、中国軍の主力を捕捉・殲滅できず、中国は焦土作戦を採る。

焦りの見えた日本では、日独伊防共協定の強化と攻守同盟化が浮上。

(これにはさすがに米内海相が反対するが、本書の筆致からすると、なぜその前にもう少し毅然たる態度で日中和平を支持してくれなかったのかという気分になる。)

「中国が屈服しないのは米英が支援しているからだ、だからその敵対勢力たる独伊に接近すべし」との筋道であり、米英への対抗意識と対独接近の双方が結局日中戦争の泥沼化から帰結している。

しかし、「そんなこといってもしょうがないでしょう、そもそも米英の支援があろうと無かろうと、日本に中国大陸の全面的軍事制圧なんて出来るわけないんだから」と言いたくなる(当時のアメリカですら可能だったのか疑わしい)。

あの広大無辺の国土と膨大な人口、そしてその国民がしばしば狂的な程度にまで高まるナショナリズムに目覚めた以上、中国を外部勢力が完全に征服することはほとんど不可能です。

軍事力・経済力共に、日本に比べれば貧弱な当時の中国だが、その国土と人口によって、敵対勢力の攻撃を事前に阻止する「抑止力」は持たなくても、その意志に完全に屈服することを拒絶できる「拒否力」は持っていたとしか言いようが無い。

(上記の一文、理解のあやふやな安全保障論の用語を用いて述べていますので、あるいは誤用があるかもしれませんが、私の言いたいことは大体解かって頂けるかと思います。)

だとしたら、どこかで妥協するしかないのに、威勢がいいだけで思慮分別に欠ける矯激な強硬論に突き動かされ、日本は破滅することになってしまった。

それに日中戦争序盤では、ゼークトら軍事顧問団を派遣し、大量の兵器を輸出していたナチス・ドイツは、はっきり言って中国側に付いていて、「日中戦争は一面日独戦争だ」との観察すらあったわけです(松本重治『上海時代』)。

もっとも「だから中国は悪い」という気は私にはあまり無いです。

共産党討伐のためなら、(ホロコーストを起こす前の)ナチス・ドイツからの軍事援助も(もちろん違和感や嫌悪感がまるで無いわけではないが)一つの手段としてあり得るし、むしろその努力を背後から妨害したのは、長期的に見て日本の大きな失敗だと思えます。

それと日本が英国の在華権益が集中していた華中地域に侵攻して、英国がある程度対日強硬姿勢を採るのは当然であって、それに敵意を持っても始まらない。

むしろ情緒的親中感情と中国市場への非現実的期待から事あるごとに日本に敵対的言動を繰り返すアメリカに比べれば、イギリスはまだしも妥協の余地のある相手であって、実際「1935年の対日宥和策」(戦前昭和期についてのメモ その4参照)に乗っていれば、日本の運命は全く変わっていたはずである。

ともかく、外交を何か単純かつ感情的に捉える国民心理によって、「アジアとヨーロッパの戦争を連動させる」という、当時の国家戦略上、絶対にやってはいけないことを、この前後数年で日本はやってしまった。

10月広東と武漢三鎮(漢口・漢陽・武昌)が陥落すると、国民政府内非主流派の汪兆銘・梅思平・周仏海・高宗武らとの和平交渉が始まる(高は後に脱落)。

(この和平交渉を描いた犬養健『揚子江は今も流れている』は素晴らしい本です。)

防共協定締結、満州国承認、日本人の居住営業の自由、治外法権と租界返却、居留民への賠償はするが戦時賠償は無しといった条件で交渉。

しかし、本書には以下のような記述も。

「まさかね、欺されてはいないと思うのだけれどもね。何しろ支那人のことだから」[近衛]総理は、梅思平が耳にしたら、悶死しかねない言葉を、平然と発した。

汪兆銘らがどれほどの危険を冒して行動したかを思うと、あまりに酷薄すぎる言葉であり、根本的な日中和平が成立しなかった事実を象徴するような発言でもある。

汪は重慶を脱出、国民党ナンバー2の重慶政権離脱だが、汪の腹心もこれに従わず、地方の軍指揮官の蒋介石からの離反も起こらず。

なお、この年、河合栄治郎『ファシズム批判』『時局と自由主義』などが発禁になり、貴族院の精神右翼の攻撃を受けた。

3年前の天皇機関説問題でも貴族院の菊池武夫が口火をきっている。

世論・民意から超然として、その暴走に歯止めをかけるための国家機関であるはずなのに、一体何のための貴族院か。

これを「非民主的な制度が国民の自由を圧迫した」と捉えるのは無意味である。

衆愚的世論の影響が国家の上位機関にまで及び、それを押し流したことこそを問題にすべき。

長い・・・・・。

疲れた。

1939~41年の残り3年は次の記事に回します。

(追記:続きは以下。

戦前昭和期についてのメモ その7

戦前昭和期についてのメモ その8

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