万年初心者のための世界史ブックガイド

2013年10月23日

西部邁 『ケインズ』 (岩波書店)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 09:03

1983年刊。

著者名と出版元を見比べると驚いてしまいますね。

個人史、価値観、学問論、政治論、経済学の五章。

思想的部分や経済学的解説で、難しい部分があっても、そこは飛ばし読みでいいでしょう。

第四章の政治論を中心に読めばいい。

過度の市場的活動が、限定的合理性しか持たない諸個人の支えである慣習体系を動揺させ、社会は不均衡・分裂・動乱に見舞われる。

共産主義のような恐るべき狂信的運動が惹起する中、それを避けるためケインズが構想した経済への国家介入政策が生まれる。

それが「大きな政府」の弊害を生み出したのは確かだが、そもそもそれは原子的個人主義と教条的市場主義、自由放任主義が生み出した社会の弊害に耐えかねた大衆が自ら求めたもの。

にも関わらず、1970年代後半から80年代以降、新自由主義者が反エリート主義と大衆の自発的活動への信頼を掲げてケインズ批判に乗り出したのは途方も無い偽善・欺瞞・独善・虚偽であり、保守派がそれに合流するのはまぎれもない堕落であり、保守主義の大衆化をもたらし、大衆の趣味性向が絶対視されるいかがわしい市場への警戒心を放棄する自殺行為である。

そもそも「個人の原子化」「社会の中の中間団体と階層性の破壊」という点において、新自由主義(および前代の自由放任的資本主義)と左右の全体主義は強い親和性を持つ双生児であり、はっきり言って前者が後者の勝利をお膳立てしたとしか言いようが無い。

こうして「社会」を、私的個人同士の相互活動で出来上がる薄い膜のようなものへと縮小することは、今日、リバタリアンや自由市場主義者の野望として提示されています。しかし、わたしたちが忘れてはならないのは、それが何よりもまずジャコバン派、ボリシェヴィキ、そしてナチスの夢であったということです――もしわたしたちを、共同体あるいは社会として結び合わせるものがないならば、わたしたちは完全に国家に依存するしかない、というわけです。・・・・・

こうしたプロセスに、不可解な部分などまったくありません。それはエドマンド・バークのフランス革命批判のなかで、十分に述べられています。彼が『フランス革命についての省察』のなかで書いているのですが、国家の骨組みというものを破壊してしまうような社会は、すぐにも「個人性という粉塵へと空中分解してしまう」に違いありません。公共サービスを骨抜きにし、それらを民間供給者のネットワーク委託という形にまで縮小することで、わたしたちは国家の骨組みの解体に手をつけたのです。「個人性という粉塵」について言えば、それこそ正にホッブズのいう、万人の万人に対する戦争にそっくりで、そこでは多くの人びとの生活が孤独で、貧しくて、少なからず不快なものになってしまうのです。

トニー・ジャット『荒廃する世界のなかで』より)

言論の自由や市場活動に適切な規制と制約を課そうとする動きに対して、新自由主義者が「左翼」だの「全体主義」だのとレッテルを貼り、聞くに耐えないような罵詈雑言を浴びせているが、これほど卑怯下劣で見下げ果てた行為も無い。

こうした論旨に、個人的には衷心より同意する。

もう今の日本に社会主義的左翼の脅威など、どこにも無い。

むしろ自由と市場を絶対視する新自由主義者(というかその正体は、ただの拝金主義・快楽主義・物質主義者)が社会を混乱と窮乏に導いているにも関わらず、財力と金権を最大限に用いたデマゴギーによって世論を実質的に支配し、極少数の富裕層だけを「勝ち組」にする政策が推し進められている。

現在「オピニオン・リーダー」面をして、新旧のメディアでそのような政策の「必然性」を説くネオリベ的経済学者には激しい嫌悪と軽蔑しか感じない。

このまま行ったら、またしても逆の狂信的運動が生まれて、ある種の破局がこの国を見舞うのではないかという恐怖を感じます。

著者の作品のうち、特にこの本が、ということはないが、以下の引用文のように、心にずっしり応える部分は間違いなくあります。

『経済倫理学序説』間宮陽介『ケインズとハイエク』との併読を勧める。

・・・・・錯綜がありながらも、経済学の本流は自由放任の思想に偏っていたのであり、それはまた、一般庶民の素朴もしくは低俗な自由思想と呼応していたのである。というのも経済学は社会的慣習の重みについて、人間の知的および道徳的不完全性について、そして自由と平等のあいだの葛藤について、あまり真面目な考慮を払ってこなかったからである。総じていえば、“選択の自由”にたいする制約をできるだけ弛く解釈するのが経済学のやり方であり、それは“われらをして自由になさしめよ”という大衆の野蛮な叫びと軌を一にしているといってよい。ケインズは、経済学者たちと一般公衆のあいだに瀰漫していたこの堕落せる自由思想に痛撃を与えようとしたのである。

・・・・・ケインズは・・・・・自由放任への反発のあまり社会計画に安易に飛びついたとの感を免れがたいのである。その結果、彼は国家機構の懐にふかく抱かれた人物なのだという印象を世人に与えつづけてきた。だからこそ、大きな政府に反対する経済思潮が反ケインズ主義の形をとっていま吹き荒れているわけである。私自身は、大きな政府は大衆が国家の庇護を要求したことの結果にほかならないと考えている。したがって、そのような非自律的な大衆が市場機構の野に放たれて小さな政府ができたとて、経済学の純粋理論が教えているような自由の理想郷に入りうるなどとは毫も考えていない。

・・・・・旧制度における物質的不幸と社会的不平等それ自体は可能なかぎり、治癒されてしかるべきものであったろう。しかしそこには、凡庸なるもの、低俗なるもの、画一的なるもの、満悦的なるもの等々、つまりは大衆的なるものへの懐疑がまだ残されていた。その懐疑を保守しつつ物質的幸福と社会的平等の水準を高めること、それがケインズにおける大衆への二面作戦なのであった。彼が経済学の領土に自らを封じこめずに、より広い言論活動へと旅立っていったのもそのためと思われる。というのも、彼のみるところ、経済学は大衆性への懐疑を提供してくれるような種類の学問ではないからである。経済学は、たかだか、物質的幸福と社会的平等の問題にかかわるにすぎないとされていた。それらに伴う精神作用について、たとえば大衆的精神の横行が文明の殷盛を示すのかそれとも衰退の兆であるのかなどについて、解釈し懐疑するのは経済学の仕事とはみなされなかった。したがって、ケインズの幅広い言説が彼の亜流たちによってケインズ経済学という形に縮退させられてしまったとき、彼が高度大衆社会を飾る一柱のトーテムに祭り上げられたのも仕方ないところである。

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