万年初心者のための世界史ブックガイド

2013年7月21日

佐伯啓思 『20世紀とは何だったのか  「西欧近代」の帰結 現代文明論(下)』 (PHP新書)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 15:20

かなり前に読んだ上巻の続き。

以下に内容メモ。

箇条書きに近いので、意味不明なところもあろうかと思います。

まえがき。

「文献を隈なく渉猟することにはさして関心がなく、・・・・・文献としては、たとえば岩波文庫の古典と中央公論の『世界の名著』、それに二十世紀の古典がいくつかあれば十分・・・・・」とあって、「あっ、それでいいのか」とも思うが、当然私のレベルではそれすら全く不可能ですので、本書のような解説書は助かります。

1章。

19世紀から20世紀にかけて、ヨーロッパの中心性が崩壊して、真の意味で「世界史」が成立。

バラクラフ『現代史序説』が挙げられているが、これも読まなきゃいけないなと思いつつ、放置したままです。

近代の始まりを、1648年ウェストファリア条約で宗教的権威から世俗権力が独立したことに置く。

絶対王政を擁護したホッブズの思想だが、個人の自由契約がその出発点である以上、結局近代民主主義に繋がらざるを得なかった。

ホッブズの思想が、保守主義の観点から決して首肯すべきようなものでないことは、引用文(クイントン1)参照。

合理と普遍性の追求が啓蒙思想を生み、それが帝国主義によって非ヨーロッパ世界に拡散、米国とソ連の台頭をもたらす。

ウォーラステインによると、フランス革命によって、自由主義・社会主義・保守主義の三思想が生まれ、それぞれが米国・ソ連・西欧の主流となる。

表面上の対立に関わらず、伝統破壊と反貴族主義において米ソの共通性有り。

2章。

キルケゴール曰く、近代は「反省・水平化の時代」。

ニーチェ曰く、弱者のルサンチマンと隠された権力欲に基づく「奴隷革命」の時代。

彼の言うニヒリズムは東洋的無常観・諦念観ではない。

「目的の崩壊」=個人が意味を偶然性に与えることができなくなる。

「統一の崩壊」=集団・世界にも意味付けが失われる。

「真理の崩壊」=デカルトの合理的認識論→表象としての世界・真理とは言えない。

世界は「存在」するのではなく「生成」するもの、懐疑主義・静寂主義という消極的ニヒリズムを超え、「力への意志」を持ち新たな価値を創り出す「能動的ニヒリズム」=「超人」。

しかし、ハイデガー曰く、ニーチェのニヒリズム論も結局はデカルト主義、「人間-世界」を「主体-客体」として定立、主体性の形而上学であるのは同じだとして、(自身も一時支持した)ナチによるニーチェ思想の利用を説明している。

ニーチェは「奴隷道徳」に対して「貴族道徳」というものを考案してみた。これは「畜群」や「奴隷」を見ると「吐き気がする」という感覚のあり方を斥力として、人間を向上させようという戦略である。「げ、あんな連中といっしょにしてほしくないぜ」という嫌悪感をバネにして人間的成長をはかろうというのである。論理的には整合的なのだが、『道徳の系譜』を書いたときにニーチェがまだ気づいていなかったことがあった。それは、「畜群」というのは「畜群を見ると吐き気がする」というような「貴族のマネ」も簡単にできるタフな生物だった、ということである。その一世紀後に「オレ、ニーチェ読んで、あのバカども殺さないかんつうことが分かったわけ」とほざく子どもたちが輩出するとは、かの天才も想像できなかったであろう。大衆はニーチェが思っているより「もっとバカ」だったのである。その惨憺たる帰結はご存じのとおりである。

内田樹『街場の現代思想』(文春文庫)

ニーチェの近代批判は、その民主主義批判に典型をみるように、鋭利をきわめているようにみえる。だがその道徳・宗教批判は矯激に跳ねている。それは、おそらく、人間の生が道徳・宗教への関心(ということは価値への模索)をぬきにしては成り立たぬということを軽視したためであろう。

西部邁『思想の英雄たち』(文芸春秋orハルキ文庫)

3章。

ハイデガー『存在と時間』について。

世界を超越して外から見るのではなく、世界の中にすでに投げ込まれてその中で世界をみる「現存在」。

そのことの意味を問うことをしないのが「頽落」。

人間は共同存在であるから、ほとんどを大勢に従うことになり、中性的な「人」DasMannの言うがままとなる。

それに対して、死を意識して(「先駆的覚悟性」)、過去を取り戻しつつ(「反復」)、「本来性」を回復し、集団による共同の企て(「運命」)を引き受けることが必要。

しかし、結局これも近代の「主体性」の哲学を一層徹底化させたものに過ぎなくなってしまい(後のサルトルらも含めて)、通俗・平俗化されればナチスのような大衆運動に利用されることになる。

晩年のハイデガーは、人間を活動し選択し決断するものというより、観照し待望し何かに仕えるものであると考えるようになった。

4章。

ファシズムが、平等化の進展による階級社会消滅と大衆社会化によって生まれたことを指摘(コーンハウザー『大衆社会の政治』)。

伝統的共同体と宗教的信条を無くした根無し草の平等な個人が、政治的アパシーに陥り、あきれるほど簡単に他者に同調することによってファシズムが生まれる。

空っぽの大衆の頭に、カリスマが「国民的問題」とエセ世界観を注ぎ込み、達成不可能な情緒的目標で煽動された大衆が全体主義運動の道具となる。

それに抗すべきエリートや知識人も、反伝統主義・反既成支配層の感情から大衆に合流し、煽動者の手先に成り下がる。

著者は、「ナショナリズムからファシズムが生まれた」という考えを否定し、国民国家と帝国主義(および排外的民族主義、人種主義)とは全く違うことを強調する。

少数民族を包摂し統合するのが真のナショナリズムであり、移民や少数民族への野蛮な排斥はむしろナショナリズム=国民統合形成からの逸脱であるとする。

この国民国家的ナショナリズムに対置されるのが、種族的ナショナリズムであり、ナチは自らの軸足を後者に置き、そして皮肉というか理不尽というか、ユダヤ人も後者を基礎にする集団であると想定して徹底的な攻撃・撲滅の対象とした。

5章。

19世紀自由主義改革による民主政治は「指導者民主主義」であり、かつての国王と貴族の統治のような世襲制ではないが、依然エリートによる大衆の指導を内実にする政治であった。

それが産業革命以後の、中間層の拡大、複製技術革命が起こり、文化の商品化が進むと、他人の真似を自分の意見であると思い込む大衆が画一的でステレオタイプ化された世論を生み出し、大衆の欲望・野心・情念・偏見を動員することに成功した者が世界を動かすようになる(ルボンタルド)。

オルテガが指弾するように、凡庸なものがほとんど無制限の権利を要求し、政治について全く自覚も無く一切の努力もしない大衆が「生まれながらの権利」に基づき主張を押し通す社会となる。

さらに経済学者にその典型をみるがごとく、エリートとされる知的専門家こそが、大衆的存在に成り下がっている。

優れた少数者は特権者として否定され引き摺り下ろされてしまう(「奴隷一揆」[ニーチェ])。

6章。

政治だけでなく、経済も大衆化が進む。

所有と経営の分離、株式・債券市場の発達により、金融部門が拡大。

長期的スパンの実物経済が短期のシンボル経済に変化。

価格・賃金の安定という点で、大企業体制と大衆社会の蜜月関係が築かれるが、失業の不安が付きまとう。

ケインズの不確実性の概念。

不安な状況の中、人々は貨幣だけを信頼(「流動性選好」)。

実体経済への投資より金融市場での投機が横行し、経済は停滞。

貨幣は交換手段とは別に価値保蔵機能を持つ。

貨幣は交換価値しかなく、使用価値はない特殊な商品であり、根本では集団心理によって支えられるだけの存在。

金融市場の極度の不安定性からして、この貨幣を大衆心理へ委ねるのは危険であり、中央銀行・政府のエリートに依存するしかないというのがケインズの考え。

有効需要を増やす公共事業も、ケインズ自身は、民主的ではないエリートによる配分を想定していた。

社会民主主義とリベラル左派の論拠ではなく、大衆社会へのアンチテーゼとして、保守的立場からケインズを再評価するのが著者の主張。

7章。

アメリカ文明について。

(古典的)共和主義は王権とも対立するが、民主制へも批判的。

公的自由=徳を持つ公的活動。

私的自由=中身はブラックボックスで一切問われない。

本来共和主義が擁護したのは公的自由だったはずが、いつの間にかそれとすり替わった私的自由がほぼ無制限に主張される。

具体的日常的コミュニティでの健全な民主制が普遍化することで形骸化する。

技術主義・消費社会・方法化・ニヒリズムが蔓延し、手段の目的化・絶対化が止めどなく進行。

多文化主義を唱える主流派に対し、あくまでヨーロッパ文化を中心とする保守派。

人間中心主義(ヒューマニズム)も結局ニヒリズムに過ぎないものと化す。

適当過ぎるメモなので、読み返すと自分でもよくわからない部分があります。

しかし、本書自体は非常に読みやすく、中身の濃い本ですので、是非実際にお読み下さい。

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