万年初心者のための世界史ブックガイド

2013年7月11日

岡本隆司 『中国「反日」の源流』 (講談社選書メチエ)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 16:07

『世界のなかの日清韓関係史』と同じ著者。

1970~80年代の「日中友好第一主義」の裏返しで、それと同じくらい硬直しており、同じくらい馬鹿げている「反中原理主義」にはまり込んだ、最近腐るほどいる低俗な(自称)右派みたいなおどろおどろしいタイトルだが、中身は至極まとも。

20世紀における日中の正面衝突には軽く触れるだけで、17~19世紀の両国関係と内部の社会構造から対立の源流を探るというもので、近世の描写が大部分を占める。

以下、一応メモは取ったんですが、曖昧さや誤読があるかもしれません。

本書の論旨を一言で言うと、日本は公権力と社会との距離が近く、中国は国家と社会の遊離が顕著だ、というもの。

明代中国では、海禁政策と長城建設による現物主義の財政経済が行われる一方、社会の商業化と流動化は進行し、その矛盾が北虜南倭という破局を導く。

それに続く清は、民間の既成秩序に立ち入らない方針を採り、徴税も請負制で国家が個々の民衆を把握するのではなく、大口の少数者より取り立てる体制となっていた。

康熙時代のデフレから乾隆時代のインフレに変化する中で、中国が大きな繁栄を謳歌する一方、日本では逆に18世紀にデフレと経済的下降局面に入る。

しかし、日本では、そこから鎖国の下での輸入代替化の進行、自給自足的なクローズド・システムの確立、産業革命(インダストリアル・レヴォリューション)ならぬ勤勉革命(インダストリアス・レヴォリューション)が起こり、上下一体の凝集性を備えた社会が成立、近代化に適合的な条件を得る。

それに対して、中国社会は、流動的開放的官民乖離をその特徴とする。

多数の同郷・同業団体が力を持ち、聚落形態においても、権力の及ばない村落が中国では際立って多い。

こうした状況下で、中国は西欧の衝撃を受けたが、よく言われる中華思想もあり、本来日本よりも海外経験は多かったにも関わらず、西欧の文明と科学技術について、国家の上層部は無関心であり、一方民間では実用に特化した関心しか持たれず、国家全体としての体系的摂取には至らなかった。

社会の形態から言って、中国は柔構造、日本は剛構造であり、同じく西欧の衝撃を受けた日本では剛構造ゆえの脆さから、有機的結合の破綻がもたらされたが、それが同時に維新へのきっかけになり、新たに再編された官民協同の凝集的社会が上下一体となって近代化を推進できた。

太平天国の乱前後、漢人官僚の「督撫重権」は武装中間団体を政府側が組織し地方を確実に把握しようとするものであり、官民一体の凝集的社会を作り出そうとする試みと見なし得る。

ここから外交面に話は移る。

1871年日清修好条規が結ばれ、これは対等の国際条約だが、清は依然として朝鮮・琉球・ヴェトナムなどに対して朝貢国の概念を保持。

72年琉球藩設置、74年台湾出兵、75年江華島事件、76年日朝修好条規、79年沖縄県設置(琉球処分)を経て、1880年代、清は日本に対抗し、朝鮮において、これまでの「属国自主」のうち、「属国」を実体化し「自主」を名目化しようとする。

これが日本との対立をもたらし、82年壬午軍乱、84年甲申事変、94年日清戦争につながる。

内政に話が戻って、李鴻章らが推進した洋務運動について、「中体西用論」に立ち、「変法」(制度改革)を意図しなかったので失敗したという定説にやや疑問を投げかけ、李鴻章も制度改革の必要性は認識していたが出来なかった、当時の清朝の「官民懸隔」と西欧(および日本)の「君民一体」「上下一心」との距離が大き過ぎて、漸進的な改革の推進すら不可能になっていたとされている。

これを克服するために、中間団体の存続基盤を潰す社会構造の変化が必要だったと述べている。

普通、社会の中にあり、国家に対抗する中間団体というものは、自由の保障として肯定的に評価されるが(コーンハウザー『大衆社会の政治』等参照)、本書では逆。

まあ、国家の権力があまりにも弱体で、中間団体が武装化すら行い、単なる私的欲望の集合体として専横の限りを尽くすような状況はマイナスでしかない、という具合に理解しておきましょうか。

そこそこ面白くはあるが、なぜか強く勧める気にならないというのは前著と同じ。

普通ですかね。

上記の他にメモしようかと思うことはあったんですが、面倒なのでパス。

この記事を読んで、気になった方だけどうぞ。

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