万年初心者のための世界史ブックガイド

2013年3月8日

ハジュン・チャン 『世界経済を破綻させる23の嘘』 (徳間書店)

Filed under: 史論・評論 — 万年初心者 @ 21:34

どう考えても「世界史ブックガイド」を名乗るブログで紹介する本ではないが、いつもの事ですので気にしないで下さい。

個人的に「自由放任・市場非介入を貫くのが保守」という考えを、徹頭徹尾、最終的に、絶大な嫌悪と軽蔑を込めて、唾棄することが必要だと思ったので、手に取る。

著者は韓国出身の英ケンブリッジ大学准教授。

全く知らない名だが、ノーベル経済学賞学者のスティグリッツの推薦文があったので、それほど妙な本でもなかろうと判断。

著者はまず、「経済学の95%は複雑にされただけの常識であり、残りの5%にしても、その基本となる考えかたは平易な言葉で説明できる。」と述べ、表面上の難解な数理的説明で常識に反する結論を押し付けようとする主流派経済学者の主張を排している。

続いて、

「市場は自由でないといけない」

「株主の利益を第一に考えて企業経営せよ」

「市場がうまく動くのは人間が最悪(利己的)だからだ」

「インフレを抑えれば経済は安定し、成長する」

「インターネットは世界を根本的に変えた」

「世界は脱工業化時代に突入した」

「富者をさらに富ませれば他の者たちも潤う」

「経営者への高額報酬は必要であり正当でもある」

「すべて市場に任せるべきだ」

「経済を発展させるには小さな政府のほうがよい」

といった、誰もが一度は聞いたことのある主張を実にわかりやすく反駁している。

市場の境界はあいまいで客観的な方法で決められないとわかると、経済学は物理や化学のような科学ではなくて政治的営為であることに気づかざるをえない。・・・・・となると、新たな規制に反対するのは「ある人々からどれほど不当だと思われようと、現状を変えるべきではない」と言うのと同じことになる。そして、既存の規制を廃止すべきだと主張するのは「市場の範囲を拡大すべきだ」と言うのと同じことであり、それはとりもなおさず「金のある者にその領域でより大きな力を与えるべきだ」と言うのと同じことになる。市場というのは「金こそ力」の世界なのだから。だから「これこれの規制は、これこれの市場の『自由』を制限するので導入すべきでない」と言う自由市場主義のエコノミストたちは、「その規制法によってまもられる権利を認めない」という政治的意見を表明しているにすぎない。彼らは「自分たちの主張は政治的なものではなく、客観的な経済学的真実であり、反対者の主張こそがほんとうの政治的なものなのだ」という理屈をこねて、ごまかそうとするが、実は彼らの動機も対立する人々に負けず劣らず政治的なのである。

サイモンによれば、わたしたちは合理的になろうとするが、人間が合理的になる能力は大幅に制限されている。世界は複雑すぎて、わたしたちの知性では充分に理解できない、とサイモンは主張する。だから、わたしたちが良い決定をしようとするさいに直面する最大の問題は、情報の欠如ではなく、人間の情報処理能力の限界である。いまわたしたちが経験している大混乱を見ても、それは明らかである。華々しいインターネット時代が到来しても、人間の判断力が向上したということはないようだ。・・・・・自由市場主義者たちは、政府は行動を規制される者たちよりも市場のことを知らないという(筋が通っているように思える)理由で、政府の規制に反対してきた。・・・・・しかしサイモンの理論によれば、多くの規制が効果を発揮するのは、必ずしも政府が規制される者たちよりもよく知っているからではない。規制によって活動の複雑さが制限されるために、規制される者たちがより良い決定を下せるようになるからなのである。2008年の世界金融危機は、これが正しいことをはっきり証明した。・・・・・ルールをつくって選択の自由を意図的に制限して、対処すべき環境を単純化しなければ、人間の〈限定合理性〉では世界の複雑さに立ち向かうことはできない。わたしたちが規制を必要とするのは、政府のほうがつねに市場をよく知っているからではない。人間の知的能力の限界を謙虚に認識すれば、当然、規制が必要だとわかるのである。

この人間の知的不完全性・限定合理性という概念は、共産主義や国家社会主義を批判する文脈では、指令(計画)経済に対する市場経済の優位性を説く根拠になり得るが、それがいつの間にか、自由市場における人々の集団的選択は長期的には決して誤らないという異常な信仰となり、最も低劣で悪質な放縦と利己主義の正当化に使われてしまっている。

フリードマンは嘆く。「人びとは、強力な政府が自由にとってどんなに危険な存在かということを忘れてしまった。それどころか、“もしも政府の権力が『正しい』手にあれば”という条件つきではあったが、強い政府によってだけ達成できる良いことに心を奪われてしまうことになった」と。私も一緒に大衆の無知を嘆いたって構わない。しかし、そんなふうに大事なことを忘却し、危険な短絡を犯すのが大衆というものだとしたら、大衆の自発的に営む市場行動の成果をなぜ手放しで楽観できるのか。ケインズが大衆を騙かしたのだとしても、そう易々と騙されるのが大衆の社会ならば、市場の中心にもしケインズのような利口者が出てきたら、いったいどうするのか。

・・・・・「自由市場体制とより広い社会的・文化的諸目標の追求との間には、どんな矛盾も存在していない。また、自由市場体制と不幸な人への同情との間にも何の矛盾もない」などと極楽トンボでおられるためには、完全無欠な合理的人間を仮想しなければなるまい。再び問い質したい。そんな完全無欠な人々がなにゆえかくも巨大かつ危険な政府を容認したのかと。

・・・・・スミスは「公平で事情に通じた観察者の同感」が社会に安定性を与えるだろうと展望したのであるが、事態はスミスの思ったようにはうまく進まなかった。・・・・・自分たちこそ公平な観察者だとまかり出てくる社会主義的あるいはケインズ主義的な計画者たちの傲慢はすでに明瞭である。しかしだからといって、大衆をジュピターの地位に祭り上げるわけにはいかない。そんなふうにいうのは「利害関係がからんだ詭弁」というものであろう。「能力に応じて開かれている人生」を私も歓迎するが、いったい私のどんな能力がと、大衆人たる私は自問しないわけにはいかない。かりに自己懐疑の能力を失った人間を大衆人とよぶのなら、私は大衆人でありたくない。そしてフリードマンの言辞にはたしかに大衆社会のノーベル賞にふさわしく懐疑のかけらも見られないのである。

引用文(西部邁4)より)

「自分の仕事をそれ自体完結したものとみる技術者の見解を多かれ少なかれ幻想とみなすことが大切である」とハイエクはいう。「かれ(技術者)は自分には無意味と思える膨大な事柄に注意を払う必要性にたいし腹を立てる」と技術者を揶揄しもする。しかし真に冷酷な理論家ならば、そして真正の自由主義者ならば、自由の名において創造された事柄の負の側面にもっと注意を払う理論を、そしてそういう理論をつくるための認識の自由を、もつべきではないのか。自由がその反対物たる抑圧を産み落とすのは、可能どころか現実ではないか。英国の経験論が産み出した最も上質な政治思想は、いわゆる積極的自由にたいする懐疑としての保守主義だったのではないのか。自由の発揚がなにか善き事態を結果するであろうという進歩主義にたいする懐疑はとうぜん市場的自由にもむけられなければならない。その懐疑を避けようとすれば、民衆の自由を手放しで賛美するという大衆迎合に陥るほかない。しかもおそらく、舞台裏では、冷酷な理論家として、中央ヨーロッパ人にいかにもふさわしく、冷ややかな孤独の牢獄の中で大衆蔑視の思想を傲岸に鍛えながらである。このようなかれにおける憂鬱質の欠如を私はあまり好まない。

引用文(西部邁5)より)

新自由主義の思想は、政治の標語として利用されることばかり多くて、人々の習俗のうちにまだ根づいていないわけである。現に進行中の計画から自由への復古にあっては、人間の不完全性のために伝統の保守が必要とされること、そして伝統を維持するのが困難であることが少しも自覚されていない。たとえば、個人の全知全能を仮設するにひとしいような経済模型によって大きな政府の無効なることが証明されたりしている。また、市場における選択の自由を称揚する様々の言論は、市場志向の活動が過度に及ぶとき社会の慣習体系がつきくずされるかもしれぬという危険について、ひたすら楽観している。

顕著なのは進歩主義のイデオロギーである。個人や集団による自由の発動が、必ずや、個人の人格的発展と社会の調和的前進をもたらすであろうという思込みである。人間の不完全性を自覚すれば、つまり「無知の知」を知れば、社会全体を合理的に設計することが不可能だと分り、したがって社会主義やケインズ主義の間違いもわかる。しかし同時に、その人間の不完全性にかんする自覚は自由にかんする自己懐疑をも促すはずではないのか。とりわけ市場的自由によってもたらされる生活の変化をつうじて、慣習的な規則がどんどん形骸化し、ますます動揺するかもしれぬという懐疑がわいて当然ではないのか。この懐疑を封じるものこそ進歩主義の思想である。実は、新自由主義もその思想から自由だというわけではない。新自由主義が実際の経済活動に指針を与える際にレッセ・フェールに与しがちであるのは、それが自由への懐疑を失って進歩を信仰している点にあると思われる。またそれの主張する法と秩序がエスタブリッシュメントのための法制定を弁護するのに終わりがちなのも同じ理由による。つまり、政治の場面におけるレッセ・フェールを支持する結果、強者の論理がまかり通るのである。自由主義は、その新旧を問わず、自由の内包する自己破壊的な性質について、つまり自由の依って立つ基盤である慣習的な普通法が自由によって掘り崩されるという可能性について、無頓着である。

西部邁『経済倫理学序説』より)

さらに市場における経済活動に加えて、言論空間における政治活動についても、ありとあらゆるタブーや制約を徹底して排除し、言論の自由を完璧かつ無制限に保障しさえすれば、自動的により良き多数意見が形成され、予定調和的な進歩がもたらされる、と考えるのも狂った妄想以外の何ものでもないです。

もし、そんな19世紀の凡庸な進歩主義の想定が事実だったのなら、20世紀における全体主義と人類史上最悪の大量殺戮が生じたわけがない。

保守主義者による自由主義批判の核心は、自由主義は要するに全体主義のための「おとりのヤギ」であるという点にある。近代人のなかではとりわけバークからドーソン、エリオット、カークに至る人々がそのように考えてきた。社会内の伝統的権威や役割から人々を解放するという不断の努力を通じて、自由主義は社会構造を弱体化し、「大衆型」人間の増加をうながし、そしてこれによって、出番を伺っていた全体主義者たちを招き入れたというわけだ。エリオットによれば、「人々の社会慣習を破壊することによって」、「彼らの自然な集団意識を個々の構成要素に解消することによって、・・・・・自由主義はそれ自身を否定するものへの道を準備することになる。」またクリストファー・ドーソンも、ムッソリーニの全盛期に、イタリア・ファシズムは基本的には近代自由主義が生みだしたものだと断定している。

ニスベット『保守主義』より)

・・・・・群集は、起源においても、またそのほかの諸特性においても、きわめてさまざまだけれども、いくつかの点ではまったく似かよっている。すなわち、おどろくべき不寛容。グロテスクな高慢。病的な神経過敏。みずからの全能という錯覚から生れる狂的なほどの無責任ぶり。たがいに興奮させあった度はずれの動揺から生ずる、節度感の完全な喪失など。憎悪と賞讃とのあいだにも、嫌悪と熱中とのあいだにも、ばんざいという叫びとくたばれの叫びとのあいだにも、群集にとっては中間がない。ばんざいといえば、ばんざい千代に八千代にというわけだ。そこには神にも似た不死への願望と、なにかを神に祭りあげようとするきざしがある。しかもこの神格化を、永遠の呪いに変ずることも朝めしまえである。

・・・・・群集は最悪の指導者たちをむしろ選んで服従するというだけでなくて、最悪の指導者たちから発するいろいろの暗示のうちの、最悪の暗示をこそ選びかねない。なぜか?ちょうど、いちばん遠くまで音の響く鐘が、けっしていちばん甲高い鐘でもいちばん音色の澄んだ鐘でもなくて、要するにいちばん大きい鐘であるのに似て、いちばん伝染しやすい感情や思想は、いちばん強烈なやつだからである。さらに、いちばん強烈な思想とは、判断力よりは感覚に訴えるような、いちばん偏狭で、いちばん不正なやつだし、いちばん強烈な感情とはいちばん利己的なやつだからである。真実の抽象的概念よりも子供っぽい夢物語が、また推論よりは直喩が、先入主の放棄よりは一人物への盲信が、群集のあいだでずっとひろがりやすい理由はここにある。尊敬の念を捧げて楽しむよりは中傷する喜びに専念し、義務観念よりはおしゃべり好きの傾向が強く、歓呼よりは嘲笑のほうがずっとたやすくひろがり、勇気から飛びだすより恐慌におびえて暴発することが多いのも、みんな理由はここにある。

タルド『世論と群集』より)

あらゆるひとに自由に考え自由に行動することを許す民主的方法は、政治的にいえば、市民は理性的存在であって何事も知っており、明確な判断力をもち、本質的には慈悲深く寛容で共同の善を欲するのだという、十八世紀的信念のうえにたっていた。しかし、さらに悪いことには、利己的な目的の追求が個人的利害と公共の利益との完全な調和にみちびくという、仮説を信奉していたことである。民主主義は、市民というものが、自由主義制度を利用しさえすれば、だれでもそのうえに自由に書き込むことのできるいわば一枚の白紙であるということを悟らなかった。

レーデラー『大衆の国家』より)

群衆の強烈な感情は、特に、異なった分子から成る異質の群衆において、責任観念を欠いているために、さらに極端となる。罰をまぬかれるという確信、群衆が多人数になればなるほど強まるこの確信、また多数のために生ずる一時的ではあるが強大な力の観念、それらが、単独の個人の場合にはあり得ない感情や行為をも、集団には可能ならしめるのである。群衆のなかにいれば、愚か者も無学者もねたみ深い人間も、おのれの無能無力の感じを脱し、その感じにとってかわるのが、一時的ではあるが絶大な暴力の観念なのである。

群衆における誇張癖は、不幸にもしばしば悪質の感情にも及ぶことがある。この悪質の感情は、原始人の本能の遺物であって、単独の、責任観念を持つ個人ならば、罰を恐れるがゆえに、これを抑制せざるを得ないのである。こうして、群衆が最も悪質の過激行為に走りやすい理由も説明される。

ル・ボン『群衆心理』より)

教養があるなしにかかわらず、じつに多くの人のばあい、生に対する構えは、いぜんとして、あそびと人生とに対する少年の心そのままである。さきにわたしはたまたま、永遠の青年期と呼んでしかるべき、あのひろくみとめられる精神状況について語った。それを特徴づけるのは、適切なことと適切でないことをみわける感情の欠落、他人および他人の意見を尊重する配慮の欠如、個人の尊厳の無視、自分じしんのことに対する過大の関心である。判断力と批判意欲の衰弱がその基礎にある。このなかばみずからえらびとった昏迷の状態に、大衆はひじょうな居心地のよさを感じている。ひとたび倫理的確信のブレーキがゆるむや、いついかなる瞬間にも危険きわまりないものとなりうる状況がここにある。

このような精神状態は、ただたんに、自分じしんの判断を下す意欲に欠けるところがあり、集団組織の画一化作用が、できあいのワンセットの考えかたを押しつけ、つねに思考が皮相に流れてしまうところからもたらされたというにとどまるものではなく、じつに憂慮すべくも注目すべきことに、おどろくべき技術の発展それじたいが、じつはこのような精神状態をひきおこし、これにたっぷり餌を与えているところのものなのである。人間は、この驚異の世界にあって、文字どおり子供のようだ。お伽噺の世界のなかの子供のようだ。飛ぶ機械で旅することができる、いながらにして地球の反対側と話をすることができる、自動機械を使ってちょっとつまむことができる、ラジオを通じてひとつの大陸全部を自分のものにすることができる。ボタンを押せばそれでよい。生がかれのほうにやってくるのだ。このような生は、かれを成熟させるだろうか。まさに逆だ。世界はかれのおもちゃになってしまったのだ。おもちゃを手にしたかれが子供のようにふるまうからといって、それになんのふしぎがあろう。

いたるところに妄想と妄語がはびこる。かつてないまでに、人びとは、ことばの、合言葉の奴隷となって、たがいに殺しあう、相手を議論で屈服させるのである。世界は、憎しみと誤解を負わされている。愚かなものがどのくらいおおぜいいるか、過去にくらべて、どのくらい多いか、その比率を測ろうにも尺度はない。だが、愚かさは、以前にもまして旺盛に害毒を流し、高く君臨している。生半可な教養を身につけた、にぶい精神に対しては、伝統、形式、礼拝といったことへの敬意も、しだいに歯止めとしてはたらかなくなってきた。最悪の事態は、いたるところにみとめられる「真理ということについての無関心」であって、これは、政治的欺瞞の推賞ということのうちに、その極みにまで達している。

引用文(ホイジンガ1)より)

集団秩序の現存在においては、すべての人の教養が、平均的人間の要求に接近する。単なる悟性にとって無造作に、たちどころに判明するところまで持っていく合理化の働きが、知識のあらゆるあり方を零落させる過程を持ちだすとき、精神性は大衆のなかに広まることによって頽廃する。水平化する集団秩序と共に、教養のある人の層が消滅してしまう――その訓練にもとづいて彼らが精神的創造物の反響でありうることにもなろうという、考えることや感じることの訓練を、継続的な稽古の基礎の上で発達させてきたところの教養のある人の層が。大衆的人間は、ほとんど時間を持たず、全体にもとづく生活を生きるわけではなく、それを利益にしてくれる具体的な目的がなければもはや準備も努力もしようとはしない。彼は待って熟させることを欲しない。すべてが、即座に、現在的な満足でなければならない。そして、精神的なものは、そのときどきの瞬間的な楽しみになってしまっているのである。エッセイがすべてのことをあらわすのに好適な文学形式であり、書物の位置には新聞がとってかわり、生涯の伴侶になる作品にかわって不断に別のものになる際物的な読みものが登場するのは、このことに由来する。ひとは迅速に読む。ひとは短いものを欲し、しかもそれは、心に刻みこむ瞑想の対象になりうるものではなくて、ひとが知りたがってすぐにまた忘れても差し支えないようなものを迅速に取り次いでくれるものである。ひとは、内容と精神的に一致して本来の意味で読むことはもはやできないのである。

あの場合この場合と、しばしば場合が生まれてくるために、人々がもはや互いに理解し合うことができなくなるほどの、ひとが取る立場の無際限さは、もっぱら、誰もがせめて何かを意味したいと粒粒辛苦してつくった自分の意見を無責任にも語ろうとあえてすることの結果なのである。ひとは、いま思いついたばかりのものを「単に討議にかける」あつかましさを持っている。無数の印刷された合理性が、多くの領域で、遂には、かつて一度は生命ある思索であったものの今ではもはや本来の意味では理解されなくなっている残骸の、混沌たる乱雑な流れを、大衆的人間の頭脳のなかで陳列することになる。

・・・・・単なる現存在秩序が相対的で自由が超越的存在の前では無であるという真なる意識が、一切のものを否定することに変化させられてしまう。現存在によっては中和されえない<固有現存在>の不満のひそかな毒が、行動し労働することとしての生活の代わりに、否定的に罵ることとしての生活を産み出す。この毒におかされると、私は本来的には、いつでも一切がいま現にあるのとは別であってくれることばかり欲し、いつでもかかわりになることだけはしなくてもよいように脱走することばかり欲するのである。時代や情勢についての正当といえる批判が、それらのなかで人間が脅かされているがために、ひとつの楽しい懐疑的滅却になる――あたかも「否」を言うことが無能力者たちにとって、れっきとした生活であるかのように。世界を粉砕する――そのとき生ずるものは、これまた価値ある何ものかであろうが、どのみちそれも粉砕される羽目にならざるをえない――それがこの「否」の気楽な態度なのである。しかし、本能的な生命衝動のために、ひとは無としてでもとにかくその人自身でありつづけたいと欲する。ひとは、その根において所詮は嘘であるところの、仮借ない真実性を装う。時代意識において百年このかた考えられてきたすべてのものが、この否認的に思ったり言ったりすることの箔として役立つに相違ない。

彼[詭弁家]が優勢になり確固たる地位を獲得すると、いましがたまで卑屈であったその彼が、存在である一切のものに対して、俄然、攻撃的になる。憤怒の衣服をまとって、彼は人間の高貴さに彼の憎悪を向ける。なぜならば、彼の身に何が起ころうとも、彼はそれを無のなかに止揚するのだから。無の可能性の前に立つ代わりに、彼は無を信じているのである。彼に迫るものは、どんな存在に直面しても、それが無であることを彼流に確信することである。彼がすべてをわきまえていようとも、畏敬とか羞恥とか忠誠とかが彼に無縁なのは、このことに由来する。

決してまともな相手ではなく、彼は名乗って出ることはないし、すべてを忘れ、口ではいつも責任を言うくせに内的責任というものはまるで知らない。彼には無条件的なものの自主性が欠けており、しかも彼には非存在の無拘束性が残っていて、その点に、瞬間的で任意に取りかえる主張の強引さがある。

ヤスパース『現代の精神的状況』引用文(ヤスパース1)同(2)より)

出版の自由は毒物販売の許可のようなものとみるべきだ。毒物といっても精神と気分に対する毒物だ。というのは、知識も判断ももたない大衆の頭にどんなことが浮かぶか、わからないではないか。とりわけ目先に利益や儲けといったことをちらつかせる場合、なにを考えだすかわかったものではないからだ。いったんなにかをこの頭に吹きこんでしまえば、どんな非行・犯罪もできないことはないではないか。だからわたしは、出版の自由は危険のほうがその利点をうわまわることになりはしまいかと、非常におそれるものである。とりわけどんな苦情でも法的に訴える道が開かれているから、なおさらである。いずれにしても出版の自由は、いっさいの匿名を厳に禁止することを条件にすべきであろう。

引用文(ショーペンハウアー1)より)

きりが無いので止めますが、思想・哲学史論・評論引用文カテゴリを見て頂ければ、他にも多くの類似した文章が見つかると思います。

近代化で自由を得た大衆の集団的狂気に対する懐疑心を持っているかどうかが決定的に重要であって、右とか左とかの表面的事象をあれこれやかましく言い立てることは、もはや馬鹿馬鹿しく、全く無意味に思える。

同じ流儀の口実や同じ態様の害悪を二つの時代が持つことは滅多にありません。人間の邪悪さはもう少し発明の才に長けていて、人が流儀を論じ合っている間にもその流儀は過ぎ去ってしまいます。まさに同一の悪徳が新しい姿を装うのです。悪徳の精は生れ変り、外見の変化によってその生命の原動力を喪失するどころか、新しい器官を得て、新たに青年の行動の如き新鮮な活力を恢復するのです。人が死体を晒し者にし、墓を発いている間にも、それは大手を振って歩み、破壊を続けるのです。家が盗賊どもの棲家になっているというのに、人は幽霊やお化けを勝手に恐がっています。歴史の貝殻や外皮にだけ目を奪われながら、しかも自分は非寛容や高慢や残酷さと戦っているのだ、と思っている人間は皆このようなものです。彼らはその一方で、時代遅れな徒党の悪しき原理に対する憎悪という彩の下に、同じ唾棄すべき悪徳を別の―しかも恐らくはより一層悪い―徒党の中に是認し涵養していることになるのです。

引用文(バーク1)より)

近年異常繁殖している、いかなるルールもマナーもエチケットも無視し、ありとあらゆる罵詈雑言と誹謗中傷と揶揄嘲笑を平然と用い、「左翼」を集団で口汚く攻撃して自己陶酔している(ほんの数年前の私を含む)人々を見ると、上記の引用文を思い起こしますし、数十年前なら全く同じ人々が全く同じように「右翼」「反動」を集団リンチにかける快感に酔っていたんだろうなと思います。

無制限の言論の自由と単純多数決原理の民主主義と自由放任的市場経済を絶対視し墨守するのが「保守」で、それに反対する奴等は全員「左翼」だと片付ける人間とは、もう口もききたくないです。

読みやすく、有益な本。

機会があれば、是非手に取って下さい。

参考文献としては、ポラニー『大転換』(東洋経済新報社)荒井一博『自由だけではなぜいけないのか』(講談社選書メチエ)間宮陽介『ケインズとハイエク』(ちくま学芸文庫)およびトニー・ジャット『荒廃する世界のなかで』(みすず書房)等をどうぞ。

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