万年初心者のための世界史ブックガイド

2013年3月2日

廣部泉 『グルー  真の日本の友』 (ミネルヴァ日本評伝選)

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1932~41年にかけて駐日アメリカ大使を務めた人物。

一外交官としては不釣合いな程、その知名度は高く、各種史書にもしばしばその名が登場する。

1880年、ジョセフ・グルーは、ボストンの富裕な名門に生まれる。

ハーバード大学を経て外交官の道へ。

妻のアリスも、ベンジャミン・フランクリンやペリー提督に連なる名家の出身。

絵に描いたような、東海岸エリート。

基本的過ぎることだが、米国には外務省という名称の官庁は無く、国務省が対外関係を担当し、外相に当たるのは国務長官。

あと、かつては派遣先国家の重要度によって、大使と公使が使い分けられており、大使は主要国間にしか駐在していなかったことをチェック。

メキシコからロシアを経て、ベルリンで一等書記官として勤務、第一次世界大戦勃発までそのポスト。

ウィルソン政権内での対独方針の違いから、1915年国務長官がブライアンからランシングへ交代。

グルーは、デンマーク・スイス・トルコへと転属。

そしてトルコでは、1920年セーヴル条約から1923年ローザンヌ条約にかけての、高校教科書でも出てくる、ケマル政権との交渉を担当。

1921年ハーディング共和党政権、ヒューズ国務長官の下、ワシントン会議開催。

23年クーリッジ政権、24年グルーは国務次官就任。

第二次大戦中に次官になったのは以前から知っていたが、戦前にも就任していたことは本書で初めて知った。

名称通り、国務次官は国務省ナンバー2(現在では確か国務副長官という役職があるか)。

ただし、日本なら外務次官が外務官僚トップだが、米国の次官は長官との関係次第で重要案件に全く関われない場合があり、ヒューズとグルーの関係もそうだったので、グルーの主な任務は公務員制度改革となり、少し後では、当時分離していた外交職と領事職の統合問題に取り組むことになる。

1925年、ケロッグが国務長官に。

パリ不戦条約を推進したことからも想像されるように、理想家肌で、外政家としては未熟であり、伝統的外交術への民主主義的立場からの軽蔑を持っている人物で、グルーとも軋轢が生じる。

同じ25年の出来事として、米空軍の父と呼ばれた、ビリー・ミッチェルとの会合で、日米必戦論を主張するミッチェルに、グルーが強く反論している。

ミッチェルは、シベリア獲得のためには日本との戦争は避けられないと主張した、とにわかには信じられないことが書かれている。

日本だけではなく、米国にも、異常で愚かな好戦的世論は存在していたんだということは、我々はしっかりと心に銘記しておく必要があると改めて感じた。

1926年、北伐が進行する中国での争乱による既存条約侵犯に対して、グルーやマクマリーは米国の武力行使を支持し、長官のケロッグとまたも対立。

この立場は、英国や幣原外交下の日本よりも強硬だと評されている。

27年次官辞任、トルコ大使に。

1929年フーヴァー政権でスティムソンが国務長官就任、その前年28年にはスタンレー・ホーンベックが国務省極東部長になっている。

満州事変に際して、原則主義的対応を採ったスティムソンに対して、グルーは、(米国の国益に反する)戦争以外に日本を制止する手段が無い以上、現実に即した政策を採る以外にないと主張。

(ちなみに、グルーは一貫した共和党支持者。)

1932年6月、五・一五事件直後の日本に駐日アメリカ大使として赴任。

樺山愛輔伯爵(初代台湾総督樺山資紀の子)、牧野伸顕、斉藤実、松平恒雄、吉田茂らと交流。

本来外交というものは(実は外交に限らないが)、こういったしかるべき世襲的身分と社会的地位の有る人たちの間でのみ為されるべきなんですよねえ。

大衆の「民意」や「国民感情」なんてものが介在してくるから、真の長期的国益に基づく冷静な交渉で避けえたはずの戦争が避けられなくなり、一度始まった戦争を収拾することが極めて難しくなったんです。

日米戦争もその典型です。

1933年政権交代で、ルーズヴェルト民主党政権成立、国務長官はコーデル・ハル。

このルーズヴェルト時代、ほぼ全期間、大戦末の44年に至るまでハルが長官を務める。

「親日」とか「反日」という単純なレッテルを貼って、固定観念に満ちた硬直した見方で、ある国や人物や組織を罵倒することが、歴史を知ることだと錯覚する傾向には本当にウンザリするんですが、しかし、やはりこのハルと上記ホーンベックのコンビは、日本にとっては本当に嫌な組み合わせだなあと思わずにはおれない。

しかし、1937年頃までのルーズヴェルト政権の対日方針は、大恐慌への対応を最優先にしていたため、妥協的宥和的なものに止まっており、グルーと本国との立場の違いは比較的大きくなかった。

(なお、36年二・二六事件のまさに前夜、グルーは斉藤実・鈴木貫太郎夫妻を大使館に招いていた。)

それが、1937年日中戦争勃発によって、深刻な事態に陥る。

グルーは、ユージン・ドゥーマン参事官と共に、事態の沈静化に努力するが、同年ホーンベックは国務省顧問に就任し、極東政策に関して「院政」を継続、10月ルーズヴェルトのいわゆる「隔離演説」が行われ、グルーは落胆する。

大陸での軍事行動を拡大する一方の日本に対し、グルーも強い姿勢で当たる必要性は認めていたが、経済制裁には反対し、上述のマクマリーの支持を得る。

なお、39年末にグルーが記した日記で、

我々がいま入らんとしている十年間について何か政治的予言をするなら、その十年が終わる前に我々は英仏独日が共同してソヴィエトと戦っているのをみるだろうというものになるだろう。そのような予言が想像をたくましくしすぎだとは思わない。私の予言はしかしながら、ヒトラー氏はその中にはいないだろうと付け加えよう。

という記述が紹介されているが、驚くべき洞察力ではある。

この時期になると、グルーも対日強硬論に転換し、戦争も辞さない態度を示し、日本の対独接近とこれ以上の膨張を阻止すべきと主張。

一方、ホーンベックは逆に経済制裁のみで日本は為す術なく屈服するはずだと、日本の国力と破れかぶれの決意を過小評価。

これに対し、グルーは、日本が「国家的ハラキリ」を行う可能性を危惧した。

実際その通りとなり、1941年9月近衛・ルーズヴェルト首脳会議が流産し、12月日米開戦、グルーら大使館員は抑留される。

交換船で帰国する際、出国時に日野原重明医師が同行した、と書いてあるのを見て驚いた。

「よど号事件」と言い、歴史上の大事件に偶然何度も立ち会われているんですねえ。

帰国後、米国内での講演旅行を行う。

日本軍部の残虐さと狡猾さを強く批判しつつ、日本国民全体を人種的に攻撃することはせず、かつてのリベラル的指導層の存在を指摘し、これを擁護した。

44年1月ホーンベックが失脚(上記ドゥーマンは彼を「中国への愛と同情、日本への病的な嫌悪」の人と評している)。

同年ステティニアス国務長官就任、グルーは国務次官として復帰。

ステティニアスとの関係は良好で、天皇制存置を前提にした終戦に向けて活動する。

44年12月ステティニアス、スティムソン陸軍長官、フォレスタル海軍長官によって、戦争と戦後処理についての会議である、「三人委員会」が結成され、グルーがステティニアスの代理としてしばしば出席。

45年4月トルーマン政権成立、グルーは対日声明に天皇制維持を示唆することを目指す。

これにスティムソンも賛成。

かつては非妥協的な対日政策の主唱者だったが、ここでは「浜口、若槻、幣原」への信頼を語る。

フォレスタルも賛同し、すでに戦後のソ連との対決を見据えていた反共派を中心として、元大統領のフーヴァーも支持。

彼らは「ソフト・ピース派」とも呼ばれる。

ところが45年7月バーンズが国務長官となった頃から事態は暗転。

バーンズは外交には素人で、国内政治の観点から外交問題を見るような人物であり、戦時中のヒステリックな世論の影響を強く受ける。

バーンズとモーゲンソー財務長官(ドイツを農業国に転落させるモーゲンソー・プランを提出した人物でもある)、元長官ハル、ディーン・アチソン国務次官補(のちの国務長官[1949~53年])ら「ハード・ピース派」の反対で、ポツダム宣言に日本の政体について「現皇室の下での立憲君主制も排除しない」との文言は折り込まれず。

この辺の記述を読んでいると、「当時の日本の降伏に国体護持が必要なのはわかってるでしょう、もう勝敗は完全に決しているんだし、これ以上民間の非戦闘員を殺すこともないでしょう、最後の一年くらいはもう戦争じゃなくて虐殺ですよ、だいたい民主主義と軍国主義を単純に対置するのが根本的に間違ってるんですよ、日本の軍国主義は(そしてファシズムとナチズムも)前近代的・非民主的要素から生まれたものじゃなくて近代化の進展で自由を得た民衆の狂信的運動から生まれたものでしょう、そこをハード・ピース派はもちろんソフト・ピース派も誤魔化してる、それとも何があってもアメリカは民主主義の看板は降ろさないって訳ですか、ははあ、ご立派ですなあ、でも貴方がたの建国の父たちのうち、少なくとも半分程はデモクラシーがどれほど悪しき政治に直結する可能性があるかしっかりと認識していたんじゃないんですか、そういう懐疑を完全に捨て去ったのに自分たちが終始一貫同じ精神を保ち続けていると自己欺瞞に耽ってるんじゃないですかね、間歇的にやってくる好戦論と社会的ヒステリーを見ると、米国が枢軸国や共産国と異なった道を採れたのは単に国土と資源と富に恵まれた偶然からであって、民衆の愚劣さは他国と大して変わらないんじゃないですか、奴隷制度の合理的平和的撤廃の失敗と自己破滅的な南北戦争、好戦世論に易々と突き動かされた米墨戦争、米西戦争とハワイ併合、あくどい手口のパナマ独立に代表される中南米への恣意的介入、禁酒法にマッカーシズム、カウンター・カルチャーの跋扈と治安の崩壊、あらゆる人間が自己を被害者だと言い立てる人種対立、暴力が日常化している銃社会に黒を白と言いくるめる法律万能主義の訴訟社会、空疎な「アメリカン・ドリーム」のお題目と史上空前の格差社会、そして近年のイラク戦争、金融資本による事実上の世論支配と政策歪曲が、日本にとっての第二次世界大戦規模の破局を米国にもたらさなかったのは、単に上記の偶然から国力に余裕があったというだけで、米国の政治体制の正当性を保証するものとは到底思えませんがね、貴方がたが称揚して止まない自由と民主主義自体が独裁と抑圧を生む素なんだと少しは自省したらどうなんです、それに終戦後貴方がたが対峙する共産主義も民主主義が生んだものですよ、だって人間社会のあらゆる不平等を永久に消滅させると豪語して民衆を煽動し権力を握った運動なんですから、その際手続き的な自由主義や議会主義を踏みにじったとしても、それは多数派民衆の意志に従ってなされた行為ですし、あるいは百歩譲っても、そうした少数の狂信者の行動を前にして多数派民衆はろくな抵抗もできずたとえ消極的にせよ同意したわけですから、民主主義の名の下では決して根本的に非難できないはずですよね、言っときますが、我々はソ連との冷戦にはほとんど貢献できませんよ、貴方がたが『真の戦犯』たる民衆を免罪してくれたおかげで、狂気じみた左翼運動が巻き起こり、それに対処するので精一杯になりますからね、まあせいぜい極東での国際秩序と力の均衡の維持に努めて下さい、それを数十年担ってきた我々に無条件降伏を要求して占領下で憲法を制定し権力政治からの完全な棄権を強要したのは貴方がたですから、それを担うのは当然の義務と言うもんですよ、そしてそれに勝利したらしたで、『自由と民主主義の勝利』を高らかに歌い上げるわけですか、まあ実現すればするほど蟻地獄に落ちるような理想をいつまでも掲げていればいいですよ、でも出来ることならそれに日本を含む他国を巻き込まないでもらえませんかね」といった具合に延々と嫌味と皮肉を述べ立てたくなる。

グルーは終戦後辞任、以後は反共の闘士として活動、中華人民共和国の国連加盟に反対する。

これはやはり長期的に見れば現実離れしており、ヴェトナム戦争介入も共産中国への過剰な懸念による反応だったことを考えると、勇み足を言わざるを得ないか。

1965年死去。

吉田茂が東京で開かれた追悼式に参列、回顧録で「日本の真の友」と記し、これが本書の副題になっている。

グルーの著書『滞日十年』はちくま学芸文庫で読むことができます。

読みやすく結構面白い。

機会があればお手に取って下さい。

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