万年初心者のための世界史ブックガイド

2013年2月6日

ムッソリーニについてのメモ

Filed under: おしらせ・雑記, イタリア — 万年初心者 @ 12:42

ニコラス・ファレル『ムッソリーニ 下』(白水社)記事続き。

1939年9月1日、独がポーランド侵入、9月3日第二次世界大戦勃発。

イタリアは中立を声明。

グランディは、ドイツが防共協定・鋼鉄条約双方を破ったと主張。

同年末には、ファシズム大評議会などにおいて、バルボが同盟の切り替えを公然と主張、チァーノは反独的と見なされる演説を行う。

(このチァーノは少し前には参戦に傾いていたような態度も示しており、本書での評価は甚だ低いが。)

実際、イタリアの軍備は主要国としては全く貧弱極まるもので、その基盤となる工業力を中心とする基本的国力も劣勢であった。

本書で例示されている数字では、39年時点の鋼鉄生産量は、伊が240万トンであるのに対し、英1340万、独2250万。

この状況では、前回記事で示したような心理的外交戦の段階であればまだしも、実質的な軍事力だけがものをいう戦時においては、イタリアが持っていた行動選択の余地は極めて限られたものにならざるを得なかった。

1940年1月、ムッソリーニは、ソ連との不可侵協定破棄と英仏との交渉開始を、ヒトラーへの書簡で提案している。

3月、仏首相がダラディエからレイノーへ交代、5月にはチャーチルが英首相に就任。

戦局の推移に伴い、ムッソリーニも徐々に独寄りの姿勢を見せ始めるうちに、40年5月西部戦線でドイツが大攻勢に転ずる。

フランスが降伏寸前となった6月、ついにイタリアも宣戦布告。

あくまで短期での勝利を予測してのことだが、結果として破滅への決定的な一歩となった。

インドロ・モンタネッリは、彼のイタリア史シリーズ中の1940~43年を扱った巻の序文で、その巻を書くことが彼にとって他の何より辛い思いで満たした――その辛さはムッソリーニや彼の配下の将軍たちだけでなく、イタリア国民自体から、「わが国の人々の欠点のなかでも軍事的特質が完全に欠けていること」からもたらされた、と書いている。

何度も書いていますが、モンタネッリのイタリア史を全巻翻訳で出してもらえませんかねえ。

訳者の藤沢氏も亡くなってしまいましたが。

参戦後、即座にマルタ島・コルシカ島・エジプトへ軍事行動を起こすのが有効だったと思われるが、実際にはそうせず、ヒトラーは仏降伏後のペタン政権への配慮から仏南部や北アフリカを即時占領しなかったが、もしこれを実行に移していれば英国は地中海から完全に一掃されていただろうとされている。

7月、バトル・オブ・ブリテンで、英本土上陸作戦失敗。

9月、独の短期勝利が無くなったことを悟らなかった日本が決断したことによって、日独伊三国同盟が結ばれたが、10月には仏ペタン、西フランコの両者とも参戦を拒否。

ここで有無を言わせずジブラルタルや北アフリカを占領して仏・西を巻き込んでいれば、また違った展開も考えられたという。

日本と仏・西の命運が決定的に分かれたのはこの時期ですが、フランコらはナチス・ドイツの大攻勢を身近に見ていたのに分別のある選択をしたと言うべきか、あるいは身近に見ていたからこそその先行きが見通せたと言うべきなのか。

戦前日本がスペインと同じ道を歩めなかったのは、何度考えても痛恨の極みです(戦前昭和期についてのメモ その5参照)。

しかし考えてみれば、フランスだって下手すりゃハンガリー・ルーマニア・ブルガリア等の従属的枢軸同盟国の一員という立場で終戦を迎える可能性があったわけで、俗な言葉で言えば、たとえハッタリ半分でもフランスに戦勝国の地位を確保することに成功したド・ゴールはやはり大したもんです(エリック・ルーセル『ドゴール』参照)。

伊はバルカン支配を企図し「並行戦争」を遂行、10月ギリシアに侵攻(同国はファッショ的なメタクサス政権下にあったのだが)。

6月のソ連によるバルト三国併合とルーマニア北東部奪取を受けて、同じ10月ドイツはルーマニアに進駐、同国の油田を手に入れる。

独伊の戦略が全くバラバラで、ヒトラーがソ連打倒を考え始めたのに対し、ムッソリーニは地中海方面を重視していた。

これはまだしもムッソリーニの方が正しかったと評されている。

確かに対ソ戦開始はヒトラーにとって致命傷となりましたし、それよりエジプトから中東地域に侵攻し、一年後参戦する日本と連携してインドになだれ込んで対英独立を煽り、米英世論へ衝撃を与えるというシナリオの方が、枢軸国にとってはまだしも良かったのかもしれないが、果たしてそれがどこまで現実的だったのかと言えば心許ない。

「並行戦争」では、伊軍の失態続く。

侵攻したギリシアで苦戦、40年11月タラント軍港が英軍に空襲され、主力戦艦3隻が一気に行動不能となり(このタラント空襲を見て山本五十六が真珠湾攻撃を構想する)、9月のエジプト侵入は即撃退される。

12月にはバドーリョが参謀本部長から解任される。

40年11月から41年3月にかけて三国同盟にハンガリー・ルーマニア・ブルガリアが加入。

41年2月、ロンメル率いる独アフリカ軍団が上陸。

4月、エチオピア喪失、三国同盟に加入を拒否したユーゴに侵攻、同月ギリシアが降伏。

最後の電撃戦勝利となったユーゴで、旧構成国のクロアチアは従属的独立国となり、ウスターシャと呼ばれるファッショ的政党が支配。

これら占領地域でユダヤ人狩りが行われるが、伊がしばしば介入しユダヤ人を救う。

すでに独伊が運命共同体になっていたと通常は思われるこの時期、ムッソリーニが抱いていた、ヒトラーとドイツへの不信感には驚かされる。

「わたしは・・・・ドイツ人には吐き気がする・・・・個人的にはヒトラーと彼のやり方にはうんざりだ。会談の前にベルを鳴らす、あのやり方は好きになれない。ベルを鳴らすのは給仕を呼ぶときだ。そしてあの会談ときたら、いったい何なのだ?退屈で無意味な独り言に五時間もつきあわなくてはならないのだから。・・・・アルプスの渓谷の要塞化をずっと続けているが、いつか役に立つだろう。」

「ヴェネト川沿いに数千門の大砲を並べなければならない。なぜならあのあたりからドイツ軍はイタリアに侵入してくるだろう。アルト・アディジェの険しい峡谷は簡単に封鎖できるから、あそこからは来ないだろう・・・・だが、われわれはふたつのことを祈らねばならない。戦争がドイツにとっては長く消耗するものになることと、妥協で終わることだ。そうすればわれわれは独立を保てる。」

41年6月22日、独ソ戦開始。

日本だけでなく、ムッソリーニも全く予期していなかった。

英国勝利の可能性や、将来の対独戦まで口にするようになる。

12月、モスクワ郊外での赤軍の反撃で、ヒトラーの短期決戦の目論見は潰え、ほぼ同時に日米開戦、独伊は対米宣戦。

42年中、補給路を扼す重要拠点であったマルタ島攻略に失敗、北アフリカ戦線で敗北。

42年11月、ペタンを排し、仏全土とチュニジアを占領。

ムッソリーニは、占領地での独による強圧的な政策を懸念し、42年11月にヒトラーに独ソ講和を進言している。

この独ソ戦には伊軍も従軍していたが、当時亡命中の伊共産党指導者トリアッティが伊軍捕虜に対して極めて冷酷な態度を示していたことが記されている。

著者によると、ムッソリーニは(仏ヴィシー政権とは異なり)、ホロコーストへの協力はせず、フランコも独に懸念を示したという。

(ただしイタリアからユダヤ人の移送が全く行われなかったように書いているのは著者の明らかな事実誤認だ、と訳者は指摘していたと思う。)

また、ムッソリーニが、かつての個人的友人で、戦後イタリア政界で活躍することになる、社会主義者ピエトロ・ネンニを保護したことも記している。

ここで、ヴァチカンの指導者、教皇ピウス12世(在位1939~58年)がホロコーストを公然と非難しなかったとの近年の批判は当たっていない、ヒトラーがヴァチカン接収計画を持っていたことが明らかになっており、もし公然の反対行動を取れば、それが実行され、カトリック教会が水面下で行っていたユダヤ人保護が不可能になり、より多くの犠牲者が出たかもしれない、アングロ・サクソン系メディアのように、白黒をはっきり割り切って道徳性を判断することは不当だ、と書かれているのは非常に興味深い。

43年1月、トリポリ陥落、カサブランカ会談で日独伊に無条件降伏を求めることをルーズヴェルトとチャーチルが決定。

ムッソリーニは、親独派の参謀本部長カヴァッレーロ元帥を解任、アンブロージョ将軍に替え、チァーノ、グランディ、ボッタイも更迭、PNF書記長にはスコルツァ就任。

43年3月、北伊で大ストライキ発生、5月、チュニジア喪失。

時期が明確に読み取れなかったが、秘かに単独講和を打診してきた伊に対して、チャーチルはやや柔軟な姿勢をみせたが、イーデン(40年12月よりハリファックスに替わって再度外相就任)が拒否したと書かれている。

本書で印象的なのが、このイーデンに対する評価の低さ。

この人は、長い間チャーチルの影に隠れ、戦後やっと首相になった際はスエズ動乱介入という失策を犯して短期間で辞任したわけで、その名声の大部分は戦前の反宥和派政治家としてのキャリアから来ているはずですが、本書のように戦前の言動を批判的に見られては立つ瀬がないですね。

43年7月、連合国軍がシチリア上陸、8月全島占領。

中学レベルの基本事項確認ですが、日独の降伏が1945年であるのに対し、伊は43年に決定的時期を迎えたことをチェック。

敵軍が伊本土に迫る状況で、国王と上記アンブロージョを中心とする軍、およびファシスト内部でのグランディら、という二つの陰謀が進行するが、この両者には直接・密接な関係は無かったとされている。

これらの計画は行動方針が不明確であり、ムッソリーニを完全に排除するのか、それとも彼に分離講和を結ばせるのか、休戦後に対独宣戦布告をするのか、それとも中立を守るのか、で意見は一致せず。

一方、親独的なファリナッチによる陰謀も存在した。

7月24日、ファシズム大評議会(ちなみにメンバー28人と記されているが、私はこの機関を国会に替わった同種のものと見なしていたので、もっと構成人数が多かったと思っていた)で、統治権を国家機関と分け合い、軍指揮権を国王に返還する動議を、グランディが提出。

この動議は、表向き王室批判の印象を与えていて、さらに事前にムッソリーニと協議した際、彼にとっても利益になると見せかけていた。

(王室に批判的なのに軍指揮権を国王に返還するというのは、危機的状況であるのに国王が安穏として自らイニシアティヴを取ろうとしないことを非難するといったニュアンスだったと思うが、確かではないです。この辺うろ覚えで申し訳ありません。)

上述の通り、グランディはファシスト内部での反ムッソリーニ計画の紛れも無い中心人物である。

この人の名は、塩野七生『サイレント・マイノリティ』で知ったが、これほど重要な役割を果たしていたとは本書で初めて気付いた。

裏切りを自覚しつつ、ムッソリーニは強硬措置に出ず、微妙な状況のまま採決が行われ、グランディ、デ・ボーノ、チァーノ、左派ファシストのボッタイら19人が賛成、事前謀議に関与していながら態度を翻したスコルツァら7人が反対、1人が棄権。

これは体制内部の政変であり、左派のレジスタンス神話は完全な虚構だとされている。

7月25日、国王謁見時にムッソリーニ逮捕。

バドーリョ政府成立、PNFなどを解散。

グランディはスペイン・ポルトガルを通じた講和打診のため出国、このため結果的に命が助かり、60年代まで伊に戻らず、後に自己正当化の色彩の強い文章を残している。

ムッソリーニは、ナポリ湾のポンツァ島からサルデーニャとコルシカ間にあるマッダレーナ島を経て、アペニン山脈のグラン・サッソ山へ幽閉される。

ちょっと詳しい概説書では、「大評議会での解任決議→国王による逮捕」という流れは載っているが、両者間はそもそも事前計画において密接な関係があったわけでなく、因果関係は明確ではない、前者は法的正当化の根拠となったのみで、決定的なのは後者の方だったとされている。

(しかし、モンタネッリの著書では、ファシスト内部の反抗を評価し、国王と軍には低い評価のみを与えているそうで、著者もそれに異を唱えるような記述は無く、この辺ちょっと不可解。)

このような伊内部での激変にも関わらず戦争は継続、イーデン(また出た)の主張によって爆撃が強化、8月にミラノ・トリノが空襲を受ける。

モンタネッリはこれを連合国の「盲目的な官僚的犯罪」と呼んでいるそうですが、伊でそうなら、東京大空襲や原爆投下で日本もいくらでも文句が言えます。

あくまで無条件降伏を要求する連合国とドイツ軍の脅威との板ばさみとなり、どっちつかずの態度をとるうちに、独軍が侵入し伊軍を武装解除。

9月、国王とバドーリョはローマ脱出、連合国と休戦、国民解放委員会(CLN)結成(反王政派が多数)。

結局10月に対独宣戦を行ったが、より早い段階で断固としてそうしていれば、独の抵抗を排除し、2年間の戦争と内戦を避け得たとされている。

9月にドイツが特殊部隊によってムッソリーニを奪還、以後のムッソリーニはペタンと同じく、傀儡色の強い役割を果たすことになる。

12月、サロでイタリア社会共和国を宣言、ナポリ以南のバドーリョ政権と対立するが、この両者が傀儡的存在だったと著者は評している。

サロ共和国では、左派ファシストによる社会主義政策が推進され、44年1月、チァーノ、デ・ボーノが処刑される。

同月南部での主権を認められたバドーリョ政権に、スターリンとトリアッティは暫定的支持を与えるが、6月にはボノーミ挙国一致政権に交替。

この時期の共産系パルチザンの活動はしばしば逆効果であり、不必要な報復を招いただけだった、サロ派もレジスタンスも少数派であり、大多数のイタリア人は中立派だったと書かれている。

44年6月、ローマ奪還、ノルマンディ上陸作戦。

45年4月になると、内戦は最終段階に達し、北伊に連合軍進入、ミラノへ政府移動。

連合軍はムッソリーニを生きたまま引き渡すよう指令していたが、捕らえられたムッソリーニは共産系パルチザンの独断によって処刑される。

当初それを堂々と明言し大いに誇っていた共産党が、法的手続きを無視した処刑方法と愛人のクラレッタ・ぺタッチまで惨殺したことに批判が高まるようになると、言葉を濁すようになる。

トリアッティに次ぐ共産党指導者ロンゴによる指示かとも思われる処刑は、4月28日に執行され、遺体はミラノ・ロレート広場で晒しものになる。

ジャーナリストのモンタネッリはその日、ロレート広場に居合わせた。彼はその日の光景について次のように書いている。その場面は「それを望んだ連中、それを許した連中、そして哀れな死体に向かって侮辱の言葉を投げかけ、つばを吐き、さらに悪質な形で汚した興奮した群衆の名誉を傷つけていた。《民衆》は、ほんの数ヵ月前まで喝采を浴びせていた男に対して、残忍な振る舞いにおよんでいたのだ」。

こうした、「多数者たる民衆の責任」を完全に欠落させた醜い復讐劇と集団リンチを取り上げて、「イタリアは戦争犯罪を自ら裁いたが、日本はそれを放棄した」なんて言うのはやはり当を失していると思う。

この2年間の内戦期間中、ドイツ軍は報復として1万人のイタリア人を殺害している。

一方、パルチザンによる殺害も2~3万人に及び、その少なからぬ部分が戦争終了後の大衆による犯罪と見なさざるを得ないと書かれている。

また、戦後ユーゴの指導者チトーがイストリア在住の(決してファシストとは言えない)イタリア人を1万人殺したことも指摘している。

4月30日、ヒトラーが自殺、欧州での戦火はようやく止む。

やっと終わりました・・・・・・。

訳者あとがきによりますと、本書の英語版は2003年刊、著者は自身をムッソリーニ批判派でも擁護派でもない「真実重視派」だと述べているが、実際にはこの記事でも引用した保守派ジャーナリストのモンタネッリや修正主義的な歴史家として知られたレンツォ・デ・フェリーチェの影響を受け、やや偏った立場も見受けられるとのことです。

だが、私はあまり気にならなかった。

下巻も400ページを超え、相当キツイが外交史・戦史の記述が多くなり、実に興味深く読める。

上巻はかなりだるい部分もあったが、通読してみるとやはり読んで良かったなと思う。

骨は折れるが、それだけの見返りはある。

かなり値段が張るが、図書館で借りればいいか。

しかし、貸し出し期間が2週間じゃ、延長無しでは読み切れないかも。

私は、上・下巻合わせて、3週間かかり切りになった。

欠点としては、やはり長過ぎること。

初心者は、ロマノ・ヴルピッダ『ムッソリーニ』(中央公論新社)でワンクッション置いた方がいい。

それで、余裕があれば取り組んで下さい。

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