万年初心者のための世界史ブックガイド

2013年2月2日

ニコラス・ファレル 『ムッソリーニ  下』 (白水社)

Filed under: イタリア — 万年初心者 @ 00:45

上巻記事の続き。

本巻では、まず娘エッダの夫で、重要な協力者でありながら、最後にはムッソリーニと袂を分かち、1944年銃殺されたチァーノを登場させた後、1935年10月のエチオピア侵攻の重要性が強調されている。

この出来事によって、ナチ政権成立当初には明確に反独的姿勢を保っていたファシスト・イタリアが英仏両国から離反し、枢軸陣営結成に向かうのだから、確かに現代史上いくつかある、極めて重大な岐路だと言ってもいいでしょう。

著者の立場は、戦争への覚悟が無いなら宥和政策を採るべきだったとのもの。

(そもそも1923年エチオピアの国際連盟加盟時には、同国の奴隷取引の存在や無政府状態を理由に英国は反対しており、むしろイタリアが加盟を支持していた。)

仏外相ラヴァルが採った、イタリアへの宥和姿勢に英国世論は反発したが、一方英国民は自国の軍備拡張とその負担は拒否し、前年34年のオーストリア危機と35年4月のストレーザ戦線では道義的支持以上のものを与えようとせず、35年3月の独再軍備宣言にもかかわらず、同年6月には英独海軍協定という宥和策を自ら率先して採っているのは、極めて偽善的だったと著者は評している。

ここで驚くのが、ヒトラーがエチオピアへの武器援助を指令していたという記述。

元々持っていた親英感情や、英伊間の離反を誘う意図があったとのこと。

1935年当時の英仏の政治指導者は英首相マクドナルド、外相サイモン、仏首相フランダン、外相ラヴァル。

6月に英はボールドウィン政権に交代、チャーチルと並ぶ反宥和派政治家のイーデンが入閣。

だが、このイーデンは賢明ではない反伊感情に囚われ、実際にはさして対ヒトラー強硬論を貫き通したわけでもなく、むしろムッソリーニにより厳しい態度を採るという、大きな過ちを犯した人物として描写されている。

国際連盟は対伊制裁を決議するが、最重要戦略物資である石油は禁輸項目に含まれず。

これには事前にイタリアが行った、石油禁輸は戦争に繋がるとの警告が相当与ったようだが、日本も1941年南部仏印進駐前に同じことを大々的に宣言して、米英世論に釘を刺しておくべきでした。

結局この制裁措置は、イタリアの行動を抑止・撤回させることは全く出来ず、伊国内を強硬論一色でまとめ上げ、体制を一層強固にしただけに終わった。

米国からの石油輸入は、制裁前よりむしろ増加している。

単細胞的反米主義から言ってるつもりはありませんが、この不名誉な事実は記憶しておきましょう。

12月ホーア・ラヴァル協定、侵攻当初に用意された妥協案よりもはるかに広大な領域を伊に与えるとの案で、この内容が漏れると世論の猛反発が起きる。

しかしこの現在では悪名高い案にも、閣内で反宥和派のイーデンが内実は同意していたと著者は指摘、やがてイーデンは外相に就くが、彼の枢軸国全体に対する一貫した反宥和派との輝かしいイメージは必ずしも当たっていないとしている(上述の通り、著者はイーデンの反伊姿勢の過剰と反独姿勢の過少を批判する立場だが)。

36年5月仏でブルム人民戦線内閣、デ・ボーノから指揮を引き継いだバドーリョ(バドリオ)がアディス・アベバを占領、6月チァーノが外相就任。

(後にデ・ボーノはチァーノと共に反対派にまわり、44年1月銃殺される。)

イタリアのエチオピア統治が、英仏の平均的植民地支配に比しても残酷で圧政的であったことは著者も認めている。

しかし結局、著者は、真の脅威であるナチス・ドイツと対決するために、ムッソリーニのイタリアへの宥和政策をはっきりと支持し、当時の英世論・イーデン・英労働党を批判している。

行間からは「エチオピアを見捨てろ」という著者の意見がはっきり読み取れる。

これは相当物議を醸すであろう見解だし、異論反論が山ほど出そうではある。

しかし、当時賭けられていたものの重大性を認識するために、あえて以下のような「歴史のイフ」を想定してみる。

エチオピア戦争にもかかわらず、英仏伊の三ヵ国連合は堅持される。

ムッソリーニの黙認が無い限り、ヒトラーはオーストリアを併合できず、権威主義的右派のシューシュニク政権の下、同国も反独陣営に加わる。

この状況下では、異様な猜疑心と権力欲の持ち主であるスターリンも、実際の史実ではそうなったように英仏と独を両天秤にかけることはできず、35年5月締結の仏ソ相互援助条約は実効性を帯びる。

加えて、仏チェコ間の相互援助条約によって、チェコスロヴァキアという東欧随一の工業国が、各個撃破されることなく、独への抵抗拠点としての役割を十分に果たす。

ポーランドは反独反ソ二重対決路線を採り独自の中立的立場を保つかもしれませんが大勢に影響は無いでしょうし、ハンガリー・ルーマニア・ブルガリアが甚大なリスクを冒してわざわざ独陣営に駆け込むことはほとんど考えられず、親独派と反独派が拮抗し実際にはクーデタが発生したユーゴスラヴィアはむしろはっきり英仏側に傾くでしょう。

史実通りスペイン内戦が勃発して、ドイツが反乱軍側を援助をするとしても、シニカルな現実主義者のフランコは、その「恩義」など、実際の史実以上に弊履の如く捨て去って一顧だにせず、平然とヒトラーの破滅を傍観するはず。

結局、ドイツは第一次世界大戦時以上に完全に孤立し包囲される。

それを日米両国も間接的に支えるか、少なくとも中立的立場を取る。(1935年に英国がイタリアだけでなく日本に対しても、中国幣制改革への協力と満州国承認を交換条件とした宥和政策を試みていたことに注目。戦前昭和期についてのメモ その4参照。)

ヒトラーは、慎重に行動の時期を探り、敵陣営の不和と不一致に付け込むという狡猾さを持っていた一方で、国家戦略のタイムテーブルを自分の寿命に従属させるという、恐るべき非合理的な面も持っていた。

対独包囲網にいかなる綻びも見出せず、自身の死までにドイツの覇権を確立する見通しが立たず焦りをかき立てられ、結局しびれを切らしたヒトラーが不用意な軍事行動に出て、周辺諸国から袋叩きに合いドイツは早期敗北、ナチ体制崩壊、あるいはその前にドイツ軍部のクーデタが勃発してヒトラー失脚という展開が、もしかしたら見られたかもしれない。

「いやいや、イタリアの軍事力なんて、実際の第二次世界大戦で明らかになったように、貧弱極まるものでドイツの足手まといになっただけだろう、そのイタリアに英仏と独との間でキャスティング・ヴォートを握るような力があったわけないよ」とおっしゃる向きもあろうかと思います。

しかし、ここで問題になっているのは、過去の史実で明らかになった軍事力の実勢ではなく、当時の人々が心の中に持っていたイメージであり、それが英仏の世論に対独戦への揺るぎない意志を固めさせるか、ドイツの参謀本部を中心とする高級軍人たちに自国の徹底的敗北を避けるためにヒトラーを排除することを決意させるか、という純粋に心理的な影響なわけです。

そうであるならば、この時期のイタリアの向背が世界の運命を握っていたとの著者の主張が俄然真実味を帯びてくる。

上述のシナリオがもし実現していれば、ドイツは保守的な軍事政権がナチズムという大衆運動を鎮圧し徐々に国内体制を正常化、欧州情勢は安定への道をたどり、同時に満州国の是非を棚上げした上で日本と中国は和解し、1914~18年の戦争は「第一次」の付かない世界大戦と呼ばれるようになり、ホロコーストという狂気は生まれることがなく、共産主義は冷戦を経ることなく封じ込められ、ロシアにおいてのみ行われた無謀な実験という評価となり、大衆民主主義という怪物をどうにか飼い慣らした世界は、20世紀における政治による大量死の相当部分を避けることに成功する・・・・・・。

ですが、そうそううまくは行かないでしょうかね。

歴史の女神はもっと意地の悪い存在でしょうから・・・・・・。

ある程度まで詳細な具体的史実を身に付けた後で、本書のように比較的良質で思考実験の材料を提供してくれるテキストを自分なりに考えながら読むと、「反実仮想」(ジョセフ・ナイ『国際紛争』参照)を使って史実や人物の決断を評価することができるようになり、歴史を学ぶ愉しみも増すと思います。

極めて幼稚で、多くの過誤を含んでいる可能性があり、場合によっては無意味になりかねないものですが、上記はその一例のつもりで記しました。

なお、想定される「歴史のイフ」が、真に有益で意味のあるものであるためには、その前提としてもちろん、無味乾燥にも思える年号暗記を含む、多くの具体的史実の習得が必要なことは言うまでもありません(引用文(内田樹6))。

基本的史実の確認と、「有り得たかもしれない、もう一つの歴史」を想定した上での史実評価、この両者をバランス良くこなしていくのが、歴史を学ぶ醍醐味を味わえる王道ということでしょう。

閑話休題。

36年3月ラインラント進駐。

この時期のフランス政府は、一応メモを取った形跡はあるんですが、訳がわからない。

フランダンやラヴァルやサローが首相になったり、外相になったりと、ついていけません。

第三共和政の内閣は、いくつかの重要政権以外はとてもじゃないが記憶していられませんね。

1936年はスペイン内戦とベルリン・ローマ枢軸成立の年だが、著者はそれぞれ一枚岩のファシズム陣営vs共和派という図式を否定し、依然ムッソリーニは、イギリスとドイツを両天秤にかけていたとしている。

第二次大戦へのイタリア参戦は1939年ではなく、フランスが降伏寸前となりヒトラーの欧州制覇が疑いの無いものに思えた40年6月であることを考えれば、さして意外なことでもないのかもしれない。

もし英伊同盟が成立していたなら、第二次世界大戦は起こらなかった、と著者は主張している。

1937年5月ネヴィル・チェンバレンが英首相に。

イタリア国王は反独的見解を持っていたが、ムッソリーニはいよいよ親独路線の兆しを見せ始める。

37年11月、日独間の防共協定に伊も加入、12月、伊も連盟脱退。

この時期、反宥和論者のはずのイーデンも、仏当局者へチェコ防衛のための軍事援助に難色を示している。

チェンバレンが独伊双方に宥和的だったのに対し、イーデンはドイツよりイタリアに強硬な態度で、むしろムッソリーニよりもヒトラーを交渉可能な相手と見なしていた節があると記されている。

チェンバレンは、可能ならば英伊間の了解を取り付け、独に対抗しようと図るが、その交渉が進展しないうちに38年3月独がオーストリア併合(その前、2月にはイーデンが辞任し閣内から去っている)。

ムッソリーニは、かつてあれほど徹底して阻止しようと考えていたオーストリア併合を黙認。

エチオピアとスペインでの国力の疲弊、あくまで反対した場合、第一次大戦でオーストリアから獲得したトレンティーノ(南チロル)の返還要求を独が持ち出してくることへ恐怖があったためとされている。

その支持が本心からのものでなかった証拠として、当時ムッソリーニがヴァチカンにヒトラーを破門するよう秘かに働きかけた史料が存在しているという。

38年4月英伊間に協定成立、英がエチオピア併合を承認する見返りに、伊はスペインよりの撤兵、リビアでの軍備削減を行うという内容。

著者は、この協定をさらに深化させ、仏領のチュニジアなどを譲ることを条件に、何としても英仏伊間の同盟を締結すべきだったと主張している。

38年5月、ヒトラーがイタリアを訪問するが、ムッソリーニは独伊の軍事同盟を渋る姿勢は変えず。

同年9月、ズデーテン危機とミュンヘン会談。

宥和政策の頂点とも言うべきミュンヘン協定については、一般的には最悪の愚策という評価が定着していますが、一方で、ヒトラーとの交渉による平和は有り得ないことを疑問の余地なく示して世論の抗戦意志を固め、その時点で独に対して劣勢だった軍備を拡張する貴重な時間稼ぎになったことをもって、意外にも一定の肯定的評価を下す見方もあります(ナチについてのメモ その4参照)。

著者は、この新説には否定的で、38年なら英仏側が勝った、開戦を決断しなかったことは致命的誤りだった、としている。

(この場合、伊が曖昧な中立的立場でも英仏単独で勝てたと想定することは、上述の如く伊との連携を最重要視する著者の立場と相反するかもしれないが、第一次大戦に懲りて平和主義的ムードの強い英仏の世論が確固たる決意を持って独との対決に乗り出すための心理的前提として伊との同盟が必要だ、たとえそれが無くとも英仏は開戦を決断すべきだったが実際にはそうならなかったのだから、やはり伊との連携が決定的に重要だったと見なすべきだ、あるいは英仏伊三国同盟によって勝利がより確実となり、実際の戦争に至る前に、ドイツで反ヒトラー・クーデタが成功する可能性が高まるから、と考えれば矛盾は無いか。この辺、突き詰めて考えると辻褄の合わない部分が出るかもしれません。皆様もご自身でお考え下されば幸いです。)

ムッソリーニは英仏への軽蔑を深め、やや独へ傾斜。

もっとも人種主義や反ユダヤ的政策は伊国内では徹底せず。

1933年、ムッソリーニは駐独イタリア大使に、政権掌握間もないヒトラーに対して、反ユダヤ主義の放棄を促すよう指示している。

「反ユダヤ主義の問題はヒトラーの敵たちだけでなく、ドイツのキリスト教徒たちまで動揺させかねない」

とのムッソリーニの言葉が紹介されている。

ただ、イタリアからも高名な物理学者でユダヤ人の妻を持つエンリコ・フェルミが亡命し、アメリカで原爆開発に携わることになる。

アインシュタインを始めとして、亡命した物理学者たちの顔ぶれを見ると、ヒトラーの反ユダヤ主義が無ければ、米国ではなくドイツが最初の原子爆弾を開発したかもしれないとのハフナー『ヒトラーとは何か』での想定が頭に浮かぶ。

ムッソリーニが、結局ドイツとの同盟を決断したのは、「恐怖と貪欲」、すなわち独への懸念ゆえにかえって反対陣営に与することができなかったことと、仏への敵意と地中海での拡張政策を目指す決意が生まれたからだとされている。

ただし即時参戦は企図せず(実際そうなった)。

39年3月チェコスロヴァキア解体、ヒトラーは前年英仏にミュンヘンで強要した、あれほど自国に有利な協定すら遵守するつもりが無いことを世界に示す。

イタリアへの事前通告は無し。

この辺の記述から読み取れるのは、「世界支配」の野望に燃え、ヒトラーと一心同体となり貪欲に拡張政策を採る自信過剰の独裁者というより、自分の地位と自国の安全を確保する道を必死に探し求めて右往左往する気弱で優柔不断で哀れな為政者としてのムッソリーニの姿である。

同じ39年3月、スペイン内戦終結。

もしフランコが敗北していたならスペインは共産化していただろう、と著者が推定しているのが興味深い。

ここで、相当以前から漠然と考えていて、色摩力夫『フランコ スペイン現代史の迷路』茨木晃『スペイン史概説』そして本書を読んだ後にはかなりはっきりと感じるようになったことを、思い切って言ってしまおうかと考えたものの、しかしやはり一般的にはとんでもない意見でしょうから、小声でつぶやく感じで言うだけにしますが、      「スペイン内戦って、結果フランコが勝って良かったんじゃないですかね?」

共和政府側が勝利したとして、スターリニスト、トロツキスト、アナーキストらの暴状と相互殺戮がある段階までに止まるであろうとの想定が、どうしても出来にくい。

実際の史実では、フランコ死後に立憲君主制という政治的安定装置を準備した上で、正常な議会政治へ漸進的に移行するという、ほぼベストの展開になったのだから、結果OKじゃないでしょうか。

もちろん、もしフランコが第二次大戦に参戦していれば、答えは完全に異なったものになっていたでしょうが、その最悪の選択肢は避けられたわけですし。

数年前でしたか、スペインでフランコの銅像を撤去するかどうかで賛成・反対両派の感情的対立が深まり深刻な問題となっている、と新聞の外報面で報じられていて、そんな例を考えるだけでも、現在も極めて微妙で慎重な配慮を必要とする問題であって、外国人が軽々しく口を出すようなことではないとはわかってはいますが、個人的な意見を言えば上述のようなものになってしまいます。

内戦終結後、伊はバレアレス諸島から撤兵。

ムッソリーニは非妥協的な膨張政策を突き進んでおり、交渉可能な相手ではないとするイーデンの論拠はこれで崩れたと言える、と本書では書かれている。

39年4月、伊はアルバニア占領。

バルカンでの独の進出を危惧したための行動で、独には事前通告を行わず。

英外相にハリファックス就任。

5月、独伊「鋼鉄条約」締結。

ムッソリーニの主観的意図では、これは防衛条約であり、これによってかえって独を掣肘するつもりであった。

実際、ポーランド攻撃の意図をヒトラーはイタリアに通告していなかった。

チァーノとグランディ(駐英大使)は同盟破棄を求めるが、「1915年の裏切り」の汚名再来とドイツの報復進撃をムッソリーニは恐れた。

8月23日独ソ不可侵条約にあたってはやはり対独不信感が一部で広まり、来るべき大戦には不参戦の態度を貫く、というのがイタリア指導層のコンセンサスになっていた。

ところが、40年フランス敗北という驚天動地の出来事に目を晦まされ、三国同盟という致命的な道を選択してしまうことになるのは、日本と全く同じです。

終わらねえ・・・・・・。

以前、規則的に2、3日に一回更新していた時は、一冊の本で複数記事を書くことも珍しくなかったのですが、今のような気ままな更新状況では、たとえ長くなっても一冊一記事にした方がいいのかとも考えていました。

ですが、さすがに長すぎるので、第二次大戦勃発後は次回にまわします。

(追記:続きはこちら→ムッソリーニについてのメモ

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