万年初心者のための世界史ブックガイド

2013年2月26日

桜井俊彰 『イングランド王国前史  アングロサクソン七王国物語』 (吉川弘文館)

Filed under: イギリス — 万年初心者 @ 11:59

「歴史文化ライブラリー」というシリーズの第308巻。

このレーベルでは以前『スカルノ』を読んだことがある。

本書は6世紀後半から10世紀にかけて存在したイングランドのアングロサクソン七王国(ヘプターキー)についての、極めて平易な概説。

著者は大学の研究者ではなく、個人的英国史研究家といった方らしい。

そのせいか、非常に平易で親しみやすい文体。

これ以上無いほど読みやすい歴史物語となっている。

この前の、『儒教と中国』に比べると、その差が際立つ。

あー、自分はやはりこういう本の方が向いてます。

まず、超初心者レベルの事項を確認。

いわゆる「イギリス」は、イングランド・スコットランド・ウェールズ・アイルランドの四つから成る。

後ろ三つがケルト系、イングランドはアングロサクソンでゲルマン系と大掴み。

地理的には大ブリテン島とアイルランド島があって、大ブリテン島の中南部がイングランド、北部がスコットランド、西部のやや狭くへばり付いている感じの地域がウェールズ。

民族区分では、まず最初に居たのがケルト人。

正確には文字通りの先住民族ではなく、ケルト人自身、他地域より移動してきたものだが、歴史記録を残したローマ人と接触したときに、ブリタニア・ガリア・ヒスパニアなど西欧地域に広く分布していたため、何となく「ヨーロッパの先住民」のようなイメージがある。

最も巨視的に見ると、ケルト→ローマ(ラテン)→ゲルマンという民族推移と三者の融合がヨーロッパで行なわれたが、この三者はすべてインド・ヨーロッパ語族。

他に欧州に侵入した民族として、フン・アヴァール・マジャール・フィンなどが非印欧系、イスラム化の流れに乗って攻め入ったアラブ人はもちろんセム系、加えてユダヤ人もセム系。

ブリテン(ブリタニア)に焦点を移すと、まずケルト系のブリトン人が在住。

ユリウス・カエサルの遠征後、1世紀にクラウディウス帝によって恒久的にローマ帝国の一部となり、ブリトン人がローマ化。

その北部のピクト人と、アイルランドのスコット族は頑強にローマに抵抗し、その支配下に入らず。

ピクト人は民族系統不明、ケルト系との説もあるが確証は無く、バスク人のように全く系統不明らしい。スコット族はケルト系。この両者が融合してスコットランド人が生まれる(森護『スコットランド王国史話』参照)。

5世紀にローマが衰退するとブリトン人がピクト人の侵入に対抗するためアングル・サクソン・ジュートなどのゲルマン系諸民族を呼び寄せる。

イングランドではブリトン→ローマ→アングロサクソン→デーン→ノルマン(朝)と、侵入者・征服者の層が積み重なっていく。

(デーン人というのはイングランドでのノルマン人の呼び名ですから、最後の矢印は変かもしれませんが、ノルマン・コンクェストという大きな区切りがあったということでこう書きました。ヴァイキングという呼び名もありますので、ノルマン=ヴァイキング=デーンと頭に入れておいて、この三者は基本的に同一の民族を指すんだと憶えておく。)

史料として、ベーダ『イングランド人民の教会史』と『アングロサクソン年代記』、アッサー『アルフレッド大王伝』(中公文庫に翻訳あり)の書名を軽くチェックした後、高校世界史で出てくる以下の人名を整理。

アーサー王=アングロサクソンと戦ったブリトン人の伝説的指導者。

エグバート=七王国を統一したウェセックス王(アングロサクソンの)。

アルフレッド大王=デーン人を撃退したウェセックス王(アングロサクソンの)。

クヌート(カヌート)=イングランド・デンマーク・ノルウェーを支配したデーン人の王。

ウィリアム1世=クヌート死後復活したアングロサクソン王国を征服したノルマンディー公。

アーサー王、アルフレッド大王、クヌートで、侵入側と防御側が一つずつずれていることを確認。

再度、ヨーロッパ史を巨視的に見ると、ゲルマン民族大移動で西ローマ滅亡→各地にゲルマン諸国家成立→内紛と東ローマの反撃、イスラム侵入などでその多くが滅亡→フランク王国による統一(800年カール戴冠)→大帝死後の分裂→ノルマン(北ゲルマン)とマジャールによる第二次民族大移動→ノルマンディー公国とそのイングランド征服、シチリア王国、ノヴゴロド国成立、封建制に基づく各地の中世王国形成、という具合になり、こういうストーリーを頭の中で再現できるようになれば基礎は身に付いたと言える。

(「第二次民族大移動」という言葉は最近の教科書ではあまり見ない気がしますね。なぜだろう。)

七王国の名前と位置は、ドイツ金印勅書の七選帝侯と違って、高校世界史では出てこない。

まず大陸に最も近い南東部に、国教会の中心地カンタベリーを擁するケント。

その西側で、北にロンドンのあるエセックス、南にサセックス。

さらに西に向かうとウェセックス(ウェスト・サクソンの意。するとサセックスは南サクソン、エセックスは東サクソンか)。

北に向かい、北海に面したイングランド東部で瘤のように突き出た地域がイーストアングリア。

その西、中央部にマーシア、さらに北上してピクト人に接する地域がノーサンブリア。

上記七王国のうち、ケントはジュート族、エセックス・サセックス・ウェセックスはサクソン族、イーストアングリア・マーシア・ノーサンブリアはアングル族の国。

本書では、エセックスとサセックスは史料・エピソード共に乏しいので、単独の章では扱われていない。

以後、残り五つの王国について叙述されており、かなり細かい経緯と王名が記されているが、さすがに面倒なので、ここでメモするのは止めておく。

覇王の順として、サセックスの始祖アエラ→ウェセックスのケアウリン→ケントのエゼルベルト→イーストアングリアのレドワルド→ノーサンブリアのエドウィン→同オスワルド→同オスウィ→ウェセックスのエグバートという名だけ書く。

エグバートは802年即位、一時王位を追われ、シャルルマーニュの下へ亡命、復位後イングランドを統一。

その孫のアルフレッドが871年即位、デーン人に王宮を追われるほどの苦境から逆転し大勝、デーン人と協定を結び、イングランド北部と東部への定住化とキリスト教への改宗を義務付ける。

899年の死までイングランド統一に努める。

イギリス史上、「大王」の称号を持つのはアルフレッド一人だと書いてあって、ああそう言えばそうかと思った。

なお、シェイクスピア『ヘンリー五世』の記事で、男系女系に拘らなければノルマン朝以後のイギリス王室もある意味「万世一系」だと書きましたが、本書によるとウィリアム1世の妻がアルフレッド大王の血筋なので、正確にはこのウェセックス王国から「万世一系」との事。

現王室の源流としてウェセックスを含むアングロサクソン王国があることから、王室ファミリーでもチャールズ、ヘンリよりもエドワードという名に、国民は特別な感情を持ってきたと書いてある(チャールズ[シャルル]、ヘンリ[アンリ]はフランス起源の名でエドワードはアングロサクソン名)。

ここで思い出したのが、「フィリップ」はフランスではありふれた名前であり、それで古代ギリシア史でアレクサンドロス大王の父「フィリッポス2世」を高校教科書で見たとき、何となく違和感を覚えたものですが、当然これは年代から見て逆で、そもそもフィリッポスがギリシアでありふれた名であり、それがビザンツ帝国とフランス王室との婚姻関係でフランスに持ち込まれ、当初「フィリップ」という名は極めて異国風に響いたと、佐藤賢一『カペー朝』に書いてあったこと。

非常に良い。

著者も言うように、一般読者向けの七王国の本は、これまでほぼ絶無なので、本書はこの上なく貴重。

ただし初版では細かなミスもあり。

9ページに「アントニス・ピウス帝」とあるが、これはもちろん「アントニス」です。

31ページにアーサー王のモデルとなった可能性のある人物として「アンブロシウス・アウレリヌス」という名が出ているが、その4行ほど後には「アウレリアヌス」 とあって、どっちが正しいんですかとがっくりくる。

校正の方にもう少し頑張って頂きたい事例です。

そういう瑕疵もあるが、基本的には良書。

できればクヌートやノルマン征服まで書いて欲しかったが紙数からいって無理か。

しかし、熟読玩味する価値のある書。

強く勧める。

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2013年2月23日

渡邉義浩 『儒教と中国  「二千年の正統思想」の起源』 (講談社選書メチエ)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 10:00

すみません、挫折した本です。

このブログを続けているうちに、多少は忍耐力がついたので、一旦読み始めた本を途中で投げ出すのも久しぶりです。

重厚な研究書ならともかく、一応一般向け読み物に属する本を挫折しちゃいけませんよね。

立ち読みの時点ではやや煩瑣かなあと思いつつ、効用が高そうなので借りてみた。

まず序章、儒教経典の概論および、「伝」「注」「疏(そ)」という三段階の注釈について。

続いて第一章、儒教が秦代の法家、漢初の黄老思想(道家・黄帝)を押しのけ、正統思想になった経緯について。

本書では、武帝期に董仲舒によって儒教が国教化されたという、高校教科書以来お馴染みの定説を否定し、国教化ははるかに下って、後漢の章帝期であるとしている。

前漢時代、『春秋』の伝について、武帝期には王者の諸侯に対する絶対的地位・攘夷思想・譲国の賛美を特徴とする『公羊伝』が、宣帝期には長幼の序・華夷混一の理想・法刑併用を内容とする『穀梁伝』が、元帝・成帝期には漢の始祖を堯の末裔だとする解釈の根拠とされた『左氏伝』が、それぞれ重視されたことを指摘。

そしてその理由と背景を、当時の政治状況を具体的に描写しながら、説明しているのだが、ここはかなり面白い。

ここらあたりまではまだ快調だったのだが、第二章に入って儀礼の話が延々続くと、つい面倒くさくなって放棄。

飛ばし読みしつつ、力業で読了するかとも思ったが、他にいくらでも読まなきゃならない本はあるし・・・・・という感じで止めてしまった。

以後のページを適当に手繰ると、所々興味深い記述もあるようだが・・・・・。

私の根気の無さは確かに問題だが、少なくとも初心者向けの本ではない。

細かな所は飛ばして、主要な論旨だけ読み取るつもりなら、手にとってもいいでしょう。

2013年2月21日

アルベルト・アンジェラ 『古代ローマ人の24時間  よみがえる帝都ローマの民衆生活』 (河出書房新社)

Filed under: ローマ — 万年初心者 @ 12:03

2010年刊の古代ローマ社会史。

内容はタイトルそのまんま。

西暦115年、トラヤヌス帝治下の首都ローマの一日を様々な立場の人間の視点から詳細かつ具体的に叙述する本。

登場人物は、元老院議員から奴隷まで、ドムス(戸建ての邸宅)に住む富裕層からインスラ(集合住宅)に住む庶民までと多種多彩。

ローマ人は日の出から活動し、午前中に仕事を済ませ、午後は余暇に当てたので、本書でも午前中の記述が多い(全49章のうち正午までで38章)。

その内容は生活のほぼ全てに亘っており、住居・服装・身だしなみ・食事・信仰・教育・商売・裁判・娯楽・入浴・睡眠・性生活に至るまでとこれまた多彩。

舞台装置として、街路・市場・フォルム(広場)・コロッセウム・公共浴場・公衆トイレなどが描写されている。

非常に良い。

原著はイタリアで出たものだが、日本人にとっても、実に面白い読み物になっている。

400ページ超の分量がさして気にならない。

予備知識もほとんど不要。

誰が読んでも楽しめる作品。

こういう入門者向け社会史の本を多数出してくれれば、私のような社会史嫌いの人間でも視野が広がるのになあと思った。

値段がやや高いことがネックだったのだが、今は文庫版も出ているようですので書店で探してみて下さい。

評価は・・・・・・思い切って、5にしますか。

強くお勧めします。

2013年2月19日

児玉幸多 編 『日本史年表・地図』 (吉川弘文館)

Filed under: 教科書・年表・事典 — 万年初心者 @ 13:25

これも、同じ出版社の世界史版は以前から持っていた。

こういう高校の副読本タイプの本は、どれでも自分が気に入ったものを1冊手元に置いておけばいいので、特にこの本が、ということは本来ありません。

本書は、世界史版と同じく、表記やフォントに古さを感じる。

地図では、詳細な近世大名分布図など興味深いものはあるが、それだけで本書を選ぶほどでもない。

しかし、年表編と地図編の間に史料集があり、そこに数ページの「系図」が掲げられている。

これが特筆大書すべき出来。

じっくり眺めてると、本当に面白い。

まず皇室系図。

壬申の乱で倒された弘文天皇(大友皇子)の曾孫が漢詩人の淡海三船。

薬子の乱で廃された平城太上天皇の孫が在原業平。

藤原仲麻呂の乱で、孝謙太上天皇に廃された淳仁天皇は、『日本書紀』編者の舎人親王の子。

現皇室は、新井白石が創設した閑院宮系統。

藤原氏系図はさすがに壮大。

系統がかなり怪しく、ただ言い伝えとして何々から出たというだけの家もあるんでしょうが、それを踏まえた上で見れば、非常に面白く読める。

藤原不比等の四子のうち、武智麿の南家系統からは、(鎌倉御家人?の)伊東氏が出る。

やはり後述の北家に比べるとパッとしない印象だが、平治の乱で自殺した信西(藤原通憲)が武智麿の子孫。

この人、保元・平治の乱での、(北家)摂関家内部での争いの系図では出てこないのに、いきなり名前が挙げられているので、どういうことなのかと思ってましたが、南家系統でしたか。

で、その孫が貞慶(解脱)と表記されてるんですが、これは鎌倉新仏教に対抗して、旧仏教の法相宗の再興に尽くした人として教科書に載ってる人と同一人物ですよね?

房前の北家はさすがにすごい。

一番栄えたのは房前の子真楯の系統。

まず、冬嗣・良房・基経という摂関家の源流である超大物がいる。

叔父良房の養子に入る前の基経からみて、藤原純友は、甥の息子という立場。

こんなに摂関家に近い立場なのに、乱を起こしたのかと意外に思った。

これも怪しいのかもしれませんが、純友から九州戦国大名の有馬氏・大村氏が出ている。

冬嗣の兄弟、真夏は日野家に繋がる。

足利義政の妻、日野富子が一番有名だが、義満・義持・義教・義視・義尚など、多くの室町将軍の妻も日野家出身。

で、もう一つ、極めて重要なのは浄土真宗開祖親鸞もこの日野家出身だということ。

以後、蓮如を経て顕如、大谷派・本願寺派の分立といった具合になる。

良房の兄弟良門の5代後が紫式部。

面白いのが、同じ系統から徳川譜代大名の井伊氏が出ている。

上杉氏も同じくそう。

房前の子魚名からは富樫氏、安達氏、伊達氏。

同じ魚名の4代後が秀郷、その秀郷から奥州藤原氏、大友氏、武藤氏、少弐氏、結城氏。

西行は同系統の佐藤氏出身。

房前の子で、道鏡追放に後述の藤原百川と共に貢献した永手、および遣唐使を務めた清河がそれぞれ載っていないのは、やや不備があるなと感じた。

式家の宇合の子が広嗣・百川、孫が種継、その子が薬子。

しかし、徳政論争で有名な藤原緒嗣が百川の子だと記していないのは不親切。

京家の麻呂は、特に無し。

物部氏では、守屋の6代後が石上宅嗣になっている。

小野妹子の5代後が篁、その孫が好古と道風。

橘諸兄と光明皇后は異父兄弟、奈良麿の孫が逸勢。

怪しすぎるが、楠木正成も橘氏から出たことになっている。

清少納言と奥州豪族清原氏も元は同じ一族。

大江氏から毛利氏・小早川氏・吉川氏が出る。

以後も、桓武平氏・清和源氏・宇多源氏・村上源氏などについて、いろいろ面白い系図があります。

他に気に入ったものがあれば、それを選んで頂ければいいんですが、この系図があることによって本書をお勧めする気になりました。

比較的入手しやすいと思いますので、一度どんなもんかご覧下さい。

2013年2月17日

『改訂版 日本史B用語集 (A併記) [2009年版]』 (山川出版社)

Filed under: 教科書・年表・事典 — 万年初心者 @ 01:08

これを買ったのは高校以来初めてか。

世界史の同種用語集は、常に手元に置いていましたが。

古書店の100円コーナーにあったんで、購入しました。

前近代では、日本史B教科書11種類のうちの記載頻度、近現代はB11種と日本史A教科書7種の頻度を併記している。

この記事では、適当に目に付いたものを、ごく少数取り上げるだけにします。

まず古代史で、磐井の乱(10)はともかく、白村江の戦い(10)も、全種には載っていないというのはどうかと。

中学レベルの用語ですんで。

一方奥州藤原氏の清衡・基衡・秀衡がすべて(11)。

摂関家の「中弛み期」みたいな時平が(10)、忠平が(7)。

これは多いのか少ないのか判断に迷う。

荘園整理令では、延喜が(8)、延久が(9)、記録荘園券契所が(10)。

高校の日本史なら、これらは(11)でもおかしくない。

北条高時、足利直義、高師直、武田信玄、上杉謙信がすべて(10)。

同じ教科書ではないのかもしれないが、これらが載ってない教科書というのはどんな感じなんだろう。

豊臣秀吉の惣無事令が満数の(11)。

これ、私が高校生の頃は、載ってなかったような気がします。

比較的新しい学説に基づくもののはず。

最近は、またそれに対する疑問が出されてると、どこかで読んだ覚えがあります。

日蓮宗の不受不施派が(4)。

これは少ない。

隠れキリシタンと並んで、江戸時代の宗教弾圧の標的となった宗派として有名なはず。

慶安の触書(7)には、この存在を疑問視する説もあると明記。

最近よく言われる説ですよね。

琉球王国の第一尚王朝と第二尚王朝が各(1)。

恥ずかしながら、私は尚王朝が二つに分けられることを、この本見るまで知りませんでした。

近代に入ると、征韓論(B9・A6)、張作霖爆殺事件(8・5)など、中学レベルの用語が満数でないのは、理解に苦しむ。

華北分離工作(8・3)や冀東地区防共自治政府(5・2)も少ない。

戦前日本の破滅の引き金になった事象ですし、これはしっかり教室で教えるべきでは・・・・・。

内閣職権、内閣官制、公式令、軍令は索引を見ても記載無し。

(軍令機関、軍令部はある。)

載ってる教科書はゼロですか・・・・・。

前回記事で書いた通り、これらも、その意味合いを含め、確実に記憶しておくべき用語だと思うのですが。

「学習指導要領」を改正してもらえませんか。

戦後史で、ケナンが(2)なのは、「おっ」と思った。

面倒なので、これだけにしておきます。

世界史だけでなく、日本史もやはりこれを1冊置いておくのはいいですね。

ちょっと暇な時にパラパラ眺めるだけでもいい。

しかし、すごい情報量だなあと改めて思う。

私はやはり世界史の方が性に合ってます。

2013年2月15日

『改訂版 詳説日本史B  [2010年版]』 (山川出版社)

Filed under: 教科書・年表・事典 — 万年初心者 @ 10:35

2003年刊行版を買い換えました。

事情により最新版ではなく、少し前に出たものになりましたが。

この『詳説日本史』シリーズで、特徴のある表紙の赤色が、2003年版に比べてやや濃くなってる。

高校の頃、使用していた版はもっと毒々しいくらい真っ赤のやつでした。

末尾の執筆者一覧を眺めると、何と言ってもまず加藤陽子氏(『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』)と坂野潤治氏(『日本政治「失敗」の研究』等)が目に付く。

(もっとも確認したら、坂野氏は2003年版でも執筆者に名を連ねてますね。)

あと、鈴木淳氏は『維新の構想と展開』の著者か(たぶん同名異人ではないはずです)。

冒頭、長屋王の変を題材に、史料の批判と考察をしたコラムがあって、これが相当面白い。

こういうの、読み飛ばさない方がいいですね。

本文に入るが、やはり私のレベルでは、歴史観や史的解釈にまでは踏み込む能力は全く無いので、世界史教科書の記事と同じく、どういう歴史用語が載せられているのか、そのうちどれが太字(ゴチック体)で記されているのかという話だけを少しするだけにします。

ざっと見て、すぐ気付くのが、太字の歴史用語の数が著しく減少していること。

前版までは脚注の箇所を含めて、相当数の太字表示がありましたが、かえって何が重要かわかりづらくなったという反省からか、この版では大幅減。

例を挙げると、『魏志』倭人伝、中臣鎌足、中大兄皇子(天智天皇は太字)、嵯峨天皇、紫式部、源義経、新田義貞、徳川家斉、吉田松陰、黒田清隆、加藤高明、岸信介、池田勇人、佐藤栄作が、太字ではない通常活字。

聖徳太子が括弧内に入れられ太字でない(厩戸王は太字)。

和同開珎に先駆け富本銭が載っている。

以上2点は新たな発見や研究動向が教科書にも反映されたということでしょう。

薬子の変より平城太上天皇の変という言葉が先に出ている。

1457年コシャマインの蜂起、1669年シャクシャインの戦い、といった具合に、それぞれ「~の乱」という表記は使用せず。

アイヌ民族への配慮と国民統合維持の観点から、こういうことには最大限慎重であらなければならないのはわかるが、「乱」と使っても、別に鎮圧された側が道義的に劣等だというニュアンスはほとんど無いと思うのですが・・・・・・。

もちろん、その鎮圧を「征伐」と書くのはまずいでしょうが。

(これより前の坂上田村麻呂の東北遠征を「蝦夷征討」と呼んでいいのか、[個人的感情が整理できず]微妙で判断に迷う)。

与謝蕪村、小林一茶がそれぞれ、蕪村、一茶と略されてるのは、何か理由があるんでしょうか?

生類憐みの令に関連して、服忌(ぶっき)令を出し、武力で相手を殺傷して自身の上昇をはかる価値観を否定することを目的としていたとの肯定的側面を記述しているのは、教科書レベルを超えた説明で面白いと思った。

新井白石が創設した閑院宮家が太字なのは、私が高校生だったころから不思議に思ってました。

皇室の分家の一つを、この時期たまたま設けたというだけでしょと考えていたんですが、別の本で皇室系図を確認したところ、後桃園天皇までいった後、閑院宮系統の光格天皇が即位、以後は仁孝→孝明→明治→大正→昭和→今上と現皇室に一直線で繋がることを確認して、ああそれで太字なのかと納得。

これを説明して下さいよ。

でないと重要性がわからない。

幕末に日本に来航したロシア人4人、ラクスマン・レザノフ・ゴローウニン・プチャーチンの全員が太字。

最初に記した太字でない人名と比較すると、何かアンバランスな印象を禁じえない。

第2次日韓協約で設置された機関は、「統監府」が正式名称で、やはり「韓国統監府」ではないようです。

1885年内閣職権、1889年内閣官制、1907年公式令は影も形も無し。

この三つの法令による、首相権限の推移(それぞれ大→小→大[ただし公式令の意図は完全には実現できず])は、中等段階での日本史教育における重要テーマだと考えるようになっているので、少しでも載せて頂けないでしょうか。

大逆事件について、どれほど稚拙なものであっても実際に爆弾を作成し明治天皇暗殺を企てた人物はいた、しかし事件はフレームアップされ無関係の人々も多くが犠牲となったのであって、明治日本の汚点の一つだという評価は揺るがない、ということが短い脚注の文章からでも読み取れるようになっているのは、非常に良いと思いました。

終わりです。

私の知識では教科書の記述の全般的評価は不可能です。

しかし、ごく基礎的な知的道具として、この標準的教科書を自宅に常備しておくのは決して悪くないと思います。

2013年2月13日

小林正文 『指導者たちでたどるドイツ現代史』 (丸善ブックス)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 13:31

2002年刊。

著者はボン特派員を経験した元読売新聞記者。

同じ丸善の黒岩徹『イギリス現代政治の軌跡』と同じく、首相を任期順に並べて叙述する形式の第二次世界大戦後の現代史。

西ドイツおよび再統一ドイツの首相と就任年度は、初心者でも全て暗記が必要。

そして、『アデナウアー回顧録』の記事で一部記したような、ボン基本法、5%条項、ハルシュタイン・ドクトリン、ベルリン管轄権、建設的不信任制度、社会的市場経済、東方外交(政策)、オーデル・ナイセ線、大西洋派と独仏派といった用語の意味を理解した上で記憶すること。

加えて、主要政党名も。

CDU、CSU、SPD、FDPという略称から正式な党名と政治的立場がすぐ思い浮かぶでしょうか?

順に、キリスト教民主同盟、キリスト教社会同盟、社会民主党、自由民主党。

保守のCDUと左派のSPDが二大政党、CSUはバイエルン州のみを基盤とするCDUの兄弟政党、中道のFDPが小政党ながらCDUともSPDともしばしば連立しバランサーとしてドイツ政界の両極化を阻止する絶妙な役割を果たす。

ドイツ語を一言も知らなくても、政党名を英訳すれば、それぞれの略称は記憶できますよね(SPDのみアルファベットの順序に注意)。

それらにプラスして、(1980年代以降の)緑の党、(旧東ドイツの社会主義統一党の後裔)民主社会党とそれを継ぐ左派党もチェック。

以上、高校世界史より少し詳しいぐらいのレベルですが、これらを理解しておけば、新聞・テレビの国際ニュースでわからないところはほとんど無くなります。

さて、具体的な史実で気になったところを適当に取り上げてみると、1949年ドイツ連邦共和国が成立するが、この時点では法的にはまだ完全な主権国家ではない。

米英仏の軍政長官が高等弁務官に変わった上で存在しており、非軍事化・ルール管理・外交・難民・連合国の安全保障などが、連合国選管事項とされた。

(西ドイツ建国当初は外相は置かれず、外務省が設置されたのは1951年以降。)

「安全保障または民主的秩序の維持」「三国の国際的義務」から必要とされる場合は米英仏三国が全権を掌握するとされていた。

50年シューマン・プラン提案、51年ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)調印、52年発足。

このECSCみたいに、その基になった条約調印と組織発足の年度がずれるのは、ややこしいですね。

ヨーロッパ経済共同体(EEC)も確か57年ローマ条約調印、58年発足でしたよね。

そう言えば、19世紀のドイツ関税同盟も、1833年調印、34年発足でしたか。

上記、欧州統合は順調に進展するが、安全保障面では、50年プレヴァン・プランと欧州軍構想が提案され、52年欧州防衛共同体条約が調印、しかし54年仏議会が批准を拒否して挫折、結局同年パリ協定が締結され、それによって西ドイツのNATO加盟と主権回復が成されることになる(岩間陽子『ドイツ再軍備』。このパリ協定も発効は翌55年)。

ただし、ここでもベルリンおよびドイツの再統一、最終的平和条約については、連合国が権利を留保する形になっており、これが1989~90年にかけて意味を持つことになる。

55年西独とソ連は国交を回復しているが、ということは東独と外交関係を持つ国とは断交するというハルシュタイン・ドクトリンは、ソ連だけは例外としていることになると、意外な盲点を本書では指摘してくれている。

西独は東独の国家存在自体を認めず、ベルリン封鎖の十年後、58年のベルリン危機はソ連がベルリンでの権限を東独に委譲することによって西側に東独承認を強要しようとして生じたもの。

結局、事態はソ連の思惑通りにはならず、61年ベルリンの壁が建設される。

71年、しばしば強硬策をソ連に突き上げた東独指導者ウルブリヒトが解任され、同年四カ国ベルリン協定で東西ベルリンの状況は一応安定、72年には東西ドイツ基本条約締結。

この基本条約においても、東西ドイツは国家間関係を持つが同民族のため通常の外国同士ではないという解釈を西独は建前としては守っている。

なお、内政面について、日英などと違い、首相に議会の解散権が無いことをチェック。

信任案が否決され、なおかつ別の首相が選出できなかったときなど、特定条件においてのみ象徴的役割の大統領が解散。

1990年のドイツ再統一前後の叙述では、モドロウ、クレンツ、デメジエールなどの人名に懐かしさを覚えます。

首相名の記憶に当たっては、当然(しばしば連立となる)与党も同時に覚える必要がある。

近年について、比較的ややこしいのが、1998年にSPDと、初めて政権に参加した緑の党が連立してシュレーダー内閣成立、それが2005年にCDUとSPDの大連立となったメルケル内閣に代わり、2009年以降は大連立を解消した、CDU・FDP与党のメルケル政権となる。

非常に読みやすくて良い。

170ページ程なので分量的にも楽。

初心者向けの良質なテキストだし、中級者以上が知識の確認のために読んでも有益。

手堅い良書と言えましょう。

2013年2月10日

藤原聖子 『教科書の中の宗教  この奇妙な実態』 (岩波新書)

Filed under: 教科書・年表・事典 — 万年初心者 @ 11:26

高校倫理教科書を考察した本。

まず「宗派教育」と「宗教的情操教育」そして「宗教知識教育」の区別から。

これは宗教色の濃い順に並んでおり、ある特定の宗教を信仰する立場からのものが「宗派教育」、宗教一般への理解と敬意を養うためのものが「宗教的情操教育」、純粋に中立的世俗的立場から外面的知識のみを教えるのが「宗教知識教育」。

日本では、戦前の国家神道への反省からくる厳密な政教分離の立場から、文部省が進める「宗教的情操教育」に反対し、「宗教知識教育」のみを行うべきだと主張する学者が多いが、そういう学者が執筆した左派的教科書の中にも、実は無意識のうちに、ある特定の宗教(特にキリスト教と仏教)を優位視する「宗派教育」的記述が紛れ込んでおり、それは国際的に見て、多文化主義的教育のイギリスだけでなく、宗派的なドイツ・トルコ・タイなどの教育と比べても、奇妙で好ましくないものだ、というのが本書の論旨。

まず、教科書の「先哲に学ぶ」という姿勢が、我々日本人に影響を与えた宗教を重視するという傾向を当然生み出し、それがイスラム教の軽視に直結することを指摘。

また、生徒に「正解を与える」というスタイルが、教義の中で一般的道徳を説くのに利用できる部分を切り取って紹介することに繋がり、宗教の全体像は不在で、かなり偏ったイメージが与えられてしまうとしている。

例えば、仏教では「不殺生戒」「慈悲」が教えられ、キリスト教は「愛」の宗教であると説かれる。

仏教では「縁起」、キリスト教では神との「契約」そして「裁き」という概念も同様に重要なはずなのだが、結果としてある特定のイメージがそれぞれの教えについて強調されることになってしまっている。

仏教の「一切衆生悉有仏性」という教義から自然保護の重要性が導き出されることも多いが、これもイメージ先行の気があるとされている。

仏教の宗派教育が行われているタイの教科書でもその手の記述はあるが、それはむしろ「中道」の概念から行き過ぎた経済開発主義を批判するという経路をとっているという。

さらに、西洋による非西洋世界への偏見であるオリエンタリズムを批判する記述のある教科書が、ヒンドゥー教のページでは定番の如くガンジス川の沐浴写真を載せるのは矛盾してはいないか、「キリスト教=祈り、仏教=哲理」という対比は単純過ぎないか、フェミニズムについてのコラムのある教科書がマリア像と瞑想する座禅者の写真を載せ、受動的な女性と自立的な男性というジェンダーバイアスに鈍感と思えるのは如何なものか、と畳み掛ける。

また、仏教では上述の「一切衆生悉有仏性」だけが強調されるが、「因果応報」「畜生道(六道輪廻)」という全く異なる印象を与える教義はどこへ行ったのか、と疑問を投げかける。

「一切衆生悉有仏性」を根拠に、「キリスト教は愛の宗教だがそれは人間中心主義であり、動植物などの自然にも配慮する仏教の方がより優れている」というイメージが密かに教科書に紛れ込んでいるとしている。

そして、実に面白いのが以下の文章。

教科書がキリスト教と仏教の間に優劣をつけていることなどは、まだ序の口である。より顕著な序列化は、ユダヤ教とキリスト教、ヒンドゥー教と仏教の説明において現れている。倫理教科書では、ユダヤ教とヒンドゥー教は、それぞれキリスト教と仏教の単なる準備段階という位置づけである。・・・・・・話の流れとして、それらは宗教として足りないところがあったり、社会に害をなしたりしていたので、イエスとブッダが救世主として登場し、新しい教えを説いたのだとなっているからである。イエスやブッダを偉大な先哲として描こうとすればするほど、相対的にユダヤ教とヒンドゥー教は貶められるというしくみである。・・・・・・これらを読んだ高校生は、ユダヤ教やヒンドゥー教はひどい宗教だなあと思うことだろう。

あまりに的を射ているんで、書き写しながらニヤニヤ笑ってしまいましたが、いや確かにこういうイメージありますよね。

ユダヤ教と聞くと、反射的に「選民思想」を思い浮かべ、一神教という厳しく崇高な信仰を「発明」したものの自民族のみの救いを追い求めたユダヤ教に対して、イエスはそれをベースに「万人への愛」という素晴らしい教えを説いた、一方「依怙地な」ユダヤ人は以後迫害される道を歩む、という単純なストーリーをついつい受け入れてしまう。

インド史で言うと、カースト(ヴァルナ)による差別の上に立った「悪い宗教」であるバラモン教が人々を苦しめていたが、その抑圧に抗してガウタマ・シッダールタが人間の平等を説く「良い宗教」である仏教を啓き信者を増やすが、「悪い宗教」を完全に駆逐することはできず、そのうちイスラム教が侵入してきて(これは信者間の平等を説くのだから一応は「良い宗教」だ)、これで「悪い宗教」が消滅すればよかったのに、ヒンドゥー教は「卑怯にも」仏教の一部を自己の教義体系に吸収して生き残り、逆に「良い宗教」である仏教の方がインドから消滅してしまった、そして残念至極にも現在に至るまでカースト差別が残り、今もインドはその負債に苦しんでいる、というのが中学・高校の倫理・世界史教育からほとんどの人が受ける通俗的イメージでしょう。

もちろんこうした面も確かにあるんでしょうし、だからこそアンベドカルによる仏教改宗運動も生まれたんでしょうが、しかし仮にも千数百年にわたって十数億(本書によれば現在は9億3500万人)の信者の生き方の基準となってきた外国の伝統宗教について、中等教育の段階でここまで一方的でネガティブなイメージを刷り込むのはちょっとどうなのかと正直思います。

このブログで中公新版世界史全集の山崎元一『古代インドの文明と社会』を絶賛した理由の一部は、こうしたヒンドゥー教への否定的イメージをかなりの程度相対化してくれるから。

「神道は形式的清浄さのみを重視する、内的倫理観の無い、ハリボテみたいな宗教だ」と、もし外国の教科書に書いてあったら、これも1%の根拠も無い、たとえ表面的にでもほんのわずかに当たっている部分も一切無いとは言い切れないものの、やはり私は不愉快で嫌な気分になりますよ。

本書によれば、そもそもユダヤ教において「律法主義」と「選民思想」のみを強調するのは不当であり、バラモン教についてはその名称自体が不適切だとして、最近では「ヴェーダの宗教」等の表記が採用されることが多いそうです。

(バラモンという人間を崇拝するような印象を与えること、またそこから差別的で一神教より格下の宗教だという隠された意味を持ちかねないからだとのこと。)

こうした「勝利主義」「置換主義」(役割を終えた宗教が退場し、より良い宗教が勝利するという見方)的説明への反省が必要だとし、「民族宗教」および「世界宗教」という図式も一面的過ぎると指摘。

「勝利主義」史観は仏教内部でも見られ、「慈悲」という教義を中心化し、それがブッダの教えの核心であったと後世から遡及させる立場から、「自己のみの救いを求める小乗(上座部)仏教」に対する、「万人の救済を目指す大乗仏教」の優位が導かれ、日本仏教内部でも浄土教→浄土宗→浄土真宗という序列が暗黙のうちに立てられることになってしまう。

ここから話はイスラム関係になり、教科書でのイスラム記述分量の少なさを述べ、それはよくある平凡な指摘だが、その内容について盲点となって普段我々が意識しないことをはっきり思い知らせてくれているのは、非常に有益で興味深い。

・・・・・・イスラムは、キリスト教や仏教ほど「思想」という面から語られていない。かわりに、礼拝や巡礼といった一般信者の宗教的行為は必ず入っている。逆に、キリスト教・仏教の説明では、一般信者の宗教生活についてはほとんど言及がない。これは、信仰を行為によって表すことを重視する、イスラムという宗教の特性による面もあるが、一見すると、イスラムだけ哲学的な要素がなく、体を動かしているだけのようにみえてしまうのである。・・・・・・キリスト教については愛、仏教については苦からの解放や慈悲という特徴が積極的に評価されているのに対し、イスラムについては、神にひたすら服従するという面や信者に数々の義務が課されているという面ばかりがやたらと強調されているのである。これでは、日本の高校生たちは、なぜわざわざこのような宗教の信者になる人たちがいるのか、さっぱりわからないのではないか。・・・・・・

あまりに面白くて、以上の文章にも、吹き出しそうになった。

さらにいえば、キリスト教については、イエスや使徒パウロに続き、アウグスティヌスやトマス・アクィナスといった神学者・哲学者が肖像画つきで紹介されるのだが、イスラムの節には、どの教科書でも、神学者・哲学者が出てこない。図版もカーバ神殿の巡礼風景などである。・・・・・・イスラムには偉大な思想家はおらず、信者は戒律を守るだけ、といわんばかりである。

倫理ではなく、世界史教科書では、もちろんイブン・シーナーなどの名が出てくるが、確かに馴染みはないし、その思想の極めて大雑把な概略も思い浮かばない。

こうした偏りを含む記述が生まれる原因と海外での宗教教育をめぐる論争と試行錯誤を記述し、宗教学習についての著者の提案を述べる。

その中では、英国の例と、著者が教科書用に書いたコラム(ボツになったものが多いが)が興味深い。

結論としては、倫理教科書の哲学史・思想史の中に各宗教の説明を入れ込むと世界史・日本史教科書と大差が無くなる、それより宗教と倫理の相克、諸宗教の現在の姿、世俗社会との対立などの問題点を扱うべきとしている。

非常に面白い。

著者が意図してのものかはわからないが、所々、何とも言えないユーモアがあって、思わず笑ってしまう。

これは読む価値が有る。

是非お勧めします。

2013年2月6日

ムッソリーニについてのメモ

Filed under: おしらせ・雑記, イタリア — 万年初心者 @ 12:42

ニコラス・ファレル『ムッソリーニ 下』(白水社)記事続き。

1939年9月1日、独がポーランド侵入、9月3日第二次世界大戦勃発。

イタリアは中立を声明。

グランディは、ドイツが防共協定・鋼鉄条約双方を破ったと主張。

同年末には、ファシズム大評議会などにおいて、バルボが同盟の切り替えを公然と主張、チァーノは反独的と見なされる演説を行う。

(このチァーノは少し前には参戦に傾いていたような態度も示しており、本書での評価は甚だ低いが。)

実際、イタリアの軍備は主要国としては全く貧弱極まるもので、その基盤となる工業力を中心とする基本的国力も劣勢であった。

本書で例示されている数字では、39年時点の鋼鉄生産量は、伊が240万トンであるのに対し、英1340万、独2250万。

この状況では、前回記事で示したような心理的外交戦の段階であればまだしも、実質的な軍事力だけがものをいう戦時においては、イタリアが持っていた行動選択の余地は極めて限られたものにならざるを得なかった。

1940年1月、ムッソリーニは、ソ連との不可侵協定破棄と英仏との交渉開始を、ヒトラーへの書簡で提案している。

3月、仏首相がダラディエからレイノーへ交代、5月にはチャーチルが英首相に就任。

戦局の推移に伴い、ムッソリーニも徐々に独寄りの姿勢を見せ始めるうちに、40年5月西部戦線でドイツが大攻勢に転ずる。

フランスが降伏寸前となった6月、ついにイタリアも宣戦布告。

あくまで短期での勝利を予測してのことだが、結果として破滅への決定的な一歩となった。

インドロ・モンタネッリは、彼のイタリア史シリーズ中の1940~43年を扱った巻の序文で、その巻を書くことが彼にとって他の何より辛い思いで満たした――その辛さはムッソリーニや彼の配下の将軍たちだけでなく、イタリア国民自体から、「わが国の人々の欠点のなかでも軍事的特質が完全に欠けていること」からもたらされた、と書いている。

何度も書いていますが、モンタネッリのイタリア史を全巻翻訳で出してもらえませんかねえ。

訳者の藤沢氏も亡くなってしまいましたが。

参戦後、即座にマルタ島・コルシカ島・エジプトへ軍事行動を起こすのが有効だったと思われるが、実際にはそうせず、ヒトラーは仏降伏後のペタン政権への配慮から仏南部や北アフリカを即時占領しなかったが、もしこれを実行に移していれば英国は地中海から完全に一掃されていただろうとされている。

7月、バトル・オブ・ブリテンで、英本土上陸作戦失敗。

9月、独の短期勝利が無くなったことを悟らなかった日本が決断したことによって、日独伊三国同盟が結ばれたが、10月には仏ペタン、西フランコの両者とも参戦を拒否。

ここで有無を言わせずジブラルタルや北アフリカを占領して仏・西を巻き込んでいれば、また違った展開も考えられたという。

日本と仏・西の命運が決定的に分かれたのはこの時期ですが、フランコらはナチス・ドイツの大攻勢を身近に見ていたのに分別のある選択をしたと言うべきか、あるいは身近に見ていたからこそその先行きが見通せたと言うべきなのか。

戦前日本がスペインと同じ道を歩めなかったのは、何度考えても痛恨の極みです(戦前昭和期についてのメモ その5参照)。

しかし考えてみれば、フランスだって下手すりゃハンガリー・ルーマニア・ブルガリア等の従属的枢軸同盟国の一員という立場で終戦を迎える可能性があったわけで、俗な言葉で言えば、たとえハッタリ半分でもフランスに戦勝国の地位を確保することに成功したド・ゴールはやはり大したもんです(エリック・ルーセル『ドゴール』参照)。

伊はバルカン支配を企図し「並行戦争」を遂行、10月ギリシアに侵攻(同国はファッショ的なメタクサス政権下にあったのだが)。

6月のソ連によるバルト三国併合とルーマニア北東部奪取を受けて、同じ10月ドイツはルーマニアに進駐、同国の油田を手に入れる。

独伊の戦略が全くバラバラで、ヒトラーがソ連打倒を考え始めたのに対し、ムッソリーニは地中海方面を重視していた。

これはまだしもムッソリーニの方が正しかったと評されている。

確かに対ソ戦開始はヒトラーにとって致命傷となりましたし、それよりエジプトから中東地域に侵攻し、一年後参戦する日本と連携してインドになだれ込んで対英独立を煽り、米英世論へ衝撃を与えるというシナリオの方が、枢軸国にとってはまだしも良かったのかもしれないが、果たしてそれがどこまで現実的だったのかと言えば心許ない。

「並行戦争」では、伊軍の失態続く。

侵攻したギリシアで苦戦、40年11月タラント軍港が英軍に空襲され、主力戦艦3隻が一気に行動不能となり(このタラント空襲を見て山本五十六が真珠湾攻撃を構想する)、9月のエジプト侵入は即撃退される。

12月にはバドーリョが参謀本部長から解任される。

40年11月から41年3月にかけて三国同盟にハンガリー・ルーマニア・ブルガリアが加入。

41年2月、ロンメル率いる独アフリカ軍団が上陸。

4月、エチオピア喪失、三国同盟に加入を拒否したユーゴに侵攻、同月ギリシアが降伏。

最後の電撃戦勝利となったユーゴで、旧構成国のクロアチアは従属的独立国となり、ウスターシャと呼ばれるファッショ的政党が支配。

これら占領地域でユダヤ人狩りが行われるが、伊がしばしば介入しユダヤ人を救う。

すでに独伊が運命共同体になっていたと通常は思われるこの時期、ムッソリーニが抱いていた、ヒトラーとドイツへの不信感には驚かされる。

「わたしは・・・・ドイツ人には吐き気がする・・・・個人的にはヒトラーと彼のやり方にはうんざりだ。会談の前にベルを鳴らす、あのやり方は好きになれない。ベルを鳴らすのは給仕を呼ぶときだ。そしてあの会談ときたら、いったい何なのだ?退屈で無意味な独り言に五時間もつきあわなくてはならないのだから。・・・・アルプスの渓谷の要塞化をずっと続けているが、いつか役に立つだろう。」

「ヴェネト川沿いに数千門の大砲を並べなければならない。なぜならあのあたりからドイツ軍はイタリアに侵入してくるだろう。アルト・アディジェの険しい峡谷は簡単に封鎖できるから、あそこからは来ないだろう・・・・だが、われわれはふたつのことを祈らねばならない。戦争がドイツにとっては長く消耗するものになることと、妥協で終わることだ。そうすればわれわれは独立を保てる。」

41年6月22日、独ソ戦開始。

日本だけでなく、ムッソリーニも全く予期していなかった。

英国勝利の可能性や、将来の対独戦まで口にするようになる。

12月、モスクワ郊外での赤軍の反撃で、ヒトラーの短期決戦の目論見は潰え、ほぼ同時に日米開戦、独伊は対米宣戦。

42年中、補給路を扼す重要拠点であったマルタ島攻略に失敗、北アフリカ戦線で敗北。

42年11月、ペタンを排し、仏全土とチュニジアを占領。

ムッソリーニは、占領地での独による強圧的な政策を懸念し、42年11月にヒトラーに独ソ講和を進言している。

この独ソ戦には伊軍も従軍していたが、当時亡命中の伊共産党指導者トリアッティが伊軍捕虜に対して極めて冷酷な態度を示していたことが記されている。

著者によると、ムッソリーニは(仏ヴィシー政権とは異なり)、ホロコーストへの協力はせず、フランコも独に懸念を示したという。

(ただしイタリアからユダヤ人の移送が全く行われなかったように書いているのは著者の明らかな事実誤認だ、と訳者は指摘していたと思う。)

また、ムッソリーニが、かつての個人的友人で、戦後イタリア政界で活躍することになる、社会主義者ピエトロ・ネンニを保護したことも記している。

ここで、ヴァチカンの指導者、教皇ピウス12世(在位1939~58年)がホロコーストを公然と非難しなかったとの近年の批判は当たっていない、ヒトラーがヴァチカン接収計画を持っていたことが明らかになっており、もし公然の反対行動を取れば、それが実行され、カトリック教会が水面下で行っていたユダヤ人保護が不可能になり、より多くの犠牲者が出たかもしれない、アングロ・サクソン系メディアのように、白黒をはっきり割り切って道徳性を判断することは不当だ、と書かれているのは非常に興味深い。

43年1月、トリポリ陥落、カサブランカ会談で日独伊に無条件降伏を求めることをルーズヴェルトとチャーチルが決定。

ムッソリーニは、親独派の参謀本部長カヴァッレーロ元帥を解任、アンブロージョ将軍に替え、チァーノ、グランディ、ボッタイも更迭、PNF書記長にはスコルツァ就任。

43年3月、北伊で大ストライキ発生、5月、チュニジア喪失。

時期が明確に読み取れなかったが、秘かに単独講和を打診してきた伊に対して、チャーチルはやや柔軟な姿勢をみせたが、イーデン(40年12月よりハリファックスに替わって再度外相就任)が拒否したと書かれている。

本書で印象的なのが、このイーデンに対する評価の低さ。

この人は、長い間チャーチルの影に隠れ、戦後やっと首相になった際はスエズ動乱介入という失策を犯して短期間で辞任したわけで、その名声の大部分は戦前の反宥和派政治家としてのキャリアから来ているはずですが、本書のように戦前の言動を批判的に見られては立つ瀬がないですね。

43年7月、連合国軍がシチリア上陸、8月全島占領。

中学レベルの基本事項確認ですが、日独の降伏が1945年であるのに対し、伊は43年に決定的時期を迎えたことをチェック。

敵軍が伊本土に迫る状況で、国王と上記アンブロージョを中心とする軍、およびファシスト内部でのグランディら、という二つの陰謀が進行するが、この両者には直接・密接な関係は無かったとされている。

これらの計画は行動方針が不明確であり、ムッソリーニを完全に排除するのか、それとも彼に分離講和を結ばせるのか、休戦後に対独宣戦布告をするのか、それとも中立を守るのか、で意見は一致せず。

一方、親独的なファリナッチによる陰謀も存在した。

7月24日、ファシズム大評議会(ちなみにメンバー28人と記されているが、私はこの機関を国会に替わった同種のものと見なしていたので、もっと構成人数が多かったと思っていた)で、統治権を国家機関と分け合い、軍指揮権を国王に返還する動議を、グランディが提出。

この動議は、表向き王室批判の印象を与えていて、さらに事前にムッソリーニと協議した際、彼にとっても利益になると見せかけていた。

(王室に批判的なのに軍指揮権を国王に返還するというのは、危機的状況であるのに国王が安穏として自らイニシアティヴを取ろうとしないことを非難するといったニュアンスだったと思うが、確かではないです。この辺うろ覚えで申し訳ありません。)

上述の通り、グランディはファシスト内部での反ムッソリーニ計画の紛れも無い中心人物である。

この人の名は、塩野七生『サイレント・マイノリティ』で知ったが、これほど重要な役割を果たしていたとは本書で初めて気付いた。

裏切りを自覚しつつ、ムッソリーニは強硬措置に出ず、微妙な状況のまま採決が行われ、グランディ、デ・ボーノ、チァーノ、左派ファシストのボッタイら19人が賛成、事前謀議に関与していながら態度を翻したスコルツァら7人が反対、1人が棄権。

これは体制内部の政変であり、左派のレジスタンス神話は完全な虚構だとされている。

7月25日、国王謁見時にムッソリーニ逮捕。

バドーリョ政府成立、PNFなどを解散。

グランディはスペイン・ポルトガルを通じた講和打診のため出国、このため結果的に命が助かり、60年代まで伊に戻らず、後に自己正当化の色彩の強い文章を残している。

ムッソリーニは、ナポリ湾のポンツァ島からサルデーニャとコルシカ間にあるマッダレーナ島を経て、アペニン山脈のグラン・サッソ山へ幽閉される。

ちょっと詳しい概説書では、「大評議会での解任決議→国王による逮捕」という流れは載っているが、両者間はそもそも事前計画において密接な関係があったわけでなく、因果関係は明確ではない、前者は法的正当化の根拠となったのみで、決定的なのは後者の方だったとされている。

(しかし、モンタネッリの著書では、ファシスト内部の反抗を評価し、国王と軍には低い評価のみを与えているそうで、著者もそれに異を唱えるような記述は無く、この辺ちょっと不可解。)

このような伊内部での激変にも関わらず戦争は継続、イーデン(また出た)の主張によって爆撃が強化、8月にミラノ・トリノが空襲を受ける。

モンタネッリはこれを連合国の「盲目的な官僚的犯罪」と呼んでいるそうですが、伊でそうなら、東京大空襲や原爆投下で日本もいくらでも文句が言えます。

あくまで無条件降伏を要求する連合国とドイツ軍の脅威との板ばさみとなり、どっちつかずの態度をとるうちに、独軍が侵入し伊軍を武装解除。

9月、国王とバドーリョはローマ脱出、連合国と休戦、国民解放委員会(CLN)結成(反王政派が多数)。

結局10月に対独宣戦を行ったが、より早い段階で断固としてそうしていれば、独の抵抗を排除し、2年間の戦争と内戦を避け得たとされている。

9月にドイツが特殊部隊によってムッソリーニを奪還、以後のムッソリーニはペタンと同じく、傀儡色の強い役割を果たすことになる。

12月、サロでイタリア社会共和国を宣言、ナポリ以南のバドーリョ政権と対立するが、この両者が傀儡的存在だったと著者は評している。

サロ共和国では、左派ファシストによる社会主義政策が推進され、44年1月、チァーノ、デ・ボーノが処刑される。

同月南部での主権を認められたバドーリョ政権に、スターリンとトリアッティは暫定的支持を与えるが、6月にはボノーミ挙国一致政権に交替。

この時期の共産系パルチザンの活動はしばしば逆効果であり、不必要な報復を招いただけだった、サロ派もレジスタンスも少数派であり、大多数のイタリア人は中立派だったと書かれている。

44年6月、ローマ奪還、ノルマンディ上陸作戦。

45年4月になると、内戦は最終段階に達し、北伊に連合軍進入、ミラノへ政府移動。

連合軍はムッソリーニを生きたまま引き渡すよう指令していたが、捕らえられたムッソリーニは共産系パルチザンの独断によって処刑される。

当初それを堂々と明言し大いに誇っていた共産党が、法的手続きを無視した処刑方法と愛人のクラレッタ・ぺタッチまで惨殺したことに批判が高まるようになると、言葉を濁すようになる。

トリアッティに次ぐ共産党指導者ロンゴによる指示かとも思われる処刑は、4月28日に執行され、遺体はミラノ・ロレート広場で晒しものになる。

ジャーナリストのモンタネッリはその日、ロレート広場に居合わせた。彼はその日の光景について次のように書いている。その場面は「それを望んだ連中、それを許した連中、そして哀れな死体に向かって侮辱の言葉を投げかけ、つばを吐き、さらに悪質な形で汚した興奮した群衆の名誉を傷つけていた。《民衆》は、ほんの数ヵ月前まで喝采を浴びせていた男に対して、残忍な振る舞いにおよんでいたのだ」。

こうした、「多数者たる民衆の責任」を完全に欠落させた醜い復讐劇と集団リンチを取り上げて、「イタリアは戦争犯罪を自ら裁いたが、日本はそれを放棄した」なんて言うのはやはり当を失していると思う。

この2年間の内戦期間中、ドイツ軍は報復として1万人のイタリア人を殺害している。

一方、パルチザンによる殺害も2~3万人に及び、その少なからぬ部分が戦争終了後の大衆による犯罪と見なさざるを得ないと書かれている。

また、戦後ユーゴの指導者チトーがイストリア在住の(決してファシストとは言えない)イタリア人を1万人殺したことも指摘している。

4月30日、ヒトラーが自殺、欧州での戦火はようやく止む。

やっと終わりました・・・・・・。

訳者あとがきによりますと、本書の英語版は2003年刊、著者は自身をムッソリーニ批判派でも擁護派でもない「真実重視派」だと述べているが、実際にはこの記事でも引用した保守派ジャーナリストのモンタネッリや修正主義的な歴史家として知られたレンツォ・デ・フェリーチェの影響を受け、やや偏った立場も見受けられるとのことです。

だが、私はあまり気にならなかった。

下巻も400ページを超え、相当キツイが外交史・戦史の記述が多くなり、実に興味深く読める。

上巻はかなりだるい部分もあったが、通読してみるとやはり読んで良かったなと思う。

骨は折れるが、それだけの見返りはある。

かなり値段が張るが、図書館で借りればいいか。

しかし、貸し出し期間が2週間じゃ、延長無しでは読み切れないかも。

私は、上・下巻合わせて、3週間かかり切りになった。

欠点としては、やはり長過ぎること。

初心者は、ロマノ・ヴルピッダ『ムッソリーニ』(中央公論新社)でワンクッション置いた方がいい。

それで、余裕があれば取り組んで下さい。

2013年2月2日

ニコラス・ファレル 『ムッソリーニ  下』 (白水社)

Filed under: イタリア — 万年初心者 @ 00:45

上巻記事の続き。

本巻では、まず娘エッダの夫で、重要な協力者でありながら、最後にはムッソリーニと袂を分かち、1944年銃殺されたチァーノを登場させた後、1935年10月のエチオピア侵攻の重要性が強調されている。

この出来事によって、ナチ政権成立当初には明確に反独的姿勢を保っていたファシスト・イタリアが英仏両国から離反し、枢軸陣営結成に向かうのだから、確かに現代史上いくつかある、極めて重大な岐路だと言ってもいいでしょう。

著者の立場は、戦争への覚悟が無いなら宥和政策を採るべきだったとのもの。

(そもそも1923年エチオピアの国際連盟加盟時には、同国の奴隷取引の存在や無政府状態を理由に英国は反対しており、むしろイタリアが加盟を支持していた。)

仏外相ラヴァルが採った、イタリアへの宥和姿勢に英国世論は反発したが、一方英国民は自国の軍備拡張とその負担は拒否し、前年34年のオーストリア危機と35年4月のストレーザ戦線では道義的支持以上のものを与えようとせず、35年3月の独再軍備宣言にもかかわらず、同年6月には英独海軍協定という宥和策を自ら率先して採っているのは、極めて偽善的だったと著者は評している。

ここで驚くのが、ヒトラーがエチオピアへの武器援助を指令していたという記述。

元々持っていた親英感情や、英伊間の離反を誘う意図があったとのこと。

1935年当時の英仏の政治指導者は英首相マクドナルド、外相サイモン、仏首相フランダン、外相ラヴァル。

6月に英はボールドウィン政権に交代、チャーチルと並ぶ反宥和派政治家のイーデンが入閣。

だが、このイーデンは賢明ではない反伊感情に囚われ、実際にはさして対ヒトラー強硬論を貫き通したわけでもなく、むしろムッソリーニにより厳しい態度を採るという、大きな過ちを犯した人物として描写されている。

国際連盟は対伊制裁を決議するが、最重要戦略物資である石油は禁輸項目に含まれず。

これには事前にイタリアが行った、石油禁輸は戦争に繋がるとの警告が相当与ったようだが、日本も1941年南部仏印進駐前に同じことを大々的に宣言して、米英世論に釘を刺しておくべきでした。

結局この制裁措置は、イタリアの行動を抑止・撤回させることは全く出来ず、伊国内を強硬論一色でまとめ上げ、体制を一層強固にしただけに終わった。

米国からの石油輸入は、制裁前よりむしろ増加している。

単細胞的反米主義から言ってるつもりはありませんが、この不名誉な事実は記憶しておきましょう。

12月ホーア・ラヴァル協定、侵攻当初に用意された妥協案よりもはるかに広大な領域を伊に与えるとの案で、この内容が漏れると世論の猛反発が起きる。

しかしこの現在では悪名高い案にも、閣内で反宥和派のイーデンが内実は同意していたと著者は指摘、やがてイーデンは外相に就くが、彼の枢軸国全体に対する一貫した反宥和派との輝かしいイメージは必ずしも当たっていないとしている(上述の通り、著者はイーデンの反伊姿勢の過剰と反独姿勢の過少を批判する立場だが)。

36年5月仏でブルム人民戦線内閣、デ・ボーノから指揮を引き継いだバドーリョ(バドリオ)がアディス・アベバを占領、6月チァーノが外相就任。

(後にデ・ボーノはチァーノと共に反対派にまわり、44年1月銃殺される。)

イタリアのエチオピア統治が、英仏の平均的植民地支配に比しても残酷で圧政的であったことは著者も認めている。

しかし結局、著者は、真の脅威であるナチス・ドイツと対決するために、ムッソリーニのイタリアへの宥和政策をはっきりと支持し、当時の英世論・イーデン・英労働党を批判している。

行間からは「エチオピアを見捨てろ」という著者の意見がはっきり読み取れる。

これは相当物議を醸すであろう見解だし、異論反論が山ほど出そうではある。

しかし、当時賭けられていたものの重大性を認識するために、あえて以下のような「歴史のイフ」を想定してみる。

エチオピア戦争にもかかわらず、英仏伊の三ヵ国連合は堅持される。

ムッソリーニの黙認が無い限り、ヒトラーはオーストリアを併合できず、権威主義的右派のシューシュニク政権の下、同国も反独陣営に加わる。

この状況下では、異様な猜疑心と権力欲の持ち主であるスターリンも、実際の史実ではそうなったように英仏と独を両天秤にかけることはできず、35年5月締結の仏ソ相互援助条約は実効性を帯びる。

加えて、仏チェコ間の相互援助条約によって、チェコスロヴァキアという東欧随一の工業国が、各個撃破されることなく、独への抵抗拠点としての役割を十分に果たす。

ポーランドは反独反ソ二重対決路線を採り独自の中立的立場を保つかもしれませんが大勢に影響は無いでしょうし、ハンガリー・ルーマニア・ブルガリアが甚大なリスクを冒してわざわざ独陣営に駆け込むことはほとんど考えられず、親独派と反独派が拮抗し実際にはクーデタが発生したユーゴスラヴィアはむしろはっきり英仏側に傾くでしょう。

史実通りスペイン内戦が勃発して、ドイツが反乱軍側を援助をするとしても、シニカルな現実主義者のフランコは、その「恩義」など、実際の史実以上に弊履の如く捨て去って一顧だにせず、平然とヒトラーの破滅を傍観するはず。

結局、ドイツは第一次世界大戦時以上に完全に孤立し包囲される。

それを日米両国も間接的に支えるか、少なくとも中立的立場を取る。(1935年に英国がイタリアだけでなく日本に対しても、中国幣制改革への協力と満州国承認を交換条件とした宥和政策を試みていたことに注目。戦前昭和期についてのメモ その4参照。)

ヒトラーは、慎重に行動の時期を探り、敵陣営の不和と不一致に付け込むという狡猾さを持っていた一方で、国家戦略のタイムテーブルを自分の寿命に従属させるという、恐るべき非合理的な面も持っていた。

対独包囲網にいかなる綻びも見出せず、自身の死までにドイツの覇権を確立する見通しが立たず焦りをかき立てられ、結局しびれを切らしたヒトラーが不用意な軍事行動に出て、周辺諸国から袋叩きに合いドイツは早期敗北、ナチ体制崩壊、あるいはその前にドイツ軍部のクーデタが勃発してヒトラー失脚という展開が、もしかしたら見られたかもしれない。

「いやいや、イタリアの軍事力なんて、実際の第二次世界大戦で明らかになったように、貧弱極まるものでドイツの足手まといになっただけだろう、そのイタリアに英仏と独との間でキャスティング・ヴォートを握るような力があったわけないよ」とおっしゃる向きもあろうかと思います。

しかし、ここで問題になっているのは、過去の史実で明らかになった軍事力の実勢ではなく、当時の人々が心の中に持っていたイメージであり、それが英仏の世論に対独戦への揺るぎない意志を固めさせるか、ドイツの参謀本部を中心とする高級軍人たちに自国の徹底的敗北を避けるためにヒトラーを排除することを決意させるか、という純粋に心理的な影響なわけです。

そうであるならば、この時期のイタリアの向背が世界の運命を握っていたとの著者の主張が俄然真実味を帯びてくる。

上述のシナリオがもし実現していれば、ドイツは保守的な軍事政権がナチズムという大衆運動を鎮圧し徐々に国内体制を正常化、欧州情勢は安定への道をたどり、同時に満州国の是非を棚上げした上で日本と中国は和解し、1914~18年の戦争は「第一次」の付かない世界大戦と呼ばれるようになり、ホロコーストという狂気は生まれることがなく、共産主義は冷戦を経ることなく封じ込められ、ロシアにおいてのみ行われた無謀な実験という評価となり、大衆民主主義という怪物をどうにか飼い慣らした世界は、20世紀における政治による大量死の相当部分を避けることに成功する・・・・・・。

ですが、そうそううまくは行かないでしょうかね。

歴史の女神はもっと意地の悪い存在でしょうから・・・・・・。

ある程度まで詳細な具体的史実を身に付けた後で、本書のように比較的良質で思考実験の材料を提供してくれるテキストを自分なりに考えながら読むと、「反実仮想」(ジョセフ・ナイ『国際紛争』参照)を使って史実や人物の決断を評価することができるようになり、歴史を学ぶ愉しみも増すと思います。

極めて幼稚で、多くの過誤を含んでいる可能性があり、場合によっては無意味になりかねないものですが、上記はその一例のつもりで記しました。

なお、想定される「歴史のイフ」が、真に有益で意味のあるものであるためには、その前提としてもちろん、無味乾燥にも思える年号暗記を含む、多くの具体的史実の習得が必要なことは言うまでもありません(引用文(内田樹6))。

基本的史実の確認と、「有り得たかもしれない、もう一つの歴史」を想定した上での史実評価、この両者をバランス良くこなしていくのが、歴史を学ぶ醍醐味を味わえる王道ということでしょう。

閑話休題。

36年3月ラインラント進駐。

この時期のフランス政府は、一応メモを取った形跡はあるんですが、訳がわからない。

フランダンやラヴァルやサローが首相になったり、外相になったりと、ついていけません。

第三共和政の内閣は、いくつかの重要政権以外はとてもじゃないが記憶していられませんね。

1936年はスペイン内戦とベルリン・ローマ枢軸成立の年だが、著者はそれぞれ一枚岩のファシズム陣営vs共和派という図式を否定し、依然ムッソリーニは、イギリスとドイツを両天秤にかけていたとしている。

第二次大戦へのイタリア参戦は1939年ではなく、フランスが降伏寸前となりヒトラーの欧州制覇が疑いの無いものに思えた40年6月であることを考えれば、さして意外なことでもないのかもしれない。

もし英伊同盟が成立していたなら、第二次世界大戦は起こらなかった、と著者は主張している。

1937年5月ネヴィル・チェンバレンが英首相に。

イタリア国王は反独的見解を持っていたが、ムッソリーニはいよいよ親独路線の兆しを見せ始める。

37年11月、日独間の防共協定に伊も加入、12月、伊も連盟脱退。

この時期、反宥和論者のはずのイーデンも、仏当局者へチェコ防衛のための軍事援助に難色を示している。

チェンバレンが独伊双方に宥和的だったのに対し、イーデンはドイツよりイタリアに強硬な態度で、むしろムッソリーニよりもヒトラーを交渉可能な相手と見なしていた節があると記されている。

チェンバレンは、可能ならば英伊間の了解を取り付け、独に対抗しようと図るが、その交渉が進展しないうちに38年3月独がオーストリア併合(その前、2月にはイーデンが辞任し閣内から去っている)。

ムッソリーニは、かつてあれほど徹底して阻止しようと考えていたオーストリア併合を黙認。

エチオピアとスペインでの国力の疲弊、あくまで反対した場合、第一次大戦でオーストリアから獲得したトレンティーノ(南チロル)の返還要求を独が持ち出してくることへ恐怖があったためとされている。

その支持が本心からのものでなかった証拠として、当時ムッソリーニがヴァチカンにヒトラーを破門するよう秘かに働きかけた史料が存在しているという。

38年4月英伊間に協定成立、英がエチオピア併合を承認する見返りに、伊はスペインよりの撤兵、リビアでの軍備削減を行うという内容。

著者は、この協定をさらに深化させ、仏領のチュニジアなどを譲ることを条件に、何としても英仏伊間の同盟を締結すべきだったと主張している。

38年5月、ヒトラーがイタリアを訪問するが、ムッソリーニは独伊の軍事同盟を渋る姿勢は変えず。

同年9月、ズデーテン危機とミュンヘン会談。

宥和政策の頂点とも言うべきミュンヘン協定については、一般的には最悪の愚策という評価が定着していますが、一方で、ヒトラーとの交渉による平和は有り得ないことを疑問の余地なく示して世論の抗戦意志を固め、その時点で独に対して劣勢だった軍備を拡張する貴重な時間稼ぎになったことをもって、意外にも一定の肯定的評価を下す見方もあります(ナチについてのメモ その4参照)。

著者は、この新説には否定的で、38年なら英仏側が勝った、開戦を決断しなかったことは致命的誤りだった、としている。

(この場合、伊が曖昧な中立的立場でも英仏単独で勝てたと想定することは、上述の如く伊との連携を最重要視する著者の立場と相反するかもしれないが、第一次大戦に懲りて平和主義的ムードの強い英仏の世論が確固たる決意を持って独との対決に乗り出すための心理的前提として伊との同盟が必要だ、たとえそれが無くとも英仏は開戦を決断すべきだったが実際にはそうならなかったのだから、やはり伊との連携が決定的に重要だったと見なすべきだ、あるいは英仏伊三国同盟によって勝利がより確実となり、実際の戦争に至る前に、ドイツで反ヒトラー・クーデタが成功する可能性が高まるから、と考えれば矛盾は無いか。この辺、突き詰めて考えると辻褄の合わない部分が出るかもしれません。皆様もご自身でお考え下されば幸いです。)

ムッソリーニは英仏への軽蔑を深め、やや独へ傾斜。

もっとも人種主義や反ユダヤ的政策は伊国内では徹底せず。

1933年、ムッソリーニは駐独イタリア大使に、政権掌握間もないヒトラーに対して、反ユダヤ主義の放棄を促すよう指示している。

「反ユダヤ主義の問題はヒトラーの敵たちだけでなく、ドイツのキリスト教徒たちまで動揺させかねない」

とのムッソリーニの言葉が紹介されている。

ただ、イタリアからも高名な物理学者でユダヤ人の妻を持つエンリコ・フェルミが亡命し、アメリカで原爆開発に携わることになる。

アインシュタインを始めとして、亡命した物理学者たちの顔ぶれを見ると、ヒトラーの反ユダヤ主義が無ければ、米国ではなくドイツが最初の原子爆弾を開発したかもしれないとのハフナー『ヒトラーとは何か』での想定が頭に浮かぶ。

ムッソリーニが、結局ドイツとの同盟を決断したのは、「恐怖と貪欲」、すなわち独への懸念ゆえにかえって反対陣営に与することができなかったことと、仏への敵意と地中海での拡張政策を目指す決意が生まれたからだとされている。

ただし即時参戦は企図せず(実際そうなった)。

39年3月チェコスロヴァキア解体、ヒトラーは前年英仏にミュンヘンで強要した、あれほど自国に有利な協定すら遵守するつもりが無いことを世界に示す。

イタリアへの事前通告は無し。

この辺の記述から読み取れるのは、「世界支配」の野望に燃え、ヒトラーと一心同体となり貪欲に拡張政策を採る自信過剰の独裁者というより、自分の地位と自国の安全を確保する道を必死に探し求めて右往左往する気弱で優柔不断で哀れな為政者としてのムッソリーニの姿である。

同じ39年3月、スペイン内戦終結。

もしフランコが敗北していたならスペインは共産化していただろう、と著者が推定しているのが興味深い。

ここで、相当以前から漠然と考えていて、色摩力夫『フランコ スペイン現代史の迷路』茨木晃『スペイン史概説』そして本書を読んだ後にはかなりはっきりと感じるようになったことを、思い切って言ってしまおうかと考えたものの、しかしやはり一般的にはとんでもない意見でしょうから、小声でつぶやく感じで言うだけにしますが、      「スペイン内戦って、結果フランコが勝って良かったんじゃないですかね?」

共和政府側が勝利したとして、スターリニスト、トロツキスト、アナーキストらの暴状と相互殺戮がある段階までに止まるであろうとの想定が、どうしても出来にくい。

実際の史実では、フランコ死後に立憲君主制という政治的安定装置を準備した上で、正常な議会政治へ漸進的に移行するという、ほぼベストの展開になったのだから、結果OKじゃないでしょうか。

もちろん、もしフランコが第二次大戦に参戦していれば、答えは完全に異なったものになっていたでしょうが、その最悪の選択肢は避けられたわけですし。

数年前でしたか、スペインでフランコの銅像を撤去するかどうかで賛成・反対両派の感情的対立が深まり深刻な問題となっている、と新聞の外報面で報じられていて、そんな例を考えるだけでも、現在も極めて微妙で慎重な配慮を必要とする問題であって、外国人が軽々しく口を出すようなことではないとはわかってはいますが、個人的な意見を言えば上述のようなものになってしまいます。

内戦終結後、伊はバレアレス諸島から撤兵。

ムッソリーニは非妥協的な膨張政策を突き進んでおり、交渉可能な相手ではないとするイーデンの論拠はこれで崩れたと言える、と本書では書かれている。

39年4月、伊はアルバニア占領。

バルカンでの独の進出を危惧したための行動で、独には事前通告を行わず。

英外相にハリファックス就任。

5月、独伊「鋼鉄条約」締結。

ムッソリーニの主観的意図では、これは防衛条約であり、これによってかえって独を掣肘するつもりであった。

実際、ポーランド攻撃の意図をヒトラーはイタリアに通告していなかった。

チァーノとグランディ(駐英大使)は同盟破棄を求めるが、「1915年の裏切り」の汚名再来とドイツの報復進撃をムッソリーニは恐れた。

8月23日独ソ不可侵条約にあたってはやはり対独不信感が一部で広まり、来るべき大戦には不参戦の態度を貫く、というのがイタリア指導層のコンセンサスになっていた。

ところが、40年フランス敗北という驚天動地の出来事に目を晦まされ、三国同盟という致命的な道を選択してしまうことになるのは、日本と全く同じです。

終わらねえ・・・・・・。

以前、規則的に2、3日に一回更新していた時は、一冊の本で複数記事を書くことも珍しくなかったのですが、今のような気ままな更新状況では、たとえ長くなっても一冊一記事にした方がいいのかとも考えていました。

ですが、さすがに長すぎるので、第二次大戦勃発後は次回にまわします。

(追記:続きはこちら→ムッソリーニについてのメモ

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