万年初心者のための世界史ブックガイド

2013年1月25日

ニコラス・ファレル 『ムッソリーニ 上』 (白水社)

Filed under: イタリア — 万年初心者 @ 21:30

自らを中立的立場と規定する、英国人の手に成る伝記。

全2巻。

まず、冒頭に以下の文章有り。

ムッソリーニが犯した致命的な失敗は彼自身が軽蔑していたヒトラーとの同盟だったが、この同盟は不可避のものではまったくなかった。というのも、ファシズムと国家社会主義(ナチズム)は(イタリア人とドイツ人と同様に)チョークとチーズほどに異なっていたからである。イタリアとドイツは同一の戦略的目標すら共有してはいなかった。鋼鉄条約はヒトラーに対するムッソリーニの恐怖からもたらされたのであり、言うまでもなくユダヤ人絶滅や世界支配の野望から生まれたものではなかった。

ユダヤ人を救うためにドイツと戦争状態に入った戦勝国がひとつもなかったように、ムッソリーニもユダヤ人を絶滅させるために参戦したのではなかった。実際にはホロコーストが始まると、彼とファシストたちはユダヤ人たちをナチスの絶滅収容所に移送することを拒否して数千人のユダヤ人の命を救った――それはオスカー・シンドラーが救ったユダヤ人の数をはるかに上回っている。

1883年にベニート・ムッソリーニは生まれる。

ちなみに後の正妻ラケーレは1979年まで生き、末子のロマーノは2006年没、イタリア下院議員となったアレッサンドラはこのロマーノの子。

父親のアレッサンドロは社会主義者、母親は信心深いカトリック教徒という家庭に育つ。

割と有名だが、名前はメキシコの政治家ベニト・フアレスにちなんでの命名。

現在では「ベニト」と聞くと、まずムッソリーニの名が思い浮かびますから、フアレスには気の毒ですね。

幼年期から青年期の描写においては、「残忍・冷酷なファシスト」というステレオタイプを避けた中立的記述を心掛けているようだが、それでも私が極めて悪い印象を持つのがムッソリーニの宗教への侮蔑。

以下の文章を思い出さずにはいられなかった。

保守主義者は、主として、確固たる正統性から離脱した人間はなんらかの混乱や平衡感覚の喪失に陥りやすいという十分に根拠のある確信に基づいて、宗教を支持した。バークが息子宛の手紙に書いているように、宗教は「人間の砦であり、これがなければ世界は不可解で、それゆえ敵対的となっていたであろう。」トクヴィルは、個人的には生粋のローマ教会信仰をもっていたにもかかわらず、臨終の信仰告白まではそれをひけらかさないように心に決めていたが、その彼の鮮かな説明によれば、政府と社会にとっての、また自由にとっての、宗教の価値は次の点にある。

「政治における以上に宗教において権威の原理がもはや存在しないとき、たちまち人々は無拘束の独立状態に驚かされることになる。周囲のあらゆるものの絶え間ない動揺が人々に警告し、彼らを消耗させる。・・・・・わたしには、人が完全な宗教的独立と完全な政治的自由とを同時に保持しうるかどうか疑わしいように思われる。だから、わたしは、信仰が欠けているとき、人は服従しなければならない、また自由であるとき、人は信仰をもたなければならない、と考えたいのである。」

ロバート・ニスベット『保守主義』より。)

伝統的信仰を迷信とあざ笑い捨て去った後、それよりはるかに恐ろしい狂信に易々と飛び込んでいったのが20世紀以降の大衆であり、ムッソリーニもその代理人に過ぎないという印象を受ける。

父と同じく社会主義運動に加わり、スイスに出国、1904年にレーニンと出会っている。

当時オーストリア帝国領だったトレンティーノへ行き、同地のイタリアへの併合を主張。

そこで、親オーストリア派でカトリックの代表者デ・ガスペリ(戦後の首相)と論争している。

ここでのムッソリーニによる口汚いレトリックは不快の一言に尽きる。

あと、書くことと言えば女性関係ですかね。

通俗的イメージ通り、まあお盛んではある。

社会党の集会に子供を連れた愛人が現れて捨てられたと叫んだり、後の戦争中、負傷入院した病院で妻と愛人が鉢合せ、周囲の爆笑の中、取っ組み合いの喧嘩になったなんてエピソードは苦笑するだけで、別に嫌悪感も持たないが、どう考えてもこれはレイプだろというような行為が一箇所で書かれている。

1911年伊土戦争勃発、首相ジョリッティはリビアを占領するが、ムッソリーニは上述のようなナショナリスト的傾向にも関わらず、これには反対する。

1912年男子普通選挙実現、社会党改良派のボノーミらが追放され、ムッソリーニは執行部入り、機関紙『アヴァンティ!(前進)』の編集長となる。

上層部と衝突するうちに、1914年第一次大戦勃発、ムッソリーニは当初の絶対中立の立場から「能動的中立」支持へと変化、党を追放されるや、公然と参戦を主張。

『イル・ポポロ・ディターリア』紙を創刊するが、これには英仏両政府および両国の社会党からの資金援助があったことが、今日では明らかになっている。

しかし、これはムッソリーニの立場からすれば贈賄ではない、ムッソリーニは完全な政治的孤立を覚悟しても、参戦という自身の信念に従って行動しただけだ、もしイタリア社会党がフランス社会党・ドイツ社会民主党のように参戦を支持していれば、戦後ムッソリーニを指導者として社会党政権が成立していただろう、と著者は評している。

首相が保守派サランドラに交代、イタリアは1915年に参戦するが、17年10月カポレットの戦いで大敗を喫するなど、戦場では終始精彩を欠く。

戦後、1919年、新たな政治組織として、ドン・ストゥルツォ率いる人民党(戦後のキリスト教民主党の前身)が結成。

カトリック政党だが、ヴァチカンの全面的支持は受けず。

同年ムッソリーニが「戦闘ファッショ」結成(これが通常「ファシスタ党」と呼ばれるものか)。

女性を含む普通選挙・比例代表制、王室・上院・世襲称号の廃止、8時間労働、戦時利得と教会財産の没収がその主な主張だが、総選挙では敗北。

同年ダヌンツィオのフィウメ占領あり。

社会党の反教権主義のため、社会党・人民党の連立政権は成立せず、首相は自由主義派のニッティのまま。

20年北部での工場占拠続発。

共産主義革命への危機感が、ファシストの支持者を著しく増やすことになる。

21年社会党から統一社会党(マッテオッティら)が分離、さらに共産党が分離・結成、ボノーミらの改良主義社会党と合わせて、4つの社会主義政党が乱立する結果となる。

左右両派の暴力行為で国内が騒然とし、人民党と社会主義勢力の対立、社会主義勢力内での分裂が重なり、政治的危機と分極化が進行する中、自由主義=保守派勢力(ジョリッティ、サランドラ、ニッティ、オルランドら)は首相に再登板したジョリッティの下、ファッショと「国民ブロック」を形成し共闘関係に入るという致命的失策を犯し、自ら没落への道を踏み出してしまう。

同21年ファッショは正式に政党への転換、「全国ファシスト党(PNF)」を名乗る。

そして、運命の1922年、ジョリッティとの協力をストゥルツォが拒否、首相はファクタに交代、「アンシャン・レジームの崩壊」へと突き進む。

「ファシスト四天王」と呼ばれた、バルボ、デ・ヴェッキ(この人物は王党派)、デ・ボーノ、ビアンキらによる「ローマ進軍」という示威行為の末、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はムッソリーニを首相に任命。

この時の国王の行動を批判することはもちろん可能ですが、それが意味のあるものであるためには、民主主義という立場から以外のものでなければいけないはずですよね?

たしかに国王はファシズムに共感していたから、戒厳令への署名を拒否したのではない。二十八日に彼はあらゆる政権の選択肢をまず試みた。だが、戦後のイタリアで次から次へと無能な政権が続いたあとでは、哀れな国王がムッソリーニを起用したことを誰が責めることができるだろうか?そうすることで国王はイタリア人の多数派が望んでいること、必要と感じたことと一致していたのだ。

結局ファシズムを含む左右の全体主義を、言論の自由と多数決原理による予定調和的進歩を前提にする自由民主主義という立場から根本的に非難することは不可能です。

また、本書には以下の文章もある。

ファシズムを右翼とする広く流布した定義は、たとえムッソリーニが1922年にそれを「右派のものである」と説明したとしても、誤解を招きやすい。ファシズムの背後にある知的原動力は左翼のものだ。ファシストのほとんどは社会主義者かサンディカリストのどちらかだった。ファシズムの表現形態がどれほど右翼的であったとしても、その導きの星はつねに左翼的だった。社会主義に対するファシズムの反対の姿勢は右翼的と評されるかもしれないが、その共和主義的傾向は左翼的だった。議会制民主主義の原理に対するファシズムの反対は右翼的と見なされるが、イタリア議会の非民主主義的現実に対する反対は左翼的だった。その私的所有権擁護の姿勢は右翼的だったかもしれないが、資本主義を抑制するために強力な国家を支持する――協同体国家をめざす――姿勢は左翼的だった。

この文章も一応は示唆的ではあるが、だからといって「小さな政府」と自由放任的市場を絶対視する新自由主義的「正義」に取り込まれないようにしたい。

全体主義の真の反対物は、自由・民主主義・市場経済ではなく、伝統・慣習・身分・信仰・自己懐疑・諦観・前近代のはず。

その意味で、ムッソリーニが普通選挙や民主主義をやたら痛罵するのは不可解である。

自分ではそれらを破棄する役目を負ったと考えていても、その実、彼はその直接的帰結であり、副産物に過ぎないのだから。

政権獲得後は、下部のファシスト急進派の暴力を抑制するために政府権限を強化する流れで、徐々に独裁権力を確立。

この自らの党派の暴力を抑えたいとの意図はムッソリーニの本心だと、本書では主張されているが、たとえそうでも、客観的に見るならば、やはり単なるマッチポンプだ。

具体的には1924年上記マッテオッティが暗殺され、アヴェンティーノ派下院議員の議会ボイコットなど、一時は危機的状況に陥るが、結局これを奇貨としてファリナッチら急進派ファシストと反ファシストの双方を抑圧。

数度の暗殺未遂とその失敗が返ってドゥーチェ崇拝感情を巻き起こし、25年末に首相への議会の不信任投票権は廃止され、26年反体制的刊行物の禁止、一党体制、政令により法律を作成する権利が首相に与えられる。

これらの事態に、非妥協派ファシストの王政転覆論が圧力となって国王は沈黙、ムッソリーニは常に混乱の収拾者、秩序回復者、公平な調停者の役を演じて独裁を確立した。

ただし、党を国家の上に置こうとする非妥協派は結局排除され、独裁確立後の死刑執行は一年に2件の割合で、ナチスやソ連、そしてフランス革命における死者と比べればほとんどゼロに近い数字だ、と本書では述べられている。

22年(公式には23年)組織されたファシズム大評議会が28年最高機関とされ、29年ピウス11世とラテラノ協定を締結、人民党復活の芽を摘む。

ムッソリーニは若い頃の無神論から転換し、それはカトリックへの過度の反発のためだったとする。

こうして安定期に入ったムッソリーニ体制を称賛する外国人もおり、その中にはチャーチルやバーナード・ショーも含まれる。

精神・文化面での葛藤・衝突は続いたものの、平均的に見た、当時のイタリア人のファシズム受容について、著者は、最終的にはともかく当時としては格別邪悪ではなくありうることだったと評している。

ただ、その理由付けとして、ナチは反近代・過去志向であるのに対してファシズムは未来志向だからという言い方に極めて大きな違和感を覚える。

もっとも、「大衆の動員解除」と過去の復活を目指す権威主義的右派とファシズムを区別している部分は極めて適切。

大恐慌の襲来も何とか乗り切り、ファッショ的諸団体が社会に浸透していく。

ここで、無線電信の発明者マルコーニがファシズムを支持していたとの記述に軽い驚きを覚える(マルコーニは1937年没)。

この人、高校教科書レベルでは、ルネサンス時代以来の文化史で、久しぶりに名前の出るイタリア人科学者ですよね。

あと、ファシズム宣伝歌の指揮を拒否したトスカニーニが平手打ちされたというエピソードが載ってるんですが、そのたたいた人間の名が何とレオ・ロンガネージと記されている。

塩野七生『サイレント・マイノリティ』での記述からは考えられないような話ではあった。

外交面では、いわゆる「相対的安定期」の協調外交を象徴する1925年ロカルノ条約締結が、ムッソリーニ時代であることは記憶に留めておく価値があるでしょう。

1933年ナチス・ドイツの国際連盟脱退に激怒し、34年のオーストリア危機に際しては、ドイツに対して英仏よりも強硬姿勢を示し、実際にブレンネル峠に軍を動員し、圧力をかける。

その直前に、ムッソリーニとヒトラーは会談を行っている。

その場で、地中海民族より北方民族の方が優秀だと語るヒトラーに対し(こんなこと、よくイタリア首相の目の前で口にできるなと思いますが、それがヒトラーという人物なんでしょう)、ムッソリーニは、ヒトラーの教会とユダヤ人への迫害は常軌を逸していると堂々と警告している。

数年前でしたか、ムッソリーニの会談録が発見されて、自分の反ユダヤ主義は終始一貫しており、ヒトラーの模倣ではない、という発言が新聞で報じられまして、個人的にはムッソリーニへの失望を禁じえなかったのですが、この時期にはまだ正気を保っていたということでしょうか。

出来ることなら、「反ナチ・反ヒトラーを貫き通したムッソリーニ」を見てみたかった気がする。

これは、ほとんどの人が即座に思うほど、馬鹿げた空想ではないと思う。

やっと上巻が終わった・・・・・。

とりあえずは良書だとは思うが、450ページはきつい。

ですが、下巻も続けて記事にする予定です。

(追記:下巻記事はこちら

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