万年初心者のための世界史ブックガイド

2013年1月25日

ニコラス・ファレル 『ムッソリーニ 上』 (白水社)

Filed under: イタリア — 万年初心者 @ 21:30

自らを中立的立場と規定する、英国人の手に成る伝記。

全2巻。

まず、冒頭に以下の文章有り。

ムッソリーニが犯した致命的な失敗は彼自身が軽蔑していたヒトラーとの同盟だったが、この同盟は不可避のものではまったくなかった。というのも、ファシズムと国家社会主義(ナチズム)は(イタリア人とドイツ人と同様に)チョークとチーズほどに異なっていたからである。イタリアとドイツは同一の戦略的目標すら共有してはいなかった。鋼鉄条約はヒトラーに対するムッソリーニの恐怖からもたらされたのであり、言うまでもなくユダヤ人絶滅や世界支配の野望から生まれたものではなかった。

ユダヤ人を救うためにドイツと戦争状態に入った戦勝国がひとつもなかったように、ムッソリーニもユダヤ人を絶滅させるために参戦したのではなかった。実際にはホロコーストが始まると、彼とファシストたちはユダヤ人たちをナチスの絶滅収容所に移送することを拒否して数千人のユダヤ人の命を救った――それはオスカー・シンドラーが救ったユダヤ人の数をはるかに上回っている。

1883年にベニート・ムッソリーニは生まれる。

ちなみに後の正妻ラケーレは1979年まで生き、末子のロマーノは2006年没、イタリア下院議員となったアレッサンドラはこのロマーノの子。

父親のアレッサンドロは社会主義者、母親は信心深いカトリック教徒という家庭に育つ。

割と有名だが、名前はメキシコの政治家ベニト・フアレスにちなんでの命名。

現在では「ベニト」と聞くと、まずムッソリーニの名が思い浮かびますから、フアレスには気の毒ですね。

幼年期から青年期の描写においては、「残忍・冷酷なファシスト」というステレオタイプを避けた中立的記述を心掛けているようだが、それでも私が極めて悪い印象を持つのがムッソリーニの宗教への侮蔑。

以下の文章を思い出さずにはいられなかった。

保守主義者は、主として、確固たる正統性から離脱した人間はなんらかの混乱や平衡感覚の喪失に陥りやすいという十分に根拠のある確信に基づいて、宗教を支持した。バークが息子宛の手紙に書いているように、宗教は「人間の砦であり、これがなければ世界は不可解で、それゆえ敵対的となっていたであろう。」トクヴィルは、個人的には生粋のローマ教会信仰をもっていたにもかかわらず、臨終の信仰告白まではそれをひけらかさないように心に決めていたが、その彼の鮮かな説明によれば、政府と社会にとっての、また自由にとっての、宗教の価値は次の点にある。

「政治における以上に宗教において権威の原理がもはや存在しないとき、たちまち人々は無拘束の独立状態に驚かされることになる。周囲のあらゆるものの絶え間ない動揺が人々に警告し、彼らを消耗させる。・・・・・わたしには、人が完全な宗教的独立と完全な政治的自由とを同時に保持しうるかどうか疑わしいように思われる。だから、わたしは、信仰が欠けているとき、人は服従しなければならない、また自由であるとき、人は信仰をもたなければならない、と考えたいのである。」

ロバート・ニスベット『保守主義』より。)

伝統的信仰を迷信とあざ笑い捨て去った後、それよりはるかに恐ろしい狂信に易々と飛び込んでいったのが20世紀以降の大衆であり、ムッソリーニもその代理人に過ぎないという印象を受ける。

父と同じく社会主義運動に加わり、スイスに出国、1904年にレーニンと出会っている。

当時オーストリア帝国領だったトレンティーノへ行き、同地のイタリアへの併合を主張。

そこで、親オーストリア派でカトリックの代表者デ・ガスペリ(戦後の首相)と論争している。

ここでのムッソリーニによる口汚いレトリックは不快の一言に尽きる。

あと、書くことと言えば女性関係ですかね。

通俗的イメージ通り、まあお盛んではある。

社会党の集会に子供を連れた愛人が現れて捨てられたと叫んだり、後の戦争中、負傷入院した病院で妻と愛人が鉢合せ、周囲の爆笑の中、取っ組み合いの喧嘩になったなんてエピソードは苦笑するだけで、別に嫌悪感も持たないが、どう考えてもこれはレイプだろというような行為が一箇所で書かれている。

1911年伊土戦争勃発、首相ジョリッティはリビアを占領するが、ムッソリーニは上述のようなナショナリスト的傾向にも関わらず、これには反対する。

1912年男子普通選挙実現、社会党改良派のボノーミらが追放され、ムッソリーニは執行部入り、機関紙『アヴァンティ!(前進)』の編集長となる。

上層部と衝突するうちに、1914年第一次大戦勃発、ムッソリーニは当初の絶対中立の立場から「能動的中立」支持へと変化、党を追放されるや、公然と参戦を主張。

『イル・ポポロ・ディターリア』紙を創刊するが、これには英仏両政府および両国の社会党からの資金援助があったことが、今日では明らかになっている。

しかし、これはムッソリーニの立場からすれば贈賄ではない、ムッソリーニは完全な政治的孤立を覚悟しても、参戦という自身の信念に従って行動しただけだ、もしイタリア社会党がフランス社会党・ドイツ社会民主党のように参戦を支持していれば、戦後ムッソリーニを指導者として社会党政権が成立していただろう、と著者は評している。

首相が保守派サランドラに交代、イタリアは1915年に参戦するが、17年10月カポレットの戦いで大敗を喫するなど、戦場では終始精彩を欠く。

戦後、1919年、新たな政治組織として、ドン・ストゥルツォ率いる人民党(戦後のキリスト教民主党の前身)が結成。

カトリック政党だが、ヴァチカンの全面的支持は受けず。

同年ムッソリーニが「戦闘ファッショ」結成(これが通常「ファシスタ党」と呼ばれるものか)。

女性を含む普通選挙・比例代表制、王室・上院・世襲称号の廃止、8時間労働、戦時利得と教会財産の没収がその主な主張だが、総選挙では敗北。

同年ダヌンツィオのフィウメ占領あり。

社会党の反教権主義のため、社会党・人民党の連立政権は成立せず、首相は自由主義派のニッティのまま。

20年北部での工場占拠続発。

共産主義革命への危機感が、ファシストの支持者を著しく増やすことになる。

21年社会党から統一社会党(マッテオッティら)が分離、さらに共産党が分離・結成、ボノーミらの改良主義社会党と合わせて、4つの社会主義政党が乱立する結果となる。

左右両派の暴力行為で国内が騒然とし、人民党と社会主義勢力の対立、社会主義勢力内での分裂が重なり、政治的危機と分極化が進行する中、自由主義=保守派勢力(ジョリッティ、サランドラ、ニッティ、オルランドら)は首相に再登板したジョリッティの下、ファッショと「国民ブロック」を形成し共闘関係に入るという致命的失策を犯し、自ら没落への道を踏み出してしまう。

同21年ファッショは正式に政党への転換、「全国ファシスト党(PNF)」を名乗る。

そして、運命の1922年、ジョリッティとの協力をストゥルツォが拒否、首相はファクタに交代、「アンシャン・レジームの崩壊」へと突き進む。

「ファシスト四天王」と呼ばれた、バルボ、デ・ヴェッキ(この人物は王党派)、デ・ボーノ、ビアンキらによる「ローマ進軍」という示威行為の末、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はムッソリーニを首相に任命。

この時の国王の行動を批判することはもちろん可能ですが、それが意味のあるものであるためには、民主主義という立場から以外のものでなければいけないはずですよね?

たしかに国王はファシズムに共感していたから、戒厳令への署名を拒否したのではない。二十八日に彼はあらゆる政権の選択肢をまず試みた。だが、戦後のイタリアで次から次へと無能な政権が続いたあとでは、哀れな国王がムッソリーニを起用したことを誰が責めることができるだろうか?そうすることで国王はイタリア人の多数派が望んでいること、必要と感じたことと一致していたのだ。

結局ファシズムを含む左右の全体主義を、言論の自由と多数決原理による予定調和的進歩を前提にする自由民主主義という立場から根本的に非難することは不可能です。

また、本書には以下の文章もある。

ファシズムを右翼とする広く流布した定義は、たとえムッソリーニが1922年にそれを「右派のものである」と説明したとしても、誤解を招きやすい。ファシズムの背後にある知的原動力は左翼のものだ。ファシストのほとんどは社会主義者かサンディカリストのどちらかだった。ファシズムの表現形態がどれほど右翼的であったとしても、その導きの星はつねに左翼的だった。社会主義に対するファシズムの反対の姿勢は右翼的と評されるかもしれないが、その共和主義的傾向は左翼的だった。議会制民主主義の原理に対するファシズムの反対は右翼的と見なされるが、イタリア議会の非民主主義的現実に対する反対は左翼的だった。その私的所有権擁護の姿勢は右翼的だったかもしれないが、資本主義を抑制するために強力な国家を支持する――協同体国家をめざす――姿勢は左翼的だった。

この文章も一応は示唆的ではあるが、だからといって「小さな政府」と自由放任的市場を絶対視する新自由主義的「正義」に取り込まれないようにしたい。

全体主義の真の反対物は、自由・民主主義・市場経済ではなく、伝統・慣習・身分・信仰・自己懐疑・諦観・前近代のはず。

その意味で、ムッソリーニが普通選挙や民主主義をやたら痛罵するのは不可解である。

自分ではそれらを破棄する役目を負ったと考えていても、その実、彼はその直接的帰結であり、副産物に過ぎないのだから。

政権獲得後は、下部のファシスト急進派の暴力を抑制するために政府権限を強化する流れで、徐々に独裁権力を確立。

この自らの党派の暴力を抑えたいとの意図はムッソリーニの本心だと、本書では主張されているが、たとえそうでも、客観的に見るならば、やはり単なるマッチポンプだ。

具体的には1924年上記マッテオッティが暗殺され、アヴェンティーノ派下院議員の議会ボイコットなど、一時は危機的状況に陥るが、結局これを奇貨としてファリナッチら急進派ファシストと反ファシストの双方を抑圧。

数度の暗殺未遂とその失敗が返ってドゥーチェ崇拝感情を巻き起こし、25年末に首相への議会の不信任投票権は廃止され、26年反体制的刊行物の禁止、一党体制、政令により法律を作成する権利が首相に与えられる。

これらの事態に、非妥協派ファシストの王政転覆論が圧力となって国王は沈黙、ムッソリーニは常に混乱の収拾者、秩序回復者、公平な調停者の役を演じて独裁を確立した。

ただし、党を国家の上に置こうとする非妥協派は結局排除され、独裁確立後の死刑執行は一年に2件の割合で、ナチスやソ連、そしてフランス革命における死者と比べればほとんどゼロに近い数字だ、と本書では述べられている。

22年(公式には23年)組織されたファシズム大評議会が28年最高機関とされ、29年ピウス11世とラテラノ協定を締結、人民党復活の芽を摘む。

ムッソリーニは若い頃の無神論から転換し、それはカトリックへの過度の反発のためだったとする。

こうして安定期に入ったムッソリーニ体制を称賛する外国人もおり、その中にはチャーチルやバーナード・ショーも含まれる。

精神・文化面での葛藤・衝突は続いたものの、平均的に見た、当時のイタリア人のファシズム受容について、著者は、最終的にはともかく当時としては格別邪悪ではなくありうることだったと評している。

ただ、その理由付けとして、ナチは反近代・過去志向であるのに対してファシズムは未来志向だからという言い方に極めて大きな違和感を覚える。

もっとも、「大衆の動員解除」と過去の復活を目指す権威主義的右派とファシズムを区別している部分は極めて適切。

大恐慌の襲来も何とか乗り切り、ファッショ的諸団体が社会に浸透していく。

ここで、無線電信の発明者マルコーニがファシズムを支持していたとの記述に軽い驚きを覚える(マルコーニは1937年没)。

この人、高校教科書レベルでは、ルネサンス時代以来の文化史で、久しぶりに名前の出るイタリア人科学者ですよね。

あと、ファシズム宣伝歌の指揮を拒否したトスカニーニが平手打ちされたというエピソードが載ってるんですが、そのたたいた人間の名が何とレオ・ロンガネージと記されている。

塩野七生『サイレント・マイノリティ』での記述からは考えられないような話ではあった。

外交面では、いわゆる「相対的安定期」の協調外交を象徴する1925年ロカルノ条約締結が、ムッソリーニ時代であることは記憶に留めておく価値があるでしょう。

1933年ナチス・ドイツの国際連盟脱退に激怒し、34年のオーストリア危機に際しては、ドイツに対して英仏よりも強硬姿勢を示し、実際にブレンネル峠に軍を動員し、圧力をかける。

その直前に、ムッソリーニとヒトラーは会談を行っている。

その場で、地中海民族より北方民族の方が優秀だと語るヒトラーに対し(こんなこと、よくイタリア首相の目の前で口にできるなと思いますが、それがヒトラーという人物なんでしょう)、ムッソリーニは、ヒトラーの教会とユダヤ人への迫害は常軌を逸していると堂々と警告している。

数年前でしたか、ムッソリーニの会談録が発見されて、自分の反ユダヤ主義は終始一貫しており、ヒトラーの模倣ではない、という発言が新聞で報じられまして、個人的にはムッソリーニへの失望を禁じえなかったのですが、この時期にはまだ正気を保っていたということでしょうか。

出来ることなら、「反ナチ・反ヒトラーを貫き通したムッソリーニ」を見てみたかった気がする。

これは、ほとんどの人が即座に思うほど、馬鹿げた空想ではないと思う。

やっと上巻が終わった・・・・・。

とりあえずは良書だとは思うが、450ページはきつい。

ですが、下巻も続けて記事にする予定です。

(追記:下巻記事はこちら

2013年1月20日

塩野七生 『十字軍物語 2』 (新潮社)

Filed under: ヨーロッパ — 万年初心者 @ 04:30

1巻記事の続き。

まず宗教騎士団の話。

テンプル(聖堂)騎士団が聖ベルナール協賛の下に設立。

反イスラム色が極端ではあるが、一方では貸金業などでムスリムとの関係を維持していた面もあり、これが後に仏王フィリップ4世による弾圧の口実となる。

ヨハネ(病院)騎士団はアマルフィ商人によって設立されていたものが戦士集団となったもの。

十字軍以後はロードス島、次いでマルタ島に移転、長く命脈を保つ。

残るドイツ騎士団は、第3回十字軍での設立なので、本書には登場せず。

イスラム側ではゼンギ(ザンギー)がモスールを足掛かりに支配地域を拡大、アレッポも勢力下に入れる。

イェルサレム王国では、ボードワン2世の長女メリゼンダが、仏王ルイ6世の親族でもあるアンジュー伯フルクと結婚、フルクが4代目国王として即位。

このフルクはアンティオキアをビザンツ属領と認めるなどしたため、本書での評価は高くない。

しかし、有名な「クラク・ド・シュヴァリエ(騎士たちの城)」をはじめとする城塞建築には功があり、常に十字軍国家の弱点であった慢性的兵力不足をおぎなうことになる。

フルク死後、メリゼンダが女王として統治するうち、ゼンギによってエデッサが攻略される。

ゼンギは間もなく奴隷によって殺害されたが、第二回十字軍が上記聖ベルナールによって提唱される。

このベルナールはシトー派修道会出身で、アベラールを攻撃し破門したことでも有名。

1147~49年に仏王ルイ7世と独ホーエンシュタウフェン朝皇帝コンラート3世率いる軍勢が到着するが、ダマスカス攻略に失敗して撤退(石井美樹子『王妃エレアノール』参照)。

ゼンギの息子ヌラディンがダマスカスを支配しイラク北部からシリアを統一、強大化。

メリゼンダの子ボードワン3世、アモーリーが相次いで即位。

ヴェネツィア、ピサ、ジェノヴァの、イタリア海洋国家の力を用いて王国を維持(イタリア海洋国家四大国のうち、アマルフィは当時すでに衰退)。

アモーリーの子ボードワン4世はいわゆる「ライ病」に罹るという深刻な不幸を負いながら、責任感の強い有能な君主として活躍する。

この時期、末期ファーティマ朝の内紛でヌラディンに救援要請が送られる。

それに応え、ヌラディンは、クルド族出身のシルクとその甥サラディンを派遣(これがサラディンが歴史の表舞台に出る最初)。

内紛を収拾したシルクが1169年宰相に就任したが直後に事故死し、同年サラディンが宰相就任、これが普通アイユーブ朝の成立とされる。

この時点では、一応形式的にはファーティマ朝カリフが在位しており、サラディンはヌラディンの配下という建前になっていた。

しかし1174年エジプトに攻め込もうとしていたヌラディンは病死、1186年にはサラディンがシリア・北イラクを併合することによって、イスラム世界盟主の地位を固める。

(ちなみに本書でアイユーブ朝を「アユーブ朝」と表記してあるのには何とも言えない違和感有り。)

このサラディンに対して奮闘するボードワン4世の姿は感動的ですらある。

正面対決は避けつつ、この稀代の名君とある程度まで互角に渡り合う。

(同時期のヨーロッパでは独帝フリードリヒ1世が北伊の自治都市[コムーネ]と激突、英国では上記エレアノールが再婚したヘンリ2世の圧力に抗して、トマス・ベケットが殉教。)

1185年ボードワン4世死去、それを継いだ姉の子ボードワン5世も86年に早逝。

結局姉の再婚相手ギー・ド・ルジニャンが即位するが、この国王の評価は極めて低い。

ルノー・ド・シャティヨンという無思慮な強硬派に動かされ、メッカ巡礼者を襲撃し、サラディンに攻撃のまたとない口実を与える。

1187年、「ジハードの年」と宣したサラディンが、ハッティンの戦いで圧勝、ルジニャンを捕らえ、シャティヨンを殺す。

このハッティンの勝利は見事ではあるが、相手に不足しており、戦闘(バトル)であって会戦(バトル・フィールド)ではなかったと評されている。

続いてイェルサレムを包囲したサラディンに対して、シャティヨンの強硬策に反対していた現実派のバリアーノ・イベリンが奮戦し、開城と引き換えに「フランク人」(キリスト教徒)の奴隷化を阻止、サラディンも彼に対しては寛大さを見せる。

イェルサレム陥落後、キリスト教側が保持していたのはアンティオキア、トリポリ、ティロスのみとなる。

(のちに十字軍最後の拠点となるアッコンもこの時点ではイスラム側の支配下。)

この事態を受けて、第三回十字軍が発動されることとなる。

全3巻だが、2巻ラストでまだ、第三回・第四回という大きな山場が丸々残っている。

似たような感想をほぼ常に持っていた『ローマ人の物語』シリーズでも結局キチンと収まったのだから、あれこれ言う必要は無いのかもしれないが、やはりペースの遅さは気になる。

大変失礼ながら、塩野氏はあまりページ配分は上手くないのではないかと・・・・・・。

あと、私が読んだ初版の204ページに気になる記述が。

この時代ではシーア派とスンニ派では民族的にもちがいがあり、シーア派ではセルジューク・トルコ民族が主流にのし上り、スンニ派ではアラブ人がいまだに権力をにぎっていたのである。

これ、完全な誤記じゃないでしょうか?

トルコ民族はほぼスンナ派のはずですし、セルジューク朝がシーア派のブワイフ朝を倒して、10世紀イスラム世界でのシーア派優位(後藤明『ビジュアル版イスラーム歴史物語』等参照)を覆すわけですから。

繰り返し確認してもそう書いてあるし、確か33ページにはこれとは逆の意味の文章があったはず。

増刷時には直されているかもしれませんし、自分の知識の浅さを棚に上げて、プロの作家のケアレスミスを大袈裟に言い立てて悦に入るのも卑しい行為ですから、これ以上は言いませんが、ちょっと残念。

そういう瑕疵はありながらも、内容自体はかなり良い。

1巻と同じくお勧め。

ただ、都合により3巻を記事にするのは相当後になると思います。

2013年1月15日

塩野七生 『十字軍物語 1』 (新潮社)

Filed under: ヨーロッパ — 万年初心者 @ 00:47

2010年刊行開始のシリーズ。

全3巻。

本編刊行前に、『絵で見る十字軍物語』というものも出ているが、無視。

刊行されたことはもちろん知っていたが、今まで完全に放置していた。

昔だったら考えられないですね。

以前は、『ローマ人の物語』の発売日を指折り数えて待ち、発売当日に大型書店に行って、平積みから美本を選んで、喜び勇んで家に帰ったものでしたが。

最初に背景説明が叙述される。

第一回十字軍の提唱者ウルバヌス2世は、グレゴリウス7世と同じく、クリュニー修道会出身。

教科書では全く別々に出てくるから、あまり結び付けて考えないが、カノッサの屈辱が1077年で、クレルモン公会議が1095年だから、実は両者は年代的にかなり近い。

十字軍開始時の神聖ローマ皇帝は依然ハインリヒ4世である(1106年まで在位)。

そもそもウルバヌス2世が十字軍を提唱した動機の一つが、カノッサでの敗北から勢力を盛り返したハインリヒ4世によって、自身がローマにもほとんど入れないような、皇帝優位の状況を覆すことであった。

なお、中東への十字軍が行われていたこの時期、シチリアもノルマン人によってイスラム勢力から奪還されている(高山博『中世シチリア王国』)。

同じくノルマン人勢力の拡大ということでは、1066年イングランドのノルマン征服も同時期です。

話が形式的な方向にずれますが、1066年ノルマン・コンクェスト、1077年カノッサの屈辱、と並べて、「11世紀の下二桁ゾロ目」で重要年代が他にも確かあったんじゃないかという考えが頭に浮かぶ。

と思ったら、ありました。

まず、本書のテーマに直接関わるものでは、1099年にイェルサレム王国成立。

加えて、1055年。

これ、何の年かわかりますか?

高校世界史レベルでも、結構重要史実です。

十字軍とも全く関係が無いわけでもない。

ヒントは、イスラム世界での出来事。

思いつきません?

セルジューク朝のバグダード入城(ブワイフ朝滅亡)ですね。

あと、1044年には、ビルマ(ミャンマー)でパガン朝が成立してます。

他地域の11世紀は、インドではガズナ朝とゴール朝侵入による北部のイスラム化、中国では北宋・遼・西夏の鼎立と王安石新法、日本では摂関政治全盛から院政へ、というのが極めて大雑把な傾向です。

ちなみに、同じく1044年、北宋・西夏間に慶暦の和約が結ばれ、宋側が銀・絹・茶を歳賜として提供することになります。

話を本題に戻しましょう。

第一回十字軍は周知の通り、皇帝・国王の参加は無かった。

しかし、中世の真っ只中であり、近世以降の中央集権化以前のことなので、諸侯と皇帝・国王の実力差は大きくなく、軍勢の規模に格段の違いは生じなかったと本書では書かれている。

考えてみると当然かもしれないが、改めて指摘されると、盲点を突かれた気がして新鮮である。

十字軍を迎え撃つイスラム側は、セルジューク朝の宗主権下で、アレッポ・ダマスカス・モスール・アンティオキア等が事実上独立している、分立状態。

パレスチナはファーティマ朝支配下。

これらイスラム世界内部の相互対立が十字軍を利する結果となり、イェルサレムは奪還される。

南から順に、イェルサレム王国、トリポリ伯領、アンティオキア公国、エデッサ伯領という、4つの十字軍国家が建国される。

ここまでが、この第1巻の叙述範囲です。

細かな史実をメモするのは止めておきます。

ただ、内容メモ代わりに、以下に簡易人名リストを書いておきます。

なお、リストには挙げませんでしたが、ビザンツ皇帝アレクシオスや仏国王フィリップの後に「1世」と明記していないのは、不親切に感じました。

ヴェルマンドワ伯ユーグ=仏王弟。影の薄い存在。コンスタンティノープルへ交渉に赴き十字軍から離脱。2年後再びオリエントへ戻る。

ノルマンディー公ロベール=ウィリアム1世の長子。英国王は弟のウィリアム2世に引き継がれる。

ブロア伯エティエンヌ=アンティオキア戦より逃亡、その後再びオリエントに向かい戦死。ウィリアム1世の娘と結婚し、上記ノルマンディー公の義弟に当たる。

フランドル伯ロベール=小兵力ながら有能な将との評価。

以上4名は戦力的には寡兵。

トゥールーズ伯レーモン・ド・サン・ジル=本書では「サン・ジル」と呼ばれるが、普通は「レーモン」か。本書での評価は低い。アンティオキアで病死した教皇代理司教アデマールを同行する。自身はトリポリ攻撃中、戦傷死するが、トリポリ伯領の基礎を築き、子と孫がそれを引き継ぐ。

ロレーヌ公ゴドフロア・ド・ブイヨン=当時ロレーヌは神聖ローマ帝国の一部。高校世界史では唯一名前が出る人か。1099年イェルサレム王国の「聖墓守護者」(実質国王)に就任するが、翌1100年には死去している。

ボードワン1世=ゴドフロアの弟。エデッサ伯を経て、兄を継ぎイェルサレム国王に即位、1118年死。

ボードワン2世=上記二人のいとこ。ボードワン1世を継いでエデッサ統治、ジョスラン・ド・コートネーと協力、一時捕虜となるが、のちにイェルサレム王に即位。

プーリア公ボエモンド・ディ・アルタヴィッラ(オートヴィル)=ロベルト・グィスカルドの子。グィスカルドの弟ルッジェーロ1世はシチリア征服者。ボエモンドはアンティオキア公国を支配。南伊に戻りビザンツを攻撃するが失敗、失意のうちにイタリアで死去。

タンクレディ=ボエモンドの甥(ギボン『ローマ帝国衰亡史 9巻』では従兄弟)。ボエモンドを助け奮戦。1112年病死。

悪くはない。

イスラム史の記述がもうひとつ食い足りない印象だが、全体的には、事前に予想していたよりはかなり良かった。

ただし、続けて2巻に取り組むかは未定です。

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