万年初心者のための世界史ブックガイド

2012年7月1日

井上寿一 『山県有朋と明治国家』 (NHKブックス)

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近代日本の本、多いなー。

「世界史ブログなのに」と言われれば、「日本史も世界史の一部です」という理屈で全て押し通すつもりですが、カテゴリ別で記事数が「近代日本」より多いのが「中国」しかないのは、バランスがいいのか悪いのか・・・・・。

今は書名や著者名の検索機能が手軽に使えるのだから、本当は手薄な分野を意識して重点的に補強していくべきなんでしょうが、どうもやる気が出ない。

最近は書店や図書館で見かけた本を適当に選んで読了し、記事にしているだけです。

できるだけ多様な分野の本を取り上げようと思ってはいたのですが、現在とてもそういう余裕の無い状況ですので、ご容赦下さい。

2010年12月刊。

井上氏の著作では、以前、『昭和史の逆説』(新潮新書)『吉田茂と昭和史』(講談社現代新書)を読了済み。

近代日本における軍国主義の源流というイメージは正当なのか再検証する本。

冒頭、松本清張の山県論を林房雄が酷評、清張の反論を受けたことで、中間小説家だった林が『大東亜戦争肯定論』執筆に向かったエピソードが記されている。

 

 

本書の問題関心と分析視覚は三つ。

(1)欧米の19世紀秩序崩壊と大衆社会形成への対応。

(2)欧米政治社会への鋭敏な観察と、それを反面教師にしての君主制の危機への対応。

(3)明治国家形成において、「必要悪」としての「強兵」を担った役割。

 

 

 

まず、その政治的キャリアの出発点となった奇兵隊について、封建的身分制の枠に囚われない、被差別部落出身者をも含む擬似的国民軍だったと評されている。

帝国主義時代の荒波を乗り切り、国家の独立を維持するためには、近代的国民軍の創出が必要であり、そのための民衆動員が欠かせないが、同時に軍に民衆のイデオロギーが浸透する危険を冒さねばならないというジレンマがあった。

欧州視察で、大衆社会化と立憲君主制の危機を目撃し、1878年竹橋事件に遭遇した山県は、この難題をしっかりと認識。

それに対して、出した答えが、統帥権の独立およびそれを通じた軍の政治的中立性確保であった。

1878年軍人訓戒、同年参謀本部、82年軍人勅諭を手始めに、政治から独立した軍の建設に邁進する。

しかし、一般的イメージとは異なり、明治初期におけるこれらの諸措置を文民統制の崩壊とは言えないと著者は主張。

そもそも維新間もない当時の指導者層では文官と武官が未分離であり、山県自身もリアリズムに徹し、軍備拡張よりも「民力休養」「富国」優先を受け入れる余裕を持っていたとされている。

陸軍省、内務省、宮内省など、明治国家の中枢で要職を歴任。

1883年内務卿(のち内務大臣)に就任、88年市制・町村制、90年府県制・郡制公布。

これも、軍と同じく、地方自治が政党勢力に左右されないことを企図。

1889~91年第一次内閣時、第一議会での「主権線」と「利益線」提唱について、これらの概念は膨張主義の表われというより、当時の客観情勢に沿ったリアリズムであることが説明され、(結局失敗したものの)山県自身は国内の強硬論を抑制し、朝鮮永世中立国化戦略を推進していたことが記される。

1898~1900年第二次内閣は超然内閣とはいえ政党の協力は不可欠であり、憲政党(隈板[第一次大隈]内閣崩壊後、憲政本党を結成して飛び出した進歩[旧改進]党系を除いた、旧自由党系勢力)と連携し政局を運営。

この憲政党を中心にして伊藤博文が1900年立憲政友会を結成し、以後政友会と「山県系官僚閥」が政界を二分することになるが、選出勢力と非選出勢力の対立とは言え、伊藤と山県の対立は相対的なものだと評されている。

両者とも国家優位の強力な行政指導でなければ内外の厳しい情勢は乗り切れないと理解しており、政党を基本的に排除するのか(山県)、政府に従属的に協力させるのか(伊藤)という、手段の違いのみ。

確かに、「開明・進歩的な伊藤」と「頑迷固陋な山県」という対比は誇張であり、もっと言えば完全に的外れとも思える。

トクヴィルを愛読していたという伊藤が、自由民主主義の進展に楽観的な考えを抱いていたはずがない(瀧井一博『伊藤博文 知の政治家』(中公新書))。

愚かで無責任で、しばしば邪悪ですらある大衆の進出に深刻な懸念を持ち、それに備えなければ国家自体が破滅しかねないという問題意識は両者に共通していたのではないでしょうか。

山県は正面からその荒波を堰き止める防波堤としての、政治から独立した中立的軍隊を創ろうとし、一方、伊藤はそれら大衆の生み出す世論を矯正・善導し、少しでも害の無いものにするために自ら政党結成に向かった。

結論を言えば、残念至極にも、両者とも失敗したわけです。

矯激で異常な世論に政治が支配される事態となっても、それに左右されず穏当で正常な国家機関として機能するようにという意図で、山県の創った政治的に独立した軍は、直接的に世論に浸食され、恐るべきことに大衆が既成支配層を脅迫・支配する道具と化してしまった。

伊藤の創った政友会は、民衆世論を批判・矯正・善導するどころか、大衆迎合という病に取り付かれ、こちらも昭和に入るや衆愚政治の手先に成り下がっている(戦前昭和期において、ほとんどの場合、民政党(憲政会)が政友会よりもマトモに見えるのは、それが「進歩的」だったからではなく、多数派大衆を煽動するためにデマゴーグが利用したスローガンと異なる政策を掲げていたから)。

結局、民主主義という立場から、山県を全面否定し、伊藤を部分的に肯定するような見方は、上記の視点を考慮すれば、皮相でほとんど意味を成さないように思える。

 

 

 

話を戻すと、日露戦争後、維新以来の目標が一応達成された時点での山県の外交戦略は、対米協調と対中警戒。

そのうち、「対中警戒」というのは、中国を軽視・蔑視し特殊権益拡張の対象としてのみ見るような、のちの日本をしばしば誤らせた主流派世論に沿うものでは全く無く、中国ナショナリズムを正当に評価し、その敵意が日本に向けられた場合の危険を警戒するというもの。

こういう慎重さが世論と政治指導部で共有されていれば、日本帝国は今も続いていたんじゃないですかねえ。

1907年赤旗事件、1910年大逆事件において、司法官僚平沼騏一郎を駒にした、強硬な弾圧策の山県と柔軟な桂という最近の説に対し、山県も社会政策の必要は認めており、これらの措置が後の治安維持法の原型だとは言え、当時の欧米でも思想統制的法規は存在していた、国際標準の取り締まり法規から硬軟両面で逸脱しないことが山県の意図だったとしている。

大逆事件を受けて、山県は以下のように詠んでいる。

「天地をくつがへさんとはかる人  世にいづるまで  我ながらえぬ」

わずか数年後には近代的価値観を完全に実現するためには暴力と独裁を極限まで追求する他ないとする狂信的イデオロギーに基づく国家が生まれ、以後数十年にわたって数千万人の犠牲者を生み出したことを、後世の我々はすでに知っている。

もちろん大逆事件で死刑になった人々の多くが直接的には無関係であり、それが明治日本の一大汚点であることを認めないわけではない。

しかし、ただ「明治国家の抑圧性」のみを強調するような(たとえ左翼的でなくても自由民主主義を金科玉条として「思想の自由競争」のメリットを絶対視するような)史観からは、今となっては大きな心理的距離を感じます。

言いにくいことですが、そのような「思想の自由競争」の利点を享受してより良い社会を創り出す資質が、私を含めた民衆にあるとは全く思えない。

大正期に入って、第一次世界大戦に際しては、対独参戦への慎重論を唱え、対中政策の不明確さを批判。

後者については、二十一カ条の要求によって、中国ナショナリズムの標的となり、英米との関係が悪化したことで懸念が的中。

前者についても、1918年、ブレスト・リトフスク条約後のドイツ軍大攻勢を挙げて、協商国(連合国)の勝利は(結果のわかった現在ではそう考えがちだが)自明視できるような状況では無かったと著者は指摘している。

なお、伊藤之雄『山県有朋 愚直な権力者の生涯』(文春新書)で、この時期の山県は白色人種同盟が日本と敵対してくることを懸念しており、それを山県が必ずしも鋭敏な外交感覚を持っていなかった実例としているが、本書ではこれは中国の袁世凱政権との協調を主張する上で内外を説得するためのレトリックに過ぎず、本心からのものとは言えない、これを真に受けると山県の常識的なリアリズムを見逃す恐れがあるとしている。

こうした外交面での相違から、第二次大隈内閣およびその外相加藤高明と対立、むしろかつての政敵である政友会総裁原敬と接近。

「軍閥の巨魁」山県と、「普選尚早論を主張した“裏切りの平民宰相”」原の両者が、世論と軍部の反対を押し切っても、旧ドイツ利権の膠州湾を中国に返還することに合意した(ワシントン会議後、実際そうなった)と書かれているのを読むと、「近代日本では、民主主義が力を持てず、権威主義的な少数支配層の統治を崩せなかったから、無謀な戦争に至って国が滅んだ」という、小中高の歴史の授業で頭に刷り込まれた物語を改めて根本から疑いたくなってくる。

二十一カ条要求が出された初期の段階では、あの吉野作造ですら「最低限の要求」として是認していたし、それより無思慮で短絡的で付和雷同することしか知らない衆愚的民衆については言うまでもない。

はっきり言ってしまえば、あまりにもしばしば、「多数派民衆の世論こそが悪」なんです。

この時期と昭和前期で何が違うのかと言えば、幸いにも客観的な国際情勢が未だ日本に厳しく危険な選択を求める状況になかったことだけでなく、下層民衆に由来するのではない、社会の上層部からの権威に支えられた山県ら元老と、原のように世論に迎合しない見識ある政治家がまだ存在していて、国政を正常な範囲に留めていたことです。

完全な失敗に終わったシベリア出兵支持は、山県が帝政派への同情を持っていたことも一因だが、一方で対米国を始めとする列国協調を最優先するリアリズムは手放さなかったとしている。

ここでちょっと脇道に逸れます。

現実問題として干渉戦争による帝政復活は不可能だったでしょうから、確かにシベリア出兵は愚行と言えるでしょう(と言うか、各国の政策担当者にとって当初はあくまで対独戦線維持の観点からの出兵だったようですが)。

しかしボリシェヴィキ政権を打倒すること自体に道義的問題があったとは思えない。

「もし可能ならば」武力を用いても、ソヴィエト政権を打倒できるのならそうした方が良かった。

マーティン・メイリア『ソヴィエトの悲劇』(草思社)では、帝政派白軍、社会革命党右派による農民反乱、英仏日米による干渉戦争、ポーランド・ウクライナ等の旧帝国構成民族の攻撃など中で、ブレスト・リトフスク講和以前のドイツ軍の進撃が、ボリシェヴィキ政権を打倒する可能性が最も高かったとされている。

惜しいなあ・・・・・と本当に思う。

第一次世界大戦は何重もの意味で、人類文明にとって自殺的です。

それ自体がもたらした莫大な破壊に加え、(特に中欧における)形式的民族自決と急激な民主化による混乱を通じて第二次大戦への道を準備したこと、さらに共産主義体制の発生を許し、それを萌芽期の内に圧殺することに失敗したこと、と並べれば、各国の上層指導者が、下層民衆のナショナリズムに対抗できず、自滅的な戦争を続けざるを得なかったことに慨嘆してしまう(マイケル・ハワード『ヨーロッパ史における戦争』(中公文庫))。

大戦が無ければロシアの帝政崩壊も、共産主義政権の成立も無く、平時において革命があったとしても、列強による武力介入によって、パリ・コミューンのような、「短期間の不幸なエピソード」ということで終わっていたかもしれない。

本来は、民意に依るのではなく、伝統的身分に則った上層階級が確固たる地位を占め、大衆が作り出すナショナリズムの興奮に押し流されず、文明全体を破滅させる狂信的イデオロギーに基づく体制が生まれたことこそを直視し、その撲滅のために全ての国家が協力すべきだったはずなんですがね。

閑話休題。

米騒動を受けて、かつてあれほど敵視していた政党内閣を容認、原政友会内閣成立。

「ポスト明治国家の政治的軟着陸」が、曲がりなりにも順調に進むかに思われた。

これで元老の地位が原らに引き継がれ、デモクラシー深化の悪影響を何とか制御した上で昭和の御世に入っていれば・・・・・と思わずにはおれない。

佐々木隆『明治人の力量』(講談社学術文庫)の記事で、元老の名前は全部憶えましょうと申し上げましたが、何も見ずにすぐそらで言えますでしょうか?

長州から伊藤博文、山県、井上馨、薩摩から黒田清隆、松方正義、西郷従道、大山巌とまず7人、それに長州の桂太郎と公家の西園寺公望の2人が加わって、合計9人でしたね。

いい機会ですので、没年もチェックしましょう。

まず日清・日露の戦間期に、1900年黒田清隆、1902年西郷従道が死去。

日露戦争後、1909年伊藤博文が安重根に暗殺。

大正政変後、1913年桂太郎が失意のうちに他界。

第一次大戦中、1915年井上馨、1916年大山巌没。

大正後期から末年にかけて、1922年山県、1924年松方正義が世を去る。

昭和に入ってただ一人の元老となった西園寺公望は1940年日独伊三国同盟を締結した日本の行く末を案じながら逝去し、元老は消滅する。

もし原が暗殺されなければ、元老となっていたんでしょうか。

そうなれば昭和史もよほど変わったものになった可能性がある。

しかし他の政治家でも、不思議でならないんですが、例えば山本権兵衛なんかはなぜ元老待遇にならなかったんでしょうか?

山本は1933年まで生きて、32年五・一五事件で先帝に拝謁している(福田和也『昭和天皇 第四部』(文芸春秋))。

西郷従道を継ぐ、日本海軍のトップであり、大正期に二度総理大臣も務め、経歴としては申し分無いように思える。

内閣辞職の経緯は、シーメンス事件に虎の門事件と、確かに二度とも不祥事としか言い様がないが、首相を務めた人物にはとにかく特別の地位と権限を与えて、政党・議会・世論・軍部から超越した立場から国政全般を指導するという形になるべきだったんじゃないでしょうか。

明治政府に準ずる、そのような体制は「非民主的」と言えばその通りだが、極端から極端に走る世論の影響を受けない分、実際の戦前昭和期のような非常識・無分別な政策決定が行われる危険性は格段に低かったはず。

そういう意味で、1921年の原敬暗殺は本当に痛恨の出来事と言える。

確かに政友会の利益誘導的な積極政策に数々の腐敗が付きまとっていたのは事実でしょうし、それに対して原に全く責任が無いとは言えないでしょう。

しかし、その利益誘導を享受したのも(少なくとも一部の)国民ですし、「政党政治の腐敗」を悲憤慨嘆して(あるいはその振りをして)政策責任者を罵倒攻撃し、ついには暗殺行為のようなテロリズムに至るような世論が結構なものとは、私は全く思わない(決まり文句のように政治家への軽蔑を語る現在の世論に対しても同じ)。

そんな凡庸な世論が、間違いなく当時最優秀で今後15年は国家の舵取りをすべきだった政治家を抹殺してしまった。

以後も過激な民衆世論はあらゆる極論を政府に押し付け、原に続く政治家たちもしばしば暗殺の対象にすらして、当然の結果として内外政策の行き詰まりを生じさせた挙句、世論が熱狂的に支持したのは近衛文麿という「カリスマ」であり、この無責任な宰相が日本を決定的に誤らせたわけです。

それにしても、原や加藤友三郎、彼らよりやや落ちるにせよ加藤高明など有為の人材が昭和に入るまでに次々死去していくのには、何ともやるせない気分にさせられる。

それに比べて、(わざわざ名前を出すのは気が引けるが)伊東巳代治や金子堅太郎みたいな人物は長生きするんですよねえ・・・・・(伊東は1934年、金子は42年没)。

そりゃ両者とも明治憲法制定での功績は大きいでしょうし、金子についてはポーツマス条約締結に向けた活動も高く評価されるべきでしょうが、それ以後はねえ。

伊東は枢密顧問官として、ワシントン会議や台湾銀行救済問題、ロンドン海軍軍縮条約について、時の政府の穏当な政策の足を引っ張ることばかりしていて、それに金子も同調しているようですし。

本来一般論としては、枢密院のように民選ではなく、議会の動きを掣肘する機関はあってしかるべきと私は考えていますが、実際にはその役割を果たさず逆に単純粗暴な在野の世論と連動して、政府を無責任に揺さぶることをしてしまっている。

「非民主的」機関としての役割も果たさず、世論に迎合しちゃいかんでしょう。

伊東・金子の政治上の師で、枢密院設立者の伊藤博文もあの世で嘆いてますよ。

また話がズレてる・・・・・。

山県は社会主義の脅威を直視したが、かと言ってそれを過大評価してヒステリーじみた対応を採り、返ってその勢力を伸張させるような愚は犯さず、冷静さを保っていた。

むしろ、皇太子(後の昭和天皇)婚約についての宮中某重大事件、および訪欧問題では、山県自身が右派の攻撃対象になった。

そうした矯激な右派の一員によって1921年原が暗殺され、同年皇太子摂政宮就任。

1922年山県も死去。

同年死去した大隈重信の葬儀が盛大だったのに比べて、山県のそれは寂しいものだったことがよく語られるが、大衆社会化状況に対峙し、それと戦い続けた山県は、自身の葬儀に多くの国民が集まることなどそもそも期待していなかっただろうと著者は評している。

さて、ここで記事冒頭の問いに戻りましょうか。

山県の推進した「統帥権の独立」が軍国主義の原因であり、政党内閣に長年反対し続けた山県こそが悲惨な戦争の最大の責任者か再検討するという問いです。

では、仮に明治期に文民統制が確立し、政党政治が定着していたと想定してみましょうか。

その状態で1930年代を迎えていたとしたら、どうでしょうか?

(在野の世論と知識人と民党が往々にして政府より遥かに急進的な対外強硬論を唱えていたことからして、明治期に急速な民主化が進行し本格的政党内閣が成立していたら、致命的外交失策を犯すか、あるいは国内の党派争いが制御不能となり内戦が勃発し諸外国の介入を許して、その時点で独立自体を失い、欧米列強の植民地に転落した可能性が高いのではないかという見方はひとまず措きます[福田和也『昭和天皇 第四部』]。その場合、植民地支配によって伝統的諸価値と諸制度がすり潰され、国民統合の核となるべきものを失ったまま、独立運動において共産主義勢力が主導権を握り、独立達成後も圧政と貧困に苦しむことになるか、そうでなくとも党派争いの恒久化と政治的報復の繰り返しで国の安定が一向に望めないという第三世界諸国のお定まりのパターンに陥ったんでしょう。)

上述の通り、私には戦前日本の軍国主義の根本的原因は民衆世論の暴走としか思えない。

たとえ政党内閣制と議会政治が完全に確立していたとしても、その場合は(ドイツやイタリアにおけるように)過激なナショナリズムを旗印にする全体主義政党がデマゴーグを擁して議会に進出し、政治を支配するだけの話じゃないでしょうか。

ここで山県が考えたような「統帥権の独立」が存在していたと仮定してみます。

外では国際協調を無視して止めどない膨張主義を採り、内では偏狭・過激なイデオロギーで仮想敵を迫害するような、衆愚政党が議会政治を支配している。

ドイツにおいてプロイセン・ユンカーを中心とした軍参謀本部がヒトラーに対して最後まで抵抗力を保持し暗殺計画を(未遂に終わったが)実行したこと、イタリアで国王の命でムッソリーニが逮捕されたことなどから類推すると、衆愚に支えられたデマゴーグ的政治家に対して、自立性を持った軍が天皇の権威を借りて対抗するという事態も十分考えられる。

この場合、「統帥権の独立」は貴重な救済手段ですらある。

日本においても、実際の史実で類似した例が無いわけではない。

1944年東条内閣末期、首相と陸相を兼務していた東条が参謀総長をも併せた時、講和模索派を含む反東条派が持ち出した理屈が「統帥権干犯」だった。

(ヒトラーと比較するのはいくらなんでも東条に気の毒だが)かつて矯激・愚劣な大衆が反政府運動に利用したのと同じ概念が、ここでは好戦論に画一化された世論が惰性で進めようとするのは別方向の事態をもたらすための梃子になっている。

要するに、「統帥権の独立」という一つの法理的政治的問題を「諸悪の根源」視することには無理があり、そうすることで結果として、民意の暴走という、より根本的な問題に目を瞑ることになるのではないでしょうか。

もっと言えば、統帥権問題だけを特に強調する必要が無いだけでなく、戦前日本の大衆運動が、極右的国粋主義という形をとる必然性すら無かったように思える。

社会の近代化・平等化・大衆化が進むと共に、大衆心理の底にある、現状否認意識・革新志向・嫉妬心・攻撃欲・破壊衝動・嗜虐感情など、様々な暗い情念が解放されていく。

それらの情念は、戦前日本では(こういう言い方はほとんどの方にとって抵抗感があり、受け入れられないものでしょうが)治安維持法を始めとする取り締まり法規の「おかげで」左翼的方面については堰き止められていたが、その分右翼的方面に過激な形で噴出した。

戦前の軍国主義も、戦後の左翼運動も、現在の右派的ポピュリズムも、結局全て「民意」「国民の声」の名の下に正当化される、大衆社会の群集心理を原因とするものである。

「戦前の破局が果たしてデモクラシーの結果かはともかく、戦後は民主主義が致命的結果をもたらさなかったじゃないか」と言われれば、国政選挙において左翼勢力が完全に勝利することは無かったものの、それは戦後保守政権の慎重な利益配分政策のおかげであって、言論の自由が自動的に穏健・正当な多数意見を形成したわけではない、それどころか、民衆世論の平均的レベルでは左派的偏向がほぼ常に圧倒的であり、それが今世紀初頭に至るまで半世紀以上国家を脅かし続けたんだから、本当に危ういところで、民主主義の致命的悪影響を退けられたというのが実態であり、自由民主主義に基づく政治を楽観し礼賛する根拠なんて全く無いはずだ、と言いたいです。

そして、我々民衆が、所詮左翼思想に数十年にわたって惑わされるような、愚かな存在に過ぎないんだという真剣な反省と自己懐疑が無い限り、その反動として現在見られるような「保守化」は、卑劣な排外的ナショナリズムと低俗な経済エゴイズムの奇怪・醜悪な結合である右派的ポピュリズムを生み出すだけであり、脊髄反射的な反左翼感情からそれに対する懐疑と批判を放棄すれば、結果、戦前のそれを上回るような破局をもたらすでしょう。

(残念ながら、もう手遅れでしょうね・・・・・。デマゴーグによっていとも簡単に操作される群衆心理が全ての価値判断の基準になり、一昔前なら間違いなく左翼的たわ言を述べていたであろう程度の人間が、全く同様の愚かしさと軽信によって、にわかに「愛国者」を僭称して、方向性が違うだけで、かつての左翼と同じくらい偏向した言動の押し付けによって政治と社会を混乱・荒廃させ、内外ともに支離滅裂な行動を取り致命的な失策を犯し続け、自らの錯誤がもたらす当然の被害を受けると、さらに狂信的になり、その憂さを晴らすため、気分のおもむくままに様々な少数派を迫害して集団リンチによってもたらされる卑しい快感に身をゆだねつつ、国が滅びるまで同じ行為を繰り返す、というのが今後の日本の運命のようです。[と、偉そうに書いていますが、ほんの5、6年前の私が赤字で記したような人間でした。]皇室には適切な時期にイギリス辺りに亡命して頂くとして、我々国民はもう地獄を見るしかないでしょう。この先何があっても100%自業自得です。)

日本だけじゃありません。

独ソ伊も、煽動イデオロギーの違いはあっても、大衆の狂信を基盤にした民衆的独裁であることに変わりは無い。

そのうち最も「軽症」と思われるイタリアで王制が存続していたこと、ナチス・ドイツにおいてほぼ唯一効果的な抵抗を行い報復裁判にかけられた人々の多くが貴族階級に属していたこと(ナチについてのメモ その1での引用文で名前に“フォン”と付いてる人の多さを見て下さい)、そして日本が非民主的・前近代的な制度と価値観を比較的保持し続けているがゆえに、独ソ伊のような完全な全体主義国家ではない、という見解があること(レーデラー『大衆の国家』引用文(ノイマン1))などは示唆的である。

「ノーマル」な政治体制と思われている米英仏も、あくまで相対比較においては、であって、民主主義国家である以上、いつ左右の全体主義に堕するかわからない不安定な状況にあるに過ぎない。

と言うか、少し時間軸を延ばせば、その三ヵ国もそれぞれ南北戦争、ピューリタン革命、フランス革命とパリ・コミューンという破局と野蛮への転落を経験しているわけである。

米英仏の体制が「ノーマル」なのは、「民主的だから」ではなく、民主主義がもたらす悪影響を早期に経験し、それへの免疫を付けたというだけの話ではないか。

しかも、その「免疫」は決して永遠のものではありえない。

また、中国を始めとする戦後新興国においても、同種の民衆的独裁による惨劇はひきもきらない。

結局、近現代の世界史におけるほぼ全ての悲劇の根底には、民衆の権力拡大とそこから生まれた独裁が横たわっている。

我々は普通、「文明の成立当初に、人々の無知未開に乗じて一部の人間が特権的地位を占め、数千年にわたって人類はその圧政に苦しめられてきたが、近代に入って自由と民主主義が生まれ、その善なる概念が普及することで、ついに古代における過ちの残滓に過ぎない君主と貴族という上層身分を打倒して民衆が権力を握るようになり自らを解放した、以後ファシズム(と共産主義)などの紆余曲折はあったが基本的に人類社会は全世界的に進歩し続けている」と考えている。

この見方では、フランス革命を出発点に、19世紀を通じて民衆の政治参加と言論の自由が拡大し続けた後、20世紀が人類史上最悪の大量虐殺の世紀になったこと(引用文(ニスベット1))、その主因である世界大戦と収容所国家をそれぞれ生み出したナショナリズムと左右の全体主義が、まさに民主主義から派生したものであることを完全に無視している(戦前昭和期についてのメモ その4)。

そもそも今の世界が、20世紀において全体主義が完全な勝利を収め全人類が独裁国家の下で悶え苦しんでいるか、核戦争が勃発した結果、文明社会が完全に壊滅し、わずかに生き残った人類が動物以下の存在となって人肉食すら行いながら細々と生き延びるという地獄絵図となっていても不思議ではなかった。

ほんの僥倖でそうした事態を免れたに過ぎないのに、なぜ自由の発揚による、自動的かつ永遠の進歩など信じられるのか。

人類社会が身分制秩序と宗教意識という自己抑制手段を失い、民衆の自由拡大と科学技術の発達という近代化の二つの「成果」が本格化した途端、それらが制御不能となって殲滅戦争と独裁国家を生み出し、人類滅亡の瀬戸際まで行って、ようやく踏み止まったというのが、20世紀の実像です。

様々な先入見を捨て、長い時間をかけて形成された伝統的常識という唯一真に有益な先入見をもって歴史を眺めれば、民主主義という政治制度は事実としてすでに失敗してるんです。

あるいは、古代アテネにおける惨状をみたプラトンの時代で、もはや民主主義の失敗は明らかだったのに、それを全く無視して、自分たちにはそれを享受する資格があると身の程知らずに軽信した民衆が全世界的に自由化・民主化という社会的実験を強行したせいで、文字通り破滅的事態がもたらされたと言うべき。

君主や貴族という少数者による統治は、たとえどれほど理不尽で耐え難いように思えても、実際は多数者たる民衆による支配という、それよりはるかに大きな悪を防ぐために、半ば無意識の社会的な智慧によって採られたものであって、そもそもそれが無ければ文明自体成り立たないのではないか、あるいは控えめに言ったとしても、(ある時期までの英国のように)君主制と貴族制と民主制それぞれの要素が均衡し抑制し合うのでない限り、文明の長期的存続は有り得ないのではないかと、最近考えるようになっている。

そもそも、世襲の君主や貴族の権利を制限することは、実は普通考えられているよりも遥かに簡単なんじゃないでしょうか?

前近代における世界のどの時代、どの地域の国家でも、少数の統治層によって、民衆が文字通り無制限に抑圧・搾取される一方だったなんてことは、ごく稀な例外を除いて、ほとんど有り得なかったように思える。

科学技術の未発達もあり、前近代国家の民衆支配には必ず一定の限界があったはずであり、もしあまりに過度の抑圧を統治層が行えば、民衆反乱によって王朝は滅び、その後また新たな統治層が形成されるということを、人類は繰り返してきたのであって、それ自体は良くも悪くもない成り行きと言える。

だが、人民主権の理念普及および科学技術と産業主義の発達という二つの理由によって、民衆の大規模かつ恒常的な政治的動員が可能になった後に生まれた、大衆社会におけるデマゴーグ支配とそこから派生した全体主義社会におけるエリート支配は、同じ少数者支配でも、世襲君主と貴族の統治に比べて覆すことが遥かに難しく、そのもたらす被害も桁外れである(コーンハウザー『大衆社会の政治』)。

前近代において実際には限られた権力しか振るえなかった王朝と近現代で無制限の独裁権力を握った全体主義政権の対比では、ブルボン朝「絶対王政」とジャコバン独裁、ロマノフ王朝とソヴィエト体制、ドイツ帝国とナチス・ドイツ、中華帝国と中華人民共和国、といった主要国に加え、李朝と朝鮮民主主義人民共和国、シアヌーク王政とポル・ポト政権、ハーシム家王政とサダム・フセイン政権、イドリス朝とカダフィ体制、ハイレ・セラシエ帝政とメンギスツ政権と、小国まで含め実例を出していけば枚挙に暇が無い。

これらを「旧体制の非民主性が容易に払拭できず、正常なデモクラシー形成が妨げられた」と解釈することは全く的外れに思える。

いずれの国でも、デマゴーグが狂信的イデオロギーの煽動によって、多数派の民衆に旧来の価値観・制度・慣習を破壊し尽くすことを促した結果成立した体制である以上、それを民主主義の名の下に根底から非難することはできないはず。

その前段階である大衆社会でのデマゴーグ支配については、常に自らを「無答責の客観的批判者」に仕立て上げ、統治にふさわしい資質を何一つ持っていないにもかかわらず、他者へ無制限な攻撃を繰り返して「世論」の背後から事実上の支配権を握り、社会を混乱と荒廃の極に追い込み、ついに寄生する対象である国家が滅び、自らも因果応報の破滅を迎えるまで傲岸・不遜の限りを尽くす卑劣で醜悪な煽動者と追随者を、キルケゴール(『現代の批判』)やヤスパース(『現代の精神的状況』引用文1引用文2引用文3)がこれ以上無いほどの迫真の筆致で描いています。

何度も同じことを書きますが、民主主義を全体主義の反対概念として対置することは絶対に間違いです

このブログにもし政治的主張らしきものがあるならば、それは上記の認識のみです。

これは本来、右とか左とかの問題ではないはず。

右派的ポピュリズムがこれほど跋扈している現在では、むしろ左派的考えをお持ちの方こそ、このような認識と警戒を持つべきじゃないでしょうかと申し上げたいです。

だいたい、「民主制への移行が近現代世界史の正常な趨勢」と言ったって、その割には成功例が少なすぎるじゃないですか。

これまで致命的破局を経験しなかったのは、まあ、(ピューリタン革命をあえて除けば)英国と北欧諸国ぐらいのもんでしょう。

アメリカだって、他国では文明の進展によって自然に消えていった奴隷制度を廃絶するために国家を二分する凄惨極まりない内戦を必要として、20世紀においては気儘な世論が指示するままに双方とも思慮分別に欠ける孤立主義と好戦主義・帝国主義の間を右往左往し、桁外れの国力のお陰で自国の被害は受けずに済んだものの、戦後は急進的対抗文化がもたらす闘争に突入し、政治・性・人種・宗教・階級その他ありとあらゆる分野で社会の分極化と相互不信に苛まれ、その混乱に耐え得なくなると宗教的原理主義と自由至上主義の不寛容な押し付けで形式的な国民統合を再生しようと図り、その結果、外交面では賢明さと慎重さに欠ける軍事的単独行動主義で他国に多大の被害と混乱をもたらし、内政面では金融資本の暴走を制御できず、大恐慌以来の投機バブルを破裂させ、もう少しで世界経済を破滅に導くところだった、という次第なんだから、「これが成功した民主主義のお手本です」と言われても、はいそうですねなんて到底肯けません。

むしろアメリカも、「真の共和政」(塩野七生『ローマ世界の終焉』佐伯啓思『アメリカニズムの終焉』)を確立することが出来なかった、近現代史で無数にある、民主主義の失敗例だとした方がよほどすっきり得心できる。

独立後わずか半世紀余りのジャクソニアン・デモクラシーで建国理念を決定的に変質・歪曲させ、「民主的になればなるほど、共和的(公民的)でなくなっていく」アメリカ(と日本を含む民主主義国)については、トーマス・マンが『非政治的人間の考察』で、これ以上ないほど的確かつ辛辣な皮肉と嫌味を放っています(あるいは引用文(平川克美1)参照)。

民主主義の失敗例である戦前日本が、民主主義の失敗例である米国に「非民主的」という理由で断罪され、戦後は両国が民主主義のさらに深刻な失敗例であるソ連に対して「民主主義を守るために」同盟し、冷戦後も自称「保守」派がその同盟を絶対視し、同様に民主主義の深刻な失敗例である中国を「民主主義の価値観を共有していない」として同国に対抗しようとしているが、その実、日米とも伝統・慣習・常識の最後の一片まで捨て去り、市場と言論空間における底無しに卑しい群衆の無制限の放縦を讃美する以外の価値観を全て失い、革命で伝統的価値をすでに破壊し尽くした後で共産党の支配が徐々に緩んできた中国に対して真の優位性を持つことなどできず、それどころか衆愚的であるという意味では類似した社会に収斂しつつすらある。

何重もの虚偽と倒錯に眩暈と吐き気を覚えます。

19世紀の進歩主義が、戦争と革命の次世紀で決定的に裏切られたように、冷戦終結後の「自由民主主義の最終的勝利」という幻想が破綻し、今世紀が20世紀をなぞりつつあるのではないかという恐怖を覚える。

先触れとして、全世界的に、史上最悪の衆愚政治が始まる気配がします。

その中で(最近はかなり怪しいとは言え)イギリスのような国は「軽症」で済む可能性があるでしょうし、せめて日本が少しでもそれに近いものであって欲しいと思いますが、残念ながらむしろ重度の集団ヒステリーに罹っているということでは(中国や韓国と並んで)世界でも一番酷いんじゃないかと思えてしまう。

言うまでも無く、私も九割九分九厘九毛、そうした衆愚の一員です。

残りの一毛でも、何も出来ずに、「自分の生きているうちはこれ以上致命的事態が起こりませんように」と卑怯な望みを抱くか、こんな場所で愚痴をこぼすのが関の山です。

「軍の独立性」という手段は適切ではなかったかもしれないが、山県は上記のような民主化・大衆社会化現象と戦い続けたわけである。

にもかかわらず、山県は、大衆に「軍国主義の首魁」とのレッテルを貼られ、今も辱しめられている。

そう考えると、あまり端整とは言えない、あの山県の肖像が俄然輝きを帯びてくる感を覚える。

本の分量の割りに、異様に長い記事になってしまいました。

本書自体は楽に読めて、有益な啓蒙書です。

この方の作品は、ハズレは恐らく無いと思います。

良質で効用の高さは申し分なし。

いろいろなことを考えるきっかけを提供してくれます。

なお念のため、一言申し上げておきますが、この記事で書いたような歴史解釈はあくまで本書を材料にして他の本も参考にしながら、私個人が記したものです。

上記文章を読んで、「なんだこりゃ???」と思って、本書を読む気が失せるということにはならないようお願い致します。

本書後半部分は史観にやや鋭敏さが減じたかと思えましたが、私がそう思えるということは一般的史観には近いということでしょう。

我ながら万人に一人も同意してもらえないようなことを書いてるなあという自覚はありますので。

とは言え、とりあえず当ブログで載せられているような本を読んで、馬鹿は馬鹿なりに二十年以上考えた結果ですので、今のところ自分の意見を変えるつもりはありません。

異論に耳を傾ける余裕と謙虚さは持っていたいと考えておりますが、単純に、そんな意見は多数派と全く異なるから間違っており捨て去るべきだと言われても、それは無理ですと申し上げるほかありません。

その分、ブログ読者の方にはいろいろ不快な思いをさせてしまったかもしれませんが、どうかご容赦下さい。

普段にも増して独断的な言い方が多い記事になっておりますので、なぜ自分がそう思うに至ったかという根拠を示す脚注の感覚で、一応他の記事のリンクを頻繁に貼っておきました。

あとは全般に、思想・哲学フランスドイツ引用文のカテゴリの記事でも眺めて頂ければ、と思います。

と言っても、この記事自体、最後まで読んで下さる方は二十人に一人もいないでしょうから、そこまでお時間を割いて下さることを期待は致しません。

さて唐突ですが、本日より更新を停止させて頂くことにしました。

私事ですが、大震災以降、生活環境が激変しまして、それでも何とか続けていたのが、いよいよ困難となってきましたので。

個人的な苦手分野を反映して、ごく貧弱な書名リストに過ぎない一部の手薄なカテゴリを補強できておりませんし、紹介したい新刊本が今も続々出ていまして、自分でも不満足な思いがあるものの、すみませんが、とりあえずこれで一区切りとさせて頂きます。

このブログが果たしてタイトル通りの効果があるのか、疑わしいとは思いますが、世界史に興味のある方にとって、ほんの少しでもお役に立てれば幸いです。

閉鎖するつもりは無く、年1、2回の更新は続けるつもりでおります。

もしお気が向いたら、忘れた頃にでも覗いて頂ければ有り難く思います。

それでは、皆様御機嫌よう。

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