万年初心者のための世界史ブックガイド

2012年6月17日

木崎喜代治 『幻想としての自由と民主主義  反時代的考察』 (ミネルヴァ書房)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

著者については、本書を手に取るまで何も知らず。

略歴を見ると、『マルゼルブ フランス18世紀の一貴族の肖像』(岩波書店)という著書とマルテーユ『ガレー船徒刑囚の回想』(岩波書店)という訳書が載っている。

本書は、「シリーズ現代思想と自由主義論 3」だそうです。

1995年に書かれた草稿を元にして2004年刊行。

以下、内容をよく示している章名・節名を挙げる。

([ ]内は私の補足。)

「『自由』は絶対的権威を持っている」 [が]

「人間は自由ではない」

「かつて『自由』は悪であった」

「すべては信仰の自由から始まる」 [そこから]

「人間万能主義の世界観が生まれる」

「自由と放縦は同じものである」

「自由のうちに積極的なものはない」

「種々の拘束のうちのどれを選ぶか」 [こそが真に問われるべきことである]

「自由な人間は社会性を持つことができない」

「自由は解体の原理であって、創出の原理ではない」

「自由を超えて自律を目指す」 [べきである]

「議会制民主政治は『賢人政治』である」 [議会主義と近いものは民主制ではなく貴族制である]

「『市民』と『大衆』とを区別する」

「民主主義の平等の原則は下降化作用を持つ」

「平等な人間は容易に自分に満足する」 [その結果]

「人間というものの水準は低いところに定められる」 [さらに]

「名誉の観念は消失する」 [結局のところ]

「民主主義は人間を上昇させる契機を持たない」 [そんな人間性の真実を直視すれば]

「表現の自由は最高の原則なのか」

文明が誕生してから、全ての人間社会では、宗教的基盤による自由の抑制こそが社会の基礎であり、その抑制が存在しなければ社会も有り得なかった。

ところが、文明の発達と人智の複雑化によって宗教改革と、教義をめぐる宗教戦争が戦われるようになり、その惨禍から「信仰の自由」という観念が生まれた。

それ自体はやむを得ぬ、切実な成り行きだと言うこともできるが、個人が自身の信仰を選択できるということになると、そこから人間が神の上に立つ存在だという、恐ろしく不遜な考えが生じてくる。

しかも、切実かつ高尚な、信仰面に限定されていた「自由」の観念が、私的欲望の追求を正当化するためにほとんど無限に拡大解釈され、その低俗化に全く歯止めがかからなくなる。

人間の不完全性を直視しない自由の称揚が社会の混乱と荒廃をもたらし、その必然的帰結が近現代における全体主義である。

これを自由と民主主義の名の下に非難することは根本的に歪んでる。

なぜならそれらの綺麗事こそが全体主義をもたらしたのだから。

[自由民主主義を批判し否認する著者に対する]全体主義との類似性という非難についてはつぎのように答えよう。自由とは拘束の不在のことであり、そして、個人主義とは、とくに現在の日本では、私的利益の追求とほとんど同義であり、そのゆえに、自由と個人主義の称揚は個人を孤立化させ、したがってまた弱体化させる方向へと引きずっていく。そして、このように孤立化し無力化した自由な個人こそが全体主義的権力の恰好の標的となり、その権力によって簡単に絡め取られてしまうのではないか。その権力が政治的であろうと、オカルト的宗教的であろうと、事情に変わりはない。自由な人間とは、これまで詳論してきたように、空虚な人間である。そのゆえに、かれらは他者と共感し連帯するための恒久的な絆を持ってはいない。そして連帯とは拘束以外のなんであろうか。自由な人間は連帯を嫌悪し、孤立化し、無力化し、そして、そのゆえに外からの権力に容易に絡めとられる。これを自由からの逃走と呼んでもよい。

それに反して、自律した人間は空虚な人間ではなく、かれ固有の積極的な原理を自分自身の中心に据えていて、その原理にしたがって強く生きている存在である。そのゆえに、かれはその原理を通じて他者たちと共感し連帯することができる。かれは孤立的人間ではなく、社会的人間である。全体主義的権力が、連帯している社会的人間を捉えるのは容易ではない。したがって、むしろ、今日では閉鎖的利己主義と一体化した個人的自由の高揚や個人主義の称揚こそが全体主義を呼び込んでいるのである。社会性の喪失の結果、個人は同胞に助けを求めることができず、その代わりに、上方の国家権力や宗教的権威に助けを求めざるをえないことになる。

また、以下の文章も、自分自身のことを振り返れば、実に得心のいくものである。

古来から、しばしば、人間とは弱いもの、間違いを犯すもの、邪悪なもの、愚かなものとして定義されることがあった。しかし、そのような定義はいわば消極的な性質のものであり、恥ずべき行為を犯してしまった人間を慰め励まし更正させるために用いられる秘かな口実であった。それが、いまや、そうした行為を弁護するために堂々と積極的に白昼のもとに掲げられるのである。この種の人間の平等の仮定が積極的原則となるやいなや、人間の精神の世界における果てしない下降過程が始まる。人間を計る尺度として、その生物学的特徴しか存在しないということ、あるいは、少なくともそれがもっとも強力な尺度であるということは、賢明な人間たちを計る尺度がうまく機能しないということである。したがって、人々は、卓越した考えを表明したり、立派な行為をしたりする人間を見てもただ困惑する以外にはない。どのように対応すべきかが分からないのである。そして、自分が理解できないことを未練なく忘れ去る最善の方法は、それを嘲笑することであるらしい。こうして人間の愚かな行為は人間的だとして容認され、他方では、美しい行為や見事な行為は理解を超えているゆえに嘲笑される。・・・・・・

他の叙述では、西欧(特に英国)の日本と米国に対する文明的な優位は、より「民主的」だからではなく、全く逆に、民主主義への抵抗力を持っているがゆえであると書かれているのが印象的。

また新聞からラジオ、テレビへと情報メディアが進歩すればするほど、情報の内容が空疎で愚劣化すると指摘している。

このくだりは、高坂正堯氏の『不思議の日米関係史』の中での、日露戦争後のアメリカにおいて、ハースト系の新聞がデマに等しいような対日警戒論を煽ったことを記した後の、以下の文章を思い起こさせる。

実際、アメリカでもヨーロッパでも、十九世紀末にはそれまでに考えられない大部数の新聞が出現し、世論に悪影響を与えたのであった。どうやら、情報産業というものは、新しい形態のものが現われるとき、必ず、なんらかの悪影響を及ぼすものらしい。

民主主義の発展によってこそ、社会的弱者および少数者が保護されてきたという見方については、それら被差別者の地位を向上させてきたのは、心ある少数派市民であり、多数派の民衆はむしろ彼らを迫害してきたのであって、大衆自身が権力者以上に迫害の主体であったと述べている。

これはたとえ嫌な事実であろうとも、真実を直視するなら妥当だと認めざるを得ない見解です。

加えて、参政権は、現状では酒や煙草を摂取する資格と同様にある一定の年齢に達するだけで与えられるが、車の運転免許にも試験があるのに、なぜ政治に関与する資格が何の資質も問われず、自動的に与えられるのかと疑問を呈している。

考えてみれば、本当にそうです。

政治に関わる言論においては、とにかく、ほとんど全ての国民が(その政治的立場の相違に関わらず)、下は一般公務員から上は政治家まで(もっと酷い場合は皇族に至るまで)、少しでも公的立場にある人々に対して、一方的に罵詈雑言、誹謗中傷、揶揄嘲笑を浴びせ掛ける傾向があります。

つくづく思うんですが、あれ一体何なんでしょうか?

言ってる本人の資格や資質が問われることは、ほとんど絶無でしょう。

自分たちは「納税者」で「主権者」だからということで、どんなに無責任で、非現実的で、理不尽で、皮相で、短絡的で、一方的で、バランスを欠き、ステレオタイプで、冗談半分に近いようなもので、愉快犯的で、真の切実さに欠けるくせにそれを装い、支離滅裂で、品性下劣で、自らのことを完全に棚に上げ、他人を攻撃すること自体を目的とし、それで自分の卑小さから目を逸らし、日常の憂さを晴らすための、卑怯極まりない非難であっても全てが正当化されてしまう。

しかし、「納税者」って、あなた税金いくら払ってるんですか、公務員一人の年収も到底賄えないんじゃないんですかと言いたいし、そんなことより、たとえ億万長者で莫大な額の税金を払っていようとも、これまでの何十世代にわたる努力と試行錯誤の結果である政治・社会・文化の上に立ってこそ、自身の経済活動があり得たんだから、個人として要求できる発言権なんて限りなく微少なものなんだとわきまえるのが、まともな大人というものじゃないでしょうか(たとえ少額の納税者でもその多数が寄り集まった集団的意志ならば絶対的に尊重されるべきだという理屈に対しても同様)。

「主権者」だから当然だって言うのなら、そんな民衆は君主や貴族という身分以上に、「生まれながらの不当な特権者」だと言いたいです。

私自身がそうだから書くんですが、「主権者たる国民」の平均的姿は以下に描写されているようなものじゃないでしょうか。

われわれは大衆人の心理図表にまず二本の線を引くことができる。すなわちその生の欲望を示す線、つまり大衆人自身の際限の無い膨張の線と、安楽な生存を可能にしてくれた一切のものに対する徹底した忘恩の線を。この二つの傾向は、例の甘やかされた子供の心理を作り上げているものである。

私は本書を読まれる方の多くが、私と同じようにはお考えにならないのを十分承知している。それもまた極めて当然なことであり、私の主張を裏付けてくれるのである。というのは、たとえ私の意見が決定的に間違っているという結果になっても、私と意見を異にする読者の多くが、このように錯綜した問題について、ものの五分間も熟考したことがないのだ、という事実は常に残るからである。そのような人たちが、どうして私と同じように考えるだろうか?
前もって意見を作り上げる努力をしないで、その問題について意見を持つ権利があると信じていることからして、私が「反逆的大衆」と呼んだところの、人間としての馬鹿げたあり方に属していることを典型的に表明しているのだ。それこそまさしく閉鎖的、密室的な魂を持つということである。この場合は、知的閉鎖性と言えるだろう。こうした人間は、まず自分のうちに思想の貯えを見いだす。そしてそこにある思想だけで満足し、自分は知的に完全だと考えることに決めてしまう。彼は自分の外にあるものを何ひとつ欲しいとは思わないから、その貯えのうちに決定的に安住してしまうのだ。これが知的閉鎖性のメカニズムである。

したがってわれわれは、ここで、愚者と賢者の間に永遠に存在している相違そのものに突き当たる。賢者は、自分がもう少しで愚者になり下がろうとしている危険をたえず感じている。そのため彼は、身近に迫っている愚劣さから逃れようと努力するのであり、その努力のうちにこそ英知があるのだ。
ところが愚者は自分を疑うことをしない。彼は自分が極めて分別に富む人間だと考えている。愚鈍な人間が自分自身の愚かさのなかに腰をおろして安住するときの、あのうらやむべき平静さはそこから生まれている。われわれがどうやっても、住みついている穴から外へ出すことのできない昆虫のように、愚者にその愚かさの殻を脱がせ、しばしの間、その盲目の世界の外を散歩させ、力づくで日ごろの愚鈍な物の見方をより鋭敏な物の見方と比較するように強制する方法はないのだ。馬鹿は死なねば直らないのであり、救いの道は無いのである。
だからこそアナトール・フランスは、愚かな者は邪悪な者よりも忌まわしいと言ったのだ。なぜなら邪悪な者は休むときがあるが、愚かな者は決して休まないからである。

ホセ・オルテガ『大衆の反逆』より)

個々の民衆の資質を問わずに、すべての個人が平等だとされれば、その平等な個人の多くが同意した多数意見が絶対視される。

「価値としての多数性」をトクヴィルは「知性に適用された平等理論」と名づけた。要約すると、「知性は各人に平等に配分されている」とすれば、「多数派のほうがより多量の知性を有している」という子どもの理屈である。そういう幼稚な判断に立つ者だけが「民主主義は多数決だ」と言い張って憚らないのである。

また、「国民は等しく主権者である」というヒューマニズムの前提に立てば、この子どもの理屈に到達するのも必然といってよい。と同時に、この前提から「少数派排除」という(いわゆる「いじめ」の論理と同種の)アンチ・ヒューマニズムが出てくるのであるから、民主主義は立ち往生せざるをえない。

[西部邁『小沢一郎は背広を着たゴロツキである。  私の政治家見験録』(飛鳥新社)より]

・・・・・民主主義にあっては、多数性に(主権と呼ばれる)至高の価値をすら宛てがっています。今日では誰もわざわざ問うことを止めたのですが、多数性が最高の価値であるという命題は、誰も信じていないのに誰もが信じた振りをしている大嘘なのではないかと思われます。

トックヴィルは、その嘘を「知性に適用された平等理論」と呼んで批判しました。こういうことです。第一に、すべての人が知性を等しい質量で所有していると想定します。すると第二に、多数派のほうが(足し算として)より多い知性を保有しているということになります。したがって第三に、多数派の判断のほうがより優れているという結論になるのです。

日常生活にかんする慣習的な判断についてならば、ひょっとして、その平等理論は正しいのかもしれません。しかし、国家の政策をめぐる判断についてまでそれを主張するのは、やはり、歴然たる嘘というほかありません。

多数性にジャスティファイアビリティ(正当化可能性)はありません。もしあるというのなら、あらゆる政体が多数派の動向を気にして運営されてきたのですから、何万年も閲(けみ)した人類史は今や真善美の間近にまで達しているとみてよいということになってしまいます。しかるに、現代の文明は到る処で没落の兆候をみせつけているときています。少々なりとも敏感かつ正直な人なら、多数派にあってこそ(虚偽とはいわぬまでも)誤謬が大きい、と認めるに違いありません。歴史に進歩があったのだとしても、その進歩のアイディアやプランやプラクティスはどちらかというと、少数派の手によって担われてきたということも、あっさり承認するでしょう。

歴史の連続を保つものとしての伝統、それに精神的生命を吹き込んできたのは少数派のほうです。伝統によって生み出される権威、それを纏(まと)うのがオーソドキシー(正統)と呼ばれます。多数派は伝統から離れようとし、権威に逆らうこととしてのヘテロドキシー(異端)となります。

いや、通常の異端は慣習に抵抗する破壊主義的な少数派として歴史に登場するのです。そのあとを多数派が追う段階になって、伝統までもが失念されます。

そのとき、別種の異端が伝統の権威と権威ある正統の(反革命と俗称される)保守に起ち上がるという経緯を辿ります。ですから、多数性は正統性とも無縁とみてさしつかえありません。「ヘテロ」は「異なる」という接頭語で、その原義は「選びとる」ことです。変化という過去とは異なれるものを「選びとる」のが多数派の変わらぬ習性だといえます。

「知性に適用された平等理論」というあまりにも低俗な理屈を拒否してみると、多数性には正統性と正当性のそれぞれ一片も付与されていないとわかります。少なくとも、多数性が価値となるのは、権威の次元のことではなく、権力の次元においてのことにすぎないのは確実です。多数性は露骨きわまるフォース(物理的な力)にすぎません。

 それが(多数派の支持によって作り出される)法律によって正当化されるとき、そのフォースがパワー(権力)になります。状況の進展のなかで、法律にたいする多数派の恣意的な解釈が罷り通るようになると、そのパワーはヴァイオレンス(暴力)に転じます。「数の暴力」といわれているのがそれです。

「真理は細部に宿る」といわれるのと同じく、「真理は少数派の手にある」とみて大きく間違うことはありません。それにもかかわらず「知性に適用された平等理論」のまやかしが、多数派の故意か無知かによって守護されています。そして権力はすでに多数派の手にわたったのですから、この誤謬もしくは詐術の理論を社会のなかでつき崩すことは、あっさりいって不可能なのです。

 そのことに絶望する者が少しでも増えること、それ以外に希望はないというのがトックヴィルのいった「多数派の専制」ということなのだと思われます。

 

[西部邁『文明の敵・民主主義  危機の政治哲学』(時事通信社)より]

実際には「前もって意見を作り上げる努力をしないで、その問題について意見を持つ権利があると信じている」人間の付和雷同に過ぎないものが、自立した諸個人が自由な討議を経て決定した賢明な結論だと偽装粉飾される。

そんな世論が全ての物事の価値判断の基準になれば、国や文明が滅びない方が不思議でしょう。

多数派の大衆が、良質な市民になることは全く期待できない。

そうである以上、民主主義を擁護して、「ポピュリズム」のみを批判することは無意味であり、やはり民主主義自体を否定する視点を持たない限りどうしようもない。

一人一人の国民が、伝統と慣習の束縛を脱し、かけがえのない平等な個人として自らの権利を自覚し、あらゆる物事を主体的に考え、自分自身の意見を持ち、その意見を何ものにも制限されず自由に表現し、異なる意見を縦横に戦わせ、その結果得られた多数意見だけを国家と社会の意志決定の基礎とする、という具合になればなるほど、社会は底無しの腐敗堕落に吸い込まれ、国家は確実に破滅への道をひた走ることになる。

様々な形態はありえるでしょうが、根本的に、社会の中で、できる限り長い時間をかけて自然に形成された、いくつかの階層に分かれ秩序付けられた少数者に特別な権利と義務を与える以外に、文明を安定させる方法は無いんじゃないでしょうか。

史書を読めば読むほど、上記の考えが確信に近いものになっている。

そういう真実を直視することを拒否して、社会を原子的個人のみからなる平板なものに再構成しようとする行為が、混乱と無秩序を通じて、かつて排除された伝統的階層性など及びもつかない、途方も無い格差を伴う独裁と社会自体の破滅を生むのではないでしょうか(コーンハウザー『大衆社会の政治』)。

しかも、そうして生み出された独裁が崩壊したならば、またもや民主主義の名の下に、平等社会を築こうとする運動が続き、結果として再び新たな独裁の土壌を準備することになってしまう。

文明社会が完全に破滅するまで、この種の大衆運動が永久に続き、誰も止めることができない。

結局、言論の自由や民主主義、人権、全個人の平等などが公認かつ自明の価値になってしまったら、どんな時代のどんな国も、不可逆な滅びの道に入るしかない。

1789年以降(今のアメリカを見れば、本当は「1776年以降」と言いたい)、5000年かけて文明を築いてきた人類社会全体が、遅かれ早かれ、その道に入ってしまったんでしょう。

極めて平易な表現で、自分が普段漠然と考えていたことを明確に叙述してくれている本。

ただ、事例が卑近過ぎたり、論理の運び方に鋭さが欠ける嫌いもあるが、それも私のレベルに合っているとも言える。

今日では、本書は、旧来型の左翼よりも新自由主義者・市場主義者・個人主義者への批判として読むべきと思われる。

非常に貴重で有益な書。

強くお勧めします。

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