万年初心者のための世界史ブックガイド

2012年6月17日

木崎喜代治 『幻想としての自由と民主主義  反時代的考察』 (ミネルヴァ書房)

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著者については、本書を手に取るまで何も知らず。

略歴を見ると、『マルゼルブ フランス18世紀の一貴族の肖像』(岩波書店)という著書とマルテーユ『ガレー船徒刑囚の回想』(岩波書店)という訳書が載っている。

本書は、「シリーズ現代思想と自由主義論 3」だそうです。

1995年に書かれた草稿を元にして2004年刊行。

以下、内容をよく示している章名・節名を挙げる。

([ ]内は私の補足。)

「『自由』は絶対的権威を持っている」 [が]

「人間は自由ではない」

「かつて『自由』は悪であった」

「すべては信仰の自由から始まる」 [そこから]

「人間万能主義の世界観が生まれる」

「自由と放縦は同じものである」

「自由のうちに積極的なものはない」

「種々の拘束のうちのどれを選ぶか」 [こそが真に問われるべきことである]

「自由な人間は社会性を持つことができない」

「自由は解体の原理であって、創出の原理ではない」

「自由を超えて自律を目指す」 [べきである]

「議会制民主政治は『賢人政治』である」 [議会主義と近いものは民主制ではなく貴族制である]

「『市民』と『大衆』とを区別する」

「民主主義の平等の原則は下降化作用を持つ」

「平等な人間は容易に自分に満足する」 [その結果]

「人間というものの水準は低いところに定められる」 [さらに]

「名誉の観念は消失する」 [結局のところ]

「民主主義は人間を上昇させる契機を持たない」 [そんな人間性の真実を直視すれば]

「表現の自由は最高の原則なのか」

文明が誕生してから、全ての人間社会では、宗教的基盤による自由の抑制こそが社会の基礎であり、その抑制が存在しなければ社会も有り得なかった。

ところが、文明の発達と人智の複雑化によって宗教改革と、教義をめぐる宗教戦争が戦われるようになり、その惨禍から「信仰の自由」という観念が生まれた。

それ自体はやむを得ぬ、切実な成り行きだと言うこともできるが、個人が自身の信仰を選択できるということになると、そこから人間が神の上に立つ存在だという、恐ろしく不遜な考えが生じてくる。

しかも、切実かつ高尚な、信仰面に限定されていた「自由」の観念が、私的欲望の追求を正当化するためにほとんど無限に拡大解釈され、その低俗化に全く歯止めがかからなくなる。

人間の不完全性を直視しない自由の称揚が社会の混乱と荒廃をもたらし、その必然的帰結が近現代における全体主義である。

これを自由と民主主義の名の下に非難することは根本的に歪んでる。

なぜならそれらの綺麗事こそが全体主義をもたらしたのだから。

[自由民主主義を批判し否認する著者に対する]全体主義との類似性という非難についてはつぎのように答えよう。自由とは拘束の不在のことであり、そして、個人主義とは、とくに現在の日本では、私的利益の追求とほとんど同義であり、そのゆえに、自由と個人主義の称揚は個人を孤立化させ、したがってまた弱体化させる方向へと引きずっていく。そして、このように孤立化し無力化した自由な個人こそが全体主義的権力の恰好の標的となり、その権力によって簡単に絡め取られてしまうのではないか。その権力が政治的であろうと、オカルト的宗教的であろうと、事情に変わりはない。自由な人間とは、これまで詳論してきたように、空虚な人間である。そのゆえに、かれらは他者と共感し連帯するための恒久的な絆を持ってはいない。そして連帯とは拘束以外のなんであろうか。自由な人間は連帯を嫌悪し、孤立化し、無力化し、そして、そのゆえに外からの権力に容易に絡めとられる。これを自由からの逃走と呼んでもよい。

それに反して、自律した人間は空虚な人間ではなく、かれ固有の積極的な原理を自分自身の中心に据えていて、その原理にしたがって強く生きている存在である。そのゆえに、かれはその原理を通じて他者たちと共感し連帯することができる。かれは孤立的人間ではなく、社会的人間である。全体主義的権力が、連帯している社会的人間を捉えるのは容易ではない。したがって、むしろ、今日では閉鎖的利己主義と一体化した個人的自由の高揚や個人主義の称揚こそが全体主義を呼び込んでいるのである。社会性の喪失の結果、個人は同胞に助けを求めることができず、その代わりに、上方の国家権力や宗教的権威に助けを求めざるをえないことになる。

また、以下の文章も、自分自身のことを振り返れば、実に得心のいくものである。

古来から、しばしば、人間とは弱いもの、間違いを犯すもの、邪悪なもの、愚かなものとして定義されることがあった。しかし、そのような定義はいわば消極的な性質のものであり、恥ずべき行為を犯してしまった人間を慰め励まし更正させるために用いられる秘かな口実であった。それが、いまや、そうした行為を弁護するために堂々と積極的に白昼のもとに掲げられるのである。この種の人間の平等の仮定が積極的原則となるやいなや、人間の精神の世界における果てしない下降過程が始まる。人間を計る尺度として、その生物学的特徴しか存在しないということ、あるいは、少なくともそれがもっとも強力な尺度であるということは、賢明な人間たちを計る尺度がうまく機能しないということである。したがって、人々は、卓越した考えを表明したり、立派な行為をしたりする人間を見てもただ困惑する以外にはない。どのように対応すべきかが分からないのである。そして、自分が理解できないことを未練なく忘れ去る最善の方法は、それを嘲笑することであるらしい。こうして人間の愚かな行為は人間的だとして容認され、他方では、美しい行為や見事な行為は理解を超えているゆえに嘲笑される。・・・・・・

他の叙述では、西欧(特に英国)の日本と米国に対する文明的な優位は、より「民主的」だからではなく、全く逆に、民主主義への抵抗力を持っているがゆえであると書かれているのが印象的。

また新聞からラジオ、テレビへと情報メディアが進歩すればするほど、情報の内容が空疎で愚劣化すると指摘している。

このくだりは、高坂正堯氏の『不思議の日米関係史』の中での、日露戦争後のアメリカにおいて、ハースト系の新聞がデマに等しいような対日警戒論を煽ったことを記した後の、以下の文章を思い起こさせる。

実際、アメリカでもヨーロッパでも、十九世紀末にはそれまでに考えられない大部数の新聞が出現し、世論に悪影響を与えたのであった。どうやら、情報産業というものは、新しい形態のものが現われるとき、必ず、なんらかの悪影響を及ぼすものらしい。

民主主義の発展によってこそ、社会的弱者および少数者が保護されてきたという見方については、それら被差別者の地位を向上させてきたのは、心ある少数派市民であり、多数派の民衆はむしろ彼らを迫害してきたのであって、大衆自身が権力者以上に迫害の主体であったと述べている。

これはたとえ嫌な事実であろうとも、真実を直視するなら妥当だと認めざるを得ない見解です。

加えて、参政権は、現状では酒や煙草を摂取する資格と同様にある一定の年齢に達するだけで与えられるが、車の運転免許にも試験があるのに、なぜ政治に関与する資格が何の資質も問われず、自動的に与えられるのかと疑問を呈している。

考えてみれば、本当にそうです。

政治に関わる言論においては、とにかく、ほとんど全ての国民が(その政治的立場の相違に関わらず)、下は一般公務員から上は政治家まで(もっと酷い場合は皇族に至るまで)、少しでも公的立場にある人々に対して、一方的に罵詈雑言、誹謗中傷、揶揄嘲笑を浴びせ掛ける傾向があります。

つくづく思うんですが、あれ一体何なんでしょうか?

言ってる本人の資格や資質が問われることは、ほとんど絶無でしょう。

自分たちは「納税者」で「主権者」だからということで、どんなに無責任で、非現実的で、理不尽で、皮相で、短絡的で、一方的で、バランスを欠き、ステレオタイプで、冗談半分に近いようなもので、愉快犯的で、真の切実さに欠けるくせにそれを装い、支離滅裂で、品性下劣で、自らのことを完全に棚に上げ、他人を攻撃すること自体を目的とし、それで自分の卑小さから目を逸らし、日常の憂さを晴らすための、卑怯極まりない非難であっても全てが正当化されてしまう。

しかし、「納税者」って、あなた税金いくら払ってるんですか、公務員一人の年収も到底賄えないんじゃないんですかと言いたいし、そんなことより、たとえ億万長者で莫大な額の税金を払っていようとも、これまでの何十世代にわたる努力と試行錯誤の結果である政治・社会・文化の上に立ってこそ、自身の経済活動があり得たんだから、個人として要求できる発言権なんて限りなく微少なものなんだとわきまえるのが、まともな大人というものじゃないでしょうか(たとえ少額の納税者でもその多数が寄り集まった集団的意志ならば絶対的に尊重されるべきだという理屈に対しても同様)。

「主権者」だから当然だって言うのなら、そんな民衆は君主や貴族という身分以上に、「生まれながらの不当な特権者」だと言いたいです。

私自身がそうだから書くんですが、「主権者たる国民」の平均的姿は以下に描写されているようなものじゃないでしょうか。

われわれは大衆人の心理図表にまず二本の線を引くことができる。すなわちその生の欲望を示す線、つまり大衆人自身の際限の無い膨張の線と、安楽な生存を可能にしてくれた一切のものに対する徹底した忘恩の線を。この二つの傾向は、例の甘やかされた子供の心理を作り上げているものである。

私は本書を読まれる方の多くが、私と同じようにはお考えにならないのを十分承知している。それもまた極めて当然なことであり、私の主張を裏付けてくれるのである。というのは、たとえ私の意見が決定的に間違っているという結果になっても、私と意見を異にする読者の多くが、このように錯綜した問題について、ものの五分間も熟考したことがないのだ、という事実は常に残るからである。そのような人たちが、どうして私と同じように考えるだろうか?
前もって意見を作り上げる努力をしないで、その問題について意見を持つ権利があると信じていることからして、私が「反逆的大衆」と呼んだところの、人間としての馬鹿げたあり方に属していることを典型的に表明しているのだ。それこそまさしく閉鎖的、密室的な魂を持つということである。この場合は、知的閉鎖性と言えるだろう。こうした人間は、まず自分のうちに思想の貯えを見いだす。そしてそこにある思想だけで満足し、自分は知的に完全だと考えることに決めてしまう。彼は自分の外にあるものを何ひとつ欲しいとは思わないから、その貯えのうちに決定的に安住してしまうのだ。これが知的閉鎖性のメカニズムである。

したがってわれわれは、ここで、愚者と賢者の間に永遠に存在している相違そのものに突き当たる。賢者は、自分がもう少しで愚者になり下がろうとしている危険をたえず感じている。そのため彼は、身近に迫っている愚劣さから逃れようと努力するのであり、その努力のうちにこそ英知があるのだ。
ところが愚者は自分を疑うことをしない。彼は自分が極めて分別に富む人間だと考えている。愚鈍な人間が自分自身の愚かさのなかに腰をおろして安住するときの、あのうらやむべき平静さはそこから生まれている。われわれがどうやっても、住みついている穴から外へ出すことのできない昆虫のように、愚者にその愚かさの殻を脱がせ、しばしの間、その盲目の世界の外を散歩させ、力づくで日ごろの愚鈍な物の見方をより鋭敏な物の見方と比較するように強制する方法はないのだ。馬鹿は死なねば直らないのであり、救いの道は無いのである。
だからこそアナトール・フランスは、愚かな者は邪悪な者よりも忌まわしいと言ったのだ。なぜなら邪悪な者は休むときがあるが、愚かな者は決して休まないからである。

ホセ・オルテガ『大衆の反逆』より)

個々の民衆の資質を問わずに、すべての個人が平等だとされれば、その平等な個人の多くが同意した多数意見が絶対視される。

「価値としての多数性」をトクヴィルは「知性に適用された平等理論」と名づけた。要約すると、「知性は各人に平等に配分されている」とすれば、「多数派のほうがより多量の知性を有している」という子どもの理屈である。そういう幼稚な判断に立つ者だけが「民主主義は多数決だ」と言い張って憚らないのである。

また、「国民は等しく主権者である」というヒューマニズムの前提に立てば、この子どもの理屈に到達するのも必然といってよい。と同時に、この前提から「少数派排除」という(いわゆる「いじめ」の論理と同種の)アンチ・ヒューマニズムが出てくるのであるから、民主主義は立ち往生せざるをえない。

[西部邁『小沢一郎は背広を着たゴロツキである。  私の政治家見験録』(飛鳥新社)より]

・・・・・民主主義にあっては、多数性に(主権と呼ばれる)至高の価値をすら宛てがっています。今日では誰もわざわざ問うことを止めたのですが、多数性が最高の価値であるという命題は、誰も信じていないのに誰もが信じた振りをしている大嘘なのではないかと思われます。

トックヴィルは、その嘘を「知性に適用された平等理論」と呼んで批判しました。こういうことです。第一に、すべての人が知性を等しい質量で所有していると想定します。すると第二に、多数派のほうが(足し算として)より多い知性を保有しているということになります。したがって第三に、多数派の判断のほうがより優れているという結論になるのです。

日常生活にかんする慣習的な判断についてならば、ひょっとして、その平等理論は正しいのかもしれません。しかし、国家の政策をめぐる判断についてまでそれを主張するのは、やはり、歴然たる嘘というほかありません。

多数性にジャスティファイアビリティ(正当化可能性)はありません。もしあるというのなら、あらゆる政体が多数派の動向を気にして運営されてきたのですから、何万年も閲(けみ)した人類史は今や真善美の間近にまで達しているとみてよいということになってしまいます。しかるに、現代の文明は到る処で没落の兆候をみせつけているときています。少々なりとも敏感かつ正直な人なら、多数派にあってこそ(虚偽とはいわぬまでも)誤謬が大きい、と認めるに違いありません。歴史に進歩があったのだとしても、その進歩のアイディアやプランやプラクティスはどちらかというと、少数派の手によって担われてきたということも、あっさり承認するでしょう。

歴史の連続を保つものとしての伝統、それに精神的生命を吹き込んできたのは少数派のほうです。伝統によって生み出される権威、それを纏(まと)うのがオーソドキシー(正統)と呼ばれます。多数派は伝統から離れようとし、権威に逆らうこととしてのヘテロドキシー(異端)となります。

いや、通常の異端は慣習に抵抗する破壊主義的な少数派として歴史に登場するのです。そのあとを多数派が追う段階になって、伝統までもが失念されます。

そのとき、別種の異端が伝統の権威と権威ある正統の(反革命と俗称される)保守に起ち上がるという経緯を辿ります。ですから、多数性は正統性とも無縁とみてさしつかえありません。「ヘテロ」は「異なる」という接頭語で、その原義は「選びとる」ことです。変化という過去とは異なれるものを「選びとる」のが多数派の変わらぬ習性だといえます。

「知性に適用された平等理論」というあまりにも低俗な理屈を拒否してみると、多数性には正統性と正当性のそれぞれ一片も付与されていないとわかります。少なくとも、多数性が価値となるのは、権威の次元のことではなく、権力の次元においてのことにすぎないのは確実です。多数性は露骨きわまるフォース(物理的な力)にすぎません。

 それが(多数派の支持によって作り出される)法律によって正当化されるとき、そのフォースがパワー(権力)になります。状況の進展のなかで、法律にたいする多数派の恣意的な解釈が罷り通るようになると、そのパワーはヴァイオレンス(暴力)に転じます。「数の暴力」といわれているのがそれです。

「真理は細部に宿る」といわれるのと同じく、「真理は少数派の手にある」とみて大きく間違うことはありません。それにもかかわらず「知性に適用された平等理論」のまやかしが、多数派の故意か無知かによって守護されています。そして権力はすでに多数派の手にわたったのですから、この誤謬もしくは詐術の理論を社会のなかでつき崩すことは、あっさりいって不可能なのです。

 そのことに絶望する者が少しでも増えること、それ以外に希望はないというのがトックヴィルのいった「多数派の専制」ということなのだと思われます。

 

[西部邁『文明の敵・民主主義  危機の政治哲学』(時事通信社)より]

実際には「前もって意見を作り上げる努力をしないで、その問題について意見を持つ権利があると信じている」人間の付和雷同に過ぎないものが、自立した諸個人が自由な討議を経て決定した賢明な結論だと偽装粉飾される。

そんな世論が全ての物事の価値判断の基準になれば、国や文明が滅びない方が不思議でしょう。

多数派の大衆が、良質な市民になることは全く期待できない。

そうである以上、民主主義を擁護して、「ポピュリズム」のみを批判することは無意味であり、やはり民主主義自体を否定する視点を持たない限りどうしようもない。

一人一人の国民が、伝統と慣習の束縛を脱し、かけがえのない平等な個人として自らの権利を自覚し、あらゆる物事を主体的に考え、自分自身の意見を持ち、その意見を何ものにも制限されず自由に表現し、異なる意見を縦横に戦わせ、その結果得られた多数意見だけを国家と社会の意志決定の基礎とする、という具合になればなるほど、社会は底無しの腐敗堕落に吸い込まれ、国家は確実に破滅への道をひた走ることになる。

様々な形態はありえるでしょうが、根本的に、社会の中で、できる限り長い時間をかけて自然に形成された、いくつかの階層に分かれ秩序付けられた少数者に特別な権利と義務を与える以外に、文明を安定させる方法は無いんじゃないでしょうか。

史書を読めば読むほど、上記の考えが確信に近いものになっている。

そういう真実を直視することを拒否して、社会を原子的個人のみからなる平板なものに再構成しようとする行為が、混乱と無秩序を通じて、かつて排除された伝統的階層性など及びもつかない、途方も無い格差を伴う独裁と社会自体の破滅を生むのではないでしょうか(コーンハウザー『大衆社会の政治』)。

しかも、そうして生み出された独裁が崩壊したならば、またもや民主主義の名の下に、平等社会を築こうとする運動が続き、結果として再び新たな独裁の土壌を準備することになってしまう。

文明社会が完全に破滅するまで、この種の大衆運動が永久に続き、誰も止めることができない。

結局、言論の自由や民主主義、人権、全個人の平等などが公認かつ自明の価値になってしまったら、どんな時代のどんな国も、不可逆な滅びの道に入るしかない。

1789年以降(今のアメリカを見れば、本当は「1776年以降」と言いたい)、5000年かけて文明を築いてきた人類社会全体が、遅かれ早かれ、その道に入ってしまったんでしょう。

極めて平易な表現で、自分が普段漠然と考えていたことを明確に叙述してくれている本。

ただ、事例が卑近過ぎたり、論理の運び方に鋭さが欠ける嫌いもあるが、それも私のレベルに合っているとも言える。

今日では、本書は、旧来型の左翼よりも新自由主義者・市場主義者・個人主義者への批判として読むべきと思われる。

非常に貴重で有益な書。

強くお勧めします。

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2012年6月10日

加藤陽子 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 (朝日出版社)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

数年前、かなり話題になった本を今頃になって通読した。

同じ著者の『戦争の日本近現代史』(講談社現代新書)は既読。

栄光学園という進学校での五日間の講義を基にした本。

1章が日清戦争、2章が日露戦争、3章が第一次大戦、4章が満州事変と日中戦争、5章が太平洋戦争という、これ以上無いオーソドックスな構成。

上記リンク本と同じく主な内容は、戦争を国民に説明し正当化する論理の解明と当時の国際情勢の解説。

以下、各章のポイントを抜書き(あくまで一部)。

序章では、現代史上の総力戦体制が膨大な犠牲者を生み出し、それが新たな社会契約と平等主義の欲求をかき立てるメカニズムを指摘。

加えて、歴史の教訓が現在に確実に影響を与えること、それも往々にして政策決定者による歴史の誤用という形で、悪い影響を与えるということを述べる。

ここで挙げられているアーネスト・メイ『歴史の教訓』(岩波現代文庫)は読まなきゃいけない本だなあと思いつつ、現在も未読。

1章、アヘン戦争以来、列強に押されっぱなしの清朝が、1880年代よりイリ条約、清仏戦争、壬午軍乱、甲申事変など華夷秩序維持のための積極策を採るようになり、それが日本との衝突に繋がる。

日本国内では、民権論者は同時に国権論者でもあり、外交・軍事では政府と一致していた。

三国干渉を受諾した政府への不満が普選運動に繋がるロジックを述べているのだが、この対外強硬論から民主化への要求という流れは極めて不吉で危険なものに、個人的には思える。

2章、日露戦争における日本の戦争目的は安全保障上、韓国がロシアの支配下に入るのを防ぐことだったが、国際的には英米の支持を得るため満州の門戸開放を主張。

ロシアは日本が韓国をこれほど重要視していることを見逃した可能性があり、それにより日露開戦に至る。

欧米向けの戦争正当化の論理と、日本の実際的な死活的利益とにズレがあり、後々これが禍根を残す。

次に国内的な話。

明治日本は財産資格による制限選挙であり、近代化の原資と戦費負担のために地租をはじめ重税が課されたということは中学どころか小学生でも教えられるでしょう。

ここから「近代日本の抑圧性」みたいなイメージが容易に生まれるが、考えてみれば、この二つの事実を組み合わせると、増税で有権者が増えたという盲点に気付く。

1900年第二次山県内閣において納税資格が15円から10円に引き下げられ、有権者数は76万人と、最初の選挙法の倍になり、地主以外の商工業実業家が議会に進出。

戦争が平等化を推進するという、近現代史の普遍的法則が日本でも当てはまることを指摘。

3章、第一次世界大戦、開戦時と講和時における日本と米英の思惑のズレについてあれこれ。

4章、当時の国民世論において、「暴支膺懲」という感覚が極めて広範囲に見られた。

「条約のグレーゾーン」という問題があり、日中間に厳しい対立をもたらした満鉄併行線禁止は、実は確固たる条文はなく、日中会議録の中の文言にしか無いもの。

しかしこれが世論の煽動に使われる。

次に、連盟脱退における、1933年2月熱河作戦の悪影響について。

連盟規約16条の、紛争解決交渉中に戦争に訴えた国を全加盟国の敵とする条項を懸念して、日本は脱退を選択。

(一般的イメージと異なり、全権代表松岡洋右は脱退に慎重だった。)

国内では政党政治の行き詰まりから、陸軍による国政改革に世論の支持が集まっていく。

中国では、胡適が「日本切腹・中国介錯論」を唱えたことに象徴されるように、日本との全面対決路線を選択。

数年間日本に敗北し続け、国土の中枢部を占領されて、どれほど甚大な被害を蒙ろうとも、米英ソを巻き込み、日本を打倒するという考え。

胡適は、松本重治『上海時代 中』では対日強硬論を戒める立場だったはずだが、こういう人にまで敵意の抑制を不可能にしたのは、やはり日本の失敗だなと思わざるを得ない。

これに対し、汪兆銘は国土の荒廃と国民の疲弊が共産化の危険をもたらすとして反対したが(実際その通りになった)、不幸にして売国奴の汚名を着ることになってしまった。

汪のような人々にも、日本が報いるところが余りに少なかったのではないかと残念に思う。

5章、日ソ独伊ユーラシア四国同盟の幻想と、アメリカの潜在的国力の大きさについて。

面白く、読みやすい。

さすが、話題になっただけのことはある。

半藤一利『昭和史』より、こちらの方が良い。

予備知識がほとんど要らないのも長所。

ただし、上記『昭和史』と同じく、やはりこれだけ読んで、ああやれやれと思うのでは駄目。

以後、多くの本を読む取っ掛かりとして使うべき。

私の昭和史や日本近現代史についての見方は、福田和也『昭和天皇 第四部』の記事でほぼ言い尽くしていますが、本書の史観はそれと親和的な部分もあれば、そうでないところもある。

とは言え、特に気になる部分は無かったので、どんな考えの方が読んでも、強い抵抗を感じることは無いと思います。

機会があれば、是非お読みになることをお勧め致します。

2012年6月1日

エリック・ルーセル 『ドゴール  (ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物7)』 (祥伝社)

Filed under: フランス — 万年初心者 @ 06:00

このシリーズでベルナール・ヴァンサン『ルイ16世』に続いてこれを読む。

ドゴールの伝記ではラクーチュール村松剛の著書を通読済み。

あと福田和也『第二次大戦とは何だったのか』での小伝も。

ドゴール家はパリのブルジョワ家系。

高祖父は高等法院検察官、革命で財産の大部分を失う。

曽祖父は国民公会によって投獄され、百科全書派思想に失望、のちにナポレオン軍の軍職に就く。

祖父ジュリアン・ドゴールはリールに移住し古文書学者になる。

以前、チャールズ・ウィルスン『オランダ共和国』の記事において、冗談半分で、南ネーデルラント継承戦争でリールを獲得してなければドゴール出現も無かったのだから、「ルイ14世の征服戦争」も利点があったと書きましたが、以上の経緯と年代を考えると、ジョークとしても的外れでしたね。

貧窮生活の中、一家は厳格なカトリック信仰を守り通す。

父アンリ・ドゴールは理工科学校(エコール・ポリテクニック)を経て内務省に入るが、第三共和政の反教権主義により辞職、教職に転ずる。

「ジョゼフ・ド・メーストルの言葉によれば、革命は宗教改革と同じく悪魔的なものであった。革命を愛することは神から遠ざかることである」

だが、ドレフュス事件にあたってはドレフュスの有罪を疑い、それを公言、極右団体アクシオン・フランセーズがヴァチカンから断罪されると、その日刊紙の購読を止める。

このアンリの次男として1890年に生まれたのが、シャルル・ドゴール。

1909年サン・シール陸軍士官学校に入学、卒業後入隊した部隊で当時大佐のフィリップ・ペタンと知り合う。

第一次大戦に従軍、1916年ヴェルダン攻防戦のドゥオモン保塁で三度目の負傷、捕虜になる。

なお、1966年になってドイツの旧兵士が、当時ドゴールは抵抗もせず降伏したとメディアで主張したが、ドゴールは無視した。

第二次大戦時に敵国が宣伝材料として利用しなかったことを見ても、これは虚偽の主張だろうと著者は判断している。

バイエルンのインゴルシュタット収容所に送られ、そこでのちの同志カトルーや、ソ連赤軍の英雄となるトゥハチェフスキーと知り合う。

ここでドゴールの政治思想の解説。

一言で言うと、不本意ながらの共和主義者。

家系が示すように18世紀啓蒙思想への不信を持つが、20世紀になっての王政復古の可能性は信じていない。

この点、クロワ・ド・フー(火の十字団)のラロックと類似している(剣持久木『記憶の中のファシズム』参照)。

モーリス・バレス、シャルル・モーラスなど、アクシオン・フランセーズの極右思想家の著作を読むが、反ユダヤ主義の領域に引き込まれることは拒否する。

1919、20年にポーランド軍顧問団への配属を志願し、ソヴィエト軍と戦う(これもラロックと共通)。

ペタンの推挙によって軍内で昇進を重ねる。

第三共和政への不信を持つが、軍によるクーデタなどは否定するリアリズムと賢明さを持つ。

ドゴールは、戦車を集中配備した機甲師団創設を主張(ただし空軍力の重要性は必ずしも十分に認識せず)し右派議員ポール・レイノーの賛同を得たが、ブルム内閣国防相のダラディエが反対、ペタンとも決裂する。

第二次世界大戦開戦、大統領アルベール・ルブランの下、1940年3月に首相がダラディエからレイノーに交代。

5月にドイツ軍が大攻勢、ドゴールは一部機甲師団を指揮し反撃。

最高司令官はガムランからウェイガンへ交代、ペタンが副首相、ドゴールは国防次官になる。

ドイツ軍の侵攻によって政府はパリからトゥール、さらにボルドーに移転。

ウェイガンとペタンは休戦を唱えるが、ドゴールはあくまで英国と連携し、米国の支援に期待をかけ徹底抗戦を主張。

このフランス降伏直前時に、フランスの抗戦意欲を維持するために、英仏の単一国家への合邦という驚きのプランが検討され、国民国家の独立を何より重視するドゴールも同意するが、これは全くの画餅に終わる。

首相レイノーは辞任、ペタンが後任となり、ドゴールはロンドンに亡命、6月18日BBC放送での史上有名な抗戦アピールを行う。

英にはフランス海軍力の後背への懸念と配慮があり、当初ペタン政権を完全に否認できなかったが、6月末ドゴールの自由フランス政府を承認、7月メルセルケビール作戦で仏海軍への攻撃に踏み切る。

ジャン・モネらのように抗戦派だが反ドゴールの立場を採った人物もいたが、ガストン・パレフスキー、ルネ・プレヴァン、ミュズリエ提督、ジャック・スーステル、カトルー(インドシナ総督を解任された)、ピエール・メスメール、ルクレール、ジャック・マシューらが参集。

7月ヴィシー政府成立、8月ヴィシーはドゴールに死刑宣告。

9月自由フランス政府によるダカール奪取作戦が失敗するが、チャド、ガボンは自由仏派へ。

ドゴールにとっては、フランスの正統性と代表権を主張し、国内レジスタンスの主導権を可能な限り共産系から奪うことが課題になる。

また、ヴィシーも完全な傀儡政権ではなく、対独協力の一方、水面下で英国と接触し、12月には親独派のラヴァルを解任するなど、微妙な舵取りを採る。

12月シリア・レバノンのヴィシー側高等弁務官との交渉で、当地域が英仏軍統治下に入る。

ドゴールは、同志たちの多くが抱いていた通俗的共和主義とは違い、第三共和政への軽蔑を隠さず、「自由・平等・博愛」の信条に「祖国と名誉」を加え、集権化制度への支持と革命前後を含むフランスの全ての歴史を許容するという立場を示し、モーラスの思想すら、政府の役割と世界におけるフランスの地位については受け入れた。

そのため、「反民主的」との疑念にさらされることにもなった。

自由フランス内ではミュズリエとの勢力争いが発生、同盟国のイギリスとの軋轢も絶えず、ドゴールを実権の無い象徴的地位に祭り上げようとする動きが起こる。

アメリカも、この時期ヴィシー政権の穏健化と対独離間策を主な政策としていた。

米国政府内でもリーヒー提督ら反ドゴール派が存在し、当時米国に滞在しており、後年ドゴール政権で外相・首相を務めるモーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィルもそれに異を唱えない状況だった。

41年に入り、独ソ戦が始まり、真珠湾攻撃で米国が参戦するなど、情勢が好転する中、現実政策の面からソ連へ接近、ジャン・ムーランによる国内レジスタンス統一に際しては、共産系へ譲歩。

42年11月米英軍がモロッコ・アルジェリアに上陸、本格反抗が始まるが、米国はドゴールよりむしろ、ドイツから脱走してきたジロー将軍を支持。

アルジェのダルラン提督は米国との交渉に踏み切りペタンによって解任、独軍は仏南部に侵入しヴィシーは完全に傀儡化。

12月にダルランが暗殺されるが、これにドゴールが関与していたかは不明とされている。

43年1月モロッコのカサブランカで、チャーチル、ルーズヴェルト、ドゴール、ジローの四者が会談、ジローのアルジェ掌握が決まるが、成立した国民解放フランス委員会は巻き返しがあり、11月にはドゴールの主導権が確立する。

戦勝国によってフランスに軍政が敷かれ占領扱いになることにドゴールは強硬に反対、イーデン、アイゼンハワーらの理解を得て主張を貫くことに成功。

44年6月ノルマンディー上陸作戦、同月国民解放フランス委員会は臨時政府に改組、8月パリ入城。

45年2月ヤルタ会談には参加できなかったが、国際連合安保理常任理事国の地位とドイツ占領権は得る。

戦勝国の一員となったものの、インドシナなどの植民地では反乱が続発(ここで高校世界史では出てこない人名だがチュニジアのブルギバ[1957~87年大統領]を覚えておきましょうか)。

45年秋の選挙で、共産党が国民共和運動(MRP)と社会党(SFIO)を抑えて第一勢力に。

46年1月ドゴールは臨時政府首班を辞任、社会主義者のグーアンが後任、10月憲法採択、社会党ヴァンサン・オリオール大統領の下、第四共和政成立。

47年3月社会党ラマディエ首相就任、5月に共産党閣僚を追放。

同年3月ドゴールは自前の政治組織として、フランス国民連合(RPF)を組織。

一時支持を集めたRPFだが、植民地の独立要望に対する曖昧な態度や、冷戦進行で非現実的になったドイツ分割政策への固執、51年調印(52年発効)のヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)など欧州統合への反対、過度の反共主義によって、徐々に党勢は後退。

不遇のうち、引退状態になったドゴールだが、アルジェリア危機に際して58年首相復帰。

59年大統領権限を大幅に強化した第五共和政樹立、初代大統領に。

(第五共和政は成立後50余年で、まだ第三共和政の方が長いが、おそらく近代フランス最長の政治体制になるでしょう。)

復帰してからの10年はよく知られているんで、流します。

UNR(新共和国連合)が与党、ミシェル・ドブレ、モーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィル、シャバン・デルマス、ジョルジュ・ポンピドゥー、ヴァレリー・ジスカールデスタンらが側近。

政権復帰の発端であったアルジェリア問題ではサハラの石油への固執も持ったが、結局独立を承認(しかし同時に、本書では親仏派現地人への冷酷とも言える対応についても記している)。

対米自立外交を繰り広げながらも、62年キューバ危機に際してはケネディ政権の対応を全面的に支持。

68年五月危機も乗り切ったかに見えたが、69年辞職、70年死去。

末尾辺りで、印象深い文章がある。

彼に言わせれば、国家の改革はきわめて困難である。なぜならば、1789年の絶対君主制の崩壊以来、国家は堕落したからだ。いま、国家に内在するただ一つのスケールの大きい能力は、直接普通選挙によって共和国大統領を選出することである。「それはフランスが大統領制を採用することを意味するのではない」と彼はさらに強調する。フランスは根底から君主制的な国家であり、そのことは政党や利害による避けがたい日常的な騒ぎを超えた行政権を要請する。

また、以下の述懐も。

「フランス人なんて、嗚呼、つまらないものだ。イタリア人でもアメリカ人でも同じことだ。ソヴィエト人も次第にそうなっていくだろう。それが時代の要請であり、法則だからだ。現代人は英雄ではない。私が去ってからというもの、国際レベルでは何もかも停滞してしまった。」

さらに、引退後の内輪での会話として記されている言葉。

「私の人生で心残りなのは、君主制をやらなかったこと、そのために必要なフランス王家のメンバーがいなかったことだ。実際には、私は10年間、君主だった。フランスの政治というものを持っているのは私だけなのだ。」

これはちょっと妙である。

20世紀初頭の時点で、父親の王党派的信念にも関わらず、王政復古はもはや現実的ではないと判断しているのに、さらに万に一つの可能性も無くなった20世紀後半に内輪話とは言え、このように発言しているのだが、どこまで本気なのかかなり疑わしい。

しかし、興味深い言葉ではあります。

細かな史実にも触れ、内容は充実しているが、少し読みにくい。

普通の日本人読者にとっては最低限の予備知識が無いとわかりにくいでしょう。

訳文もこなれておらず、文脈からすると肯定・否定が逆でないと意味が通らないのでは? と思われる部分もいくつかあった。

戦後史は、渡辺啓貴『フランス現代史』の方がいいかもしれない。

個人的には結構面白かった気がするが、是非お勧めしますと断言できないのが辛いところであります。

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