万年初心者のための世界史ブックガイド

2012年5月16日

川田稔 『満州事変と政党政治  軍部と政党の激闘』 (講談社選書メチエ)

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『浜口雄幸と永田鉄山』(講談社選書メチエ)と同じ著者。

本書は満州事変前後に焦点を絞った本。

まず、1928年張作霖爆殺時点で、日本の対中政策に三つの構想があったことを指摘。

(1)田中義一政友会内閣=中国本土の国民政府統治を容認、満蒙特殊地域では張作霖の勢力を温存。

(2)浜口雄幸と野党民政党=国民政府の中国全土統一を容認、日中の友好関係・経済協力推進。

(3)関東軍首脳=満蒙分離、張作霖排除と独立新政権樹立。

ただし、3番目の立場においても、満蒙の中国主権存続を前提にしていることに注意。

(張作霖爆殺の実行者河本大作ですらそう。)

これに対して、1927年陸軍中央少壮幕僚グループが結成した木曜会の満蒙領有論は中国主権を完全に否定するもの。

木曜会は陸軍士官学校21~24期が中心でメンバーは石原莞爾・根本博・鈴木貞一ら、少し年長の16期永田鉄山、岡村寧次(やすじ)、17期東条英機も会員。

さらに軍閥の系譜を遡ってみると、1921年第一次大戦後のドイツにおいて、永田・岡村・小畑敏四郎がいわゆるバーデン・バーデンの盟約を結ぶ。

派閥解消・人事刷新・軍制改革・総動員体制確立・長州閥打破をその内容とする。

この三人が中心となり、木曜会と同年、1927年に二葉(ふたば)会が陸軍15~18期を中心に結成される。

永田・岡村・小畑以外のメンバーでは河本・東条・板垣征四郎・土肥原賢二・山下奉文(ともゆき)と、史書でしばしば名前を見る面々が並んでいる。

二葉会と木曜会の両者が1929年合併して一夕(いっせき)会を結成。

武藤章、田中新一らも同時に加入。

この一夕会が30年代初頭、日本政治を揺るがすことになる。

田中政友会内閣と浜口民政党内閣での陸相は白川義則と宇垣一成で、両者はともに長州閥主流派。

この時期の陸軍最有力者は宇垣とみなせる。

これに対して一夕会は、荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎の非長州系三将官を擁立することを目指す。

(後に皇道派の代表者となる荒木・真崎と、統制派の傀儡で首相にもなった林の名前が、この時期の陸軍革新運動の表看板としてすでに出てくることを頭に入れておく。)

政党政治に比較的親和的な長州閥の流れを汲む宇垣派の首脳部を、革新派の一夕会系中堅幹部らが押し流していく構図を、人名をチェックしながら、以下しっかり把握していきましょう。

1929年岡村寧次が陸軍省人事局補任課長に、30年永田鉄山が軍務局軍事課長に就任し、徐々にポストを掌握。

1931年9月18日、ついに柳条湖事件で満州事変勃発。

(これは日付まで覚えましょうか。基礎的過ぎて、中学レベルですが、日中戦争の端緒となった1937年7月7日の盧溝橋事件とは当然しっかりと区別。)

主導者は関東軍高級参謀板垣征四郎、作戦参謀石原莞爾らで、当時の関東軍司令官は本庄繁。

関東軍が、奉天・長春など満鉄本支線沿線を制圧、当時の石原は中国本土主要部をも日本の勢力下に置くことを目標にしていたと記されている。

ここで当時の陸軍の主要ポストを示す表が載っているので、名前を階級と共に一部書き写してみる(赤字で記した人名は宇垣派)。

まず陸軍省では陸相南次郎大将、次官杉山元中将。

軍務局長小磯国昭少将、その下に軍事課長永田鉄山大佐、人事局長中村孝太郎少将、その下の補任課長が岡村寧次大佐。

次に参謀本部では、参謀総長金谷範三大将、参謀次長が二宮治重中将。

総務部長が梅津美治郎少将、その下の編制動員課長に東条英機大佐、第一(作戦)部長建川美次少将、その下の作戦課長が今村均大佐、第二(情報)部長橋本虎之助少将。

最後に教育総監が武藤信義大将、本部長が荒木貞夫中将。

上記の通り、最上層ポストはほぼ宇垣派で占められているが、その下に一夕会幹部がおり、下剋上的に国策を動かそうと企てる。

(ただし陸相・参謀総長が宇垣派であるのに対し、教育総監の武藤信義は反宇垣派であるとされている。また宇垣派にも満州での武力行使賛成への傾きや、同31年の三月事件への関与などの動きがある。)

面倒なので、事変の細かな経緯についてはメモしないでおきましょう。

一夕会擁立将官の一人である林銑十郎朝鮮軍司令官の増援軍独断越境の事実だけをチェック。

当時、関東軍独走の動きに対峙したのは、浜口内閣を継いだ、第二次若槻礼次郎民政党内閣。

主要閣僚は外相幣原喜重郎、蔵相井上準之助、内相安達謙蔵、陸相南次郎、海相安保清種(あぼきよかず)。

宮中重臣は、元老西園寺公望、内大臣牧野伸顕、宮内相一木喜徳郎、侍従長鈴木貫太郎、侍従武官長奈良武次。

この時、事変不拡大を目指す内閣の方針を支持する先帝の発言が出されるが、これは先帝個人の考えであるだけでなく、重臣らのバックアップもあったであろうと推測されている。

これに対して陸軍は反発、先帝を「現人神」扱いしておいて、実質はその指示に従うつもりは一切無く、天皇の権威などただ反対派を黙らせるための方便としかわきまえない連中に対して、終戦に至るまで先帝と側近らは針の穴を通すような微妙なバランスで行動することを強いられる。

本来、天皇の直接的政治介入が好ましくないことは言うまでもないが、当時は非常事態で政党政治自体が深刻な危機に瀕していたとの判断から、著者はこれを容認している。

ここで、本筋とは一時離れて、浜口と永田の政治構想を比較した章がある。

大体、最初にリンクした前著と同じ内容。

第一次大戦は史上初の総力戦となり、先進国間の全面戦争はそのコスト・犠牲がどのような戦争目的をも超えることが誰の目にも明らかになった。

日本国憲法第九条第一項の戦争放棄規定は、第二次世界大戦ではなく、第一次大戦後、戦前政党政治の時期に日本自身も主体的に加わって締結された不戦条約をベースにしたものだとされている(ただし第二項の戦力不保持規定は別)。

浜口は抑止効果を持ちうる一定の軍備と国力があれば戦争防止は可能であるとみなしたのに対し、永田は戦争不可避論と中国資源確保による自給自足体制構築を主張。

話を戻して、9月下旬南陸相、金谷参謀総長は関東軍に満鉄付属地外からの撤兵を指示するが、10月には撤兵拒否・新政権工作容認の流れが強まり、同10月には満州を追われた張学良政権が存在していた遼寧省西部の錦州爆撃が行なわれる。

一夕会系中堅幕僚の突き上げによって陸軍中央は動揺し、内閣も南満州軍事占領と新政権樹立容認方針へと向かう。

通常、先の朝鮮軍増派の事後承認をあわせて、これを若槻内閣の弱腰・無策の表われとするのが一般的解釈である。

だが、著者はこれを南・金谷ら宇垣派陸軍首脳を内閣に引き付けるための譲歩であり、言わば戦線の建て直しだとする。

宇垣派と関東軍・中堅幕僚層との間に楔を打ち込み、後者を内閣と宇垣派の連携によって封じ込め、制御することが若槻ら政党政治家の戦略であり、同時期に起こった再度のクーデタ未遂である十月事件にも関わらず(著者はこの事件の影響を過大に見積もっていない)、それは以下にみるように実際かなりの効果を上げた。

この辺の著者の解釈は非常に独創的で、本書で最も特徴ある部分である。

11月北満チチハル侵攻の動きが出てくるが、一時占領後に撤退、錦州攻撃も中止される。

この時期、陸軍中央は関東軍首脳部の更迭すら示唆している。

当時朝鮮総督となった宇垣が南らに影響力を行使し、南・金谷・杉山・小磯・二宮・建川ら宇垣系幹部は満蒙での新政権樹立には賛同するが、中国主権を否定した独立国家には反対し、北満・錦州への軍事行動拡大にも同意せず。

南満州占領(錦州を除く)と張学良を排した新政権樹立までは、永田ら一夕会は建川・小磯など宇垣系内部での強硬派を巻き込んで、南・金谷を動かし成功するが、しかし北満州チチハルおよび西南部錦州侵攻と独立国家建設問題では首脳部を動かせず。

この時点で、若槻内閣はひとまず一夕会系軍人を抑え込み、小康状態を確保したと言える。

また前著の記事で少し触れた今村均が、南・金谷ラインで動いていたと書かれていて、ああやはりこの人は穏健な立場を守っていたんだと知って、ほっとする思いがした。

この政治と軍との均衡状態を破ったのが、12月の若槻民政党内閣崩壊と犬養毅政友会内閣成立。

その端緒となったのが、安達謙蔵内相が10月末に政友会との大連立、協力内閣運動を提起したこと。

この構想に当初若槻も賛成。

今から見ても、軍部抑止のためには悪くないアイデアに思える。

著者も指摘するように、同時期の英国で、31~35年のマクドナルド挙国一致内閣が大恐慌後の混乱を乗り切った例もある。

しかし井上蔵相、幣原外相が反対。

政友会との政策の違いなどを挙げてのことだが、そもそも緊縮財政と金解禁自体が完全に間違った政策だったんだから、そんなこと言ってもしょうがないでしょう、まったく硬直した理想主義者にも困ったもんだな、などと考えながら少し先を読み進むと、何やら様子が違う。

安達内相の企図は、実は軍部を掣肘することではなく、むしろその意を迎えることであり、大連立運動は実質親軍的行動だと井上・幣原は考えたとされ、著者もおそらくそうだったであろうとその判断を首肯している。

閣内での対立が進行し、結局12月11日に若槻内閣総辞職。

当時の首相には閣僚の罷免権はなく、閣議は全員一致を原則としており、閣内不一致となれば政策決定は不可能に陥るため、総辞職するほかなかったのである。

ここでも書きましたが、以上の事実は中学・高校の歴史の授業でもう少し強調して教えてもらった方がいいと思います。

安達が単独辞職しなかったことについて、安達直系の中野正剛を通じた一夕会との関係を著者は疑っている。

(安達は32年民政党を飛び出し中野らと「国民同盟」を結党。明治期の吏党の系譜として、1890年大成会[杉浦重剛・元田肇]→92年国民協会[西郷従道・品川弥二郎]→99年帝国党[佐々友房]→1905年大同倶楽部となり、安達はこの大同倶楽部の指導者。以後1910年中央倶楽部となり、それが、第一次護憲運動に対抗する目的の桂太郎の指導の下、13年立憲国民党の一部と共に立憲同志会結成。)

政友会は、金輸出再禁止と国際連盟脱退も辞せずとの決意を表明、党首の犬養も党内世論に押し流されたか、大連立には応じず(ただし犬養自身は連盟脱退は考えていない)。

政友会が積極財政と強硬外交、民政党が緊縮財政と協調外交という政策の対比は、高校教科書でも出てきますが、もし民政党政権が積極財政を採り社会不安を和らげることに成功した上で協調外交を継続していれば、あるいは政友会・民政党の大連立政権が軍部を抑え込んで危機の時代を何とか乗り越えていれば、というのはたとえ後知恵と言われようと、どうしても考えたくなる「昭和史のイフ」である。

それにしても、鳩山一郎や森恪(つとむ)ら政友会の一部政治家が、今村・永田に倒閣を依頼するかのような発言をしているのを読むと、深く嘆息してしまう。

戦前の民主主義は軍国主義によって倒されたと決して単純に言えるものではない。

政党よりも軍部に世論の支持があったというだけでなく、政党政治家自身が矯激な世論に媚び、党派心の虜になって議会主義を破壊したのだから、民主主義は自壊した、あるいは民主主義自体が軍国主義を生み出したと解釈する方がよほど実態に合っている。

若槻内閣総辞職時に、若槻への大命再降下が一時検討されたが、軍と世論の攻撃が宮中に向かうことを懸念したため、元老西園寺が断念したと書いてある。

建前上は至高の権威であるはずの皇室が(加えて元老・重臣、まともな政党政治家、多数派世論の尻馬に乗らない穏健派軍人も)、実際は常に過激な衆愚的匿名世論に怯えざるを得ない状況だったことがよくわかる。

「民意」がこれほどの力を持っていた戦前の日本は、すでに「高度」に民主的だったとみなすべき。

だから日本は結構だと言うんじゃないんです。

戦前日本の破局はあくまでデモクラシーがもたらしたものだということを誤魔化すべきではないと言いたいんです。

日本は「非民主的政治制度」のせいで滅んだのではなく、そうした抑制装置があったにもかかわらず、デマゴーグと衆愚の支配を防ぐことができずに破滅したんです。

若槻内閣崩壊と犬養内閣成立で事態は一気に流動化。

陸相には荒木貞夫、参謀総長には皇族の閑院宮載仁親王が就任、32年1月に真崎甚三郎が参謀次長になり実権を握る。

2月には一夕会に批判的になっていた今村均が更迭され、小畑敏四郎が後任作戦課長、軍務局長に山岡重厚、4月永田が第二部長、山下奉文が軍事課長、小畑が第三部長、後任には鈴木率道、と一夕会系が続々昇進(上記の満州事変勃発時のポスト表と見比べて下さい)。

宇垣系の杉山・二宮・建川は中央から追われ、小磯のみは2月に陸軍次官になるが、5ヶ月で更迭、柳川平助が後任次官に就任、結局陸軍中央より宇垣派は追放される。

(この柳川と荒木・真崎・山岡・山下・小畑・鈴木が皇道派の中心。)

31年末より錦州再攻撃、32年年頭占領、2月ハルビン占領、31年12月よりチチハルも長期占領態勢が敷かれ、満州全域の主要都市が関東軍支配下に置かれる。

32年1月第一次上海事変、2月リットン調査団来日、3月満州国建国宣言。

永田による、小川平吉・森恪を通じた、与党政友会への政治工作について記述あり。

当時の政友会内部では、鈴木喜三郎派と久原房之助派が主流派として犬養を擁立し、非主流派の床次(とこなみ)竹二郎派(旧政友会派=党歴の古いグループ)と対立。

鈴木派・久原派とも親軍的で、それに担がれた犬養が軍を抑止しようと努めるというねじれ現象が存在。

犬養は大勢に逆らって、満州国を即時承認せず、中国主権を認めた上での満蒙独立政権を模索するが難航し、そのうちに五・一五事件によって殺害されてしまう。

鈴木喜三郎後継総裁に大命降下せず、西園寺は後継首相に海軍穏健派の斉藤実を推挙。

ここでも政党内閣に否定的な一夕会系軍人の威嚇があった。

軍の圧力が高まる状況下で、政党勢力も元老西園寺と対立することはできず、戦前の政党内閣は終わる。

日本の政党内閣が1924~32年の8年間しか続かなかったことは中学・高校の歴史の授業で必ず教えられます。

しかし1925年普通選挙法成立から、軍の暴走の端緒となった1928年の張作霖爆殺事件までを取れば、たったの3年です。

3年ですよ、3年。

教科書的理解では、普通選挙法に危機感を強めた支配層が同時に治安維持法という稀代の悪法を同時に制定し、軍の専横に歯止めが効かなくなって、未成熟な民主主義が圧殺されたということになるんでしょう。

しかし、本当にそうなんでしょうか?

上記の経緯を見れば、大正デモクラシーと昭和の軍国主義がこうまで年代的に近接している真の理由は、両者の関係が実は「原因と結果」だからじゃないんでしょうか福田和也『昭和天皇 第四部』)。

やっと終わった・・・・・・。

最初取っ付きにくいが、じっくり読むと有益なのは前著と同じ。

しかし前著を読めば、強いて取り組む必要は無いか?

1930年代初頭の政治史の比較的詳細な見取り図を得ることはできるが・・・・・・。

この記事で、興味の持てそうな部分があれば、手に取ってみて下さい。

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