万年初心者のための世界史ブックガイド

2012年5月25日

木村幹 『高宗・閔妃  然らば致し方なし』 (ミネルヴァ日本評伝選)

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同じ著者の『韓国現代史』(中公新書)を読了済みで、同シリーズではディキンソン『大正天皇』が既読。

昔は「李太王」などと呼ばれていた李朝末期の君主とその妃。

高宗の生年は1852年なので明治天皇と同い年。

傍系から養子として王になる。

李氏朝鮮の国王をやや遡ると、21代英祖→孫の正祖→子の純祖(1800年ちょうどの即位)→孫の憲宗ときて、外戚の勢道政治がはびこるようになり、続いて哲宗が傍系より即位、その次に本書の主人公高宗が、6代遡って19代粛宗につながるという傍系から国王に登極。

傍系からの即位なので実父は国王ではない。

この存命中だった実父が有名な大院君。

「大院君」という名は固有名詞ではなく、このような、現国王の父であり、かつ前国王ではない人物を指す普通名詞らしく、正式には「興宣大院君」というそうです。

この大院君は後に高宗の妻閔妃一族と激しく対立することになるが、実は大院君自身の母と妻も閔妃と同じ驪興閔氏の出身。

高宗の即位は教科書や用語集では1863年のはずだが、本書では1864年と読める記述がある。

即位式を挙げたのが64年ということかなとも思うが、よくわからず。

1864年と言えば、中国では太平天国が滅亡し、日本では禁門の変、第一次長州征討、四国艦隊下関砲撃事件と近隣諸国で激動があった年です。

即位当初は大院君の執政。

よく知られているように攘夷鎖国政策を遂行、1866年のフランス艦隊による江華島攻撃を退け、同年大同江を遡上したアメリカ船シャーマン号を焼討ちするなど、一応の成果を挙げるが、それも列強の朝鮮への関心の薄さゆえに成り立つ当面の成功だったと評されている。

国内では免税と軍役免除特権のあった儒教「書院」の制限を進めたため、攘夷政策で一致するはずの崔益鉉ら「衛正斥邪派」との距離ができる。

土木事業と軍備拡大による財政悪化とインフレが深刻となり、1873年大院君は失脚。

以後何度か大院君は短期間復帰するが、本格的に政権を担ったのはこの最初の10年ほどだけ。

外戚閔氏が勢威を振るう高宗親政時代が始まるが、清銭の流通禁止という政策は大院君時代のインフレによる混乱とは全く逆に、深刻なデフレを引き起こす。

江華島中心の対外防備から王宮近衛兵重視の軍制改革を進める。

この江華島は近代日朝関係の出発点である江華島事件で有名ですが、それ以前から高麗がモンゴルの侵攻を避け遷都したことからもわかるように、開城と漢陽(ソウル)の海への出口を抑える地点にあるということで、非常に重要な地位を占めているようです。

1875年(この年号は当然暗記)、その江華島事件と翌76年日朝修好条規により、閔氏政権がなし崩し的に開国。

それに反発する衛正斥邪派が高宗より離反、かつての敵大院君派に接近。

この時期の閔氏政権が採っていたのは「親日近代化」政策と言われているが、本書の叙述ではその性格は必ずしも明確ではない。

1882年壬午軍乱勃発。

閔氏政権が育成していた新式軍への反発がきっかけとされるが、この定説にも本書はやや疑問を呈している。

いずれにせよ開国・近代化を進める閔氏政権に対する大院君派の攻撃であり、日本大使館が襲撃され、閔妃も殺害未遂の危機に陥る。

ここで清が一挙に介入、軍乱を鎮圧、大院君を清国に拉致。

日本とは済物浦条約が結ばれるが、以後清による、従来の朝貢関係のレベルを超えた、実質的属邦化工作が激しくなる。

なお、この壬午軍乱の前後で、閔氏政権の立場が「親日」から「親清」へと変化していることは(上記の通り、本書の記述によるとそう単純化できるものでもないようだが)重要ポイントなので意識しておく。

ここで中学以来お馴染みの、親日的独立党と親清的事大党の対立が出てくる。

普通これは、閔氏ら保守派が事大党で、金玉均・朴泳孝ら開化派が独立党だとされる。

しかし著者は、日本党=金玉均・朴泳孝・洪英植・徐光範、清国党=趙寧夏・金允植・魚允中・金弘集という人脈を示し、上記二派はともに開化派であり、壬午軍乱以後清国介入の深化に伴い、それへの対応について、かつて一つだった開化派が分裂したものだとする。

前者が清との一切の関係断絶を主張する急進開化派であるのに対し、後者は一定限度の宗属関係を是認する穏健開化派(岡本隆司『世界のなかの日清韓関係史』)。

この両者が1884年甲申事変で激突、清国派が勝利。

(この甲申事変は壬午軍乱からわずか2年しか経っていない時点で起こったこと、日清戦争のちょうど10年前であることをチェック。)

同年清仏戦争の敗北もあり、清が一部譲歩して、1885年日清間に天津条約が結ばれる。

(これに絡んで、85年には大井憲太郎ら自由民権派による大阪事件あり。)

高宗は清の影響力が絶対的になるのを避けるため、「背清引俄(ロシア)」策を採り、ロシアと接近。

大院君が清より帰国を許される。

89年防穀令による軋轢などがありつつも、この時期は概ね清国覇権下の安定した十年となり、閔泳駿・閔泳煥らが率いる閔氏政権全盛期。

そして運命の1894年東学党の乱と日清戦争勃発、金弘集「開化派」内閣成立、大院君も日本に担ぎ出されたものの面従腹背。

95年三国干渉で日本が後退すると、高宗および閔妃、大院君、内閣という、三つ巴の権力構造になる。

閔妃は、まず日本を利用して大院君を排除、次に内閣の分断に成功し、実権を掌握。

ここで、同95年乙未事変と呼ばれる、閔妃暗殺事件が起こる。

日本公使三浦梧楼らの陰謀。

これはいくら帝国主義時代とは言え、やり過ぎでしょう。

明治日本の汚点としか言いようが無いし、個人的には大逆事件よりも腹に堪える不快感がある。

日本によってまたもや大院君が担ぎ出されるが(これで四度目の大院君政権)、親露派・親米派のクーデタ未遂などの動揺が続いた挙句、1896年高宗がロシア公使館に避難(「露館播遷」)、金弘集・魚允中らが殺害され、大院君は軟禁、朴定陽・李完用・李範晋らの内閣が成立(ただし閔氏勢力は回復せず)。

1897年高宗が王宮に帰還、同年国号を大韓帝国とし、清との宗属関係を完全に清算、高宗は皇帝に即位。

1898年に大院君死去。

同年、96年に結成されていた独立協会などによる、下からの国政改革運動が巻き起こり、後の大韓民国初代大統領の李承晩も選出されていた中枢院を拠点にした議会主義運動が激化するが、結局鎮圧される。

なお、1898年という年号ですぐ思い浮かぶ史実があるでしょうか?

日本では第3次伊藤内閣から憲政党の隈板内閣、第2次山県内閣という目まぐるしい政変、清国ではドイツの膠州湾租借に始まる中国分割、変法自強運動挫折と戊戌の政変、というのがすぐ記憶の引き出しから取り出せることが望ましいです。

奇しくも、日清韓三国で国内政局に混乱が見られた年ということになります。

その他、世界では米国のハワイ併合と米西戦争、アフリカで英仏間のファショダ事件があったことも暗記事項。

この時期、閔妃も大院君も開化派も清国派もなく、即位以来はじめて高宗は君権第一主義を貫くことを得るが、大韓帝国は日露の狭間に立たされ、国の独立自体が風前の灯となっていた。

1904年日露戦争勃発。

併合への道標となった四つの外交協定のうち、最初の日韓議定書と第一次日韓協約は、開戦の年である04年に締結。

内容は、前者が日本の軍事行動への便宜提供、後者が財政・外交顧問の設置。

翌05年、ポーツマス条約後に第二次日韓協約。

内容は外交権剥奪と保護国化で、これがおそらく最も重要。

統監府設置、初代統監伊藤博文。

この役職に関する伊藤の企図については、伊藤博文についてのメモ その2を参照。

1907年、列強に独立回復を提訴しようとしたハーグ密使事件が起こり、高宗は退位させられ、純宗(閔妃の子)が即位。

他に厳妃の子である英親王李垠がいる。

昔の教科書や概説書で、少年時代に日本の軍服を着せられて伊藤博文と並んだ写真がよく載せられていたのは、たぶんこの人。

後に梨本宮方子(まさこ)妃と結婚することになる。

同07年第三次日韓協約、内政権も日本が掌握、韓国軍隊は解散。

1909年安重根による伊藤暗殺、1910年韓国併合。

併合後、純宗が「李王」、高宗が「李太王」と称せられる。

ああそうか、まず元皇帝の純宗に李王の称号をあてがって、その父だから李太王か、そりゃ近年そう呼ばないはずだ、と得心しました。

1919年高宗死去、日本による毒殺の噂が流れ、同年の三・一独立運動に影響を与えたのはご存知の通り。

かなり細部に亘る本だが、読みやすく面白い。

明らかな誤植と思えるものが2、3箇所あったが、大きな問題ではないでしょう。

類書の呉善花『韓国併合への道』(文春新書)よりかなり詳しく、読み応えがある。

その分、通読に骨が折れるが、見返りも大きい。

十分お勧めできる良書です。

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2012年5月16日

川田稔 『満州事変と政党政治  軍部と政党の激闘』 (講談社選書メチエ)

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『浜口雄幸と永田鉄山』(講談社選書メチエ)と同じ著者。

本書は満州事変前後に焦点を絞った本。

まず、1928年張作霖爆殺時点で、日本の対中政策に三つの構想があったことを指摘。

(1)田中義一政友会内閣=中国本土の国民政府統治を容認、満蒙特殊地域では張作霖の勢力を温存。

(2)浜口雄幸と野党民政党=国民政府の中国全土統一を容認、日中の友好関係・経済協力推進。

(3)関東軍首脳=満蒙分離、張作霖排除と独立新政権樹立。

ただし、3番目の立場においても、満蒙の中国主権存続を前提にしていることに注意。

(張作霖爆殺の実行者河本大作ですらそう。)

これに対して、1927年陸軍中央少壮幕僚グループが結成した木曜会の満蒙領有論は中国主権を完全に否定するもの。

木曜会は陸軍士官学校21~24期が中心でメンバーは石原莞爾・根本博・鈴木貞一ら、少し年長の16期永田鉄山、岡村寧次(やすじ)、17期東条英機も会員。

さらに軍閥の系譜を遡ってみると、1921年第一次大戦後のドイツにおいて、永田・岡村・小畑敏四郎がいわゆるバーデン・バーデンの盟約を結ぶ。

派閥解消・人事刷新・軍制改革・総動員体制確立・長州閥打破をその内容とする。

この三人が中心となり、木曜会と同年、1927年に二葉(ふたば)会が陸軍15~18期を中心に結成される。

永田・岡村・小畑以外のメンバーでは河本・東条・板垣征四郎・土肥原賢二・山下奉文(ともゆき)と、史書でしばしば名前を見る面々が並んでいる。

二葉会と木曜会の両者が1929年合併して一夕(いっせき)会を結成。

武藤章、田中新一らも同時に加入。

この一夕会が30年代初頭、日本政治を揺るがすことになる。

田中政友会内閣と浜口民政党内閣での陸相は白川義則と宇垣一成で、両者はともに長州閥主流派。

この時期の陸軍最有力者は宇垣とみなせる。

これに対して一夕会は、荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎の非長州系三将官を擁立することを目指す。

(後に皇道派の代表者となる荒木・真崎と、統制派の傀儡で首相にもなった林の名前が、この時期の陸軍革新運動の表看板としてすでに出てくることを頭に入れておく。)

政党政治に比較的親和的な長州閥の流れを汲む宇垣派の首脳部を、革新派の一夕会系中堅幹部らが押し流していく構図を、人名をチェックしながら、以下しっかり把握していきましょう。

1929年岡村寧次が陸軍省人事局補任課長に、30年永田鉄山が軍務局軍事課長に就任し、徐々にポストを掌握。

1931年9月18日、ついに柳条湖事件で満州事変勃発。

(これは日付まで覚えましょうか。基礎的過ぎて、中学レベルですが、日中戦争の端緒となった1937年7月7日の盧溝橋事件とは当然しっかりと区別。)

主導者は関東軍高級参謀板垣征四郎、作戦参謀石原莞爾らで、当時の関東軍司令官は本庄繁。

関東軍が、奉天・長春など満鉄本支線沿線を制圧、当時の石原は中国本土主要部をも日本の勢力下に置くことを目標にしていたと記されている。

ここで当時の陸軍の主要ポストを示す表が載っているので、名前を階級と共に一部書き写してみる(赤字で記した人名は宇垣派)。

まず陸軍省では陸相南次郎大将、次官杉山元中将。

軍務局長小磯国昭少将、その下に軍事課長永田鉄山大佐、人事局長中村孝太郎少将、その下の補任課長が岡村寧次大佐。

次に参謀本部では、参謀総長金谷範三大将、参謀次長が二宮治重中将。

総務部長が梅津美治郎少将、その下の編制動員課長に東条英機大佐、第一(作戦)部長建川美次少将、その下の作戦課長が今村均大佐、第二(情報)部長橋本虎之助少将。

最後に教育総監が武藤信義大将、本部長が荒木貞夫中将。

上記の通り、最上層ポストはほぼ宇垣派で占められているが、その下に一夕会幹部がおり、下剋上的に国策を動かそうと企てる。

(ただし陸相・参謀総長が宇垣派であるのに対し、教育総監の武藤信義は反宇垣派であるとされている。また宇垣派にも満州での武力行使賛成への傾きや、同31年の三月事件への関与などの動きがある。)

面倒なので、事変の細かな経緯についてはメモしないでおきましょう。

一夕会擁立将官の一人である林銑十郎朝鮮軍司令官の増援軍独断越境の事実だけをチェック。

当時、関東軍独走の動きに対峙したのは、浜口内閣を継いだ、第二次若槻礼次郎民政党内閣。

主要閣僚は外相幣原喜重郎、蔵相井上準之助、内相安達謙蔵、陸相南次郎、海相安保清種(あぼきよかず)。

宮中重臣は、元老西園寺公望、内大臣牧野伸顕、宮内相一木喜徳郎、侍従長鈴木貫太郎、侍従武官長奈良武次。

この時、事変不拡大を目指す内閣の方針を支持する先帝の発言が出されるが、これは先帝個人の考えであるだけでなく、重臣らのバックアップもあったであろうと推測されている。

これに対して陸軍は反発、先帝を「現人神」扱いしておいて、実質はその指示に従うつもりは一切無く、天皇の権威などただ反対派を黙らせるための方便としかわきまえない連中に対して、終戦に至るまで先帝と側近らは針の穴を通すような微妙なバランスで行動することを強いられる。

本来、天皇の直接的政治介入が好ましくないことは言うまでもないが、当時は非常事態で政党政治自体が深刻な危機に瀕していたとの判断から、著者はこれを容認している。

ここで、本筋とは一時離れて、浜口と永田の政治構想を比較した章がある。

大体、最初にリンクした前著と同じ内容。

第一次大戦は史上初の総力戦となり、先進国間の全面戦争はそのコスト・犠牲がどのような戦争目的をも超えることが誰の目にも明らかになった。

日本国憲法第九条第一項の戦争放棄規定は、第二次世界大戦ではなく、第一次大戦後、戦前政党政治の時期に日本自身も主体的に加わって締結された不戦条約をベースにしたものだとされている(ただし第二項の戦力不保持規定は別)。

浜口は抑止効果を持ちうる一定の軍備と国力があれば戦争防止は可能であるとみなしたのに対し、永田は戦争不可避論と中国資源確保による自給自足体制構築を主張。

話を戻して、9月下旬南陸相、金谷参謀総長は関東軍に満鉄付属地外からの撤兵を指示するが、10月には撤兵拒否・新政権工作容認の流れが強まり、同10月には満州を追われた張学良政権が存在していた遼寧省西部の錦州爆撃が行なわれる。

一夕会系中堅幕僚の突き上げによって陸軍中央は動揺し、内閣も南満州軍事占領と新政権樹立容認方針へと向かう。

通常、先の朝鮮軍増派の事後承認をあわせて、これを若槻内閣の弱腰・無策の表われとするのが一般的解釈である。

だが、著者はこれを南・金谷ら宇垣派陸軍首脳を内閣に引き付けるための譲歩であり、言わば戦線の建て直しだとする。

宇垣派と関東軍・中堅幕僚層との間に楔を打ち込み、後者を内閣と宇垣派の連携によって封じ込め、制御することが若槻ら政党政治家の戦略であり、同時期に起こった再度のクーデタ未遂である十月事件にも関わらず(著者はこの事件の影響を過大に見積もっていない)、それは以下にみるように実際かなりの効果を上げた。

この辺の著者の解釈は非常に独創的で、本書で最も特徴ある部分である。

11月北満チチハル侵攻の動きが出てくるが、一時占領後に撤退、錦州攻撃も中止される。

この時期、陸軍中央は関東軍首脳部の更迭すら示唆している。

当時朝鮮総督となった宇垣が南らに影響力を行使し、南・金谷・杉山・小磯・二宮・建川ら宇垣系幹部は満蒙での新政権樹立には賛同するが、中国主権を否定した独立国家には反対し、北満・錦州への軍事行動拡大にも同意せず。

南満州占領(錦州を除く)と張学良を排した新政権樹立までは、永田ら一夕会は建川・小磯など宇垣系内部での強硬派を巻き込んで、南・金谷を動かし成功するが、しかし北満州チチハルおよび西南部錦州侵攻と独立国家建設問題では首脳部を動かせず。

この時点で、若槻内閣はひとまず一夕会系軍人を抑え込み、小康状態を確保したと言える。

また前著の記事で少し触れた今村均が、南・金谷ラインで動いていたと書かれていて、ああやはりこの人は穏健な立場を守っていたんだと知って、ほっとする思いがした。

この政治と軍との均衡状態を破ったのが、12月の若槻民政党内閣崩壊と犬養毅政友会内閣成立。

その端緒となったのが、安達謙蔵内相が10月末に政友会との大連立、協力内閣運動を提起したこと。

この構想に当初若槻も賛成。

今から見ても、軍部抑止のためには悪くないアイデアに思える。

著者も指摘するように、同時期の英国で、31~35年のマクドナルド挙国一致内閣が大恐慌後の混乱を乗り切った例もある。

しかし井上蔵相、幣原外相が反対。

政友会との政策の違いなどを挙げてのことだが、そもそも緊縮財政と金解禁自体が完全に間違った政策だったんだから、そんなこと言ってもしょうがないでしょう、まったく硬直した理想主義者にも困ったもんだな、などと考えながら少し先を読み進むと、何やら様子が違う。

安達内相の企図は、実は軍部を掣肘することではなく、むしろその意を迎えることであり、大連立運動は実質親軍的行動だと井上・幣原は考えたとされ、著者もおそらくそうだったであろうとその判断を首肯している。

閣内での対立が進行し、結局12月11日に若槻内閣総辞職。

当時の首相には閣僚の罷免権はなく、閣議は全員一致を原則としており、閣内不一致となれば政策決定は不可能に陥るため、総辞職するほかなかったのである。

ここでも書きましたが、以上の事実は中学・高校の歴史の授業でもう少し強調して教えてもらった方がいいと思います。

安達が単独辞職しなかったことについて、安達直系の中野正剛を通じた一夕会との関係を著者は疑っている。

(安達は32年民政党を飛び出し中野らと「国民同盟」を結党。明治期の吏党の系譜として、1890年大成会[杉浦重剛・元田肇]→92年国民協会[西郷従道・品川弥二郎]→99年帝国党[佐々友房]→1905年大同倶楽部となり、安達はこの大同倶楽部の指導者。以後1910年中央倶楽部となり、それが、第一次護憲運動に対抗する目的の桂太郎の指導の下、13年立憲国民党の一部と共に立憲同志会結成。)

政友会は、金輸出再禁止と国際連盟脱退も辞せずとの決意を表明、党首の犬養も党内世論に押し流されたか、大連立には応じず(ただし犬養自身は連盟脱退は考えていない)。

政友会が積極財政と強硬外交、民政党が緊縮財政と協調外交という政策の対比は、高校教科書でも出てきますが、もし民政党政権が積極財政を採り社会不安を和らげることに成功した上で協調外交を継続していれば、あるいは政友会・民政党の大連立政権が軍部を抑え込んで危機の時代を何とか乗り越えていれば、というのはたとえ後知恵と言われようと、どうしても考えたくなる「昭和史のイフ」である。

それにしても、鳩山一郎や森恪(つとむ)ら政友会の一部政治家が、今村・永田に倒閣を依頼するかのような発言をしているのを読むと、深く嘆息してしまう。

戦前の民主主義は軍国主義によって倒されたと決して単純に言えるものではない。

政党よりも軍部に世論の支持があったというだけでなく、政党政治家自身が矯激な世論に媚び、党派心の虜になって議会主義を破壊したのだから、民主主義は自壊した、あるいは民主主義自体が軍国主義を生み出したと解釈する方がよほど実態に合っている。

若槻内閣総辞職時に、若槻への大命再降下が一時検討されたが、軍と世論の攻撃が宮中に向かうことを懸念したため、元老西園寺が断念したと書いてある。

建前上は至高の権威であるはずの皇室が(加えて元老・重臣、まともな政党政治家、多数派世論の尻馬に乗らない穏健派軍人も)、実際は常に過激な衆愚的匿名世論に怯えざるを得ない状況だったことがよくわかる。

「民意」がこれほどの力を持っていた戦前の日本は、すでに「高度」に民主的だったとみなすべき。

だから日本は結構だと言うんじゃないんです。

戦前日本の破局はあくまでデモクラシーがもたらしたものだということを誤魔化すべきではないと言いたいんです。

日本は「非民主的政治制度」のせいで滅んだのではなく、そうした抑制装置があったにもかかわらず、デマゴーグと衆愚の支配を防ぐことができずに破滅したんです。

若槻内閣崩壊と犬養内閣成立で事態は一気に流動化。

陸相には荒木貞夫、参謀総長には皇族の閑院宮載仁親王が就任、32年1月に真崎甚三郎が参謀次長になり実権を握る。

2月には一夕会に批判的になっていた今村均が更迭され、小畑敏四郎が後任作戦課長、軍務局長に山岡重厚、4月永田が第二部長、山下奉文が軍事課長、小畑が第三部長、後任には鈴木率道、と一夕会系が続々昇進(上記の満州事変勃発時のポスト表と見比べて下さい)。

宇垣系の杉山・二宮・建川は中央から追われ、小磯のみは2月に陸軍次官になるが、5ヶ月で更迭、柳川平助が後任次官に就任、結局陸軍中央より宇垣派は追放される。

(この柳川と荒木・真崎・山岡・山下・小畑・鈴木が皇道派の中心。)

31年末より錦州再攻撃、32年年頭占領、2月ハルビン占領、31年12月よりチチハルも長期占領態勢が敷かれ、満州全域の主要都市が関東軍支配下に置かれる。

32年1月第一次上海事変、2月リットン調査団来日、3月満州国建国宣言。

永田による、小川平吉・森恪を通じた、与党政友会への政治工作について記述あり。

当時の政友会内部では、鈴木喜三郎派と久原房之助派が主流派として犬養を擁立し、非主流派の床次(とこなみ)竹二郎派(旧政友会派=党歴の古いグループ)と対立。

鈴木派・久原派とも親軍的で、それに担がれた犬養が軍を抑止しようと努めるというねじれ現象が存在。

犬養は大勢に逆らって、満州国を即時承認せず、中国主権を認めた上での満蒙独立政権を模索するが難航し、そのうちに五・一五事件によって殺害されてしまう。

鈴木喜三郎後継総裁に大命降下せず、西園寺は後継首相に海軍穏健派の斉藤実を推挙。

ここでも政党内閣に否定的な一夕会系軍人の威嚇があった。

軍の圧力が高まる状況下で、政党勢力も元老西園寺と対立することはできず、戦前の政党内閣は終わる。

日本の政党内閣が1924~32年の8年間しか続かなかったことは中学・高校の歴史の授業で必ず教えられます。

しかし1925年普通選挙法成立から、軍の暴走の端緒となった1928年の張作霖爆殺事件までを取れば、たったの3年です。

3年ですよ、3年。

教科書的理解では、普通選挙法に危機感を強めた支配層が同時に治安維持法という稀代の悪法を同時に制定し、軍の専横に歯止めが効かなくなって、未成熟な民主主義が圧殺されたということになるんでしょう。

しかし、本当にそうなんでしょうか?

上記の経緯を見れば、大正デモクラシーと昭和の軍国主義がこうまで年代的に近接している真の理由は、両者の関係が実は「原因と結果」だからじゃないんでしょうか福田和也『昭和天皇 第四部』)。

やっと終わった・・・・・・。

最初取っ付きにくいが、じっくり読むと有益なのは前著と同じ。

しかし前著を読めば、強いて取り組む必要は無いか?

1930年代初頭の政治史の比較的詳細な見取り図を得ることはできるが・・・・・・。

この記事で、興味の持てそうな部分があれば、手に取ってみて下さい。

2012年5月8日

佐々木隆 『明治人の力量  (日本の歴史21)』 (講談社学術文庫)

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同シリーズ20巻鈴木淳『維新の構想と展開』の続き。

「不羈独立」をキーワードにした明治後半(1889~1912年)の歴史。

最初の方に以下の文章有り。

なお近年、「国民」「民族」「国家」などはある種の政治的意図をもって作為された概念だとして、「国民国家」の虚構性をことさらに強調し、否定的に捉える議論が流行している。「家」「家族」なども槍玉にあげられているようだ。しかしながら大多数の人々が受け容れ認め、信じ目指したものは、仮に究極的にはそれが共同幻想であり虚構であっても「歴史的現実」に他ならない。そもそも人間社会の制度・規範・諸価値は、すべて「幻想」であり「擬制」である。「個人」「自由」「人権」などの近代的価値についても検証した上で議論しないのは不公平かつ知的怠慢というものであろう。

この文章だけで、本書を読む価値があります。

全く同感。

今、何よりも相対化すべき価値は「自由」と「民主主義」であり、それを享受する資格がある自分たちだけで社会を永遠の進歩の過程に載せることができると考える民衆の固定観念のはず。

なお、明治政府の「超然主義」について、(1)全党排除型、(2)全党参加型、(3)良民政党型、(4)国民政党型という四つの類型を提示し、通常、政党を通じた国民の政治参加拒否と解釈される超然主義は、それ自体が目標なのではなく、「不羈独立」→「富国強兵」→「公正な政治運営」→「超然主義」という重層的目標の一部であり、恒久的理念でもなく時限的概念だったと指摘し、それを実際の史実描写の中で表現している。

普通対蹠的に扱われる明治憲法と現行憲法について、制定当時の国際社会への参入条件という外発的事情による拘束、設計主義的性格、一種神聖視される硬性憲法であること、制定時の外国人の関与と非公開性(このうち前者の点では旧憲法の方がマシ)、実際の条文と運用の乖離(旧憲法の天皇大権と新憲法の戦力不保持)など、数々の共通点を持っているとの指摘には思わずニヤリとしてしまう。

この天皇不親政という不文律と実際の条文のズレを埋めるための重要な柱が元老の存在だったわけだが、その資格が維新と明治国家建設への貢献という一回性の現象に拠っていたため、旧憲法は元老の死去・消滅という時限爆弾を抱えていたと評されている。

元老の名前は全て憶えましょう。

まず長州から伊藤博文山県有朋井上馨

薩摩から黒田清隆松方正義西郷従道大山巌

まずこの7人の名がすぐ出てくるようにすること。

彼らが、20世紀に入って、1901年第一次桂太郎内閣成立とともに政界の第一線から退きつつも、首相選任権を行使して大きな影響力を保持し続ける(後述の通り、黒田のみはそれ以前に死去している)。

それ以前には、「元老」ではなく「元勲」と呼ぶのが普通。

本書によると、他には、長州の山田顕義が元勲、公家の三条実美は準元勲扱い(両者はそれぞれ1892年、91年に死去したため元老には数えない)。

以後、元老には長州閥で山県直系の桂太郎と、公家出身で伊藤博文から政友会を引き継いだ西園寺公望が加わる。

1885年内閣制度設立以来、20世紀までの首相は、1898年の第一次大隈内閣以外、全て上記7人のうちから選ばれた(自ら組閣しなかったのは井上・西郷・大山)。

1901年から明治末年までは桂園時代なので、結局元老は「(大隈重信を除いて)明治時代に総理大臣になったか、なってもおかしくなかった人」ということになる。

史上、9人しかいない。

(本書では大隈も元老に追加されたと書いてあるが、それは他の本ではあまり聞かない。)

よく知られているように、この元老には、憲法その他、いかなる法的根拠もありません。

しかし、こういう「非民主的な重石」が消えると同時に、議会政治が崩壊に向かったんだから、意図的にそうした存在の継続を保障することが必要だったんではないでしょうか。

著者は、明治の「建国の父たち」が死去していき、「建国者の息子たち」がそれに劣る権威しか持てなかったのは不可抗力でやむを得ないとしているが、首相経験者が「重臣」という曖昧な形ではなく、確固とした地位を占めて議会・軍部・世論の上に立つという体制にならなかったものかと考えてしまう。

あと、具体的史実に関する叙述から、気になったものを以下抜書き。

大成会・国民協会・帝国党・大同倶楽部・中央倶楽部という吏党が唯々諾々と政府に従ったのではないことが印象的。

有名なのは、日清戦争直前、第二次伊藤内閣と自由党の接近に反発して、改進党と国民協会が協力して政府を攻撃した、「対外硬」派連合で、これは教科書に載っている。

首相権限が縮小した1889年の「内閣官制」(伊藤博文についてのメモ その1)は、年代から言って、同年成立の第一次山県内閣で制定されたと私は考えていたのだが、本書によると、黒田内閣と山県内閣の間の暫定内閣である三条実美内大臣兼任首相時期の制定だとのこと。

これは、しかし・・・・・細か過ぎるか。

この暫定内閣自体、めったに出てこないし、軍部大臣現役武官制・文官任用令改正・文官懲戒令および文官分限令制定と並んで、山県内閣の施策として憶えてもいいかと思う。

外交面では、明治国家の成立当初から続いていた厳しい国際環境が義和団事件を機に好転していく様や、日本の独立を十全に保障できる形での日露戦争回避の可能性は極めて少なかったとの判断(この点伊藤之雄『伊藤博文』と異なる)、ハリマン計画を受け入れて満鉄経営にアメリカが参加していたとしても、同時に同国が西太平洋でのシー・パワー拡張と覇権確立を目指している以上、日米対立を回避することは不可能だっただろうとの見解が興味深い。

内政に話を戻すと、いわゆる「藩閥」の系譜について。

長州閥が、政党への態度によって、山県系と伊藤系に分裂。

山県系は官僚政治家の大部分と長州系陸軍軍人が参集、日清戦争後には郷党色を超えて保守的勢力を結集した「山県系官僚閥」というべきものに進化。

伊藤系は立憲政友会という大政党を生むが、政府・官僚内においては大きな勢力にならず。

一方、薩摩閥は1900年黒田清隆死後、黒田派は解体、松方派も求心力が弱く、多くの人材が山県系に合流、海軍と警視庁、および両者に劣るが陸軍でもそれなりに有力な人脈が存在したが、上記の事情により日露戦争後には「薩派」と格下げして呼ばれることが多いとの事(ということは、黒田も桂内閣成立以前に他界しているわけである。でも元老から黒田を外すようなことはまず無い。なお、他の本では黒田が健在な時期でも「薩派」と書いているのを読んだ覚えがある)。

また、第二次内閣における日韓併合と大逆事件のマイナスイメージが大きい、桂太郎について、その立憲主義と社会政策上の功績を高く評価しているのが注目される。

素晴らしい。

前巻とは打って変わって、政治史と外交史中心で、昔ながらのオーソドックスな通史という印象だが、どの概説書および伝記作品にも劣らない内容を持っている。

100%の確信を持ってお勧めできます。

2012年5月6日

引用文(西部邁8)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

西部邁『大衆への反逆』(文芸春秋)より。

 

経済成長は虚妄であるということについて貴方に同意してもらわなければならない。なぜなら、それは、市場における金銭計算以外の何ものをも意味しないからである。経済成長は福祉の手段にすらなりえない。なぜなら、目的(福祉)と手段(成長)とは内面的にも結びついているのであって、経済成長という手段を公認すれば、そこから思いつく目的は(手段の性質に相応した)市場的富の増大にすぎない。市場的富が技術的次元をこえた価値をもちうるのは、それが人々の(文化的)価値観、(社会的)慣習・伝統および(政治的)イデオロギーと合致している場合である。もちろん、市場の金銭計算においてたたき出されてくる数字そのものが価値であり、慣習であり、イデオロギーであると人々がみなすような状況も考えられる。むしろ、現実はそうした徴候を露わにしつつあるといえよう。

しかし、この種の心性は健康であろうか、それとも病的であろうか。それを判断する基準などア・プリオリにあるわけがないという意見がむろんありえて、それによって、現在において人々が価値だとみなしているものが価値なのだという刹那主義の立場が強められもしよう。ただ、私には、次のような想像が思いのほかリアルである。つまり、まったく仮の話であるが、もし、われわれの祖先が生き返ってきて、われわれの生活をみたら、かれらのうちの相当の部分が、自分たちが精神病院に舞い降りたのだと思うにちがいない、という想定である。貧窮のうちに四〇歳で生を終えた農奴ですら、自分の子孫がカップヌードルを食し(私も妻が病気のときは子供といっしょにウマイ、ウマイとほおばるのだが)、夜十一時をすぎれば裸身の女たちの映る小さな四角い画面に見入り(私は、ごく最近になって、テレビを放逐することに成功したのだが)、翌朝となればけたたましい自動車の騒音と満員電車の押し合いへし合いのうちに顔も心も体も歪ませているという様を見やれば、哀れな子孫のために涙するのではないか。

ある価値観を絶対視することは危険であり煩わしくもあるが、あらゆる価値を極端にまで相対化してしまうのもどうかと思う。エドワード・ミシャンという経済学者が、「失楽園」と「スーパーマン物語」のあいだに質の高低・優劣をつけるべきではないという類の価値相対主義を批判したそうだが、私もその批判に同意せざるをえない。シェークスピアの劇は、よほどにこれ見よがしの演技の場合は別として、やはり、ストリップ・ショウよりも高級なものだとしなければ、演劇の概念やそこにおける秩序すら不明になるのではないか。経済成長の生み出してきているもののうちには、公害などの負の財はもちろんのこととして、いわゆるgadget(ちょっとばかり工夫をこらした、主としてメカニックな、しかしガラクタとよばれても仕方ないような附属品)が多すぎるのである。その生産・流通・消費のために有限の資源が費消され、社会がいっそうテンスになり、おまけに大衆の選好が低級になっていくのだとしたら、経済成長の意味を懐疑しない方が不思議なのである。かりにわれわれの子孫が未来から帰ってきてわれわれと対話するとしたら、われわれを呪うものも少なくないであろう。先祖はもういないし、子孫はいまだにいないという現在だけをみれば、何ひとつ憂うべきことはないと貴方がいうのなら、私は次のようにいいたい。過去から未来を回顧・展望し、そして他者と自己との広い繋がりを意識せざるをえないところに人間の特徴的条件があるのであって、その能力を喪失する傾向はやはり狂気の症状なのだ。狂気といって言いすぎであれば、極楽蜻蛉だということである。

2012年5月3日

引用文(西部邁7)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

西部邁『大衆への反逆』(文芸春秋)より。

マルクスの暗さ

私がマルクスの著作とふれあったのはごく短い期間であった。そのせいか、彼のことを想い起こそうとすると、まず念頭を横切るのは彼のあれこれの言説ではなく、それらの総体によってかもしだされている雰囲気である。マルクスをつつむ鬱陶たる気配が今なお私の心によどんでいる。「ここ二十年来、マルクス主義の影は歴史を暗くしてきた」とサルトルはいった。しかしそれは、スターリンに代表されるようなマルクス主義者たちの暗さのことであった。私には、マルクスその人が、明るさよりも暗さのなかに、快活よりも苦悩において、そして解放よりも幽閉のうちに生きていたように思える。彼がブルジョア社会にたいしにえたぎる敵意をもっていたからそうしたマルクス的の症状が生じたのだ、といいたいのではない。マルクスのもつ桁外れの真面目さ、それが彼の肖像を無彩色にみえさせるのである。

「今日まで、ある世紀が自己自身を、また存在のすべてを、物々しい真面目さで受けとったことがあったとすれば、それはこの十九世紀にほかならなかった」。このホイジンガのいう意味において、マルクスは前世紀の典型といえよう。彼の著述のところどころに諧謔や機知が顔をのぞかせてはいる。しかしそれすら、犬儒の臭いによって相殺されているのだ。ケインズは「他の新興宗教と同じように、レーニン主義も、日常生活からその色どりと娯楽と自由を奪い去り、そのかわりに、その帰依者たちにまったく無表情な顔をした単調な代替物を与えているように思われる」と記している。同じことがこの宗派の始祖マルクスにもいえるのではないか。“遊び”の要素がはなはだ少ないのである。私もケインズにならって、マルクスのもつ「雰囲気の緊張度は、人が普通に耐えられる範囲を超えており、ロンドンの軽薄な気軽さが恋しくなるほどである」といいたくなってしまう。

マルクスがみたと思ったのは、物質的安楽という日常平俗のことがらを「自由・平等・所有・ベンタム」の名の下に聖化するブルジョアの世紀であった。この新時代にたいする驚きと怒り、こうした自分の感情とマルクスは真面目にとりくんだのである。彼にとって、いわゆる価値形態をときあかすことは、商品物神に魅入られた資本主義の神話と、その神話のうえになりたつ市場交換の儀式とを解釈することであった。その神話の語り部であり、その儀式の司祭でもある経済学を批判することをつうじて彼は近代の幻想をあばこうとしたのである。この幻想は、印度のジャガンナート神の山車のように、幻覚におぼれるものたちを無残にひき殺してゆくとマルクスは想像した。その思いは彼にとって受苦であり、その極まるところ、「大切なのは世界を解釈することではなく、それを変革することだ」という真面目なテーゼが出てきたわけである。

世界は人間の「自己疎外」にあふれていると彼は考えた。つまり、自分の活動が自分にとって疎遠なものになってしまっているというのである。そして世界は「物象化」につらぬかれていると彼は考えた。つまり、人間の意識が物のごとくに制度化されて、その結果、人間の「類的本質」の発揚が妨げられているというのである。疎外からの解放そして物象化の克服、マルクスの世界変革とはこのことらしい。このおそろしく真面目な提案が私をほとんど窒息させる。疎外や物象化から自由になった自分を想像することなぞ、私にはできない。

ざっくりいえば、どんな文化も幻想の産物なのであり、幻想であるとわかったからとてどうなるものでもない。むしろ、「自己が失われたと感じる能力およびその不快感は、人間の悲劇的な宿命であり、輝かしい特権でもある」(オルテガ)と考えるべきではないだろうか。“遊び”とはこの宿命に身をゆだね、この特権を行使することなのだと思われる。少なくとも真剣な遊びには、たとえば真剣な言論戦におけるように、厳格な規則がつきものであり、そしてその規則が私たちを束縛する。その束縛にすすんで応じることによって、かえって非日常の遊びを創意ゆたかに演じることが可能になる。このおそらくは受苦と享楽が相半ばする遊びのなかで、私たちの奇態な能力に、つまり生物学的には過剰とも異常ともいうべき幻想の能力に、捌け口が与えられ、そして限界が画される。

しかし、“遊び”の概念をかるがるしく弄ぶのは危険である。前世紀が遊びを極小化したのにたいし、今世紀は遊びを小児病化しているというのがホイジンガの診断であった。「たやすく満足は得られても、けっしてそれで飽和してしまうことのない、つまらぬ気晴らしを求めたがる欲望」に今世紀はひたっている。要するに、人々は真剣な遊びに退屈するか、あるいはどう真剣に遊んだらよいかどうかわからなくなっているわけである。これがブルジョア的安楽の帰結なのだとしてもマルクスの真面目さ、そしてそれに何層倍かするマルクス主義者たちの真面目さが、遊びの能力を減退させるのに一役買ってきたのだと思わずにはおれない。

ただ、怠惰な遊びと真剣な遊びを区別するのはむずかしい。そうである以上、どうすれば遊びの小児病化をふせぐことができるかは厄介な仕事となろう。ひょっとして、物々しい真面目さで振る舞うのが遊びの小児病化に抗するための最後の真剣な遊びなのだろうか。もしマルクスの真面目さがすでにそうした覚悟もしくは諦観にもとづいていたのだとしたら、私ごときマルクス知らずが口をはさむ場合ではない。

マルクスの風貌には黒く底光りする迫力がある。それにあえて類型を与えてみれば、戦闘的無神論者の顔相とよぶのが適切なようである。いわゆる科学的社会主義の理論なるものもこの戦闘的無神論の信仰とはりあわされてはじめて、革命の舞台にのりだすことができたのだと思われる。

いうまでもなく革命家たちの思惑どおりに事態が進んでいるわけではない。東ヨーロッパで教会が庶民の集会所になっているというのは、単に、共産党の官僚支配からの避難所というような意味合いにおいてばかりではないだろう。そこでは、どれくらい明瞭に意識されてのことかは知らぬが、神の存在をめぐる信仰と懐疑が魂の奥底で今もうごめいているのではないか。「恐怖は神々をつくれり」(ルクレティウス)というのが無神論の出発点である。そして、恐怖が誰かの迷妄もしくは作為によって捏造され強制されたのだとみなし、したがって次に、迷妄からの覚醒と作為の除去を決断したとき、無神論は戦闘性をおびる。マルクスの迫力とは、良くも悪くも、そのことである。

彼にとって、国家もまた神々の祭壇にあって、いずれ破棄されるべきものであった。国家は、支配の恐怖とその恐怖を正当化するための支配階級のイデオロギーによってつくりだされた、というのである。なるほどそうかもしれない。しかし、支配が支配者の恣意に発しているとみなす点で、彼は軽率であった。

「幻想的普遍的利害」という虚構のうえに国家が成り立つというマルクスの見方は正しいであろう。だが、その幻想は支配者の恣意によってつくられたものだろうか。そして、それを虚構として投げ棄ててよいのだろうか。もしそうなら、国家は支配のための抑圧装置、つまり“機械としての国家”にすぎぬということになり、私もまた「国家の死滅」というマルクスのテーゼに賛同しなければならない。

社会主義諸国の実例がいやというほど示してくれているように、国家の死滅をめざした人々が機械としての国家をより完備させている。このような国家が、やがて、「社会の髄まで吸いつくした後は、痩せおとろえ、骨だけになり、命ある有機体の死よりもはるかに気味悪い、あの錆びはてた機械の死をとげる」(オルテガ)のかどうか、先のことは私にはわからない。

いずれにせよ、社会主義の現在は歴史の大きな皮肉である。これを世界状勢やスターリン主義やらのせいにする前に、マルクスの国家観そのものを疑ってみてよいだろう。戦闘的無神論が一種の過激な宗教であるのに似て、国家死滅論がその強化論を招いているのかもしれないからである。

このようにいうときに危険なのは、社会主義を批判することによって、リベラル・デモクラシーの現在を安直に弁護しようとする護教論が頭をもたげることである。さらには、民族や国民が、うるわしい人倫・習俗によって、国家が命ある有機体のごとき連帯の下にあるとする古びた幻想を蘇らせることである。私のみるところ、高度大衆社会におけるリベラル・デモクラシーは、勝手気儘の自由と多数決の民主とのために、少しずつ擬似独裁への傾きをつよめつつある。また、“生命としての国家”という考え方が個人の生命をおびただしく傷つけてきたことも、私は知っている。

マルクス的無政体、ロック的政体そしてヘーゲル的国体のあいだの比較はあってしかるべきだろう。そのうちいずれかを採れといわれたら、いやいやながら、私は自分をロックの徒に、つまりリベラル・デモクラットに分類したい。自由民主がひとつの幻想であるとは承知しているが、マルクスの階級国家の死滅とかヘーゲルの有機体国家とかといった過激な幻想に身をまかすほど、私の体質は強靭ではない。

しかし、こんな比較よりも、三者の根本における同一性の方が気がかりである。それらはみな、人間というものにたいする希望と信頼を前提している。もしくは偽装している。要するにヒューマニズムの信仰に立っている。それはたぶん、キリスト教の流れにおける原罪説の否定であり、人間学の流れにおける性善説の肯定ということなのだろう。

むろん、原罪説や性悪説をふりかざすのは馬鹿気ている。ただ、国家の体制そしてそれを支える法という禁止の体系は、人間にたいする五割の絶望、五割の不信のうえに成立つものではないだろうか。ホッブス流にいえば、人間が人間にたいして狼でありうること、シュミット流にいえば、政治が友と敵との闘いにみちていること、そしてオルテガ流にいえば社会が人間にとって地獄でありうること、国家の片足はこうした残忍な事実のうえにおかれている。この恐怖すべき事実はほかならぬ私たち自身の幻想のうちにあるのだから、国家の死滅や国家の繁栄どころの話ではないのだ。

国家幻想をふくめあらゆる幻想は、私たちの私たち自身にたいする希望と絶望そして信頼と不信が交わるところに発生する。この交差をつらねたのが私たちの幻想の物語(ストーリー)であり、それが同時に、人間の歴史(ヒストリー)なのだろう。この歴史に場所をもたないのが“何処にもない国”つまりユートピアである。

マルクス死後百年にまたしても確認しなければならないのは、ユートピアをつくろうとする戦闘精神が歴史によって復讐されるという、いくぶん悲しい真実である。

(毎日新聞 昭和五十八年二月二十一~二十二日夕刊)

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