万年初心者のための世界史ブックガイド

2012年2月3日

戸部良一 『外務省革新派  世界新秩序の幻影』 (中公新書)

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1930年代以降、軍部に同調し内外政策の刷新を主張した外務省官僚を描いた本。

著者は高坂正堯氏門下の方。

『失敗の本質』(中公文庫)の共著者として有名。

他に『日本陸軍と中国』(講談社選書メチエ)、『逆説の軍隊(日本の近代9)』(中央公論社)なども書かれているが、いずれも未読。

著者と、海軍研究者で「大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)」館長の戸高一成氏を時々混同しそうになります。

本書で叙述の中心となるのは白鳥敏夫という外交官。

昭和史では、日独伊三国同盟推進派の駐伊大使として、駐独大使の大島浩と並んで悪名高い人物。

(大島は元陸軍駐在武官上がりなので、本書ではあまり取り扱われない。)

東京裁判でのA級戦犯の中で、外交官は広田弘毅・松岡洋右・東郷茂徳・重光葵・白鳥だが、そのうち白鳥を除く4人はいずれも外相経験者であり、大使にしか就任していない白鳥の扱いは異例と言える。

その原因が本書の記述の中で探られる。

1919年パリ講和会議での日本全権交渉団の不振と不手際を見た人々が、「外務省革新同志会」を結成する。

いきなりキナ臭い名前が出てきたが、その主張は、人材の育成・抜擢、機関拡張、予算充実など、まあ罪のないもの。

メンバーは有田八郎、杉村陽太郎ら。

彼らの進言も一因となって、外務省に情報部が設置される。

これはその名から想像されるような、情報の収集・分析を任務とする諜報(インテリジェンス)機関ではなく、主に海外を対象にした広報・宣伝関係の部署。

同じ時期、陸軍は「新聞班」を設置し、対外的にではなく国内広報においては、外務省よりも軍の意向がより強く報道される傾向となる。

人材や試験制度の話があれこれ載っているが、流す。

ただし大使と公使の区別だけはつけておく(事実上格下と見なされた国には大使ではなく公使が派遣されていたなどということをチェック)。

満州事変の衝撃から、いよいよ革新派の形成が始まる。

白鳥は上記情報部長に就任していた。

「石井・ランシング協定」の石井菊次郎の甥であり、著名な東洋史家白鳥庫吉の甥でもある。

元は幣原外交に忠実だったのだが、事変にあたっては激越な言辞で自国を擁護。

満州国承認時期を外国人記者に問われて、白鳥が「別に急ぐこともないさ、運河を掘るわけじゃないからね」と、米国がコロンビアからパナマを強引極まりない仕方で独立させたことを引き合いに出したエピソードを読むと、確かに一種の痛快感を持たないでもない。

ハワイ併合のやり口と満州国樹立工作とで、時期以外に道義面で何か違いがあるのかという思いは確かにある。

しかし現実として可能なことと、不可能なことを厳しく認識する必要からすると、やはり危うい。

以後、政治的活動が目立つようになる。

1933年少壮外務官僚が「僚友会」結成。

外交刷新・人事革新・機構改革を唱えるが、これもそれほど過激な主張をしたわけではなく、後年の革新派とイコールではないとされている。

事変後、外務省首脳部と主流から幣原外交に連なる人物が外され、有田八郎・重光葵・広田弘毅らを中心とする体制が形成される。

彼らはワシントン体制の修正を厭わない立場で、多くが元「革新同志会」メンバーであった。

有田・重光・広田らの、この新しい主流派をさらに急進的な立場から批判するのが、本書の定義する外務省革新派であり、白鳥・栗原正・仁宮武夫などがそれに属する。

ただし結束力は強くなく、個人の関与の度合いにも濃淡があったとされている。

私は、この新主流派と革新派の区別が曖昧で、例えば重光葵を、この時期は革新派だったと考えてしまっていた。

革新派は「皇道外交」を掲げたが、意外にも彼らには、従来の対中利権重視の帝国主義外交や国家至上主義への批判や、国際協力組織樹立の肯定などを主張する面もあった。

しかし、その理念の根底には日本主義的観念論があり、国体明徴運動とも連動していく。

ここで天皇機関説問題についての以下の文章が目にとまる。

「顕教」を掲げる国民(少なくともその一部)が、統治者の足をすくった。大衆がエリートに挑戦して、「ほんね」を否定させ、「たてまえ」だけが正しいと認めさせた・・・・・

この認識は極めて正確。

たとえ表面上、大衆煽動に利用された言説が前近代的・権威主義的ものであったとしても、戦前の軍国主義の本質は、徹頭徹尾民主主義的運動だったということを認識しない限り、真に歴史から学ぶことは不可能と思われます。

同じようなことを何度も何度も書いて恐縮ですが、私にとって最も重要と思われることと逆のことが「常識」とされてしまっておりますので、書かずにおれません。

なお、本書では外務省以外の官庁における「革新官僚」と、外務省革新派をはっきり区別している。

いわゆる革新官僚が、イデオロギー的共感は別にして好むと好まざるに関わらずマルクス主義の影響を受け、経済の計画化と資本主義批判、政党政治否定を主張したのに対し、反ソ反共を(当初は)表看板とする外務省革新派との間には距離があったとしている。

外務省主流の広田・重光らが、満州国を認めさせた上での中国の国権回復運動を支持し、国内では穏健な既成勢力とも妥協したことに、外務省革新派は攻撃を加える。

1930年代半ば、革新派は中国よりの「外力」排除を唱えたが、その主敵は米英ではなくソ連であり、対ソ必戦論を採り、主張を同じくする陸軍皇道派と交流。

共産主義への警戒は当然だが、現実を無視した、硬直した戦争論はかえって危険極まりない。

ところが、二・二六事件と日中戦争勃発後、この対ソ強硬論と日ソ必戦論が大きく変化。

支那事変の泥沼化によって国民政府を支援する米英への対立感情が前面に出るようになり、独伊への接近論が加速、革新派は以後枢軸派となる。

白鳥は当時の世界情勢を、現状維持を目標とする「人民戦線諸国」と現状打破を目指す「全体主義諸国」の対立と主張した。

1938年、白鳥を外務次官に擁立しようとする動きが起こり、近衛内閣での宇垣一成外相の後任にも擬せられるが、結局失敗、白鳥は駐イタリア大使に着任、同時に大島浩が駐ドイツ大使に。

この白鳥次官擁立運動に関わった人物の一人として牛場信彦の名が出てくることに少々驚く。

ハミルトン・フィッシュ『日米開戦の悲劇』(PHP文庫)監訳者まえがきでの岡崎久彦の敬意に満ちた筆致から受けるイメージからは程遠いと思われる事実ではある。

この1938年はミュンヘン会談の年であり、防共協定強化問題が持ち上がった年でもある。

日本の立場としては、ドイツとイタリアとを分けて、日独の軍事同盟はソ連を対象とするもので、日伊の政治協定と合せて、英仏へ圧力をかけ、援蒋行動を中断させ、イギリスに日中和平を仲介させることを目的とするもの。

つまり英仏は同盟の軍事対象ではない。

これに対し、ドイツは一般的同盟を提案。

日本陸軍はドイツの提案に応じようとするが、海軍と外務省主流は反対、白鳥ら革新派は陸軍に与する。

この対独接近の動きは、1939年8月独ソ不可侵条約締結でひとまず頓挫。

白鳥は独ソ接近の可能性を察知しており、その状況認識自体は正しかったが、それゆえに日独接近を急ぐべきだと主張していた。

これ以後、白鳥は、防共協定がむしろ日英を接近させるだろうとの従来の主張を捨て、日英対立は妥協の余地の無いものであり、来るべき日独伊三国同盟はソ連を対象とするものではなく、米英仏を抑止し中立を守らせるためのものであるべきだとの論陣を張る。

日ソ独伊のユーラシア四国同盟の幻想に囚われたと言える(三宅正樹『スターリン、ヒトラーと日ソ独伊連合構想』参照)。

加えて、積極的な日ソ連携さえ主張し、ソ連はすでにボリシェヴィズムを脱却して独伊に近い政治形態になったと強弁するに至っては、おいおい反共主義はどこに行ったんですか?といいたくなる。

同じ観念主義に走るのなら、ナチズムも共産主義も前近代的価値観から「解放」され自由になった大衆が生み出したものだ、米英仏も独伊ソも根底で民主主義・近代主義という精神の病に罹っている点では同じ穴のムジナだ、米英仏が慢性疾患なら独伊ソは急性疾患の患者だ、緊急避難として急性疾患国の脅威を除くため慢性疾患の国と一時的に協力するのに吝かではないが、しかし日本は民主主義・近代主義という価値観自体認めませんよ、という筋道がどうして立てられなかったのかと慨嘆する。

そう考えれば、日本国内における極右的国粋主義についても、どれほど復古的言辞で装われていようとも、「民衆の主体性」への肯定の上に立っている以上、 その本質は民主的運動だ、卑しい大衆が皇室をおもちゃにしているだけだ、という自己懐疑だって生じたはずです。

訓令無視を繰り返したため、白鳥は39年9月召還、帰朝。

第二次大戦が始まっても、独ソ接近とかつての主張との矛盾を突かれた自身への批判にも関わらず、あいかわらずドイツの勝利を確信し日独同盟を主張。

それだけならともかく、ナチの受け売りの反ユダヤ主義的言説を撒き散らしているのを読むと心底情けなくなる。

40年6月フランスが降伏し、不幸にして日本国内で対独接近論が息を吹き返す。

40年7月第二次近衛内閣、9月三国同盟締結、北部仏印進駐。

これら政策の主導者であった松岡洋右外相は本書によれば人脈的には革新派ではないとされている。

41年4月日ソ中立条約、6月独ソ戦、7月南部仏印進駐、12月日米開戦。

この年4月ごろ、白鳥は躁病に陥ったと書いてあって、おやおやホントの病気だったのかと思った。

そして敗戦後には、キリスト教国教化と戦争放棄を主張するのだからあきれてしまう。

占領軍に対して、先帝と皇室制度を守る意図があったことを割り引くにしても、ちょっとひどすぎる。

戦前には先帝について、側近の影響で平和主義者だと非難めいた言葉を述べているのだから、何をかいわんやである。

1948年東京裁判で終身禁錮の判決、49年に病死。

エピローグに以下の文章あり。

当時は、いわゆる国民外交の時代、あるいは外交の大衆化の時代であった。かつて外交はエリートの関心事であったが、革新派が登場してきた時代は、外交がエリートの独占物ではなくなった。そして、このような時代には、革新派が提示した単純明快な説明のほうが、エリート好みの難解な解説よりも説得力を持ち得たのではないだろうか。こうした意味で、外務省革新派は外交の大衆化、民主化の申し子であったとも言えよう。

結論として非常に適切。

われわれ民衆の自由や発言権が拡大することが必ず社会を良くするという主張には、全く、何一つ、一切、絶対に、何度考えても、百歩譲っても、天地がひっくり返っても、根拠が無い。

キルケゴール(『現代の批判』)やヤスパース(『現代の精神的状況』引用文1引用文2引用文3)が描写したような、底無しに愚かで卑劣で無責任な世論の支配と「民意の尊重」こそが日本を破滅させたと言うべき。

戦前の歴史から真に汲み取るべき教訓は、「自由と民主主義の大切さ」ではなく、自由を得た国民がデマゴーグによって野蛮な衆愚と化すことによってもたらされる事態の恐ろしさであるはず。

そういうことをきちんと捉えている本と言えるので安心して読める。

かなり良い。

じっくり読み込めば、通史的知識も確認できて非常に有益。

各内閣順と、出来れば外相就任者を記憶すればなお良い。

(私自身、外相は一部除いてかなりあやふやですが。)

時間と労力をかける価値のある良書です。

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