万年初心者のための世界史ブックガイド

2012年1月1日

トニー・ジャット 『荒廃する世界のなかで  これからの「社会民主主義」を語ろう』 (みすず書房)

Filed under: 史論・評論 — 万年初心者 @ 06:00

2010年死去した歴史家の遺著。

他の著作に『ヨーロッパ戦後史 上・下』(みすず書房)があるが、分厚さに気おされて未読。

本書は市場原理主義への批判と社会民主主義の再評価を述べた評論。

副題がマイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)を意識して真似たみたいで、みすず書房らしくない安っぽさ(違ってたら御免なさい)。

冒頭、本書の論旨をよく表わしている以下の文章あり。

今日のわたしたちの生き方には、何か途方もない間違いがあります。わたしたちはこの三十年間、物質的な自己利益の追求をよしとしてきました。実を言えば、今のわたしたちに共通の目標らしきものが残っているとすれば、この追求を措いて他にありません。何にいくらかかるか、わたしたちはよく分かっていますが、それが真に値打ちあるものなのかどうか、皆目見当がつかないのです。わたしたちはもはや、司法的な規制や立法的な措置の必要など意に介さなくなっています。それは善いことか? それは公平であるか? それは正義に反しないか? それは間違っていないか? それが果たして社会を改善し、世界を良くすることに役立つのか? 答えは容易に見つかるわけではありませんでしたが、まさにこうした政治的問いというものが、かつては確かに存在していました。わたしたちはここでふたたび、こうした問いを提起し直さなくてはならないのです。

今日日(きょうび)の生活の特質である実利主義・自分本位主義は、人間の条件そのものに内在しているのではありません。今どき「自然」のように見えていることの大部分――富の創造に取り憑かれること、民営化・民間セクターを金科玉条とすること、貧富の格差が弥(いや)増すこと――は、1980年代以後に起こったのです。そして何といってもこれらの現象に付随して、暴走する市場への無批判な礼賛や、公共セクターに対する謂われなき侮蔑や、限りなき成長というたわいない妄想が、レトリックとして一世を風靡してしまったのです。こんな生き方をつづけてゆくことはできません。2008年に起こった暴落は、規制なしの資本主義は資本主義自体にとって最悪の敵であることを思い起こさせてくれました。放っておけば遅かれ早かれ、資本主義は自らのご乱行が仇となって、国家による救済を求めざるを得なくなるに違いありません。しかし小手先でごまかすだけでこれまで通りをつづけるなら、来るべき将来にはもっと深刻な激動を招く可能性があるのです。

日本でも世界でも、現状を見ると、残念ながら、財力にものをいわせたロビー活動と固定観念を利用したデマゴギーによって、「小手先でごまかすだけでこれまで通りをつづける」ことになっているようです。

その後、80年代以降の新自由主義政策の弊害を述べるために、所得格差と健康・社会問題インデックス、殺人数、精神疾患罹患率などの相関関係を示す表が掲げられているのですが、本文中では記述が無いものの、この表において日本は殆どの場合、圧倒的に優秀な位置に存在している。

悲しいかな、これも今は変わってしまったか、変わりつつあるんでしょうね。

1960年代の新左翼による画一主義打破、個人主義最重視の活動が、結果として旧左翼没落後の新自由主義台頭を準備する皮肉な逆説を指摘。

その新自由主義の「教祖」フリードリヒ・ハイエクについて。

「ハイエキズム」自体が一つの教義だと言ったのは、マイケル・オークショットでした――「あらゆる計画化に抵抗しようという計画は、その逆よりは良いかもしれないが、それと同じスタイルの政治に属している。」

ハイエクの別の一面(引用文(西部邁2)「マスメディアの構造と空気」)を考慮しない自称ハイエク主義者とエピゴーネンたちが我が物顔で横行し、以下のような所業を行うのが常態となってしまっている。

シニカルな(あるいは単に無能なだけの)銀行役員やトレーダーの背後には、必ず経済学者が控えていて、彼らに(そしてわたしたちに)知的権威という絶対的立場から、彼らの仕事が公益にかなうこと、したがっていかなる場合でも集合体からの監督など受けるべきものではないことを確言してくれるのです。

ここで、具体的な顔を思い浮かべる方もいるかもしれませんね。

さらに、資本主義を長期的、安定的に存続させるための条件は、決して市場自体からは出てこないことを指摘。

わたしたちが信頼なしではやっていけないことは明らかです。お互いに信頼し合わないのであれば、相互扶助のための税金など、わたしたちは支払わないでしょう。あるいはまた、信頼のおけない仲間市民の手にかかって暴力や騙しの憂き目に遭う恐れから、遠くへの外出は避けるようになるでしょう。さらに加えれば、信頼とは抽象的な美徳ではありません。資本主義は今日多くの批判に晒されていますが、その批判者のすべてが左翼というわけでは決してないのです。なぜかというと、市場と自由競争にも信頼と協力が必要だからです。銀行は誠実にやってくれる、不動産屋は物件に抵当権が付いていないかどうか本当のことを言ってくれる、公的規制機関は不正取引を取り締まってくれる――こうした信頼がなければ資本主義自体が動かなくなってしまうでしょう。

信頼や、協力や、共通の善のための集合的行動は、市場から自動的に発生してくるのではありません。まったく正反対です。ルール破りの競争参加者は倫理的に敏感な競争者に対して――少なくとも短期の勝負では――勝つ、というのが経済競争の本質なのです。しかし資本主義は、そうした徹底して利己的な行動を長期にわたって耐え抜いて生き残ることなど、できないでしょう。それならなぜ、この潜在的には自己破滅的な経済活動のシステムが今まで持続してきているのでしょうか?おそらく、資本主義の出現時からそこに寄り添っていた節度、正直、穏健といった習慣のおかげでしょう。

しかしながら、長年つづいてきた宗教の、あるいは共同体の諸慣習に由来するこうした諸価値は、資本主義それ自体の本質として備わっているわけでは毛頭ないのです。伝統社会がもつ抑制力や、世俗エリートおよび教会エリートの持続的権威に支えられたことで、資本主義実践者の道徳的欠点は間違いなく補正されているという結構至極な幻想が生まれ、資本主義の「見えざる手」はそこから大きな恩恵をこうむったのでした。

出発当初の、こうした幸福な条件は、もはや存在しません。契約というものに基盤を置く市場経済が、自らの内部からそうした条件を生み出せるはずもなく、それだからこそ、規制なしの経済市場と見境のない極端な貧富の差が社会を蝕んでゆく脅威については、社会主義の立場の批判者のみならず宗教の立場からも懸念が表明されたのです(特筆に価するのは、20世紀初頭の改革派教皇レオ13世です)。

1970年代までであれば、人生の核心は金もうけにあり、それを奨励するために政府がある、などという考えは、資本主義に対する伝統的な批判者のみならず、その最強の擁護者の多くからも、嘲笑されていたことでしょう。第二次世界大戦後の数十年間は、他の時期と比べて、富のための富という考え方が大きな関心を得ることがなかったのです。

上記引用は、村上泰亮『産業社会の病理』(中公クラシックス)を思い起こさせます。

また、以下のように、原子的個人主義を媒介にする、新自由主義と全体主義の親和性を指摘しているのは非常に鋭い(コーンハウザー『大衆社会の政治』(東京創元社)参照)。

こうして「社会」を、私的個人同士の相互活動で出来上がる薄い膜のようなものへと縮小することは、今日、リバタリアンや自由市場主義者の野望として提示されています。しかし、わたしたちが忘れてはならないのは、それが何よりもまずジャコバン派、ボリシェヴィキ、そしてナチスの夢であったということです――もしわたしたちを、共同体あるいは社会として結び合わせるものがないならば、わたしたちは完全に国家に依存するしかない、というわけです。・・・・・

こうしたプロセスに、不可解な部分などまったくありません。それはエドマンド・バークのフランス革命批判のなかで、十分に述べられています。彼が『フランス革命についての省察』のなかで書いているのですが、国家の骨組みというものを破壊してしまうような社会は、すぐにも「個人性という粉塵へと空中分解してしまう」に違いありません。公共サービスを骨抜きにし、それらを民間供給者のネットワーク委託という形にまで縮小することで、わたしたちは国家の骨組みの解体に手をつけたのです。「個人性という粉塵」について言えば、それこそ正にホッブズのいう、万人の万人に対する戦争にそっくりで、そこでは多くの人びとの生活が孤独で、貧しくて、少なからず不快なものになってしまうのです。

こうした現状に対して、著者は「世論を鍛え直す」ことを主張するが、以下のように直接民主制への警戒を持っていることからして、決して凡庸な左派ではない。

直接民主主義は、小規模の政治単位においては、参加の度合いを高めます――と言っても、そこには画一化や多数派による圧迫という危険がつきまといます。異論や異説に対して潜在的な抑圧性をもっているのは、タウンホール・ミーティングやキブツを措いて他にありません。どこか遠くで行われる集会において自分の代わりに発言してくれる人を選ぶというのは、大規模で複雑な共同体のさまざまな利害関係のバランスをとるメカニズムとして、理に適っています。・・・・・

本質的な議論を、こうして抑え込んでしまうことの悪い結果は、わたしたちの身の回りにいっぱいです。今日のアメリカでのタウンホール・ミーティングと「ティーパーティー」は、18世紀に創始された原物の、模造品でなければパロディーにすぎません。議論を捲き起こすどころか、閉じ込めてしまうのです。デマゴーグが群集に向かって何を考えるべきかを告げ、その言葉がこだまとなってもどってくると、デマゴーグたちは大胆にも、自分は一般国民の心情を中継しているだけだと宣(のたま)うのです。イギリスでは、テレビが驚くほど効果的に使われていて、国民の不満の安全弁となっています。プロの政治家たちは今や、移民政策から小児性愛までのあらゆる問題に関する、即時テレフォン投票や人気調査という形の「民の声」に耳を傾けていると言っています。自分が抱いている恐怖感や偏見を、ツイッターで視聴者へと返信することで、彼ら政治家たちは、自分が果たすべきリーダーシップやイニシアチブの重荷を免除されてしまうのです。

結論として、著者は今こそ、社会民主主義の遺産を継承することが必要だとする。

もしもわたしたちが国家を持ちつづけようとするのなら、そして国家が人間の営みのなかで重要な意味を持ちつづけるのなら、社会民主主義の遺産には存在価値があります。過去はわたしたちに、教えることがあるのです。エドマンド・バークは、当時彼が行なったフランス革命に対する悲観的な批判のなかで、未来の名の下に過去と絶縁してしまう未成熟な傾向に警告を発しました。彼は書いています――社会というものは、「・・・・・生きている者同士の協力関係に止まらず、生きている者と、死んだ者と、これから生まれてくる者との協力関係である」と。

この見解は、保守派の典型として読まれています。しかし、バークは正しいのです。すべての政治論議は、未来を改善する夢だけではなく、過去の業績――自分たちがやり遂げたことと先輩たちがやり遂げたこと――との、わたしたちの関係を深く認識することから出発する必要があります。左翼は余りにも長きにわたって、この要請に無頓着でした。わたしたちには19世紀ロマン派の呪縛があり、古い世界に別れを告げて、既存のものすべてに根源的批判を加えることに躍起になってきたのです。そうした批判は、重大な変革のための必要条件ではあるでしょうが、わたしたちを迷走させる危険な可能性があるのです。

通俗的なイメージとは異なる意味で、左派と右派の違いを述べた以下の文章も、特に今世紀に入ってからの、日本の現状を考える上で示唆的である。

わたしたちは通常、「左翼」から用心深さを連想することはありません。欧米文化の政治的想像空間において、「左」が象徴しているのは急進的、破壊的、刷新的ということです。ところが本当は、進歩的な諸制度と深慮の精神とのあいだには、密接な関係があるのです。民主主義的な左翼は、これまでしばしば喪失感に突き動かされてきました――時には理想化された過去の喪失感、時には私的利益によって無残に蹂躙された道徳的心情の喪失感です。この二世紀のあいだ、経済的な変化はすべて良いほうに向かっているという、飽くなき楽観的な考えを抱きつづけてきたのは、空想的市場主義リベラルでした。

全世界向けプロジェクトの名において、破壊と刷新という近代的野心を継承したのは、右翼のほうでした。イラクにおける戦争から始まって、公費教育や医療サービスの解体というゴリ押し的な欲望、さらには数十年にわたる金融の規制緩和プロジェクトに至るまで、サッチャーとレーガンからブッシュとブレアまでの政治的「右」は、政治的保守主義と社会的穏健主義との結びつきを断ち切ってしまったのです。

一部異議のあるところがないではないが、総合的には全然気にならない。

共産主義が人類史上最も邪悪な思想だという認識にはいささかも変わりないが、(経済体制としての)社会民主主義に対するアレルギーはここ5、6年で自分でも驚くほど雲散霧消してしまった。

むしろ最近では、資本主義批判の視点を持たないような「保守」は醜悪な偽物だ、とますます確信するようになっているので、本書の主張にも全く違和感無し。

お勧めします。

参考文献としては、荒井一博『自由だけではなぜいけないのか』(講談社選書メチエ)カール・ポラニー『大転換』(東洋経済新報社)西部邁『経済倫理学序説』(中央公論社)などをどうぞ。

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