万年初心者のための世界史ブックガイド

2011年7月17日

戦前昭和期についてのメモ その4

Filed under: おしらせ・雑記, 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

その3に続き、福田和也『昭和天皇 第四部』(文芸春秋)より。

1935(昭和10)年、天皇機関説問題・国体明徴声明、対中外交上の広田三原則、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定、冀東防共自治委員会(のち自治政府)設置などの華北分離工作、永田鉄山斬殺(相沢事件)。

世界では、ストレーザ戦線、伊エチオピア侵入、英マクドナルド挙国一致内閣退陣、ボールドウィン保守党内閣成立、仏ソ相互援助条約、独再軍備宣言、ザール併合、ニュルンベルク法制定、英独海軍協定、コミンテルン第七回大会で人民戦線戦術採択、中共八・一宣言、南京国民政府幣制改革、米中立法およびワグナー法。

上記の通り、教科書レベルの出来事だけ挙げても、極めて事件の多い年であることがわかる。

この1935年は国際情勢の対立構造変化の年として極めて重要。

まず、前34年のオーストリア危機を契機に英仏伊3ヵ国の反独包囲網であるストレーザ戦線が成立したかと思いきや、イタリアのエチオピア侵攻により英仏と伊が離反、独伊が接近し枢軸陣営形成に向かうという変化が最重要事項。

日本は、排日運動停止・満州国黙認・共同防共の三つを見返り無しで一方的に南京国民政府に要求する広田三原則を提示。

国民党機関を河北省とチャハル省から撤退させた上記二つの協定締結、冀東防共自治政府設置により、満州のみならず長城を超え華北までも自らの勢力下に置く姿勢を示したため、国民政府内の親日派は失墜、蒋介石も国内の過激な反日ナショナリズムを制御できなくなり、翌36年には西安事件が起こる。

日本は、33年塘沽(タンクー)停戦協定で得た、何よりも貴重な日中関係の小康と安定状態を愚かにも自ら捨ててしまう。

日中両国が排外的ナショナリズムの虜になり、妥協と冷静さを説く同国民を「売国奴」として排撃し、互いに傷つけあった結果、日本は有史以来未曾有の敗北、中国は国土の荒廃を代償にした惨勝およびその直後の共産化と、双方が致命的な破局を迎え、結局漁夫の利を得たのは米国と共産勢力のみ。

こういう歴史だけは繰り返したくないものです。

以上まとめると、欧州では英仏および独伊の各陣営が形成され始め、東アジアでは日本と中国が再び全面対決路線に向かう一方、ソ連は仏ソ条約と人民戦線戦術で西側に接近しつつも独との了解への可能性を残し各陣営を両天秤にかけ、米国は国内の孤立主義的世論に拘束されて中立を保つが同時に介入の機を窺う、というのがこの1935年の情勢。

他に補足として何点か。

7月林銑十郎陸相が真崎甚三郎教育総監を更迭し、皇道派・統制派の対立激化、相沢三郎が軍務局長永田鉄山を殺害すると林陸相辞職、後任は川島義之、この陸相の下で二・二六事件を迎える。

第一次大戦でドイツから一時分離されていたザール地方がドイツに併合されており、ヒトラー政権成立後初の領土拡大だが、これは国際協定に基づく住民投票によるものであり、別段不法なものではない。

29年労働党首班として第2次内閣を組織したマクドナルドが労働党を除名されつつ31年挙国一致内閣を成立させ、それがこの年まで続いている。

マクドナルド退陣後ボールドウィン内閣、これに続くのが37年成立し、ヒトラーに対する宥和政策で有名な(悪名高い)ネヴィル・チェンバレン内閣。

チェンバレンはボールドウィン政権にすでに蔵相として入閣しており、ボールドウィン内閣時代から上記英独海軍協定など宥和政策の萌芽が見られる。

このイギリスの対外政策に絡んで、1935年日本はその運命を決する重大な分岐点を迎えていた。

蔵相ネヴィル・チェンバレンの意を受けて、英政府最高財政顧問サー・フレデリック・リース=ロスが来日、日英が提携して中国への共同借款を供与、中国に強力な中央銀行を設立、幣制改革を遂行し、代わりに英国と中国が満州国を承認するという提案を行なう。

チェンバレンは、勃興しつつあるナチス・ドイツの脅威に対抗するには、日本との融和を進める必要があると考えていた。日本との関係を修復し、日本を国際秩序の担い手として復帰させようというのである。そのためには、イギリスとともに中国にも満州国を承認させ、その上で国際聯盟に日本を再加入させるというスケールの大きな外交戦略を抱いていた。

・・・・・・・

日本にとって願ってもない提案といってよいだろう。両国が満州国を承認してくれれば、孤立が解消されるだけでなく、満州の体制も磐石になる。たとえ、中国が承認を拒んだとしても、イギリスが承認する意味は絶大である。イギリスが承認すれば、不承認政策を掲げるアメリカは別として、他のヨーロッパ諸国が承認する可能性がある。

・・・・・・・

イギリスは、中国経済を安定させることで、自国の在中権益を守るとともに、日本との関係を改善し極東での主導権を回復させることができる。さらに日本をドイツから遠ざけて、イギリスと利害を共有させることもできる。

チェンバレンが対独宥和の数年前に行なったこの対日宥和政策に乗っていれば、日本の運命は全く変わっていたはずである。

硬直した原則論を振り回すことしか知らず、各国の対立状態を深めるだけの米国に比べ、全当事者が多少なりとも利益を得て、同意可能な現実的妥協案を出してくるところは、さすが英国外交との感想を持つ。

岡田内閣の高橋是清蔵相は即座に賛同し、提案受諾を強く主張する。

しかし陸軍のみならず、広田弘毅外相、重光葵外務次官が反対に回ると書いてあるのを読むと、「おいおい、何考えてんですか???」と言いたくなる。

重光葵というと、小学生の頃から名前を知っていた人物で、のちに不自由な身体を押しての戦艦ミズーリ上での降伏文書調印や、戦後鳩山内閣での外相就任と国連加盟達成など、平和と協調に尽くした外交官とのイメージがあり、著書『昭和の動乱』も面白く読めたが、時々妙な行動を取っていますねえ。

広田弘毅はもっと酷い。

この最初の外相就任時に、英国と協調した幣制改革への協力拒否と陸軍による華北分離工作黙認がまずあり、翌36年二・二六事件で首相に就任した後は軍部大臣現役武官制復活と日独防共協定締結、37年第1次近衛内閣で再度外相に就任するや、盧溝橋事件直後の現地停戦協定を無視して内地師団動員に賛成、トラウトマン工作を拒絶、38年「爾後国民政府を対手とせず」との第1次近衛声明を発表と、とにかく要職在任中、本当にろくな事をしていない(服部龍二『広田弘毅』(中公新書)参照)。

本書での著者の筆致は、

広田弘毅外務大臣が、とどめを刺した。「満州国の承認といったことは支那の利益にこそなれ、満州国の利益にはならない」と述べ、「いずれにしろ、イギリスが口を出すことではない」と断言した。後の展開を考えれば、広田の一言が日本を滅した、と言ってよいかもしれない。その罪は、あらゆる軍の将帥より重いと云い得るだろう。

と、驚くほど厳しいものになっているが、これはそう言われても仕方がないところでしょう。

この判断ミスは本当に致命的です。

責任感のかけらも無く、狂った多数派の意見に異を唱える穏健な人々を集団で攻撃することで得られる快感を国家の運命よりも優先する、汚らわしい衆愚どもが作り出す世論に屈従したのか。

東京裁判が正当だとか、死刑になって当然だとは全く思いませんが、やはり広田の責任は、文官では近衛に並んで重いと言わざるを得ないのではないでしょうか(上記衆愚的世論を煽った人間とそれに付和雷同した大衆が、罰することは極めて難しいが、最も罪深く嫌悪すべき存在であることは大前提として)。

岡崎久彦『重光・東郷とその時代』(PHP文庫)では日本自身の軍備拡張と満州国への投資に加えて、中国へ経済支援を与えてアジア情勢を安定させるには、畢竟日本の国力が足りなかった、このわずか数年後日中戦争開戦でかつて幣制改革で求められた額の何倍もの戦費を負担することを思えば、この時の英提案に応じるべきだったと言えるが、そこまで見通せないのが人間の常だ、と述べられている。

(ちなみに上記本では高橋蔵相はじめ大蔵省も対英協調消極派のように書かれているが、単に言葉が足りないだけか?)

とは言え、単に後知恵だと片付けるには、この時あまりに惜しいチャンスを日本は逃している。

当時の日本に必要だったのは、確固たる指針を持った責任ある少数者の指導とそれに対する民衆の信頼と服従であって、「自由と民主主義」ではないです。

粗暴で過激な意見がメディアによって何の制限もなく広められ、数の力で賢明な少数者を抹殺したことを見れば、言論の自由と民主主義はむしろその梃子になったと解釈した方がよほど実態に合っている。

左翼的言論は厳しく取り締まられていたが、右翼的言論は野放し状態で(こうした偏った自由も民衆の主体的選択によって生まれたもの)、「国体明徴」「臣道実践」など表向き右派的言辞を弄することによって、実質的には左派と相通ずる、民衆の既成支配層に対する理不尽・無責任・非道徳的で不遜な反抗がほとんど無限に正当化されてしまっている。

言論・出版の自由と社会の平等化が進行することによって政治的発言権を持つ人間の数が増えれば増えるほど、議論の質が止めどなく低下する。

粗雑な単純化と罵詈雑言と印象操作が横行し、熟慮や冷静な議論といったものが社会から一切消え失せ、大衆迎合的な煽動者と多数派民衆が作り出す衆愚的世論が権威主義的な少数派支配層を押しのけて全てを支配し、国家を乗っ取る。

社会の表面上に現れる瞬間的「民意」が絶対視され(そして世論を作り出す民衆の資質は決して問われることがなく)、それに逆らう少数派は「非国民」「売国奴」という誹謗中傷と名誉毀損に晒され、場合によっては特に愚かで凶暴な多数派分子によるテロリズムの標的にすらなる(戦後は多数派が貼るレッテルが「保守反動」「非民主的」に変わっただけ。そして最近は左翼思想の替わりに排外的ナショナリズムをおもちゃにするようになった大衆が少数派へのリンチを愉しんでいる)。

戦前日本においては、民主主義が軍国主義に取って替わられたのではなく、政党・官僚・旧財閥・宮中側近などの上層既成勢力の間接民主制が、対外強硬論と国内既成勢力打破を主張する極右革新派に煽られた下層民の直接民主制によって打倒され、その直接民主制の必然的帰結である衆愚政治が軍国主義を生んだと解釈すべき。

どんな時代にも、一貫して根底にある最大の問題はデモクラシーの暴走とその自己崩壊であり、大衆煽動に利用されるスローガンやイデオロギーの違いによって、そこから軍国主義が生れるか、ファシズムが生れるか、共産主義が生れるかはあくまで副次的問題に過ぎない(ナチについてのメモ その5)。

戦前日本は(そしてフランスもロシアも中国もドイツもイタリアも、その他1789年以降独裁と戦乱に苦しむようになった国のほぼ全ては)、民主主義ゆえに破滅したと言った方がよほど正しい(ルイ16世についてのメモ その1  同 その5)。

上記の不幸なメカニズムがあらゆる国で働いている。

前近代的専制政治が敷かれていた国でもその没落はデモクラシーの理念浸透が原因であり、秩序崩壊時には群衆心理が全てを決する状態に陥る以上、議会制度的なデモクラシーが無かったロシアや中国においても、左翼全体主義的独裁確立はやはり民主主義が生み出したものと解釈すべきもの。

近現代において民主化の進行過程をほぼ無傷で潜り抜けたのはイギリスや北欧諸国などだけで、むしろ少数派である。

民族の根本的な任務は、過去の制度を少しずつ改めつつも、それを保存することでなければならない。これは、困難な任務である。この任務を実現したのは、だいたいにおいて、古代ではローマ人、近代ではイギリス人だけであろう。(ル・ボン『群衆心理』

(ただしイギリスですらピューリタン革命とクロムウェル独裁という破局を経験している。英国史上、唯一国王のいなかった時期は、唯一独裁者に支配された時期でもある。ただしその革命政権も宗教を基盤にしていた故の歯止めが存在したことについてはローレンツ・シュタイン『平等原理と社会主義』引用文参照。さらにその後、民衆的独裁への免疫を付け、君主制と階級社会を維持しているのは大したもんです。)

アメリカはどうかと言えば、南北戦争は、正義の戦いという以前に恐るべき国家規模の破局と見なすべきだろうし(内田義雄『戦争指揮官リンカーン』)、政治党派や人種・性・宗教・財産による社会の分裂が極限まで進んだ昨今のアメリカを見るとあの国がデモクラシーの持つ「党派的暴政への不可避的傾向」(バーク『フランス革命の省察』)を免れた例外だとはとても思えない。

そして、近現代はもちろん、前近代でも国家の崩壊や社会の堕落においては、社会の上層部少数者ではなく、(自分が属するような)下層多数者の悪が主因なのではないかと、私は最近ますます疑うようになってきている。

何度も繰り返しますが、君主制や貴族制はたとえどれほど堕落しても、言葉の真の意味での全体主義的独裁を生み出すことは決して無いウィリアム・コーンハウザー『大衆社会の政治』)。

民主主義は断じて全体主義の反対概念ではなく、むしろその成立の前提条件と考えるべき。

多くの民衆が政治に参加すればするほど、国家の権限と戦争の規模は拡大し、20世紀には億を超える「政治による死」がもたらされた。

過去5000年の人類文明の歴史で大部分を占める、君主や貴族など少数者統治の時代には、こうしたことは決して起こらなかった(引用文(ニスベット1)マイケル・ハワード『ヨーロッパ史における戦争』)。

(それを、民主制下の科学技術の発達という成果の裏返しだと擁護するなら、そもそも人類の存続自体を不可能にしかねない科学技術と産業の過剰発達を「進歩」とみなすのを止め、根本から懐疑の念を差し向けるのが当然だと言いたい。またそれらの節度ある発展が君主制・貴族制下、あるいは民主制との混合政体下においては不可能だったとは信じられない。)

にも関わらず、左右の民衆的独裁の崩壊に際して、恥知らずにもそれが「民主主義の勝利」などと称される(上記の、力の割りに智慧の足りない某国が主になって)。

ウォルター・バジョットは『イギリス憲政論』の中で、

・・・・・ある社会で大衆が無知ではあるが、尊敬心をもっているという場合、この無知な階級にひとたび統治権を与えると、永久に尊敬心はもどってこない。現王朝[人民]の支配は、打倒された王朝[貴族]の支配よりすぐれているということを、煽動政治家が説き、新聞が話しかける。民衆は、自分に利害関係のある問題について、その賛否両論を聞くということはほとんどない。民衆の言論機関は、民衆に迎合的な議論ばかりをする。そしてそれ以外の言論機関は、事実上その意見を民衆の耳に入れることはできない。民衆は、自分自身に対する批判を決して聞こうとはしない。民衆が追放した教養ある少数者が、民衆の統治に比べて、いちだんと立派に、また賢明に統治していたということを、だれも民衆に教えようとはしない。民主主義は、恐ろしい破滅を味わわないかぎり、民主主義の打ち負かした体制へ復帰しようとしない。なぜなら、そうすることは、みずからが劣っていることを容認することになるからである。民主主義は、ほとんど耐えがたい不幸を体験しないと、みずからが劣っていることを決して信じないのである

と述べているが、バジョットは間違っていた。

民主主義は「恐ろしい破滅を味わ」っても、「ほとんど耐えがたい不幸を体験」しても、「みずからが劣っていることを決して信じない」ことが明らかになった。

どんなにおぞましい惨禍がもたらされようとも、民衆が自由を行使する自己の資格について謙虚に省みたり、自分たちだけで秩序を形成する能力を真摯に懐疑したりすることは絶対に無い。

1789年以来、人類は治癒不能の病に罹った、あるいは永遠の呪いを掛けられたと言ってもよい。

無秩序と独裁を反復する、この衆愚政治の醜悪な機械運動はもはや人類が滅びるまで止まらないでしょう。

何をしても防ぎようが無い。

現世の多数派にほんのわずかでも懐疑的視点を持つ人間は、大衆の国家と社会が必然的に破滅するのを横目で冷笑しながら、一種の諦観を持ち静かに彼岸の救いを待つほか生きる術は無い。

この1935(昭和10)年の分岐点についてもう少しだけ書きたいので、次回に続きます。

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