万年初心者のための世界史ブックガイド

2011年7月10日

戦前昭和期についてのメモ その2

Filed under: おしらせ・雑記, 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

福田和也『昭和天皇 第四部』の記事続き。

1933(昭和)年、熱河侵攻、国際連盟脱退、塘沽(タンクー)停戦協定、滝川事件、今上天皇御生誕。

世界ではもちろんヒトラー政権成立が最大の出来事。

他に米フランクリン・ルーズヴェルト政権成立、ニュー・ディール政策とソ連承認。

日本に続き、独も連盟脱退、ソ連第二次五ヵ年計画開始。

ヒトラーが政権を奪取したこの1933年という年号はもちろん絶対暗記事項。

ムッソリーニが第一次世界大戦から間もない(休戦から4年、ヴェルサイユ条約から3年の)1922年に政権の座に就いているのに対し、ヒトラーはそこから11年も経って大恐慌の混乱を経てから首相になっている。

「ムッソリーニが2のゾロ目、ヒトラー(とルーズヴェルト)が3のゾロ目」と憶える。

このイタリアとドイツのタイムラグは、1861年イタリア統一、そこからちょうど10年目の1871年ドイツ統一、と並んで頭の片隅にイメージしておいた方が良い。

なお、この年には日本共産党最高幹部の佐野学・鍋山貞親が獄中で転向声明を発している。

田中義一政友会内閣下における、1928年三・一五事件、29年四・一六事件以後も共産党に対する苛烈な弾圧は続き、プロレタリア文学の大家小林多喜二も特高警察によって惨殺されている。

当局による徹底した弾圧と世間からの迫害が行なわれていたこの時期に共産党員として活動するためには、現在の私たちには想像もできないほどの、ほとんど超人的な勇気と自己犠牲の精神を必要としたであろう。

多喜二がそれを持っていたことは疑いない。

また、党員としての義務を果すと同時に、家族の生活を支えるため潜伏中にも関わらず、原稿執筆と発表を続けねばならず、それによって一層特高から執拗に狙われることとなった。

多喜二が殺害された後、警察署に呼ばれた母親のセキに対し刑事が、多喜二の死は「心臓麻痺による突然死」とする書類に判を押させようとしたことが記されている。

その後の描写。

寝台車は十一時近くに、小林宅に着いた。

遺体が床に横たえられると、それまで一声も発しなかったセキが叫びはじめた。

「ああ、いたましや。いたましや。心臓麻痺なんて嘘だでや。子供のときからあんだに泳ぎが巧かったのに・・・・・これ、あんちゃん。もう一度立てえ!立ってみせろ!」小林の頭を抱えて叫びつづけた。

一方、多喜二が全世界プロレタリアの祖国、人類の未来の道標であると信じ、絶対的忠誠を誓っていたであろう、同時期のスターリン体制下のソ連を、本書では少し後の章で以下のように記述している。

クリヴィツキー(『スターリン時代』の著者)による述懐。

この時期、大粛清は未だ始まっていないものの、第一次五ヵ年計画の農業集団化によってすでに数百万人の餓死者が出ている。

二年前の秋、クルクスのマリノ・サナトリウムで休暇を過ごした。

サナトリウムは、コーカサスの征服者であるプリャーチン公の邸宅を改装したものだった。

腕利きの医者と、スポーツ指導者、よく訓練された召使いがいて、休暇にはもってこいだった。

食糧も医薬品も豊富にあった。

ある日、近くの村まで散歩にいった。

村にいる子供のほとんどが半裸だった。何の衣類も身につけていない子もいた。

もうすでに寒風が吹きはじめていた。

共同組合の売店に行くと、食糧も燃料もない。

ホテルに戻り、クリヴィツキーはたっぷりした夕食を摂り、満足し、サロンに入っていった。

暖炉は勢いよく燃えている。

ふと、目を窓にむけた。

数人の子供たちがしがみついている。

ガラスに子供たちの顔がいくつもくっついて、まるで絵のようだった。

飢えた、子供の目。目。目。

パンを持ってきてやろうか、と考えて躊躇した。

「富農」の子供にパンを与えた、と批判されるかもしれない。他の客が気づいて、召使いに追い払わせた。

あの時、気づくべきだったかもしれない。

この革命は、失敗したのだと。同胞が同胞を、同志が同志を殺しあう、地獄の中の地獄なのだと。

私は、このような叙述を「左翼への意地の悪いあてつけ」だとは思わない。

著者の筆致から滲み出てくるのは、硬直した政治的立場からする一方的裁断ではなく、人間も社会も本当に一筋縄ではいかない複雑な代物だなあという静かな諦観である。

また、一年間の記述だけで一記事。

まだまだ続きます。

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