万年初心者のための世界史ブックガイド

2011年7月31日

佐竹靖彦 『項羽』 (中央公論新社)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 06:00

2010年刊。

同じ著者と出版社で、先に『劉邦』も出ているが未読。

とりあえずこれだけ読む。

通説を常に再検討し訂正しながら話を進めていく伝記。

劉邦の臣下であった陸賈の『新語』とそこから生まれた『楚漢春秋』、およびそれらを史料にした司馬遷『史記』の記述と実際の史実とのズレを考察し、さらに班固『漢書』に至ってより大胆な歴史の再編が行なわれたことを指摘している。

その例としては、項羽が天下を取った際の称号は「西楚の覇王」ではなく「楚王」だったはずだとか、項羽の最期においては「四面楚歌」ではなく「四面斉歌」という状況だったとか、「垓下の戦い」ではなく「陳下の戦い」だったとか、項羽は恐らく陳下で戦死したはずで烏江のほとりで自刃したのは史実ではない、等々。

叙述範囲は、前210年始皇帝の死から前209年陳勝・呉広の乱を経て、前202年項羽敗死と漢王朝成立まで。

なお、本書では陳勝は字(あざな)を取って、常に「陳渉」と表記。

『史記世家』でも「陳渉世家」で立てられている。)

秦末動乱と楚漢戦争の過程は、説明が丁寧なのと地図が豊富なので、類書の中ではたぶん一番わかりやすいと思います。

読んでいく上で、人名では、項羽の配下にいた范増、鍾離昧、黥布、司馬龍且、周殷、曹咎、呉芮(ごぜい)、陳嬰、呂臣など、独立的勢力としては張耳、陳余、田儋(でんたん)、田栄、秦嘉(と景駒)などをチェックするとよいでしょう。

(項羽の臣で後に劉邦に降った季布が出てこないのがやや不思議。)

上記のうち、田儋・田栄は斉の実力者ですが、斉には他にも田姓の人物がやたら出てきて、その政治的立場も様々なのでややこしいことこの上無い。

概括的記述としては、初めの方に出てくる以下の文章が非常に面白かったので引用。

周王朝が成立してから、本書で問題にする漢王朝の成立まで、一千年近い歴史を通観すれば、そこには周秦王朝の継続的成立に示されるように、そのときどきの歴史の波動を含みながらも、巨視的には一貫した西方の優位、かつて毛沢東が現代はアジアがヨーロッパを圧倒する時期であるとして、これを「東風が西風を圧倒する」と表現した言葉をもじっていえば、「西風が東風を圧倒する」という状況が存在した。

歴史的に見たときに、項羽が果した最大の功績は、この一千年にわたる西高東低の地政学的状況に終止符を打ったことであろう。かれ自身は、新しい状況をふまえた継続的な政治体制を樹立することはできなかったが、東西の統合あるいは融合の形勢はいっそう深化するとともに、地政学的な重心もまたこれに対応して東遷した。項羽の奮闘は一千年来の中国の基本的な政治状況に、最終的な変化をもたらしたのである。

この周秦一千年の東西関係の地政学は、前漢、後漢の約四百年のあいだに進行した東西の統合あるいは融合の形勢のなかで、その歴史的役割を終えた。この間に徐々に姿を現してきたのが、南北関係の地政学である。この南北関係の地政学は、前漢、後漢の約四百年の萌芽期をへて、徐々に力を増してくる北方遊牧民勢力の伸張によって、南北朝期にははっきりとその北高南低の姿を現した。

中華三千年の歴史を概観すれば、周王朝の成立以来、項羽の秦王朝打倒までの約一千年弱が西高東低の地政学の時期であり、前漢、後漢あわせて約四百年の東西融合と南北関係の確立の時期をへて、魏晋南北朝隋唐五代のこれまた一千年弱が第一次の北高南低期となる。この時期の北高南低の気象は、さまざまに入り組んだ動乱のなかで進行するが、この巨視的に見たときの過渡期をへて、宋代から清代にいたる一千年弱の北高南低の安定的な地政学的気象が確立する。ただし興味深いのは、ここで西高東低といい、北高南低というのは、政治的・軍事的優位を基準とした呼称であり、すべての時期を通じて、経済的・文化的には正反対の状況が出現していることである。

元々好きな時代を詳細に論じている本なので、私にとっては面白い。

ただし、そもそも漢楚争覇のあらましを知らない人にはあまり興味が持てないかも。

とりあえず、これまで何度勧めたか分からないくらいですが、司馬遼太郎『項羽と劉邦』(新潮文庫)をお読み下さい。

さらに気軽なものとして横山光輝の漫画『項羽と劉邦』(潮出版社)もあります。

横山氏の漫画では、有名な『三国志』よりも私はこちらの方が好きです。

これらの本で準備作業をすると、司馬遷『史記列伝』で関連する人物の伝を読むのが楽しくてしょうがなくなります。

本日までの記事数が998です。

年末の記事で申し上げた通り、1000記事目までいったら、当分更新を停止します。

残り2回は少し毛色の変わった記事を上げようかと考えています。

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2011年7月26日

戦前昭和期についてのメモ その6

Filed under: おしらせ・雑記, 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

その5に続き、福田和也『昭和天皇 第四部』(文芸春秋)より。

1936(昭和11)年、二・二六事件、広田弘毅内閣、軍部大臣現役武官制復活、日独防共協定、ロンドン海軍軍縮会議脱退(ワシントン、ロンドン海軍条約失効)。

世界では、英ジョージ5世崩御、シンプソン事件でエドワード8世退位、ジョージ6世即位(~52年)、仏ブルム人民戦線内閣、独ラインラント進駐(ロカルノ条約破棄)、西人民戦線政権とスペイン内戦、ベルリン・ローマ枢軸結成、ソ連大粛清本格化(ジノヴィエフ、カーメネフ処刑)、スターリン憲法、中国では西安事件。

日本では二・二六事件の悪影響で政治的リーダーシップが一層希薄となり、定見無く強硬策を唱えるだけの軍部がますます力を得る。

ナチス・ドイツが自国内での軍配置という形ではあるが国際条約を破棄し(ラインラント進駐)、国外(スペイン)の内戦に介入し、イタリアとの関係を固めるなど、攻撃的政策を採り始める。

それに対し英仏は迅速に対応できず、ソ連ではスターリンが狂気のような弾圧に耽る始末。

この年、米国ではルーズヴェルトが再選されているが、孤立主義的世論は根強いものがあり、さらに翌37年には不用意な財政支出削減によって米経済の再崩壊が訪れる状況。

そして西安事件により、共産党を蘇生させることを悟りつつもナショナリズムに押し流された蒋介石政権が対日融和策を放棄せざるを得なくなり、これまで通りの対中政策がもたらす危険が桁違いに高まっている状況下で、よせばいいのに、日本は日独防共協定で対独接近への第一歩を踏み出す(ただし協定締結は11月、西安事件は12月とやや時期は前後する)。

二・二六事件で殺害された三人の主要人物名は、教科書にも載ってることだし、役職名と共に憶えましょう。

高橋是清蔵相、斉藤実内大臣(前首相)、渡辺錠太郎陸軍教育総監。

岡田啓介首相は、人違いで別人(義弟だったか)が襲われ無事。

鈴木貫太郎侍従長(終戦時の首相)も重傷を負う。

事件後、皇道派は排除されるが、反って統制派の政治支配に歯止めが利かなくなる。

浜田国松議員と寺内寿一陸相の割腹問答(演説)も空しく、広田内閣下、議会主義と政党政治は後退する一方となる。

たまに右寄りの人で二・二六で蜂起した青年将校に共感を示す人がいるが、私は到底同意できない。

そうした見方に何一つ真理が無いとは言わないが、後世への悪影響があまりにも大き過ぎる。

なお、この部分では著名な人物についての意外な一面を描写している。

まず、ワシントンおよびロンドン海軍軍備制限条約失効により無条約時代に入った海軍で、山本五十六が対独接近を主導したことが記されている。

もちろんドイツと結んで米英と戦うつもりは無く(実際よく知られているように後年三国同盟と対米宣戦に反対している)、米英との関係が疎遠になった分、ドイツから軍事技術を得ることのみを目的としたものだったとされているが。

山本は海軍の理性的穏健派として人口に膾炙しているが、著者の評価はあまり高くないようである。

翌37年盧溝橋事件に際して内地師団動員に賛成し、38年第2次上海事変で出兵を主張、加えて国民政府との和平交渉打ち切りを支持した近衛内閣海相の米内光政なども、次の巻では世評に反してかなり厳しく批判されそうですね。

もう一つ、広田内閣組閣時、外相候補となりながら軍部の横槍で就任できなかった吉田茂について。

駐英大使として赴任したが、不用意に日ソ戦勃発時の英国の態度に探りを入れ、英国の疑念を招き警戒され、信任が薄くなったと書かれている。

こういう普通肯定的に見られている人物でも、問題点を指摘するのは適切だと思う。

あと、メモすることと言えば・・・・・。

ヒトラー政権は1933年から1945年まで、12年間存続。

第二次世界大戦勃発が1939年だから、「平時のナチズム」と「戦時のナチズム」は奇しくもちょうど6年ずつ。

しかし区切るのなら33~37年と38~45年で分けた方がいいか。

保守派の国防相ブロムベルクと外相ノイラートを解任し完全な独裁体制を固め、オーストリアとズデーテン地方併合で国外への本格的侵略が始まったのが38年なので。

この二つはドイツ系住民の居住地であり、ナチ政権の体質に意図的に目を瞑れば、まだギリギリ「民族自決」の美名で正当化することもできたが、39年にヒトラーが、自ら英仏に強要したミュンヘン協定すら破り、チェコ(ベーメン・メーレン)を併合しスロヴァキアを保護国化することにより、さすがにチェンバレンと西側世論の堪忍袋の緒が切れ、ポーランドへの領土保証→第二次大戦勃発ということになる。

非常に読みやすく、面白い。

短い期間が叙述範囲だが、その分一年ごとに教科書や年表で復習すると、初心者には極めて効用の高い読み方ができる。

国際情勢に関する記述は他の本で補強が必要だし、35年の華北分離工作についてまとまった記述が無いのは大きな欠点だが、他には目立つ短所は無い。

年号など細部を記憶することにより、凡庸かつ通俗的な「歴史の流れ」を受け入れるのではなく、真に意味のある「歴史のイフ」を考えることができるという意味の文章を以前引用しましたが(内田樹6)、本書に関する記事ではそれを少しは実感して頂けたでしょうか?

(と言っても、ほぼすべて、本書の見解を含め他人の受け売りですが・・・・・。)

著者の福田氏は、書く媒体によって作品の玉石混交が激しいという印象を持っていますが、これは間違いなく「玉」の方です。

熟読玩味するに足る良書。

このシリーズを基本書にして、他の本で肉付けして昭和史を学んでも良い。

お勧めします。

2011年7月22日

戦前昭和期についてのメモ その5

Filed under: おしらせ・雑記, 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

その4に続き、福田和也『昭和天皇 第四部』(文芸春秋)より。

1935(昭和10)年における日本の岐路を再び考察。

この年、日本は対英協調による幣制改革支援を拒否、華北を勢力圏下に置く政策を推進することにより、中国との全面対決路線へ向かう。

35年末の冀東政権成立と41年7月の南部仏印進駐が、それぞれ日中戦争と日米戦争の「ポイント・オブ・ノーリターン」となったとの見解を読んだことがある。

それくらい、この年の華北分離工作は致命的。

英国の宥和政策にもし乗っていれば・・・・・・。

英国とそれに続くヨーロッパ諸国の満州国承認によって、中国ナショナリズムは拳の振り下ろし所を失い意気消沈、蒋介石は対日和解を進めると共に共産党討伐を継続できる。

日本が満州国の黙認だけを求め、長城以南の中国本土には一指も触れず、治外法権撤廃や関税自主権回復などの問題でむしろ協力的態度を示せば、日中関係を安定軌道に乗せることは、この時期まだ十分可能だったはず。

スティムソン・ドクトリン(不承認政策)を掲げる米国も、こうなっては現状を黙認するほかない。

ところが実際には、低俗かつ無責任な国内世論に流され、全く逆の強硬策を採用し破滅的結果をもたらすことになる。

2年後の37年には日中戦争が勃発し、泥沼の長期戦で全く身動きが取れなくなった状態で米英との対立を深め独と接近、39年第二次世界大戦勃発、41年日米開戦となる。

35年から2年ごと、奇数年に状況が劇的に悪化しているのをチェック。

史実では、35年の対中強硬策が2年後の日中全面戦争に繋がり、政策選択の幅を異常に狭めた状態でそのさらに2年後、欧州の第二次世界大戦勃発を迎えたわけだが、この時フリーハンドを持っているのといないのとでは、天と地ほどの違いがある。

また、欧州での英仏vs独伊とアジアでの日本vs中国の各陣営が、実際の史実の通り結びつかなければならない必然性は無かったはず。

そもそも33年日本の国際連盟脱退に際して、リットン報告書採択時、日本だけが反対(タイ[シャム]のみ棄権)ということは、考えれば独伊とも日本とは反対陣営にいたということ(日本の脱退は3月、独の脱退は同年10月)。

南京国民政府はドイツから多くの軍事援助と軍事顧問団を受け入れ(ナチ政権成立後も)、そのため日中戦争初期の戦いは一面「日独戦争」の側面すら見られた(松本重治『上海時代 下』(中公文庫)参照。ドイツに言わせれば共産党討伐を続ける蒋介石を背後から攻撃することこそ日独防共協定に反するということだろうが)。

(さらに言えば必ずしも左翼的立場でない史家でも、蒋介石政権自身がファッショ的傾向を持っていたとする見方もある。)

もし35年に違った対中政策を採って37年の全面戦争が避けられていたとしたら・・・・・・。

欧州での大戦勃発に際しては、時間稼ぎをし、形勢を展望する余裕も持てたはず。

仮に史実の通り36年に日独防共協定を結んでいたとしても、独ソ不可侵条約でそれは実質白紙化されているのだから、黙ってヒトラーが滅びるのを傍観しておればよい。

何があっても軽挙妄動せず、どんな挑発にも乗らず、世界第二位(あるいは三位)の海軍力を盾にし、(史実では南部仏印進駐後くらった)石油禁輸だけは宣戦布告を意味すると大々的に宣言して米英世論に釘を刺し、ハリネズミのように極東で独自路線を貫けばよかった。

米英両国も、どうせ何もできやしません。

ナチ打倒を最優先する以上、自ら第二戦線を開く決断は、当時の米国のような桁外れの国力を持った国でも、そう簡単にはできないはず。

それで戦後ドイツ問題をめぐって米ソ冷戦が始まれば、きっと向こうから擦り寄ってきますよ。

フランコ政権下のスペインに対してもそうだったし、まして日本の国力と戦略的地位はスペインの比じゃない。

その場合の日本は、300万人の同胞が死ぬこともなく、国民政府統治下の中国と和解し、中国共産党を辺境部に逼塞させ、米英など西側諸国とは不即不離の関係を保ち、外国軍隊を国土に駐留させることもなく、自らの軍事力でソ連の脅威に対抗することになる。

国際情勢の激変を受け、国内では軍部と極端な国粋主義の勢力は後退し、政党政治が復活し、明治憲法の欠陥を一部是正した上で、正常な議会政治を運営していたでしょう。

(政党政治と議会主義の復活が即ち「民主主義の復活」であるとは、私は思わない。無思慮で矯激なだけの衆愚的匿名世論の影響を退け、少数の責任ある議員による統治に戻ることはむしろ「民主主義の後退」、あるいは控え目に言っても「直接民主制から間接民主制への移行」である。戦前日本に必要だったのはまさにこういう意味で「民主主義を抑圧し後退させること」だったはず。議会主義を民主主義とイコールだと思っている人は、議会が民意を間接的に汲み上げるための制度であると同時に、民衆の意思を直接的には反映させないための制度であることを忘れている。)

朝鮮・台湾・南洋諸島には自治が与えられ、満州国は真の独立国に相応しい内実を持つようになり、日本帝国は英連邦のような形で存続したかもしれない。

真に安定した、秩序ある自由の唯一の根源である伝統と歴史的継続性を、深い傷を負わせることなく保守し、デモクラシーの風潮を半分ではやむを得ないものとして受け入れつつ半分では主体的に拒否する選択を行なうこともできたかもしれない。

「何でそうならなかったのか???!!!」と切歯扼腕せずにいられない。

私はそういう日本に生まれたかったです。

35年は二回に分かれてしまいました。

次回36年と全体の感想を書いて終わります。

2011年7月17日

戦前昭和期についてのメモ その4

Filed under: おしらせ・雑記, 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

その3に続き、福田和也『昭和天皇 第四部』(文芸春秋)より。

1935(昭和10)年、天皇機関説問題・国体明徴声明、対中外交上の広田三原則、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定、冀東防共自治委員会(のち自治政府)設置などの華北分離工作、永田鉄山斬殺(相沢事件)。

世界では、ストレーザ戦線、伊エチオピア侵入、英マクドナルド挙国一致内閣退陣、ボールドウィン保守党内閣成立、仏ソ相互援助条約、独再軍備宣言、ザール併合、ニュルンベルク法制定、英独海軍協定、コミンテルン第七回大会で人民戦線戦術採択、中共八・一宣言、南京国民政府幣制改革、米中立法およびワグナー法。

上記の通り、教科書レベルの出来事だけ挙げても、極めて事件の多い年であることがわかる。

この1935年は国際情勢の対立構造変化の年として極めて重要。

まず、前34年のオーストリア危機を契機に英仏伊3ヵ国の反独包囲網であるストレーザ戦線が成立したかと思いきや、イタリアのエチオピア侵攻により英仏と伊が離反、独伊が接近し枢軸陣営形成に向かうという変化が最重要事項。

日本は、排日運動停止・満州国黙認・共同防共の三つを見返り無しで一方的に南京国民政府に要求する広田三原則を提示。

国民党機関を河北省とチャハル省から撤退させた上記二つの協定締結、冀東防共自治政府設置により、満州のみならず長城を超え華北までも自らの勢力下に置く姿勢を示したため、国民政府内の親日派は失墜、蒋介石も国内の過激な反日ナショナリズムを制御できなくなり、翌36年には西安事件が起こる。

日本は、33年塘沽(タンクー)停戦協定で得た、何よりも貴重な日中関係の小康と安定状態を愚かにも自ら捨ててしまう。

日中両国が排外的ナショナリズムの虜になり、妥協と冷静さを説く同国民を「売国奴」として排撃し、互いに傷つけあった結果、日本は有史以来未曾有の敗北、中国は国土の荒廃を代償にした惨勝およびその直後の共産化と、双方が致命的な破局を迎え、結局漁夫の利を得たのは米国と共産勢力のみ。

こういう歴史だけは繰り返したくないものです。

以上まとめると、欧州では英仏および独伊の各陣営が形成され始め、東アジアでは日本と中国が再び全面対決路線に向かう一方、ソ連は仏ソ条約と人民戦線戦術で西側に接近しつつも独との了解への可能性を残し各陣営を両天秤にかけ、米国は国内の孤立主義的世論に拘束されて中立を保つが同時に介入の機を窺う、というのがこの1935年の情勢。

他に補足として何点か。

7月林銑十郎陸相が真崎甚三郎教育総監を更迭し、皇道派・統制派の対立激化、相沢三郎が軍務局長永田鉄山を殺害すると林陸相辞職、後任は川島義之、この陸相の下で二・二六事件を迎える。

第一次大戦でドイツから一時分離されていたザール地方がドイツに併合されており、ヒトラー政権成立後初の領土拡大だが、これは国際協定に基づく住民投票によるものであり、別段不法なものではない。

29年労働党首班として第2次内閣を組織したマクドナルドが労働党を除名されつつ31年挙国一致内閣を成立させ、それがこの年まで続いている。

マクドナルド退陣後ボールドウィン内閣、これに続くのが37年成立し、ヒトラーに対する宥和政策で有名な(悪名高い)ネヴィル・チェンバレン内閣。

チェンバレンはボールドウィン政権にすでに蔵相として入閣しており、ボールドウィン内閣時代から上記英独海軍協定など宥和政策の萌芽が見られる。

このイギリスの対外政策に絡んで、1935年日本はその運命を決する重大な分岐点を迎えていた。

蔵相ネヴィル・チェンバレンの意を受けて、英政府最高財政顧問サー・フレデリック・リース=ロスが来日、日英が提携して中国への共同借款を供与、中国に強力な中央銀行を設立、幣制改革を遂行し、代わりに英国と中国が満州国を承認するという提案を行なう。

チェンバレンは、勃興しつつあるナチス・ドイツの脅威に対抗するには、日本との融和を進める必要があると考えていた。日本との関係を修復し、日本を国際秩序の担い手として復帰させようというのである。そのためには、イギリスとともに中国にも満州国を承認させ、その上で国際聯盟に日本を再加入させるというスケールの大きな外交戦略を抱いていた。

・・・・・・・

日本にとって願ってもない提案といってよいだろう。両国が満州国を承認してくれれば、孤立が解消されるだけでなく、満州の体制も磐石になる。たとえ、中国が承認を拒んだとしても、イギリスが承認する意味は絶大である。イギリスが承認すれば、不承認政策を掲げるアメリカは別として、他のヨーロッパ諸国が承認する可能性がある。

・・・・・・・

イギリスは、中国経済を安定させることで、自国の在中権益を守るとともに、日本との関係を改善し極東での主導権を回復させることができる。さらに日本をドイツから遠ざけて、イギリスと利害を共有させることもできる。

チェンバレンが対独宥和の数年前に行なったこの対日宥和政策に乗っていれば、日本の運命は全く変わっていたはずである。

硬直した原則論を振り回すことしか知らず、各国の対立状態を深めるだけの米国に比べ、全当事者が多少なりとも利益を得て、同意可能な現実的妥協案を出してくるところは、さすが英国外交との感想を持つ。

岡田内閣の高橋是清蔵相は即座に賛同し、提案受諾を強く主張する。

しかし陸軍のみならず、広田弘毅外相、重光葵外務次官が反対に回ると書いてあるのを読むと、「おいおい、何考えてんですか???」と言いたくなる。

重光葵というと、小学生の頃から名前を知っていた人物で、のちに不自由な身体を押しての戦艦ミズーリ上での降伏文書調印や、戦後鳩山内閣での外相就任と国連加盟達成など、平和と協調に尽くした外交官とのイメージがあり、著書『昭和の動乱』も面白く読めたが、時々妙な行動を取っていますねえ。

広田弘毅はもっと酷い。

この最初の外相就任時に、英国と協調した幣制改革への協力拒否と陸軍による華北分離工作黙認がまずあり、翌36年二・二六事件で首相に就任した後は軍部大臣現役武官制復活と日独防共協定締結、37年第1次近衛内閣で再度外相に就任するや、盧溝橋事件直後の現地停戦協定を無視して内地師団動員に賛成、トラウトマン工作を拒絶、38年「爾後国民政府を対手とせず」との第1次近衛声明を発表と、とにかく要職在任中、本当にろくな事をしていない(服部龍二『広田弘毅』(中公新書)参照)。

本書での著者の筆致は、

広田弘毅外務大臣が、とどめを刺した。「満州国の承認といったことは支那の利益にこそなれ、満州国の利益にはならない」と述べ、「いずれにしろ、イギリスが口を出すことではない」と断言した。後の展開を考えれば、広田の一言が日本を滅した、と言ってよいかもしれない。その罪は、あらゆる軍の将帥より重いと云い得るだろう。

と、驚くほど厳しいものになっているが、これはそう言われても仕方がないところでしょう。

この判断ミスは本当に致命的です。

責任感のかけらも無く、狂った多数派の意見に異を唱える穏健な人々を集団で攻撃することで得られる快感を国家の運命よりも優先する、汚らわしい衆愚どもが作り出す世論に屈従したのか。

東京裁判が正当だとか、死刑になって当然だとは全く思いませんが、やはり広田の責任は、文官では近衛に並んで重いと言わざるを得ないのではないでしょうか(上記衆愚的世論を煽った人間とそれに付和雷同した大衆が、罰することは極めて難しいが、最も罪深く嫌悪すべき存在であることは大前提として)。

岡崎久彦『重光・東郷とその時代』(PHP文庫)では日本自身の軍備拡張と満州国への投資に加えて、中国へ経済支援を与えてアジア情勢を安定させるには、畢竟日本の国力が足りなかった、このわずか数年後日中戦争開戦でかつて幣制改革で求められた額の何倍もの戦費を負担することを思えば、この時の英提案に応じるべきだったと言えるが、そこまで見通せないのが人間の常だ、と述べられている。

(ちなみに上記本では高橋蔵相はじめ大蔵省も対英協調消極派のように書かれているが、単に言葉が足りないだけか?)

とは言え、単に後知恵だと片付けるには、この時あまりに惜しいチャンスを日本は逃している。

当時の日本に必要だったのは、確固たる指針を持った責任ある少数者の指導とそれに対する民衆の信頼と服従であって、「自由と民主主義」ではないです。

粗暴で過激な意見がメディアによって何の制限もなく広められ、数の力で賢明な少数者を抹殺したことを見れば、言論の自由と民主主義はむしろその梃子になったと解釈した方がよほど実態に合っている。

左翼的言論は厳しく取り締まられていたが、右翼的言論は野放し状態で(こうした偏った自由も民衆の主体的選択によって生まれたもの)、「国体明徴」「臣道実践」など表向き右派的言辞を弄することによって、実質的には左派と相通ずる、民衆の既成支配層に対する理不尽・無責任・非道徳的で不遜な反抗がほとんど無限に正当化されてしまっている。

言論・出版の自由と社会の平等化が進行することによって政治的発言権を持つ人間の数が増えれば増えるほど、議論の質が止めどなく低下する。

粗雑な単純化と罵詈雑言と印象操作が横行し、熟慮や冷静な議論といったものが社会から一切消え失せ、大衆迎合的な煽動者と多数派民衆が作り出す衆愚的世論が権威主義的な少数派支配層を押しのけて全てを支配し、国家を乗っ取る。

社会の表面上に現れる瞬間的「民意」が絶対視され(そして世論を作り出す民衆の資質は決して問われることがなく)、それに逆らう少数派は「非国民」「売国奴」という誹謗中傷と名誉毀損に晒され、場合によっては特に愚かで凶暴な多数派分子によるテロリズムの標的にすらなる(戦後は多数派が貼るレッテルが「保守反動」「非民主的」に変わっただけ。そして最近は左翼思想の替わりに排外的ナショナリズムをおもちゃにするようになった大衆が少数派へのリンチを愉しんでいる)。

戦前日本においては、民主主義が軍国主義に取って替わられたのではなく、政党・官僚・旧財閥・宮中側近などの上層既成勢力の間接民主制が、対外強硬論と国内既成勢力打破を主張する極右革新派に煽られた下層民の直接民主制によって打倒され、その直接民主制の必然的帰結である衆愚政治が軍国主義を生んだと解釈すべき。

どんな時代にも、一貫して根底にある最大の問題はデモクラシーの暴走とその自己崩壊であり、大衆煽動に利用されるスローガンやイデオロギーの違いによって、そこから軍国主義が生れるか、ファシズムが生れるか、共産主義が生れるかはあくまで副次的問題に過ぎない(ナチについてのメモ その5)。

戦前日本は(そしてフランスもロシアも中国もドイツもイタリアも、その他1789年以降独裁と戦乱に苦しむようになった国のほぼ全ては)、民主主義ゆえに破滅したと言った方がよほど正しい(ルイ16世についてのメモ その1  同 その5)。

上記の不幸なメカニズムがあらゆる国で働いている。

前近代的専制政治が敷かれていた国でもその没落はデモクラシーの理念浸透が原因であり、秩序崩壊時には群衆心理が全てを決する状態に陥る以上、議会制度的なデモクラシーが無かったロシアや中国においても、左翼全体主義的独裁確立はやはり民主主義が生み出したものと解釈すべきもの。

近現代において民主化の進行過程をほぼ無傷で潜り抜けたのはイギリスや北欧諸国などだけで、むしろ少数派である。

民族の根本的な任務は、過去の制度を少しずつ改めつつも、それを保存することでなければならない。これは、困難な任務である。この任務を実現したのは、だいたいにおいて、古代ではローマ人、近代ではイギリス人だけであろう。(ル・ボン『群衆心理』

(ただしイギリスですらピューリタン革命とクロムウェル独裁という破局を経験している。英国史上、唯一国王のいなかった時期は、唯一独裁者に支配された時期でもある。ただしその革命政権も宗教を基盤にしていた故の歯止めが存在したことについてはローレンツ・シュタイン『平等原理と社会主義』引用文参照。さらにその後、民衆的独裁への免疫を付け、君主制と階級社会を維持しているのは大したもんです。)

アメリカはどうかと言えば、南北戦争は、正義の戦いという以前に恐るべき国家規模の破局と見なすべきだろうし(内田義雄『戦争指揮官リンカーン』)、政治党派や人種・性・宗教・財産による社会の分裂が極限まで進んだ昨今のアメリカを見るとあの国がデモクラシーの持つ「党派的暴政への不可避的傾向」(バーク『フランス革命の省察』)を免れた例外だとはとても思えない。

そして、近現代はもちろん、前近代でも国家の崩壊や社会の堕落においては、社会の上層部少数者ではなく、(自分が属するような)下層多数者の悪が主因なのではないかと、私は最近ますます疑うようになってきている。

何度も繰り返しますが、君主制や貴族制はたとえどれほど堕落しても、言葉の真の意味での全体主義的独裁を生み出すことは決して無いウィリアム・コーンハウザー『大衆社会の政治』)。

民主主義は断じて全体主義の反対概念ではなく、むしろその成立の前提条件と考えるべき。

多くの民衆が政治に参加すればするほど、国家の権限と戦争の規模は拡大し、20世紀には億を超える「政治による死」がもたらされた。

過去5000年の人類文明の歴史で大部分を占める、君主や貴族など少数者統治の時代には、こうしたことは決して起こらなかった(引用文(ニスベット1)マイケル・ハワード『ヨーロッパ史における戦争』)。

(それを、民主制下の科学技術の発達という成果の裏返しだと擁護するなら、そもそも人類の存続自体を不可能にしかねない科学技術と産業の過剰発達を「進歩」とみなすのを止め、根本から懐疑の念を差し向けるのが当然だと言いたい。またそれらの節度ある発展が君主制・貴族制下、あるいは民主制との混合政体下においては不可能だったとは信じられない。)

にも関わらず、左右の民衆的独裁の崩壊に際して、恥知らずにもそれが「民主主義の勝利」などと称される(上記の、力の割りに智慧の足りない某国が主になって)。

ウォルター・バジョットは『イギリス憲政論』の中で、

・・・・・ある社会で大衆が無知ではあるが、尊敬心をもっているという場合、この無知な階級にひとたび統治権を与えると、永久に尊敬心はもどってこない。現王朝[人民]の支配は、打倒された王朝[貴族]の支配よりすぐれているということを、煽動政治家が説き、新聞が話しかける。民衆は、自分に利害関係のある問題について、その賛否両論を聞くということはほとんどない。民衆の言論機関は、民衆に迎合的な議論ばかりをする。そしてそれ以外の言論機関は、事実上その意見を民衆の耳に入れることはできない。民衆は、自分自身に対する批判を決して聞こうとはしない。民衆が追放した教養ある少数者が、民衆の統治に比べて、いちだんと立派に、また賢明に統治していたということを、だれも民衆に教えようとはしない。民主主義は、恐ろしい破滅を味わわないかぎり、民主主義の打ち負かした体制へ復帰しようとしない。なぜなら、そうすることは、みずからが劣っていることを容認することになるからである。民主主義は、ほとんど耐えがたい不幸を体験しないと、みずからが劣っていることを決して信じないのである

と述べているが、バジョットは間違っていた。

民主主義は「恐ろしい破滅を味わ」っても、「ほとんど耐えがたい不幸を体験」しても、「みずからが劣っていることを決して信じない」ことが明らかになった。

どんなにおぞましい惨禍がもたらされようとも、民衆が自由を行使する自己の資格について謙虚に省みたり、自分たちだけで秩序を形成する能力を真摯に懐疑したりすることは絶対に無い。

1789年以来、人類は治癒不能の病に罹った、あるいは永遠の呪いを掛けられたと言ってもよい。

無秩序と独裁を反復する、この衆愚政治の醜悪な機械運動はもはや人類が滅びるまで止まらないでしょう。

何をしても防ぎようが無い。

現世の多数派にほんのわずかでも懐疑的視点を持つ人間は、大衆の国家と社会が必然的に破滅するのを横目で冷笑しながら、一種の諦観を持ち静かに彼岸の救いを待つほか生きる術は無い。

この1935(昭和10)年の分岐点についてもう少しだけ書きたいので、次回に続きます。

2011年7月14日

戦前昭和期についてのメモ その3

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その2に続き、福田和也『昭和天皇 第四部』(文芸春秋)より。

1934(昭和)年、陸相荒木貞夫辞任、後任林銑十郎、斉藤実内閣退陣、岡田啓介内閣成立、永田鉄山陸軍軍務局長就任。

世界では、独レーム事件、ヒンデンブルク死去、オーストリア首相ドルフス暗殺、ソ連国際連盟加入、キーロフ暗殺、満州国帝政実施、瑞金陥落と中国共産党の長征開始。

この辺りから陸軍内の「皇道派」と「統制派」の争い激化。

この両派の名前は適切でないという見方もあるが、初心者はとりあえずそのまま理解。

最初に名を出した荒木貞夫と真崎甚三郎を担いだ隊付将校らが皇道派。

次に、31年末犬養内閣からの陸相だった荒木の後任、林銑十郎という人を一言で言うと、「統制派のロボット(傀儡)」。

両派分立の前、陸軍中堅幹部が一団となって国家刷新を目論んでいたころトップとして担がれたのが荒木・真崎・林の三人で、党派対立が生れると、前二者と林の間に懸隔が生れる。

両派閥対立の話については、川田稔『浜口雄幸と永田鉄山』(講談社選書メチエ)の説明がわかりやすい。

この年、『国防の本義と其強化の提唱』と題する陸軍パンフレットが刊行され、統制経済推進と軍が「第三党」として政治に介入することを宣言したものだとして問題になる。

統制派の中心は陸軍軍務局長に就任した永田鉄山。

著者の永田への評価は比較的高いと思われる。

クーデタや暗殺などの暴力行為を否定し、政治家・官僚・財界と軍との協調を目指し、「高度国防国家」を徐々に成立させようとする立場。

特筆すべきなのは後年の統制派主流とは異なり、永田は「対中一撃論」に立った強硬な中国政策を支持していなかったこと。

日中対立を沈静化させ、満州国の状況を安定化させることを何より必要としていた当時、永田の存在は極めて貴重であった。

一方、皇道派は対ソ戦を最重視したため、もともと対中政策では妥協的傾向あり。

だからいっそのこと「狂信的」というイメージのある皇道派が勝った方が泥沼の日中戦争を回避できた可能性があり、むしろまだマシだったという意見もあるが、しかし不用意に日ソ戦を始めて反撃されるというぞっとするシナリオを考えると、そう単純に言えないとも思われる。

この箇所では、翌年政治問題化する天皇機関説について記述あり。

皇道派の隊付将校らは、永田らの構想する、政治家・官僚・財界人と軍人との協力によって作り上げられる「高度国防国家」における専門的軍人としてのアイデンティティ喪失を危惧。

その危機感が天皇を機関・抽象的機能とすることを拒否させた。

また明治時代には封建時代からまだ間もなく、兵は疑問を持たずに死地に赴いたが、昭和に入り近代的個人主義に目覚めると、死を受け入れるために超越的存在を求める風潮や心理状態が生まれた。

つまり「近代化が進んだからこそ、天皇機関説が攻撃されるようになった」という逆説的状況があり、このことは高橋正衛『二・二六事件』(中公新書)でも触れられていた。

あと、世界情勢について補足。

ドイツではレームら突撃隊粛清と大統領ヒンデンブルク死去によりヒトラーが独裁体制を一層固めている。

しかし対外的には順風とは言えず。

当時隣国オーストリアは首相ドルフスの統治下。

このドルフスは独裁的統治を敷いてはいたが、権威主義的価値観の持ち主で、オーストリア・ナチ党を弾圧していた。

ドイツで言うと、ブリューニング、シュライヒャーに当たる存在か。

ところが、この年オーストリア・ナチスがドルフスを暗殺。

これに対してオーストリアに野心を持つムッソリーニはヒトラーの関与を疑い、国境地帯に軍を動員して圧力をかける。

結局ヒトラーは釈明し関与を否定、オーストリアでのナチの政権奪取は失敗し、シューシュニクが首相に就任、38年の併合まで権威主義政権を維持することになる。

以上のようにこの時期のムッソリーニが明確に反独的姿勢を保っていたことは記憶しておく価値がある。

しかしこの態度は翌35年に激変し、それがムッソリーニ自身とイタリア王国を滅ぼすことになる。

ソ連では、スターリンの後継者とも見做されていたキーロフが不可解な状況下で暗殺され、これが大粛清の端緒となる。

キーロフがスターリンの指示で殺害されたとすると、まるで同年のレーム粛清に印象付けられ、それに倣ったような感すらある(実際そういう説があるようです)。

中国では、蒋介石が満州をめぐる日本との対立を棚上げして全力を挙げて共産党討伐を継続、この年、中華ソヴィエト共和国首都の瑞金を陥落させ、中共は長征という名の敗走に移る。

日中両国ともにナショナリズムを抑制してこの情勢を続けていればねえ・・・・・・。

一体どれだけの人命が失われずに済んだことか。

この記事では1935年までいくかなと思っていたが、やはり一年だけ。

やや短いですが、今日はこれまで。

2011年7月10日

戦前昭和期についてのメモ その2

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福田和也『昭和天皇 第四部』の記事続き。

1933(昭和)年、熱河侵攻、国際連盟脱退、塘沽(タンクー)停戦協定、滝川事件、今上天皇御生誕。

世界ではもちろんヒトラー政権成立が最大の出来事。

他に米フランクリン・ルーズヴェルト政権成立、ニュー・ディール政策とソ連承認。

日本に続き、独も連盟脱退、ソ連第二次五ヵ年計画開始。

ヒトラーが政権を奪取したこの1933年という年号はもちろん絶対暗記事項。

ムッソリーニが第一次世界大戦から間もない(休戦から4年、ヴェルサイユ条約から3年の)1922年に政権の座に就いているのに対し、ヒトラーはそこから11年も経って大恐慌の混乱を経てから首相になっている。

「ムッソリーニが2のゾロ目、ヒトラー(とルーズヴェルト)が3のゾロ目」と憶える。

このイタリアとドイツのタイムラグは、1861年イタリア統一、そこからちょうど10年目の1871年ドイツ統一、と並んで頭の片隅にイメージしておいた方が良い。

なお、この年には日本共産党最高幹部の佐野学・鍋山貞親が獄中で転向声明を発している。

田中義一政友会内閣下における、1928年三・一五事件、29年四・一六事件以後も共産党に対する苛烈な弾圧は続き、プロレタリア文学の大家小林多喜二も特高警察によって惨殺されている。

当局による徹底した弾圧と世間からの迫害が行なわれていたこの時期に共産党員として活動するためには、現在の私たちには想像もできないほどの、ほとんど超人的な勇気と自己犠牲の精神を必要としたであろう。

多喜二がそれを持っていたことは疑いない。

また、党員としての義務を果すと同時に、家族の生活を支えるため潜伏中にも関わらず、原稿執筆と発表を続けねばならず、それによって一層特高から執拗に狙われることとなった。

多喜二が殺害された後、警察署に呼ばれた母親のセキに対し刑事が、多喜二の死は「心臓麻痺による突然死」とする書類に判を押させようとしたことが記されている。

その後の描写。

寝台車は十一時近くに、小林宅に着いた。

遺体が床に横たえられると、それまで一声も発しなかったセキが叫びはじめた。

「ああ、いたましや。いたましや。心臓麻痺なんて嘘だでや。子供のときからあんだに泳ぎが巧かったのに・・・・・これ、あんちゃん。もう一度立てえ!立ってみせろ!」小林の頭を抱えて叫びつづけた。

一方、多喜二が全世界プロレタリアの祖国、人類の未来の道標であると信じ、絶対的忠誠を誓っていたであろう、同時期のスターリン体制下のソ連を、本書では少し後の章で以下のように記述している。

クリヴィツキー(『スターリン時代』の著者)による述懐。

この時期、大粛清は未だ始まっていないものの、第一次五ヵ年計画の農業集団化によってすでに数百万人の餓死者が出ている。

二年前の秋、クルクスのマリノ・サナトリウムで休暇を過ごした。

サナトリウムは、コーカサスの征服者であるプリャーチン公の邸宅を改装したものだった。

腕利きの医者と、スポーツ指導者、よく訓練された召使いがいて、休暇にはもってこいだった。

食糧も医薬品も豊富にあった。

ある日、近くの村まで散歩にいった。

村にいる子供のほとんどが半裸だった。何の衣類も身につけていない子もいた。

もうすでに寒風が吹きはじめていた。

共同組合の売店に行くと、食糧も燃料もない。

ホテルに戻り、クリヴィツキーはたっぷりした夕食を摂り、満足し、サロンに入っていった。

暖炉は勢いよく燃えている。

ふと、目を窓にむけた。

数人の子供たちがしがみついている。

ガラスに子供たちの顔がいくつもくっついて、まるで絵のようだった。

飢えた、子供の目。目。目。

パンを持ってきてやろうか、と考えて躊躇した。

「富農」の子供にパンを与えた、と批判されるかもしれない。他の客が気づいて、召使いに追い払わせた。

あの時、気づくべきだったかもしれない。

この革命は、失敗したのだと。同胞が同胞を、同志が同志を殺しあう、地獄の中の地獄なのだと。

私は、このような叙述を「左翼への意地の悪いあてつけ」だとは思わない。

著者の筆致から滲み出てくるのは、硬直した政治的立場からする一方的裁断ではなく、人間も社会も本当に一筋縄ではいかない複雑な代物だなあという静かな諦観である。

また、一年間の記述だけで一記事。

まだまだ続きます。

2011年7月5日

福田和也 『昭和天皇  第四部 二・二六事件』 (文芸春秋)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

第一部第二部第三部の続き。

本書の叙述範囲は、1932年五・一五事件から36年二・二六事件まで。

(この二つの年号は当然暗記事項。)

以前も書いたように、読みながら、今どの年の話をしているのかを確実に把握すること。

短いエピソードを次々積み重ねていく叙述形式で、読みやすくはあるが、その分年代をはっきり明記してある部分は少なく、ボーっとしていると現在時点をしばしば見失いがちになる。

しかも表記形式が「昭和○年」という形なので、面倒でも○に25を足して西暦「19△△年」の下二桁に換算して確認して下さい。

以下、第三部の記事と同じく、一年刻みの年表風メモ。

五・一五と二・二六、あるいは満州事変と日中戦争に挟まれたこの4~6年ほどの期間は、日本にとって一応の小康状態だが内では矯激な世論に支持された軍部の台頭、外では満州を越える華北進出により中国との全面対決路線を再び歩み始め、破局への道筋が準備されていく年月でもある。

世界ではヒトラーの政権掌握という大激変が生じ、国際対立が深まる中、日本はナチス・ドイツとの不吉な結びつきを強めていく。

1932(昭和7)年、第一次上海事変、満州国建国、リットン調査団来訪、五・一五事件、斉藤実内閣成立、日満議定書、日本国家社会党および社会大衆党結成。

世界ではオタワ会議とスターリング(ポンド)・ブロック形成、ドイツ総選挙とナチ第一党、ポルトガルのサラザール政権、サウジアラビア王国成立、タイ立憲革命。

日本の内閣は、満州事変に遭遇した第2次若槻礼次郎民政党内閣が31年12月に倒れ、犬養毅政友会内閣が成立するが、これも32年五・一五事件で倒壊。

教科書にもあるように、ここで政党内閣は終わり、戦後まで復活せず。

以後も政党員は入閣するが、首班は軍人、華族(近衛文麿)、外交官(広田弘毅)、官僚(平沼騏一郎)などになるので、あくまで非政党内閣扱い。

五・一五から二・二六までの四年間、首相は穏健派の海軍大将二人、斉藤実と岡田啓介。

前者については下の名前の読み方に注意、でしたね(「みのる」じゃなくて「まこと」)。

任期はちょうど半分二年ずつ(月まで計算するのは面倒なので無視)、32~34年が斉藤内閣、34~36年が岡田内閣。

この時期だけでなく、戦前昭和期の歴史について、初心者は、まず首相の名前と任期年度を憶えることに全力を集中。

その他、外相・蔵相・陸相・海相・(陸軍)参謀総長・(海軍)軍令部長・内大臣(内務大臣=内相にあらず)・侍従長・侍従武官長・枢密院議長・(陸軍)軍務局長等々、多数の役職に就いた様々な人名が出てくると思うが、とりあえず目に慣らしておき、複数の本を読んでいく中で、追い追い憶えていくとよいでしょう。

(かなり詳しい本でも、5、6冊で主要人物を全部憶えることは不可能だし、望ましくもない気がします。やはりある程度数をこなすことも重要。)

なお、ここで政党内閣が終焉するので、犬養・若槻以後の政友・民政両二大政党の指導者の知名度が一気に下がりますが(高校日本史レベルでは皆無)、一応名を出しておくと、政友会が鈴木喜三郎・久原房之助・中島知久平、民政党が町田忠治など。

以下、この年の記述で少し気になった細部のメモ。

溥儀が関東軍の誘いに乗り満州に帰還した際、出迎えの旗人(清朝八旗に属する者)が溥儀を二十年間待ち続けていた、と側近に言われ、感激するシーンが出てくるが、ここで「そうか、満州事変が起こったこの時点でも辛亥革命から二十年ほどしか経ってないのか、たったそれだけの期間にも関わらず清朝滅亡から何から何まで激変してるなあ」と感じた。

満州国建国とともに溥儀が「執政」となるが、これは国家元首ではあるが君主ではない。

帝政実施は34年から。

本書で満州国は当初共和政を敷いたと書いてあるのを見て、一瞬「えっ?」と盲点を突かれた気になったが、考えてみればそうとしか言い様がないし、当然そうなるか。

あと、五・一五事件直後、山本権兵衛伯爵が先帝に拝謁したと書かれているが、この方まだ存命中だったのかと意外に思った(翌33年死去。同じく拝謁した東郷平八郎元帥は34年死去)。

明治海軍育ての親として、デモクラシーの進展が何とか正常な議会主義の枠内に収まっていた大正時代に二度組閣した軍人出身政治家として、海軍青年将校がこのような事件を起こし、山本にはさぞかし無念の思いがあったろうなあと推測。

しかしその後の亡国の様を見ずに死ねたのは幸せだった。

この辺の記述を読んで、何より強く印象付けられるのは、世論の矯激さと異常性。

五・一五事件実行犯への減刑嘆願殺到や、満州国承認運動への熱狂など。

そうした世論に煽られ、この年の満州国承認問題について、対中宥和派だったはずの内田康哉(下は「やすや」ではなく「こうさい」と読むようだ 追記:と思ったら「やすや」と振り仮名を振ってる本も見つけた)外相が国会で「焦土外交」を口にするまでになっている。

翌33年の熱河作戦については、荒木貞夫陸相が満州に隣接する熱河省併合を当然視したことに対し、高橋是清蔵相が猛反発、陸軍と画一化された世論の合作を激しく非難したが、全く効果が無く、反って自身が極右テロの標的になってしまう。

 

 

何度も同じ事を書きますが、戦前の歴史への反省は是非とも必要だと私も思います。

しかし、それを「民主主義と言論の自由が抑圧されたから破局を迎えたんだ」という形でまとめるのは、やはり根本的に間違っているんじゃないでしょうか。

軍の暴走は世論の支持が無ければ絶対にありえなかった。

近代化推進の悪しき副作用として、表向き「一君万民」思想と天皇絶対主義の衣をまといながらも実はテロリズムすら容認する急進的平等主義と、現実無視の夜郎自大的な膨張的ナショナリズムが生まれ、それが明治の権威主義体制下ではどうにか抑え得たものの、大正デモクラシーで解き放たれ、昭和において国家自体を破滅させた、とイメージした方が余程実情に即しているように思える。

平等主義理念の現われのうち、共産主義という極左的運動は鎮圧することができたが、右翼革新の旗を掲げる「もう一つの平等主義者」を取り締まることは出来ず、民衆の支持を受けた彼らは事実上野放しになる。

極右的ナショナリズムは、あくまで戦前の民衆の自発的選択であり、その罪を社会の権威主義的な上層部に擦り付けても仕方ないし、むしろ上層部は抑制的要因として働いたのにも拘わらず、下からの狂信的運動によって国家が押し流されたことが本質的問題ではないでしょうか。

中学・高校の歴史の授業で「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」という大日本帝国憲法の条文を習って、「あー、法律さえあれば政府が国民の自由と権利をいくらでも制限できたのか、そりゃ軍国主義も生まれるわ」と(私を含め)多くの方が思ったでしょうが、違うんですよ。

だって昭和前期に必要だったのは、まさに極右的ナショナリズムの虜になった国民の自由を制限し、その権利を抑圧することだったんですから。

維新以降、明治政府は征韓論を退け、不平等条約の履行を拒否せず列強との漸進的交渉路線を取り、甲申事変での対清強硬論を抑え、三国干渉を苦渋の末受諾し、国力の限界を悟ってポーツマス条約を結び、満州の利権独占を図らず軍政を廃止した。

責任ある少数の指導者の決断がよく機能していたのであり、上記の事例のうち、もし一度でも表面的な世論の多数派に従っていたら、その時点で日本は破滅していた。(最後のものについてはその悪影響が完全に現われるにはやや時間がかかったでしょうが。また、征韓論の背後にあった国民全体の志操を重視する西郷的思想が退けられた結果、物質主義的近代化路線に対する歯止めが失われ、それが大正・昭和の大衆民主主義と軍国主義を生み出したというような議論があり得ることはひとまず措く。)

明治国家は衆愚的世論を抑圧し、責任感と資質に富んだ少数者間の議論を経て、複雑な情勢を見抜き厳しい決断を下すということができたが、大正期における民主化によってそれが不可能となり、昭和に入って衆愚政治の歯止めが無くなって未曾有の悲劇をもたらしたというべき。

そもそも、軍の暴走がなぜ起こったのかと言えば、その最も決定的な理由は、軍人が多数派世論の影響を受けたことであるはず。

明治期、軍が、天皇の権威を背景にした藩閥政治家の指導に忠実に従っていた間は大過無かった。

それが、大正期における民主化と大衆社会化によって通俗的世論に浸蝕され、昭和期に入ると現実無視の野放図なナショナリズムと社会的経済的危機の原因を既成支配層の悪意や怠惰のみに帰す卑劣な他罰主義に感染し、国家革新と対外的膨張主義にのめり込む。

その際、彼ら軍人は、主観的にも客観的にも、明らかに支配層ではなく民衆の側に立っている。

上層部への服従ではなく、自らの主体的判断によって行動することを是とし、自分たちへの反対は、民衆の利益に反する重臣・政党・財閥など既成支配層のエゴイズムに過ぎないのだから、それをを排除するためには何をしても許されると考えている。

表向きの観念的国体論にかかわらず、彼らにとって天皇の権威は実際上は反対派を黙らせるためのお題目に過ぎず、封建時代ではないのだから天皇個人への忠誠心など持つ必要も無いとし、先帝が具体的に何を言おうがその指示に従う義務も感じない。

このような状況があって、軍内部の下剋上と不統制に歯止めがかからなくなり、対外的軍事行動と国内のテロリズムが頻発することとなった。

つまり、軍の暴走という現象自体、民主化の一つの帰結以外の何物でもないわけです。

「戦前の日本は天皇絶対主義の非民主的国家で、自由のかけらも無い暗黒時代だった、アジア・太平洋戦争は100パーセント侵略戦争だ」という左派的見解でも、「戦前でも民主主義と言論の自由は日本独自の発展を遂げて存在していた、大東亜戦争は正義の戦いだ」という(通俗)右派的見解でもなく、「戦前の日本は大きく民主化し、民衆の自由が拡大していた、だからこそ無謀な戦争に向かい破局を迎えたんだ、ただしそれは程度の差はあれ戦勝国も同罪だ」というのが、私が近代日本思想・哲学カテゴリにあるような本を読んでとりあえず得た、暫定的理解です。

(中国の過激で非理性的な排日運動、英仏の「ソーシャル・ダンピング」という対日偏見に基くブロック経済正当化、米国の国益に基づかない情緒的親中感情とその裏返しの陰湿な反日感情および勝敗が事実上決した後での無差別都市爆撃と原爆投下による日本人非戦闘員大量虐殺等々がまさに戦勝国の「偏狭な世論」が成さしめたもの。狂信的世論が共産革命という極左的形態で爆発・固定化し、国自体が完全に全体主義化していたソ連は言うに及ばず。)

要するに、戦前の日本を民主主義という立場から批判しても全く意味が無いんですよ。

現在と比べてもはるかに厳しい経済・社会状況に民衆が置かれていたのも事実だが、だからといって極右的急進主義の虜になったことが正当化されるはずもない。

単純・粗暴・愚劣・低俗な意見が大衆的メディアにより爆発的に増殖し、「真の民衆意志の体現者」と称するデマゴーグが言論の自由を最大限利用して大衆煽動により民衆世論の表面的多数派を作り上げ、社会の上層的地位にある人々を無責任に罵倒・攻撃し、そうした「国民の総意」に逆らう穏健な少数派を言論の暴力と物理的テロリズムによって社会的に抹殺する。

数の力で異論は捻じ伏せられ、恐怖心によって社会全体に沈黙の連鎖が広がり、煽動者によって操作される群衆心理が社会のあらゆる権威の上に立ち絶対的支配権を振るう。

右派的民族主義を旗印に掲げることをすべての免罪符にする狂信的民衆の自由を制限する手段もなく、社会の大衆化と平等化によって牙を抜かれた国家は為す術なく「世論」の軍門に下り、無思慮・愚劣な政策が誰にも止められないまま行なわれ続け、ついに国家の破滅に至る。

すると今度は、(建国の父たちの精神も忘れ民主主義を金科玉条視する)頭の単純な勝者に免罪されたのをいいことに、民衆世論は破局の責任を自分たちが行動を強制した社会の上層部に押し付け、今度は全く逆の左派的教条にのめり込んだわけです。

戦後、愚劣極まりない親共産主義的傾向と最低限の自衛力すら否定する空想的平和主義に囚われた民衆運動が何度も何度も下から国家を揺さぶり、危機的状況を招き続ける。

それが戦前のような完全な破局に繋がらなかったのは単なる僥倖に過ぎない。

「戦前の反省」を言うなら、何より上記のような構造を繰り返さないよう、自省すべきではないでしょうか。

その場合、世論の表面上のスローガンが右か左か、なんてことには囚われないようにしたい。

ここ十年近く、また、責任意識と自己抑制を一切欠いた低俗な似非ナショナリズムという、戦後とは逆の教条主義が大衆煽動に利用されているようなので。

以下のような言葉もあることですし。

同じ流儀の口実や同じ態様の害悪を二つの時代が持つことは滅多にありません。人間の邪悪さはもう少し発明の才に長けていて、人が流儀を論じ合っている間にもその流儀は過ぎ去ってしまいます。まさに同一の悪徳が新しい姿を装うのです。悪徳の精は生れ変り、外見の変化によってその生命の原動力を喪失するどころか、新しい器官を得て、新たに青年の行動の如き新鮮な活力を恢復するのです。人が死体を晒し者にし、墓を発いている間にも、それは大手を振って歩み、破壊を続けるのです。家が盗賊どもの棲家になっているというのに、人は幽霊やお化けを勝手に恐がっています。歴史の貝殻や外皮にだけ目を奪われながら、しかも自分は非寛容や高慢や残酷さと戦っているのだ、と思っている人間は皆このようなものです。彼らはその一方で、時代遅れな徒党の悪しき原理に対する憎悪という彩の下に、同じ唾棄すべき悪徳を別の―しかも恐らくはより一層悪い―徒党の中に是認し涵養していることになるのです。エドマンド・バーク『フランス革命の省察』より)

司馬遼太郎さんの近現代史観というと、一昔前、例の「自由主義史観」が出始めた頃は模範に採り上げられ、その運動が大きくなると逆に「自虐的」といって非難の対象になりました。

その是非は別にして、ただ今でも強く印象に残っているのが、確か『この国のかたち』で、ポーツマス条約に反対する日比谷焼打ち事件をもって、日本の帝国主義は誕生した、と書いてあったこと。

日露戦争時の政府や軍をめぐるあれこれの動きではなく、興奮状態に陥った群集の暴動に近代日本の悪しき起源を代表させる見方に鮮やかな印象を受けた。

今考えても、さすが何が一番本質的な問題なのかよくわかってらっしゃると感嘆する。

条件反射的な左翼批判を繰り返す一方、昨今の右派的ポピュリズムの醜悪さには完全に目をつぶる態度より、こういう認識の方がよほど「保守的」だと思います。

この方が「文芸春秋」や産経新聞(!)にエッセイを書かれていた頃は、今思うとまだ幸せな時代でしたねえ。

グダグダ書いてたら、最初の一年だけでこの有様。

少し前のベルナール・ヴァンサン『ルイ16世』(祥伝社)の記事みたいになりそうです。

書く方も疲れますが、読む方もうんざりでしょう。

まあ更新停止まで長くないし、あと少しだけお付き合い下さい。

(追記:続きは以下

戦前昭和期についてのメモ その2

戦前昭和期についてのメモ その3

戦前昭和期についてのメモ その4

戦前昭和期についてのメモ その5

戦前昭和期についてのメモ その6

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