万年初心者のための世界史ブックガイド

2011年6月9日

正村公宏 『日本の近代と現代  歴史をどう読むか』 (NTT出版)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

この方の著作では、かなり前『経済学の考え方』(講談社学術文庫)を通読済み。

本書は幕末・明治維新から現在までを330ページほどにまとめた日本近現代通史。

こういう本は細かな具体的史実を知ることは出来ず、史的解釈の面でも毒にも薬にもならない凡庸な教科書的通史になりがちであるが、本書は一応著者による独自の解釈が加えられた、メッセージ性を含んだ、特色あるものとなっている。

明治から終戦までの「近代」において、日本が近代化と国家の独立維持に成功しながら、領土と勢力圏の野放図な拡大を志向するようになり、遂に敗戦に終わったのはなぜか、また終戦から現在に至る「現代」において、驚異的な経済成長を遂げながら、まもなく経済の不均衡と社会の危機という様相を呈するようになったのはなぜか、という二つの問題を設定し、それを常に念頭において記述されている。

その考察においては、左右の極論を避けた冷静な議論がなされているとは思うが、しかしどうも民主制に対する根本的懐疑には欠けているのではないかと感じる部分も少なからずあった。

とは言え、読み進めていくと、所々示唆に富む文章に出会う。

以下、ポイントとなる文章の引用と感想。

近代の日本の政治においては、誰が最終的に国家の針路を決定しているのか、誰が最終的に責任を負っているのかが、不明確であった。拡張された選挙権も、広く普及するようになった新聞やラジオも、国家の暴走を抑止する方向に機能せず、かえって国民を戦争に動員する方向に機能した。選挙権の拡大は、マス・コミュニケーションのセンセーショナリズムを増幅させ、強硬な対外政策を唱える人間の言動を刺激した。

多くの新聞は、慎重で周到な外交路線の模索を「軟弱外交」と呼んで攻撃し、強硬な対外政策の選択に向けて国民を扇動した。議会の有力政党は、ほかの政党に対抗して政権を奪取するために有効であると判断される場合には、国家主義者や軍部と同調する道を選んだ。

民権の拡張は必ずしも統治の有効性を高めない。国民の多数が内外の課題について的確な理解をもたない場合、広い範囲の国民に選挙権を与えることは、近隣諸国に対する干渉や領土の拡大を目指す戦争に国民を動員するナショナリズムの影響力を強め、国際情勢の冷静な分析にもとづいて慎重な対外政策の必要を説く勢力を孤立させる可能性がある。

著者のこのような認識は非常に透徹したもので大いに頷けるものがあるが、それにも関わらず著者は民主制の進展は将来の大きな方向性としては間違っていないという考えのようで、それは全編に一貫している。

そこが私の考え方と大いに異なる点であった。

近代以降、民主化と平等化がほとんど不可避であり、押し止めることのできる可能性は間違いなく万に一つも無いだろうが、それが望ましいとは思わないし、それを諸手を挙げて歓迎して能天気に構えているとまた20世紀前半のような破局を招き寄せる気がしてならない(ただし著者には上記のような懐疑的視点も大いにあるが)。

しかしたとえ民主的価値観を前提にするとしても、例えば大臣の呼称は「臣」の字があるから好ましくないというような、単純左翼じみたことをおっしゃる必要は無いんじゃないでしょうかと言いたくなる。

1889年憲法には「内閣」という言葉も「総理大臣」という言葉も出てこない。「国務大臣はいつでも衆議院と貴族院議院に出席して発言することができる」「国務大臣は天皇を輔弼する」という規定はあるが、国務大臣を任命する手順についての規定はない。「天皇が文武官を任免する」という一般的規定にもとづいて処理されることが想定されている。・・・・・・11月29日の帝国議会の開会とともに憲法が施行され、12月24日に山県有朋内閣が発足し、新しい内閣官制が公布された。各大臣の単独輔弼が強調され、内閣を統括する首相の権限が弱められた。政府の責任の所在を不明確にするこの規定は、近代の日本の政府の機能不全のひとつの要因になった。

大日本帝国憲法の欠陥としては、統帥権の独立を別格にすれば、天皇主権や国民の権利制限よりも、上記の通り、首相の権限が明確に記されておらず、それが一般の法律において弱い形で規定されていたことこそが致命的だったと思える(伊藤博文についてのメモ その1参照)。

本書くらいの厚さの概説書で、以上のことをしっかり指摘しているのは珍しい。

また、統帥権について。

皇帝または国王が統帥権や外交権をもっている制度も特異なものではなかった。例外はイギリスであった。イギリスでも1860年代までは議院内閣制の政府が軍に対する統帥権をもっていなかった。1850年代のクリミア戦争を契機にこの制度の欠陥が指摘され、自由党のグラッドストン内閣が1872年に統帥権を陸軍大臣(国会議員のなかから首相が任命する文民)に帰属させた。この改革に対してヴィクトリア女王は激怒したといわれている。

こういう重要事実は君塚直隆『ヴィクトリア女王』(中公新書)などでも読んだ覚えが無い(忘れてるだけかも)。

議院内閣制と文民統制があたかも「自動的に」と言いたいくらい、順調に発展してきた印象のあるイギリスだが、やはり時には軋轢の生じる改革を一歩一歩積み重ねることによってそうした体制が生れたのであり、その上に現在に至る王室の安泰と社会の安定があるんだなと実感。

こうした事項を詳しく叙述した史書が欲しいものです。

やや細かい具体的記述では、政党史を少しメモ。

1881年板垣退助結成の自由党が84年にもう解党、86年大同団結運動、87年三大事件(地租軽減・言論集会の自由・対等条約締結)建白運動を経て、90年第1回総選挙後、愛国公党(板垣ら)、再興自由党(大井憲太郎・85年大阪事件で検挙された人物)、大同倶楽部(河野広中)、九州同志会が合同して立憲自由党結成、これが翌91年「立憲」がとれて自由党になる(だから「立憲自由党」は90~91年に存在しただけ)。

それ以前の自由党系政党史を述べると、1873年征韓論政変、74年愛国公党、74年立志社(土佐)、75年愛国社(大阪)、80年国会期成同盟、81年(明治十四年の政変と同年)自由党結成。

大隈重信らの改進党系は、明治十四年政変の翌年82年に立憲改進党(これは元から「立憲」が付く)、84年大隈脱党、91年復党(大隈は、この脱党期間、88~89年外相として入閣、条約改正交渉を行なっている)96年進歩党に改称、そしてこの進歩党と自由党が合併して98年憲政党結成、同年隈板内閣成立という流れになる。

次にいきなり、先の大戦にまで飛んで、以下の文章。

自由と民主主義の擁護と普及はアメリカ政府に関してさえ戦争目的のひとつの側面にすぎなかった。20世紀のアメリカ政府が諸強国による中国の実質的な分割支配につながる勢力圏拡大競争を牽制して「門戸開放・機会均等」を主張しつづけ、日本の中国侵略に厳しい態度を示した重要な動機のひとつは、アメリカ人の世界における活動舞台の維持と拡張という国益の追求であった。イギリスの場合は海外の植民地の維持が重要な意味をもっていた。

本書では、「遅れてきた帝国主義国」日本が、脱植民地の潮流が強まった20世紀前半に、その流れを理解できず露骨な帝国主義的拡張政策を採ったことを厳しく批判しているが、同時にこういう戦勝国側の問題点も忘れずに指摘している所は大変良いと思う。

この本でも結局複数記事を書くことになってしまいました。

更新停止まであとわずかのこの時期に、別に記事数稼ぎをしているつもりはないんですが、思ったよりメモしたい部分が多かったので。

戦後史の部分は続きます。

(追記:続きはこちら→戦後昭和期についてのメモ その1

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