万年初心者のための世界史ブックガイド

2011年3月4日

マイケル・サンデル 『これからの「正義」の話をしよう  いまを生き延びるための哲学』 (早川書房)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

このブログではよくある、「おいおい、どこが世界史ブックガイドなんだよ」という記事。

ブームになってから随分経つが、県立図書館の貸出予約がようやく減ってきたので借りられたという次第。

ハーヴァード大学の学部生向け政治哲学講義を基にした本。

政治と道徳をめぐる問題について現代の具体的事例と理論的考察を常に往還しながら、議論を進めていく構成。

第1章、全体の導入部、正義の基準として何を重視するかについての三つの考え方を提示。

まず(1)幸福(の最大化)を追求する功利主義。

次に(2)自由(の尊重)を優先するアプローチ。

この「自由」派で現在優勢なのは市場主義的なリバタリアニズム(自由至上主義)だが、著者は一見それとは全く対照的なリベラル的平等主義者もこのグループに属するとしている。

リバタリアンが自由市場で人々が行う現実の選択を尊重するのに対し、リベラル的平等主義者は平等な原初状態において人々が行うはずの仮説的選択を想定し重視するがゆえに平等の主張を導き出しているとしている。

最後が(3)美徳(の涵養)を重視するコミュニタリアニズム(共同体主義)で、本書の主張もこれに基く。

第2章、功利主義の検討。

ベンサムに代表される考え方とその限界について述べる。

その思想に基き、あらゆるものを社会全体の快楽と苦痛の計算で判断すると、少数派の抑圧や社会の質的低落をしばしば無視することになる。

その欠陥を是正しようとしたジョン・ステュアート・ミルの努力は、実際功利主義自体の枠を乗り越えた概念に依存せざるを得なかったことなどを叙述。

第3章、リバタリアニズムの紹介、フリードマン、ハイエク、ロバート・ノージック(『アナーキー・国家・ユートピア』の著者)など。

リバタリアンの言うように、自分を自分自身の完全な所有者と見なすと、合意による殺人と人肉食(実際そういう例がドイツであったそうです)のように、どうしても正当化し難い事例への非難の根拠が無くなることを指摘。

第4章、前章に続き、リバタリアンが絶対視する市場が、不可避的に道徳的限界を持っていることを述べる。

富裕国が貧困国に代理母妊娠を委託するビジネスや奴隷売買の例を挙げ、各個人の「無制限の自己所有権」という考え方に反対している。

第5章、ここではカントの著『道徳形而上学原論』を採り上げ、その正義観を論ずる。

カントは、上記(1)幸福、(2)自由、(3)美徳の各アプローチの中では「自由」派に属する。

しかし、その自由観・正義論はリバタリアンとは全く異なる。

カントは、ある時点での利害、必要性、欲望、選好といった経験的理由を道徳の基準にすべきではないと言う。こうした要因は変わりやすく、偶然に左右されるため、普遍的な道徳原理(普遍的人権など)の基準にはとうていなりえない。選好や欲望(たとえ幸せになりたいというものでも)を道徳原理の基準にすると、道徳の本質を見誤るという根本的問題である。

われわれは自由を、何にも妨げられずに、したいことをすることだと考えがちだが、カントの考えは違う。カントの自由の概念は、もっと厳しく要求が多い。

道徳については義務と傾向性、自由については自律と他律、理性については定言命法と仮言命法、観点については英知界と感性界を対比し、それぞれ前者に価値を置く。

第6章、カントと同じく、(2)自由のアプローチを採りながらリバタリアンとは全く異なる考え方を展開するジョン・ロールズ(『正義論』著者)の思考紹介。

まず原初的社会契約における「無知のベール」という有名な想定。

次に社会で最も不遇な人々の利益になるような不平等のみを認めるという格差原理。

続いて以下四つの社会原理を比較。

1.封建制度=生まれに基く固定的階級制度。

2.自由主義=形式的機会平等を伴う自由市場。

3.実力主義=公平な機会平等を伴う自由市場。

4.平等主義=ロールズの格差原理。

個人の才能については、どんな才能が社会的に評価されるのかは自己決定の範囲外で時代情勢や偶然に左右されるし、個人的努力についても、その少なからぬ部分が生育環境や遺伝的特質に負う以上、努力や才能は個人の完全な所有物ではなく、実力主義社会は必ずしも公正な社会とは言えないとして、著者はロールズの平等主義を評価している。

第7章、アメリカで長年喧しい問題となっているアファーマティブ・アクション(少数派優遇措置)をめぐる論争について。

第8章、アリストテレスの正義論。

ここから(3)美徳のアプローチに入る。

まずアリストテレスの考え方を目的論的思考と定義。

これは、公正・正しさに関する問いを名誉・徳・道徳的真価から切り離すようになった近代以降衰退した考え方。

近代における分配の正義が所得・富・機会に関するものなのに対して、アリストテレスにおいては地位と名誉の分配こそ重要であった。

こんにち、われわれは、政治を特有の本質的目的を持つものとは考えず、市民が支持できるさまざま目的に開かれているものと考える。だからこそ、人びとが集団的に追求したい目的や目標をその都度選べるようにするために、選挙があるのではないだろうか?政治的コミュニティにあらかじめ何らかの目的や目標を与えれば、市民がみずから決める権利を横取りされることになる。誰もが共有できるわけではない価値を押しつけられるおそれもある。われわれが政治に明確な目的や目標を付与するのに二の足を踏むのは、個人の自由への関心の表われだ。われわれは政治を、個人がみずから目的を選べるようにする手続きと見ている。

アリストテレスは政治をそのようには見ない。アリストテレスにとって政治の目的は、目的にかかわらず中立的な権利の枠組みを構築することではない。善き市民を育成し、善き人格を養成することなのだ。

あらゆる都市国家(ポリス)は、真にその名にふさわしく、しかも名ばかりでないならば、善の促進という目的に邁進しなければならない。さもないと、政治的共同体は単なる同盟に堕してしまう・・・・・。また、法は単なる契約となってしまう・・・・・「一人ひとりの権利が他人に侵されないよう保証するもの」となってしまう――本来なら、都市国家の市民を善良で公正な者とするための生活の掟であるべきなのに。

アリストテレスには奴隷制容認のような、現在から見て明白な誤りもあったにも拘わらず、リベラル派の選択と合意の倫理に従うよりも、アリストテレス的な目的と適性の倫理に従った方が、より社会の道徳的基準の厳格化に資する場合もあると、著者は示唆している。

残り2章は次回。

(追記:続きはこちら→正義論についてのメモ

広告

WordPress.com で無料サイトやブログを作成.

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。