万年初心者のための世界史ブックガイド

2011年2月27日

戦前昭和期についてのメモ その1

Filed under: おしらせ・雑記, 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

坂野潤治『日本政治「失敗」の研究』(講談社学術文庫)の記事続き。

第四章「戦前日本の『平和』と『民主主義』―1919~37年」。

この章は上記年代の時期の日本政治史をバッサリ整理する内容。

本書では一番面白い。

まず、ワシントン体制を受け入れた原敬政友会内閣が国内では男子普通選挙に反対し、それに対して憲政会が普選を主張しながら対外政策では旧日英同盟的帝国主義外交路線を維持していたという、一種のズレ、ねじれを指摘。

それが、1924年護憲三派内閣と25年憲政会単独内閣(そしてかつて第二次大隈内閣外相として21ヵ条要求を行った加藤高明首相の死)以降はこのズレが解消し、憲政会(および民政党)において「平和(協調外交)」と「民主」がセットになったと評される。

これに対し、以後保守化した政友会は、31年軍部が起こした満州事変を事実上支持した。

見方を変えると、自由主義政党(憲政会・民政党)が親米派となり、保守政党(政友会)が親英派になったとも言える。

すなわち憲政会・民政党がアメリカの主張する対中不干渉・門戸開放に従う傾向があったのに対し、政友会は満蒙権益の断固維持と拡大を目論む傾向があった。

それが「親英」だと言うのは、政友会が「英米可分論」に立っていたからだとされる。

米国が中国に大きな権益を持っていない分、現実離れした不干渉政策に固執したのに対し、租界を持ち広範囲な貿易を行う英国はむしろ旧来の帝国主義外交に近い政策を取ることが多かった。

蒋介石の北伐に伴う1927年南京事件での英国の強硬姿勢とこの時期日本の若槻内閣における幣原外交の柔軟姿勢を想起。

だから田中義一政友会内閣が1927~28年に行った山東出兵は単独行動主義の表れではなく、実は対英協調を志向するものとして解釈することもできると、確か井上寿一『昭和史の逆説』(新潮新書)に書いてあった。

幣原外交の評価も難しいところがあって、英国など列強に先んじて中国ナショナリズムに妥協的姿勢を取ったのはいいにしても、それが当時の日本が絶対譲れない満州権益の排除まで向かったときには袋小路に陥り、列強はそれをただ傍観し日本に同情もしないという状況になってしまったという見方もできる。

かと言って、何が何でも強硬路線を貫くのが良かったとも思えませんが。

著者は民政党を一貫して政友会より高く評価しているが、その「民主」があくまで19世紀的自由主義の範囲に留まり、経済的平等には無関心だったことを厳しく指摘している。

以下、重要と思われる部分を引用。

満州事変に際してのアメリカの対日経済制裁論をイギリスが抑えたことにより、それ以後の日本の中国政策は、「英米可分論」を前提とするにいたった。満州事変後の日本の中国政策は、排日運動の中止、満州国の黙認、赤化共同防止を謳った広田(弘毅)三原則に代表されるが、それが「英米可分論」と南京政府の反共親日性とを前提とするものであったことは、これまでの研究で明らかにされている。

1932年五・一五事件から36年二・二六事件までの四年間は斉藤実・岡田啓介の海軍穏健派内閣。

この時期、衆議院で三分の二の議席を有しながら、五・一五事件で政権を追われた政友会が解散回避。

戦前昭和に関する政治史研究では総選挙に示される国民の意向というものは、ほとんど視野の外に置かれてきたが、その一因は原因と結果の読み違いにある。1932年2月から36年2月までのいわゆる挙国一致内閣期の対外政策が、著しくエリート外交の色彩を帯びていた最大の原因は、この四年間に総選挙が一度も行われなかったことにあったので、総選挙に示される民意が戦前の日本で無力であったからではないのである。

「英米可分論」と南京政府の反共性とにひたすら依頼したエリート外交は、1935年6月の第一次華北進出と11月の第二次華北進出とにより、まず南京政府の離反に遭遇した。井上寿一氏の研究は、この二つの現地軍の華北侵略の間に、それを抑えて広田外交を何とか支えていた永田鉄山軍務局長の斬殺があったことを重視している(井上寿一『危機のなかの協調外交』山川出版社1994年)。同じ頃、イギリスからの南京政府に対する共同経済援助提案を日本が受け入れなかったことにより、日英関係も変化を示しはじめた。イギリスが独力で中国の幣制(貨幣制度)統一を助けたことは、イギリスと南京政府の関係を強めた。同じときに、日本陸軍は満州に続いて華北分離のための軍事行動を起こした。英中が接近し、日中が離反するという状況にアメリカが加われば、ワシントン体制は日本を除いて復活する。1935年の東アジア情勢は、その前夜の状況を呈していたのである。

1920年代初頭ワシントン体制成立、20年代後半に中国の革命外交がそれを動揺させ英国(時には米国とも)衝突、日本の幣原外交はそれを忍従したが中国ナショナリズムの標的が満州権益にまで向かうと堪えきれず31年満州事変勃発、しかし連盟脱退にも関わらずこの時期にはまだ主に英国の理解を得て事態を沈静化させることができたが、35年以降の華北分離工作により再び中国との正面衝突路線を歩み始め、ついに37年日中全面戦争勃発、米英中に袋叩きにされる状況に陥った、というふうにイメージ。

日本にとっては満州事変よりも35年冀東防共自治政府設置など華北への進出が致命的誤りだった。

国外において「平和(協調外交)」が後退したこの時期、日本国内では政党内閣終焉で逼塞していた「民主」が再び高揚。

36年2月20日第19回総選挙で民政党圧勝、社会大衆党躍進(この直後二・二六事件)、37年4月30日第20回総選挙で社会大衆党がさらに躍進(この年7月7日には盧溝橋事件)。

当時の日本政治における選択として、既成政党と無産政党を含む大同団結による反戦反ファッショの「人民戦線」か、軍部に親和的で国防と国内改革重視の「広義国防論」の対立があったとしている。

しかし37年7月日中戦争勃発がすべてを押し流す。

国際的には米英中ソが接近し大陸での軍事行動を拡大させた日本は孤立、対英協調和平は不可能となり、国内では否応なく総力戦体制が整備されていく。

だるい・・・・・・。

そんな厚い本でなくても、内容主旨メモはきつい。

以後端折ります。

第五章「戦前日本の『民主化』の最終局面―1936~37年」。

36~37年、戦前日本で最後の民主化高揚局面での民政党の社会政策への無理解が、社会大衆党を親軍的傾向に押しやったとしている。

あと37年初頭、広田弘毅内閣退陣の際、政友会と民政党が提携し宇垣一成組閣運動を起こしたが、この政党勢力の最後の奮闘も空しく、実際は陸軍統制派の傀儡である林銑十郎内閣を経て近衛文麿内閣が成立、よりによってこの責任感に乏しい首相の下、盧溝橋事件を迎えることになる。

第六章「天皇側近の敗北と国際連盟脱退―幻の御前会議」。

以下の総括的文章だけ引用。

これまで強調してきたことは、戦前日本における「平和」と「民主主義」のための努力であり、「社会民主主義」の可能性である。戦後の日本の近代史学のように、戦前日本を「戦争」と「国家主義」と「国家社会主義」だけで描き続ければ、今日の日本人は「平和」と「民主主義」と「社会民主主義」の追求に当たって、自国の「伝統」を味方につけられなくなるからである。今日の保守派とリベラル派の歴史論争の大きな特徴は、保守派だけが「伝統」をもち、リベラル派はその「伝統」を否定して自派の根拠を戦後民主主義に求めている点にある。「平和」と「民主主義」と「社会民主主義」を、戦後60年の根の浅い「伝統」としてではなく、明治維新以来140年の「伝統」として位置づけ直そうというのが、本書を一貫する狙いである。

終章は序章と同じく省略。

本書は私とは考え方の違う部分も多いです。

上記のような「民主主義の伝統化」という考えは非常に面白いと思うが、しかし結局「国家主義」も「国家社会主義」も(そしてそれらに弾圧された左翼的社会主義も)「民主」から派生したものに過ぎないのではないかと感じる。

だがそんな見解の相違で捨てるにはあまりに惜しい内容を持つ本。

読んでいくと頭の中がスーッと整理されるような爽快感を味わえる。

ただしある程度の基礎事項は事前に理解しておかないと、良さがわかりにくいと思います。

想像するに、本書は同じ著者の『昭和史の決定的瞬間』などとも内容が重複している部分が多そうですね。

どれか一つ読んで、自分に合うかどうか試してみるといいでしょう。

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