万年初心者のための世界史ブックガイド

2011年2月9日

塩野七生 『ローマ人の物語38・39・40 キリストの勝利』 (新潮文庫)

Filed under: ローマ — 万年初心者 @ 06:00

単行本14巻目の文庫化。

叙述範囲は、337年コンスタンティヌス1世(大帝)の死から395年テオドシウス1世(大帝)死去後の帝国東西分裂まで。

単行本の巻辺りから、ほぼ毎巻、「進行ペースが遅いなあ、本当に15巻で収まるのか?」と思っていたが、結局残り1巻を残した時点で4世紀末まで来た。

476年西ローマ帝国滅亡を終着点と考えると、「最終巻で百年弱残すのみか、それなら余裕だな」と思う(しかし結局、全巻の末尾は違う時点でした)。

登場皇帝はコンスタンティヌス2世、コンスタンティウス2世、コンスタンス、(ダルマティウス、ハンニバリアヌス、マグネンティウス、ヴェトラニオ、)ガルス、ユリアヌス、ヨヴィアヌス、ヴァレンティニアヌス1世、ヴァレンス、グラティアヌス、ヴァレンティニアヌス2世、テオドシウス1世。

括弧内はごく短期間在位した副帝あるいは僭帝。(と説明するとガルスも括弧に入れないといけなくなるから不正確か。まあいいや。)

最初の三人はコンスタンティヌス大帝の子。

昔、モンタネッリ『ローマの歴史』(中公文庫)で、

まあできたことはしょうがないにしても、せめて三人の息子にもう少しまぎらわしくない名前をつけておいてくれてもよかったのではなかろうか。

と書いてあるのを読んで、笑ってしまった。

ダルマティウス、ハンニバリアヌスとガルス、ユリアヌスはその3人のいとこ。

マグネンティウスは西方帝国を一時簒奪した僭帝、ヴェトラニオはその際ごく短期間自立した人物(そもそもヴェトラニオは他の皇帝と同じように名前を挙げるのは不適当かもしれない)、ヨヴィアヌスはユリアヌス没後中継ぎ的に短期間在位。

ヴァレンティニアヌス1世が兄、ヴァレンスが弟、1世の子がグラティアヌスとヴァレンティニアヌス2世。

テオドシウス1世はヴァレンティニアヌス朝の血縁ではないが、ヴァレンティニアヌス2世の妹ガラとのちに結婚。

本書前半で最も長く在位したのはコンスタンティウス2世。

このコンスタンティウス2世については、猜疑心が強く冷酷であっても、曲がりなりにも20年以上帝位を保ち、外敵の撃退と帝国の統一に努力した人物として一定の評価をする見方もあるのでしょうが、本書での評価はかなり低い。

それに対して続いて正帝に登位した「背教者」ユリアヌスはなかなかの高評価。

これは著者のキリスト教に対する態度からして予想できたことだが、ただし絶賛一辺倒ではなく、専業の聖職者階級創設という形で異教復興を図ったこと、補給兵站およびアルメニア王国への外交交渉を軽視してペルシア遠征を行ったこと(結局これが命取りになったが)については批判的。

しかし、本書前半部の主役はやはりこの人でしょう。

昔、エドワード・ギボン『ローマ帝国衰亡史』(ちくま学芸文庫)を読んでいて、その物語の面白さには熱中しつつも、出てくる皇帝の多くが愚劣・醜悪・残忍・卑小であり、その所業の描写にややうんざりしていた。

そこでユリアヌスが登場し、「お、久々に事前に名前を知っている皇帝だが、こいつはどんな愚行と醜態を見せてくれるのかな」と思いきや、『衰亡史』全編を通じて最も好意的に描かれ称賛されているのに大変驚いた記憶がある。

続いて読んだ辻邦生『背教者ユリアヌス』(中公文庫)でも真摯で良心的で禁欲的な賢帝として描かれており、強い印象を受けた。

その後、バワーソック『背教者ユリアヌス』(思索社)のような批判的書物も読んでやや冷静になったが、それでも現在も好きな歴史人物ではある。

だから本書での叙述も普通なら素直に受け入れられるはずなのだが、どうも引っ掛かる面がある。

『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫)の記事でも書いたことですが、本書でも度々繰り返し説かれる、「一神教=不寛容、多神教=寛容、ゆえに前者の台頭と後者の退潮によってローマ精神は衰微した」という図式があまりに平板に感じられてならない。

もちろん、そうした面も多々あったには違いないんでしょうが、チェスタトンを読むと全く別の視点もあり得るのではないかと思ってしまう。

別にクリスチャンでもないんですが、単純なキリスト教批判には同意できない気がする。

なお、この時代のキリスト教史で注意すべきなのは、アリウス派の優勢という現象。

高校世界史では325年ニケーア公会議→アタナシウス派三位一体説勝利→異端とされたアリウス派はゲルマン人に布教という記述だが、実際にはコンスタンティヌス大帝の側近聖職者にはアリウス派が多数おり、コンスタンティウス2世は明確にアリウス派寄りの姿勢を見せていた。

カトリックの三位一体説が完全に定着するのはキリスト教が国教化されたテオドシウス1世時代。

この人は、ディオクレティアヌス、コンスタンティヌス1世と並んで高校世界史でも名前の出る後期帝政の重要三皇帝の一人であり、ギボンでも帝国の最後の支柱といった感じの記述だが、本書での存在感は驚くほど薄い。

最後の巨人皇帝というより、この時期西方帝国での最有力聖職者であるミラノ司教アンブロシウスの操り人形といっても過言ではないような描写である。

このアンブロシウスはアウグスティヌスやヒエロニムス、(カエサリアの)エウセビオスと違って高校世界史では出てこないが、重要人物であることは間違いないので要記憶。

なお、ローマ司教(教皇)ではなく、ミラノ司教であることもチェック。

当時はアッティラと同時代人であるレオ1世がローマの首位権を主張する前だし、ゲルマン布教で教皇位の重要性を増したグレゴリウス1世(位590~604)も遥か先。

まして五本山(ローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、イェルサレム、アレクサンドリア)のうち後ろ三つがイスラム勢力下に入ることなど想像だにできない時代なので。

他にメモすることといえば、テオドシウス帝の内乱鎮圧について。

西方でマクシムスの反乱が起こり、グラティアヌス帝が殺害される。

このマクシムスを東方正帝テオドシウスが打倒し、グラティアヌスの異母弟のヴァレンティニアヌス2世を西方帝に据える。

ところがこのヴァレンティニアヌスも反乱で殺害され、テオドシウスが再度西方遠征で第二次内乱を鎮圧する。

この第二次内乱を起こしたのがアルボガステスという将軍とその傀儡である皇帝エウゲニウスなのだが、両者の名前が本書ではなぜか全く出てこない。

本書くらいの叙述レベルなら、名前を出さないのは相当不自然に感じる。

加えて表記で気になるのが、主にユリアヌス帝時代の部分のみが残っている史書を書いたアンミアヌス・マルケリヌスという歴史家がいるのだが、この人が「アミアヌス」と書かれている。

塩野氏はトラヤヌスをトライアヌスと書いたり、コンモドゥスをコモドゥスとしたり、慣用となっているカナ表記を無視する傾向があるんですが、これはどうも悪い癖だなあと思ってしまう。

また、この巻からゲルマン民族の本格的大移動が始まりますが、オストロゴートが東ゴート、ヴィシゴートが西ゴートであると括弧して書いてないのは不親切。

最近このシリーズの記事では毎回同じ事を書いてますが、要領よく史実をまとめ、読みやすい物語に仕立ててくれていることは認める。

初心者にとってはそれだけで十分貴重。

しかし逆に言うと、このシリーズ後半三分の一は結局それだけかなあと・・・・・。

歴史解釈や史観において、感銘を受けるとか目の冴える思いがするといった体験は全くと言っていいほど無い。

全巻を通じた、ローマの巨視的な衰亡原因といっても、「敗者を滅ぼさずに自らに同化させる」というローマ人の精神と生き方が前期帝政時代までは機能していたが、それが行き過ぎて、全自由民に自動的に市民権が与えられるようになって獲得権が既得権に変化し公的献身へのモチベーションが失われたとか、そんなことくらいしか読み取れない。

(私がボーっと読んでいるせいかもしれないが、他には官僚・軍隊の肥大化と重税の悪循環とかありきたりのことしか思いつかない。)

実はこの巻から買うのも止めました。

本シリーズだけじゃなく、この方のエッセイもねえ。

現在の問題についてあれこれお書きになってますが、首を傾げたり、場合によっては顔をしかめたりすることが多いです(もちろん全てではないですが)。

昔みたいにそれを有難がる心境から遥かに離れてます。

同じ歴史作家でも司馬遼太郎さんのエッセイは全く逆で、以前違和感を感じていたのが、今は深い感銘を覚えるものが多いです。

『風塵抄』なんて産経新聞で連載してたとは思えないほど品位のある文章。

「人品の差かなあ・・・・・」なんて言うと怒られますけど、そういうこともつい口走りたくなります。

毎度毎度身の程知らずの偉そうな言い方で恐縮ですが、このシリーズをお読みになるのは全く不都合ありませんが、そこに留まることなく是非続いてギボン『衰亡史』を手に取って頂きたいです。

ファンの方には鬱陶しい事ばかり書きまして、申し訳ございません。

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