万年初心者のための世界史ブックガイド

2011年2月27日

戦前昭和期についてのメモ その1

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坂野潤治『日本政治「失敗」の研究』(講談社学術文庫)の記事続き。

第四章「戦前日本の『平和』と『民主主義』―1919~37年」。

この章は上記年代の時期の日本政治史をバッサリ整理する内容。

本書では一番面白い。

まず、ワシントン体制を受け入れた原敬政友会内閣が国内では男子普通選挙に反対し、それに対して憲政会が普選を主張しながら対外政策では旧日英同盟的帝国主義外交路線を維持していたという、一種のズレ、ねじれを指摘。

それが、1924年護憲三派内閣と25年憲政会単独内閣(そしてかつて第二次大隈内閣外相として21ヵ条要求を行った加藤高明首相の死)以降はこのズレが解消し、憲政会(および民政党)において「平和(協調外交)」と「民主」がセットになったと評される。

これに対し、以後保守化した政友会は、31年軍部が起こした満州事変を事実上支持した。

見方を変えると、自由主義政党(憲政会・民政党)が親米派となり、保守政党(政友会)が親英派になったとも言える。

すなわち憲政会・民政党がアメリカの主張する対中不干渉・門戸開放に従う傾向があったのに対し、政友会は満蒙権益の断固維持と拡大を目論む傾向があった。

それが「親英」だと言うのは、政友会が「英米可分論」に立っていたからだとされる。

米国が中国に大きな権益を持っていない分、現実離れした不干渉政策に固執したのに対し、租界を持ち広範囲な貿易を行う英国はむしろ旧来の帝国主義外交に近い政策を取ることが多かった。

蒋介石の北伐に伴う1927年南京事件での英国の強硬姿勢とこの時期日本の若槻内閣における幣原外交の柔軟姿勢を想起。

だから田中義一政友会内閣が1927~28年に行った山東出兵は単独行動主義の表れではなく、実は対英協調を志向するものとして解釈することもできると、確か井上寿一『昭和史の逆説』(新潮新書)に書いてあった。

幣原外交の評価も難しいところがあって、英国など列強に先んじて中国ナショナリズムに妥協的姿勢を取ったのはいいにしても、それが当時の日本が絶対譲れない満州権益の排除まで向かったときには袋小路に陥り、列強はそれをただ傍観し日本に同情もしないという状況になってしまったという見方もできる。

かと言って、何が何でも強硬路線を貫くのが良かったとも思えませんが。

著者は民政党を一貫して政友会より高く評価しているが、その「民主」があくまで19世紀的自由主義の範囲に留まり、経済的平等には無関心だったことを厳しく指摘している。

以下、重要と思われる部分を引用。

満州事変に際してのアメリカの対日経済制裁論をイギリスが抑えたことにより、それ以後の日本の中国政策は、「英米可分論」を前提とするにいたった。満州事変後の日本の中国政策は、排日運動の中止、満州国の黙認、赤化共同防止を謳った広田(弘毅)三原則に代表されるが、それが「英米可分論」と南京政府の反共親日性とを前提とするものであったことは、これまでの研究で明らかにされている。

1932年五・一五事件から36年二・二六事件までの四年間は斉藤実・岡田啓介の海軍穏健派内閣。

この時期、衆議院で三分の二の議席を有しながら、五・一五事件で政権を追われた政友会が解散回避。

戦前昭和に関する政治史研究では総選挙に示される国民の意向というものは、ほとんど視野の外に置かれてきたが、その一因は原因と結果の読み違いにある。1932年2月から36年2月までのいわゆる挙国一致内閣期の対外政策が、著しくエリート外交の色彩を帯びていた最大の原因は、この四年間に総選挙が一度も行われなかったことにあったので、総選挙に示される民意が戦前の日本で無力であったからではないのである。

「英米可分論」と南京政府の反共性とにひたすら依頼したエリート外交は、1935年6月の第一次華北進出と11月の第二次華北進出とにより、まず南京政府の離反に遭遇した。井上寿一氏の研究は、この二つの現地軍の華北侵略の間に、それを抑えて広田外交を何とか支えていた永田鉄山軍務局長の斬殺があったことを重視している(井上寿一『危機のなかの協調外交』山川出版社1994年)。同じ頃、イギリスからの南京政府に対する共同経済援助提案を日本が受け入れなかったことにより、日英関係も変化を示しはじめた。イギリスが独力で中国の幣制(貨幣制度)統一を助けたことは、イギリスと南京政府の関係を強めた。同じときに、日本陸軍は満州に続いて華北分離のための軍事行動を起こした。英中が接近し、日中が離反するという状況にアメリカが加われば、ワシントン体制は日本を除いて復活する。1935年の東アジア情勢は、その前夜の状況を呈していたのである。

1920年代初頭ワシントン体制成立、20年代後半に中国の革命外交がそれを動揺させ英国(時には米国とも)衝突、日本の幣原外交はそれを忍従したが中国ナショナリズムの標的が満州権益にまで向かうと堪えきれず31年満州事変勃発、しかし連盟脱退にも関わらずこの時期にはまだ主に英国の理解を得て事態を沈静化させることができたが、35年以降の華北分離工作により再び中国との正面衝突路線を歩み始め、ついに37年日中全面戦争勃発、米英中に袋叩きにされる状況に陥った、というふうにイメージ。

日本にとっては満州事変よりも35年冀東防共自治政府設置など華北への進出が致命的誤りだった。

国外において「平和(協調外交)」が後退したこの時期、日本国内では政党内閣終焉で逼塞していた「民主」が再び高揚。

36年2月20日第19回総選挙で民政党圧勝、社会大衆党躍進(この直後二・二六事件)、37年4月30日第20回総選挙で社会大衆党がさらに躍進(この年7月7日には盧溝橋事件)。

当時の日本政治における選択として、既成政党と無産政党を含む大同団結による反戦反ファッショの「人民戦線」か、軍部に親和的で国防と国内改革重視の「広義国防論」の対立があったとしている。

しかし37年7月日中戦争勃発がすべてを押し流す。

国際的には米英中ソが接近し大陸での軍事行動を拡大させた日本は孤立、対英協調和平は不可能となり、国内では否応なく総力戦体制が整備されていく。

だるい・・・・・・。

そんな厚い本でなくても、内容主旨メモはきつい。

以後端折ります。

第五章「戦前日本の『民主化』の最終局面―1936~37年」。

36~37年、戦前日本で最後の民主化高揚局面での民政党の社会政策への無理解が、社会大衆党を親軍的傾向に押しやったとしている。

あと37年初頭、広田弘毅内閣退陣の際、政友会と民政党が提携し宇垣一成組閣運動を起こしたが、この政党勢力の最後の奮闘も空しく、実際は陸軍統制派の傀儡である林銑十郎内閣を経て近衛文麿内閣が成立、よりによってこの責任感に乏しい首相の下、盧溝橋事件を迎えることになる。

第六章「天皇側近の敗北と国際連盟脱退―幻の御前会議」。

以下の総括的文章だけ引用。

これまで強調してきたことは、戦前日本における「平和」と「民主主義」のための努力であり、「社会民主主義」の可能性である。戦後の日本の近代史学のように、戦前日本を「戦争」と「国家主義」と「国家社会主義」だけで描き続ければ、今日の日本人は「平和」と「民主主義」と「社会民主主義」の追求に当たって、自国の「伝統」を味方につけられなくなるからである。今日の保守派とリベラル派の歴史論争の大きな特徴は、保守派だけが「伝統」をもち、リベラル派はその「伝統」を否定して自派の根拠を戦後民主主義に求めている点にある。「平和」と「民主主義」と「社会民主主義」を、戦後60年の根の浅い「伝統」としてではなく、明治維新以来140年の「伝統」として位置づけ直そうというのが、本書を一貫する狙いである。

終章は序章と同じく省略。

本書は私とは考え方の違う部分も多いです。

上記のような「民主主義の伝統化」という考えは非常に面白いと思うが、しかし結局「国家主義」も「国家社会主義」も(そしてそれらに弾圧された左翼的社会主義も)「民主」から派生したものに過ぎないのではないかと感じる。

だがそんな見解の相違で捨てるにはあまりに惜しい内容を持つ本。

読んでいくと頭の中がスーッと整理されるような爽快感を味わえる。

ただしある程度の基礎事項は事前に理解しておかないと、良さがわかりにくいと思います。

想像するに、本書は同じ著者の『昭和史の決定的瞬間』などとも内容が重複している部分が多そうですね。

どれか一つ読んで、自分に合うかどうか試してみるといいでしょう。

2011年2月25日

坂野潤治 『日本政治「失敗」の研究』 (講談社学術文庫)

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『自由と平等の昭和史』『明治維新 1858-1881』に続く坂野氏の本。

戦前昭和期における史実の整理・解釈と、政権交代・二大政党制・社会民主主義勢力の復権など、21世紀初頭の日本政治の課題とを常に対比しながら論じる。

紹介部の序章は飛ばして、まず第一章「敗者の栄光―日本の社会民主主義」。

本書全体の論旨を示す、以下の文章がある。

著者の立場は・・・・・いわば「敗け組史観」とでもいうもので、ここ十数年にわたって著者の歴史分析を貫いてきた視点である。日本の近代政治史を、各時代における「勝ち組」を積み上げて見ていけば、保守派全盛の近代史像しか出てこない。天皇制絶対主義や超国家主義の歴史がそれである。しかるに各時代ごとにその渦中に身を置いて歴史を描き直せば、結果としての「敗け組」も、相当いい線までいっていたことが分かってくる。「国家主義者」や「超国家主義者」に対抗して、自由主義者も民主主義者も社会民主主義者も、結構善戦していたのである。彼らは存在していなかったのではなく、善戦空しく敗退しただけである。

こうした「敗け組」の歴史をつなげていけば、明治維新から太平洋戦争にいたる約70年の「伝統」は「天皇を中心にした神の国」(森元首相)の「伝統」だけではなくなる。・・・・・

[しかし]それぞれの時点で日本の民主化につとめた人々が、自己に先行する民主主義者の努力に全く関心を払わなかったのである。彼らは「民主化」にはつとめたが「民主主義の伝統化」には全くつとめなかったのである。

第二章「天皇制と共産主義に抗して―吉野作造」。

吉野作造の民本主義がプロレタリア独裁と共産主義には断固反対しつつ、社会民主主義には近いものであったことを記述。

自由民主主義者としての吉野に一貫していたのは、硬直した国体論に立つ藩閥・官僚・軍部などの勢力との戦いと共に政党勢力の中での政友会一党優位体制への批判。

1900年結成の政友会は、1924年護憲三派内閣成立までの24年間でわずか2年間を除き、衆議院第一党の地位を占め、同じ期間内閣の与党もしくは準与党でありつづけたとの指摘がある。

1898年板垣自由党と大隈進歩党が合併して憲政党ができるが、同年即破綻、大隈派が憲政本党として分離。

残部の憲政党が伊藤博文と政友会結成。

これに対抗するのが元老・枢密院・貴族院・軍部の権威主義勢力。

政党勢力主流の政友会と権威主義勢力が交替で政権に就いたのが、1906年以降の「桂園時代」。

(今、ふと思ったんですが、その割には西園寺内閣のことは普通政党内閣とは言いませんね。何でだろ?政党員の閣僚が少なかったから?)

その末期、第3次桂太郎内閣で、1910年立憲国民党と改称していた政党勢力非主流派の旧憲政本党を中心に桂が1913年結成したのが立憲同志会(ただし同志会への合流を拒否した犬養毅を中心に立憲国民党自体は存続。22年革新倶楽部へ改組)。

これは保守的な藩閥(とはもうこの時期には言わないのか。しかし教科書で見た覚えはあるからやはりこれでいいのか。)・権威主義勢力が作った政党にも関わらず、吉野は二大政党制確立の観点から歓迎。

大正政変で桂退陣、後任で政友会を与党とする第1次山本権兵衛内閣が1914年シーメンス事件で倒れると、続く第2次大隈内閣を元老・陸軍が推す内閣にも拘わらず吉野は支持。

1916年寺内正毅超然内閣成立に当たっても、政権奪取を試みない政友会を批判。

吉野は一貫して政友会に厳しく、立憲同志会とそれに続き加藤高明を中心に1916年に結成された憲政会に期待をかけ続ける。

そして実際、大正末年から、最初権威主義勢力の肝煎りで作られた同志会=憲政会が進歩的勢力となり昭和に入り民政党を結成、それに対して政友会は保守化するという逆転現象が見られるようになる。

この章の他の内容としては、吉野の民本主義と美濃部達吉の天皇機関説の対比について。

吉野が「政治論」として天皇主権をあっさり認めたのに対し、美濃部は「法律論」から国家主権説と天皇機関説という「解釈改憲」を編み出す。

しかし美濃部の「解釈改憲」では明治憲法12条の「編制大権」は内閣の統制下に置くことが出来たが、11条の「統帥大権」の内閣からの独立は否定できなかった。

それに対して吉野は11条、12条双方を政治論として否定できた、みたいな意味のことが書いてある。

第三章「分権システム下の民主的リーダーシップ―ロンドン軍縮協定」。

まず、1926年憲政会総裁でかつて対華21ヵ条要求を主導した加藤高明の死を契機に、憲政会の外交方針が自主外交・対中干渉から協調外交・対中不干渉路線に変化し、逆に政友会は協調から自主外交に変化するというクロス現象を指摘。

1927年憲政会が元の反護憲三派の政友本党と合併して民政党を結成、それを与党にした1929~31年の浜口雄幸内閣がロンドン海軍軍縮条約を締結するための苦闘を描写している。

「戦前=軍国主義=独裁」という皮相的イメージと違って、明治憲法は分権的で、むしろ首相・内閣のリーダーシップがなかなか貫徹されない状況。

輔弼機関たる内閣と協賛機関の立法府の一致だけでは不十分。

陸軍参謀本部と海軍軍令部という統帥についての輔弼機関があり、その他枢密院・軍事参議官会議という諮詢機関もある。

このロンドン条約で言うと、軍の編制に関することについては内閣の輔弼事項のはずが、「軍令部条例」では編制も軍令部の輔弼事項としており、それが混乱を引き起こす元となる。

浜口内閣がこれら機関の反対を抑えて、条約批准にまで持っていく様が描かれている。

例によって続きます。

(追記:続きはこちら→戦前昭和期についてのメモ その1

2011年2月23日

湾岸産油国についてのメモ その2

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その1に続き、松尾昌樹『湾岸産油国』(講談社選書メチエ)より。

7章「湾岸産油国の未来」。

著者はこれまでも、大学の講義や講演会において、本書の内容と同様の議論を紹介してきた。幸いなことに、受講者の多くはその内容を理解してくれるのだが、最後には決まって一部から同じ質問が出された。「お話はよく分かりました。ところで、湾岸産油国の君主制はいつまで維持されるのですか」と。

当然のようになされるこの質問は、実は大きな問題を含んでいる。すなわち、なぜこのような問いが当然のようになされてしまうのか、ということだ。まさか、アメリカの現代政治に関する講演を聴いた人が、「オバマ大統領の政策はよく分かりました。では、アメリカの大統領制はいつまで続くのですか」と質問することはないだろう。湾岸産油国のような統治体制、経済社会体制が、近いうちに崩壊すると頭から決め付けられているということが大きな問題なのだ。

誤解を招かないように最初に明言しておくと、著者は湾岸産油国の体制転換を前提とすることを否定することで、これらの諸国に対して過度に肯定的な評価を与えようとしているのではない。現地調査を行い、それぞれの「生の」地域の情報を用いて研究活動を行う地域研究者の一部には、自分が研究対象とする地域に対する批判(特に西洋の価値観に基く批判)を受け入れずに、その地域を肯定的に説明する傾向があるといわれる場合がある。中東地域研究者の池内[恵]は、このような傾向に「肯定的本質主義」という名称を与えて説明した。池内によれば、一部の中東地域研究者が、一方では中東地域の社会を批判的に捉える言説を「ヨーロッパ中心主義」や「オリエンタリズム」として退け、他方で中東地域を欧米とは異なる「オルタナティブ」として持ち上げるため、結果として建設的な批判が成立しなくなる状況が生じているとされる。「肯定的本質主義」は批判と賛同をあわせて多くの議論を巻き起こしたが、どちらの立場に立つにせよ、地域研究者は池内の主張を肝に銘じておかなければならないだろう。

非民主的な政治体制が存続することが奇妙な現象であり、そのような現象は近い将来に崩壊するはずだという見方・・・・・に対して著者が懐疑的なのは、それがヨーロッパ中心主義に基いているからではない。・・・・・「崩壊説」に根拠がないと考えられるからで、・・・・・民主化を歴史の必然のごとく捉える必要はないということだ。確かに地球上の多くの君主制は崩壊したが、今日でも非民主的な共和国は多く存在し、また一度は民主化したと評価された国が、その後権威主義化するという事態も確認されている。「民主化するはずだ」という前提は、「民主化して欲しい」「民主化しなければならない」という願望や理想と区別することができず、論理的な考察につながらない。

このように述べるのに加えて、著者は湾岸産油国の現体制の多くがそう簡単に崩壊しないと判断する具体的理由を列挙している。

そのうち、石油枯渇説については、確かに小規模輸出国には脅威であるが、生産量の減少に伴う価格上昇は大規模輸出国にとっては有利な条件であり、そのような状況下では大規模輸出国よりも日本を含む輸入国の方が先に危機を迎えるはずであり、「崩壊説」はより危機の可能性の高い国が低い国の将来を悲観視する奇妙な見方だとしている。

また湾岸諸国の急速な経済成長へのやっかみが「崩壊説」の流行に繋がっているのではないかとも書いている。

奇しくもちょうどこの記事を書いてる最中に、湾岸産油国を含む中東地域で大きな変動が起こっているわけですが、ここで個人的感想を書くと、我々から見て極めて奇異で望ましくない体制であっても、基本的に外部からとやかく言うのは控えるべきだと思われる。

もし圧力をかけて民主化した場合、著者も指摘するように過激なイスラム主義勢力が自由選挙で躍進したり、国内の利害対立が制御不能となり内戦が勃発したり、その後往々にして民主化前の政府よりも遥かに抑圧的な体制ができたりしても、民主化を唱導した外部の人間が責任など取りようもない。

どこかの国みたいに、その時はその時で、再び自由の使徒面で新たな非民主国家を非難するだけで、後は平然としているような厚顔無恥な真似はしない方がいいでしょう。

王制国家ではないものの、最近チュニジアとエジプトで大きな政治的変化がありましたが、世界史を真摯に省みれば「民主化されて全てが目出度し目出度し」なんて単純な物語は全く成り立ちようがないと思うんですが・・・・・。

ムバラク体制を崩壊させた民衆運動を無条件で称揚するような言説に接すると、「その体制の源流である1952年のエジプト革命も民衆の歓呼の声で支持されたんじゃないんでしょうか」と嫌味の一つも言いたくなる。

「中東における民主主義の勝利」が、暴走する民意を基盤にした、別種の新たな独裁政治を生み、五度目の中東戦争の契機になる可能性も十分ある(その場合、頑迷にも和平を拒否してきたイスラエルと、それを放置し中東民主化を安易に称揚した米国は自業自得の大損害を蒙るんでしょう)。

もちろん現体制で国際常識・慣習を超える抑圧があった場合、そこからの政治的難民や亡命者を受け入れるのは正しいことだと思いますが。

それに一支配家系の統治といっても、北朝鮮のような「失敗国家」、全体主義体制とは全く異なるでしょうし。

余談ですが、北朝鮮のことを、国名は「民主主義人民共和国」なのに実態は「金王朝」だと揶揄することがありますが、そういう言い方はあまり感心しません。

本当の前近代的王朝なら、あれほどの悪政を敷く前にとっくの昔に打倒されてますよ。

無制限の自由や平等を追求する運動があり、それが生み出した伝統破壊と無秩序の中から出現した独裁だからこそ、権威主義体制ではありえない、途方もない暴虐を為し得る。

近代においてうんざりするほど多いこの実例の一つであることを思えば、「朝鮮民主主義人民共和国」という国名はある意味適切です。

ついでに言えば、中国の現体制を民主主義に反するとして批判する言説にも実は違和感を感じる。

そもそも人間社会の一切の不平等を永遠に消滅させると称して民衆の相当数の支持を得た狂信的運動から生まれた体制を果たして民主主義という立場で根本から批判できるのかという疑念がまず一点。

特に保守とか右派とかを自称している人々が米国の尻馬に乗って自由や民主主義を絶対視するのを見ると、ちょっと言うを憚るような感情を持つ。

加えて、「あの国が民主化して、本当に大丈夫か」とも正直思う。

言論の自由と民主主義が生み出したカオス状態から、制御不能な内乱や今より遥かに過激なナショナリスト政権がもし生まれたら、真っ先に被害を受けるのは日本ですからね。

それにこの30年間、最低限度の程度の自由が認められたからこそ、中国の民主化運動が広く報道されるようになったとも言える。

つまり、様々な抑圧と制限があるにせよ、民衆が抗議の声を上げ、それが国外で報道されるということは、逆説的だがその国が自由の一切無い完全な全体主義国家でないことを証明している。

改革開放路線以前の中国なら、今存在しているレベルの民主運動家すら、即座に闇から闇へ葬られていたはず。

朴政権の権威主義体制下の韓国と、金日成独裁の全体主義体制下の北朝鮮で、西側のメディアで表面上非難の対象になる頻度は(実際の抑圧度とは全く逆に)、前者の場合が遥かに多かった。

ミャンマー(ビルマ)の軍事政権は、自由抑圧とアウンサン・スーチー氏への扱いに関して、常に国際社会から批判されている(さすがの私もあの体制が結構なものだと言うつもりはございません)。

しかし北朝鮮にはスーチー氏はいない。

いたとしても一日たりとも生存することはできない。

よって、国家の抑圧的性格について、ミャンマーと北朝鮮では極めて大きな差があるはずだが、言論の自由が保証されているはずの国のメディアでその違いが明確にされることは殆ど無い。

中東でも、チュニジア、エジプト、湾岸諸国と、それらより遥かに異常な独裁国家であるリビアとの対比についても上記のような事情がごく最近までは当てはまる。

(リビアでも反体制運動勃発が報道されているものの、映像がここ1、2日くらいまであまり伝わってこなかったことが、表面的イメージとは逆に抑圧の厳しさを窺わせる。カダフィ政権の異常性があまりに際立っているので、私はあの国の体制変換だけは[実現するならば]ほぼ手放しで肯定的に捉えることができると思うが、それも収拾不可能な混乱・内戦とアルカイダ系のテロ組織浸透という最悪の事態が生じないということを前提にしての話。)

私は中国共産党にいかなる意味でも一切好意を持たないが、あの国は事実として全体主義ではなく、すでに権威主義の段階にある。

放っといても長続きしませんよ、あの体制は。

国益を考えず民主化の慫慂を自己目的にするようなことは止めた方がいいと思いますね。

むしろ民主化以後に何が出てくるかを警戒して慎重に対処することを考えた方がいいでしょうし、そもそも自分たちの自由民主主義の現状がそんなに誇るに足るものなのか自省すべきではないでしょうか。

閑話休題。

中々よくまとまっていて面白い。

短いページ数にも関わらず、効用は高め。

知識の不十分な分野を補強するのに十分使える。

岡倉徹志『サウジアラビア現代史』(文春新書)と相互補完できるのも、ちょうど良い。

お勧めします。

2011年2月21日

湾岸産油国についてのメモ その1

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松尾昌樹『湾岸産油国』(講談社選書メチエ)の記事続き。

第2章の具体的国家形成の叙述より。

まずオマーンから。

この地域ではウマイヤ朝崩壊期の749年以来、イバード派による国家が断続的に存続してきた。

18世紀半ばに現王朝ブー・サイード朝が成立。

この王朝でイマームに就任したのは初代のみ、以後は世俗有力者として統治。

18世紀末以降、イギリス東インド会社および英領インド政府と密接な関係を持つ。

現UAEの湾岸地域では諸勢力が海上交易権をめぐって抗争を繰り広げる。

イギリスはこれら勢力を「海賊」と規定し攻撃、19世紀前半に数度の「休戦条約」を強要したため現状固定化の効果を持つ。

結局19世紀後半に現UAEとバーレーンの首長勢力は実質イギリスの保護国となる。

このため湾岸への勢力拡大の道を閉ざされたオマーンのブー・サイード朝はザンジバルなどに進出し、東アフリカ海上帝国を建設することになる。

(そのことは以前三省堂の世界史教科書の記事でちょっと触れてますね。ただ時期が「19世紀初頭」と書いているが・・・・・・。よくわからん。)

以後オマーンでは継承争いと内乱が続き、衰退、20世紀初めにはここも実質英保護国に。

17世紀半ば、アラビア半島中央部ナジュド地方からアラブ人の一派ウトゥブ族が移動を開始し、カタール・バーレーンを経由してクウェートへ移住。

18世紀後半までにサバーハ家がクウェート支配を確立。

他のウトゥブ族の一部はカタールへ再移住。

1783年カタールのウトゥブ族のうちハリーファ家がペルシアから(年代から判断するとサファヴィー朝の後のアフシャール朝か?カージャール朝は1796年成立。)バーレーンを奪取。

しかし1780年代末からサウード・ワッハーブ王国の攻撃を受け、ハリーファ家はカタールを放棄し、征服したバーレーンへ避難。

カタールではサウード王国、オスマン帝国、復帰を目論むハリーファ家のせめぎ合いの中からサーニー家が台頭。

なお、上記サウード・ワッハーブ王国は1744年頃建国し、1818年エジプトのムハンマド・アリーによって一時滅亡、1823年再建されるが1889年再度滅亡、イブン・サウードが1902年リヤドを奪回して再々建国、1924年ヒジャーズ王国(「フサイン・マクマホン協定」のフサインが1916年建てた国)を滅ぼして、一語加えたヒジャーズ・ネジド王国を建設、それが1932年サウジアラビア王国に改称という流れでしたね。

18世紀末からサウード朝の脅威を受けたクウェートのサバーハ家は19世紀後半オスマン帝国を支配者として承認し自家の実質統治権を得るが、19世紀末には親オスマン政策から親英政策に転換、1899年英保護国化。

カタールのサーニー家もハリーファ家復帰を阻止するため当初はオスマン帝国に頼ったが、これも英国に乗り換え、1913年オスマンは領有権を放棄し英保護国に。

第二次世界大戦後、石油生産が本格化。

まず1961年クウェートが独立。

1968年イギリスがスエズ以東からの撤退を声明。

1967年第3次中東戦争でのイスラエルの圧倒的勝利によってアラブ民族主義の勢いに陰りが見えており、それが急進的民族主義勢力による体制転覆を恐れる湾岸君主国にとっては幸いした。

1971年にバーレーン、カタール、UAE、オマーンが独立。

第2章の歴史的経緯のおさらいをするだけでこれだけかかった。

長過ぎるので、以後の章はかなり端折ります。

本書副題にもある「レンティア国家仮説」とは、外生的で非稼得性の高い収入(レント収入)が国内経済に密接に関係しない形で直接政府に流入することで租税収入に依存しないレンティア国家が成立し、そこにおける国民はアメリカ独立運動の標語をもじって言えば「課税なくして代表なし」という状態に置かれ、それが湾岸諸国において経済発展が民主化に結びつかない状況を説明するというもの。

我々の一般的イメージからすると、こういう国家には当然あまりいい印象を持たないが、著者の視点はあくまで中立的。

次に「王朝君主制」。

これは通常の君主制とは区別された概念。

君主が単独で統治するのではなく、支配家系が君主と一体になり、内閣の要職、特に首相・内務相・防衛相など「主権の諸省」を占めて統治する形態のこと。

これは支配家系内部で交渉によるポストの配分を行うことにより内部紛争を抑止し、外部からの脅威には団結して対抗する分、強靭な体質を持っている。

中東に過去存在したが現在は崩壊したエジプト・イラク・リビア・イラン・アフガンの君主制と湾岸産油国の王朝君主制が対比して検討されている。

現在、中東の反政府運動の波に湾岸諸国も洗われているわけですが、果たしてどうなるか・・・・・・?

「国民統合」について言えば、君主と国民の間には、石油・天然ガスによるレント収入だけでなく、「国史」や文化がやり取りされ、それが既存の体制維持に貢献している。

著者は各国の公定の「国史」について、その恣意性を指摘しつつも、それが一方的強制や意志に反した服従であるとは断定できないと慎重な留保を付け加えている。

「エスノクラシー」、多数の外国人労働者が在留しているが、自国民とは極めて大きな賃金格差があり、両者間の交流もほとんど無く、同化も全くありえない状態。

当然予想されるように外国人労働者の権利が侵害される例がしばしば伝えられる。

各国政府は自国民をまず公的部門で雇用し、民間部門では高い待遇で雇用されるよう「自国民プレミアム」を適用している。

この章での著者の筆致は他の章と比べてもやや厳しく感じられる。

しかし外国人労働者の数が極めて多い分、その置かれた状況にも大きな差があり、外国人労働者の生活をあまりに悲惨一辺倒で描くことは誤解を招くかもしれないと、註で記している。

また少子高齢化が進む日本で人口を維持するため大規模な移民を受け入れた場合、湾岸産油国のように労働人口の半分が外国人で占められるような事態が起こり得るというデータを示して、その時日本人は外国人と対等の立場を受け入れるだろうか、それとも「自国民プレミアム」を要求しないであろうか、と問いかけている。

こういうふうに、批判的観点は維持しつつも、一方的な論難や糾弾になっていないところは、本書の大きな長所だと思います。

最後の一章が残ってますね。

引用したい少し長めの文章があるので、また次回に続きます。

2011年2月19日

松尾昌樹 『湾岸産油国  レンティア国家のゆくえ』 (講談社選書メチエ)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 06:00

イスラム・中東史の本は何と一年ぶりですか。

ただでさえ手薄なカテゴリなのに・・・・・。

しかし最初の頃はもっと酷かった。

本書はペルシア湾南岸、アラビア半島北東部にある湾岸産油国についての概説。

純粋な歴史書とは言えないが、少しでも苦手分野を補強するために通読。

取り扱われる国はクウェート(クウェイト)、バーレーン(バハレーン)、カタール(カタル)、アラブ首長国連邦(UAE)、オマーンの五ヵ国(サウジアラビアは含まれない)。

産油国であることの他に、君主制を敷いていることなどの共通点がある。

まず位置関係を頭に入れないとどうしようもない。

ペルシア湾の一番奥に位置し、イラクとサウジに挟まれるのがクウェート。

首都はクウェート市。

国名と首都名が同じなのは、シンガポールのような都市国家やヴァチカン市国のようなミニ国家を除くと、このクウェートのほか、メキシコ・メキシコ市くらいか(あとルクセンブルク?)。

私の世代だと、この国は1991年湾岸戦争のせいで絶対忘れない国になった。

そこから南東へ大分下がって、ペルシア湾の真ん中あたりでアラビア半島から突き出た小半島にある国がカタール(首都ドーハ)。

その西側に浮かぶ小さな島国がバーレーン(首都マナーマ)。

さらに外洋に向かって進み、アラビア半島から角が突き出て最も狭いホルムズ海峡を形作っているところにあるのがアラブ首長国連邦(UAE)、その東でインド洋に面する比較的広い国がオマーン(ただし上記角の最先端部分はオマーンの飛び地になっている。これは本書の地図を見るまで気付かなかった)。

UAEの首都はアブダビ、他の都市ではドバイが最近では有名か。

オマーンの首都はマスカト(マスカット)。

各国の概略を述べると、クウェートはサバーハ家が支配家系。

バーレーンはハリーファ家。

この国でシーア派人口が6、7割と多数派を占めることは、桜井啓子『シーア派』(中公新書)で読んだ。

それへの配慮からか、少し前の新聞の国際面で湾岸君主国の中では例外的に、最近イランに宥和姿勢を取っているみたいなことを読んだ記憶があるが、うろ覚えです(それともカタールだったかな?)。

カタールはサーニー家支配。

衛星TV局アルジャジーラが本拠を置いていることでも有名。

UAEは七つの首長国の連合だが、アブダビとドバイを覚えるだけでいいでしょう。

アブダビはナハヤーン家、ドバイはマクトゥーム家統治。

石油資源はアブダビに集中、ドバイは金融・不動産・観光・中継貿易などで開発が進んでいたが、先年バブル崩壊と「ドバイ・ショック」があったのは御記憶の通り。

オマーンはこの地域では最大の領土と人口を持つがその分開発は遅れている。

上記の国の支配層がスンナ派であるのに対し、この国はイバード派が6割を占める。

イバード派については菊地達也『イスラーム教 「異端」と「正統」の思想史』(講談社選書メチエ)でちょっとだけ出てきました。

イスラム最初の分派でアリーとムアーウィヤの双方を敵視したハワーリジュ派の生き残りということでした。

当たり前過ぎることを書きますが、セム語族のアラブ人と印欧語族のペルシア人とアルタイ語族のトルコ人の三者の絡み合いの中でイスラム以後の中東史は理解すること。

五ヵ国ともアラブ民族が主流派で当然アラビア語を話す。

シャイフ(首長)、スルタン、マリク(王)などの称号を持つ君主制国家。

石油輸出収入への依存が大きく、人口は少ない。

最大のオマーンでも178万、バーレーンに至っては40万。

これに対し、サウジは2200万、イラクは3000万、イランは7000万の人口を抱える。

また外国人労働者が極めて多く、人口の半ば以上を占める国もある。

経済的豊かさは特筆すべきものがあり、一人当たりGDPでは、クウェートは日本と同じ、カタールは2倍強に達する。

ここまでが第1章の概略的部分。

第2章で「国家形成への道のり」と題し、湾岸諸国の歴史を略述し、続く3、4、5、6章で「レンティア国家仮説」「王朝君主制」「国民統合」「エスノクラシー」という四つの分析点を叙述、最後の第7章「湾岸産油国の未来」で近未来の事態を検討という構成。

第2章において、まず中東に存在する君主国はイスラム誕生以後古くから起源を持つものではなく、存外「新しい国」で歴史の浅いことを指摘。

湾岸五ヵ国に加え、サウジ・ヨルダン・モロッコのうち、モロッコ・オマーンを除けば、成立はすべて19~20世紀。

そもそもイスラムの教義は君主制を積極的には認めない。

スンナ派にとっての指導者はムハンマドとその後継者であるカリフのみであり、それ以外の統治者について積極的に正統性を付与する教義解釈をイスラム法学者は生み出さず、事後承認的に認めただけ。

シーア派にとってはアリーの子孫のイマームのみが指導者であり、イバード派は信徒集団が選出したイマームがそう見なされる。

それに比べれば、既存の地上の権威を神が定めたものとしてそれへの服従を説き、神寵帝理念や王権神授説を生み出したキリスト教の方が君主制に余程親和的に思える。

だからイスラム教が退嬰的で、世俗の権力への屈従を強い、専制政治を容認するというのは当然偏見ということになる。

しかし地上の権威を認めず、信仰に直結した権力しか認めないというのは逆にイスラムの弱点であり、それが結果として秩序ある自由を妨げ専制を生み出してしまう一因なのではないかとふと思った。

もちろんこんなのはただの素人の思いつきに過ぎませんが。

あー、またですね。

ごく普通の厚さの本で複数記事を書きます。

1000記事目まで、多分こんな感じになると思います。

(追記:続きは以下

湾岸産油国についてのメモ その1

湾岸産油国についてのメモ その2

2011年2月17日

引用文(ハイエク2)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

フリードリヒ・ハイエク『隷従への道』(東京創元社)

第十章 「なぜ最悪なものが最高の地位を占めるか」より。

このようにかなり同じ見解をもっている多数を擁する強力な集団が、社会の最善の人々によってでなくて、最悪の人々によって形成されがちであるということについては、三つの主要な理由がある。かかる集団が選び出される原則はわれわれの標準によれば、ほとんどまったく消極的(ネガティヴ)なものである。

まず第一に、一般的にいって、個人の教育と知識が向上すればするほど、個人の見解や趣味の相違がますますいちじるしくなり、特定の価値体系に対する個人の同意がいよいよ期待されにくくなるということは、ありそうなことである。これに反して、もしわれわれが高度の統一性と単なる外観上の類似性を求めようとするならば、より粗野で、より「平俗的」な素質と趣味が一般的であるところ、すなわち道徳的水準と知的水準のより低いところまで降らなければならない。このことは大多数の人々の道徳的水準が低いということを意味しているのではなくて、ただその価値体系のきわめて似ている最大多数の集団の道徳的水準が低いということを意味しているにすぎないのである。最大多数の人々を結びつけるものは、いわば最小の共通分母である。生活上の価値観を、他のすべてのものに強要しうるほどに強力な多数を擁する集団が必要であるとすれば、それはきわめて多様で、かつ洗練された趣味をもっているようなものではなくて、言葉の悪い意味における「大衆」、すなわち創意性や独立性に最も欠けている人々をつくり、個人の数の圧力をその特定の理想のもとに屈服させることのできるようなものであるだろう。

けれども独裁者たらんとするものは、まったく単純かつ素朴な素質のたまたまよく似ている人々を基礎にしなければならないのであるが、人々の数は目的遂行の可能性を保証しない。独裁者たらんとするものは、より多くの人々を同一の単純な教義に改宗させて、その数の増加を図らなければならない。

ここに第二の消極的な選択の原理が入ってくる。独裁者はすべての扱いやすく、騙しやすい人々の支持を得ることができるであろう。これらの扱いやすく騙しやすい人々は、自分自身の確固たる信念をもっておらず、したがって彼らの耳に声高く頻繁に鳴りひびきさえすれば、受け売りの価値体系といえども、これを簡単に認めるような人々である。こうしてその考えが漠然としていて、不完全なために簡単に動揺しやすい人々や、感情や熱情に駆られやすい人々が、全体主義政党の党員数を増やすのである。

密接に結びついた同質的な支持者の集団をつくり出すために慎重に努力して巧みなデマを流すことは、第三のおそらく最も重要な消極的な選択原理をもたらすことになる。人々にとっては消極的なプログラム――敵を憎むとか、裕福なものを嫉むような――に同意することの方が、積極的な任務に同意することよりも容易であるということは、人間性に共通なことであるように思われる。われわれ」と「彼ら」の対照、集団以外の人々に対する共通の闘争ということは、共同の行動のために集団を強固に結合しようとする教義の本質的な要素であるように思われる。したがってそれは単に政策の支持のみでなく、巨大な大衆の無条件な忠誠を得ようとする人々によって常に利用されている。彼らの観点からすれば、積極的なプログラムよりも行動の大きな自由を留保しうるという利益をもっている。敵が「ユダヤ人」や「富農」のように国内にあろうと、国外にあろうと、敵があるということは、全体主義的指導者の兵器庫における欠くことのできない必要物であると思われる。

2011年2月15日

引用文(ハイエク1)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

フリードリヒ・ハイエク『隷従への道』(東京創元社)より。

しかしながら、われわれは民主主義を盲目的に崇拝されるものにしようなどとは思わない。・・・・・・民主主義はむしろ本質的には一つの手段であり、国内平和と個人的自由を保障する功利主義的な一つの道具である。民主主義はかかるものとして決して疑いのないものでもなく、たしかなものでもない。また独裁政治のもとにおいても、ある民主政治下よりもはるかにすぐれた文化的・精神的自由がしばしば存在していたことを忘れてはならない――そしてきわめて同質的で教条主義的な多数派からなる政府のもとでは民主政治が最悪の独裁政治と同様に圧迫的でありうるということは、少なくとも考えられる。・・・・・・

主要な価値がおびやかされているときに、民主主義に注意を集中する現代の流行は危険である。そのような流行は、権力の本源が多数の意志にあるかぎり、権力は恣意的ではありえないという誤った信念、根拠のない信念に主として基づいているのである。多くの人々がこのような信念から引き出す誤った確信は、われわれの直面している危険が一般に意識されないことの重要な要因である。権力が民主的方法で与えられているかぎり、権力は恣意的ではありえないという信念には正当性がない。そしてこのような叙述のなかに含まれている対照はまったく誤りである。権力が恣意的となることを阻止するのは、その源泉ではなくて、その限界である。民主的支配は権力が恣意的となることを阻みうるけれども、民主的支配が単に存在するということだけで、そのようにすることができるのではない。もし民主主義が、必然的に権力の行使を含む任務を果すときに、その権力が確固たる規則によって規制されえなければ、民主的支配は恣意的な支配となるに違いない。

2011年2月12日

フリードリヒ・A・ハイエク 『隷従への道  全体主義と自由』 (東京創元社)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

第二次世界大戦末期、1944年に出た本。

主に引用文でハイエク、ハイエクと書いてるくせに(こことかこことか)、その著作は一冊も読んだことはなかった。

それはそれで情けないことではあるが、基本的に私には読めないレベルの著者なのでしょうがないかとも思っていた。

『自由の条件』や『法と立法と自由』などの大著はもちろん、最も一般向け著作と思われる本書ですら十数年前に読もうとして挫折していたくらい。

しかし今回なぜか読むべきかとの気分になり、手に取ってみた。

平等を志向する経済の計画化が自由を損なうことにより政治的独裁へと帰着することを主張したもの。

社会主義的要因以外の特殊なドイツ的要因が、全体主義をもたらしたと信ずることは誤りである。ドイツがイタリアおよびソ連と共通にもっていたものは、有力な社会主義的見解であって、プロイセン主義ではないのである。――そして国家社会主義は大衆から起ったのであり、プロイセンの伝統に浸り、その恩恵を受けた階級から起ったのではなかった。

本書においても、所々、自由放任的市場への留保が垣間見られないこともない。

ある大ざっぱな規則、特に自由放任の原則に関して、若干の自由主義者が行った融通のきかない主張ほど、自由主義を傷つけたものはおそらくないだろう。

反社会的特権の擁護に自由主義的文句を濫用する人々に対する当然のいらだち・・・・・

しかしその主旨はやはり以下の通りの見解となる。

大多数の人々が「原子的」な競争と中央指導との何か中間的なものを見出すことが可能であるに違いないと信じている。・・・・・われわれの目標は極端に分散的な自由競争でもなく、また単一計画による完全な中央集権化でもなくて、二つの方法の賢明なある混合物であるという思想ほど、一見してもっともらしく思われ、理性をそなえている人々に訴えるものはおそらくないであろう。しかし単なる常識がこの方面では当てにならぬ指針であることは明白である。・・・・・競争も中央指導もともにそれらが不完全である場合には貧しく無能力な要具となる。両者は同じ問題を解決するために用いられる択一的な原理であって、両者の混合はどちらも事実上作用せず、そしてその結果は、どちらかの体制が徹底的に貫かれるときよりも悪いということを意味している。

こんな風に言われても到底素直にうなずけるものではない。

市場というものを全面否定した社会変革運動が数千万人の犠牲者を出した人類史上最大の悲劇をもたらしたことはいくら強調してもし過ぎることのない教訓だとは思うが、かと言ってあらゆる場合において、どんな矛盾や弊害があろうとも、結局自由市場が最善の解答なんだと構えて突っ走っていくと、また「全能の国家介入」という狂信を招き寄せるだけじゃないんでしょうかという気分になる。

ナチス・ドイツ打倒における同盟国としてソ連の威信が最も高く、共産主義に同意しない人々もその多くが社会主義こそ「将来の波」と考えていた時期に出たことを考えると、知的勇気に満ちた立派な論争の書ということになるんでしょうが。

しかし少なくとも本書においてはハイエクにおける「隠れ保守主義者」の面はほとんど感じ取れません。

二十年近く前に通読していたら大いに納得・同意したであろう、本書の個人主義的・自由至上主義的・市場主義的考え方が、今となってはただひたすら疎ましい。

自分も世の中も随分変わりました。

むしろ副次的で主要論点から外れた記述が心に残ったりする(また例によって単独の引用文記事を近日中に挙げます)。

読みやすい参考文献は西部邁『経済倫理学序説』間宮陽介『ケインズとハイエク』など。

加えて、かなり骨が折れますが、教条的市場主義への「解毒剤」として、カール・ポラニー『大転換』(東洋経済新報社)でも読みますか。

同じ市場原理主義・リバタリアニズム批判で遥かに読みやすい本では、荒井一博『自由だけではなぜいけないのか』(講談社選書メチエ)を強くお勧めします。

これは私程度の読者でも十分通読できます。

しかし「社会主義」という言葉に決定的な負のイメージが付く一方、リバタリアン的言説が最も原初的で低劣な利己主義肯定のための屁理屈に使われている世間の風潮を考えると、今是非とも読まなきゃいけない本かなあと疑問に感じる。

私としては強くお勧めはしません。

・・・・・若干の与って力ある要因が集産主義の党派的、排他的となる傾向を強める。これらのうちで最も重要な一つのことは、個人が自分自身を集団と同一化しようとする欲求がしばしば劣等感の結果であり、したがって個人の欲望は集団の団員であることが、局外者よりもある優越感を与えるときにのみ満たされるということである。時とすると、集団の内部において曲げなくてはならぬ個人の激しい本能も、局外者に対する共同行動においては自由に発揮できるということが、個人を集団のなかへ飛び込ませるにいたるものと思われる。ラインホルド・ニーバーの『道徳的な個人と不道徳な社会』という書名には深い真理がある。――われわれは彼の命題から引き出される結論にしたがうことはほとんどできないが。実際彼がどこかで述べているように、「近代人の間には自分自身を道徳的であると考える傾向が強くなっている。というのは、彼らは自分の不道徳をますます多く集団に押しやっているからである」。集団のために働くということは、集団内における人々の、個人としての行動を支配する多くの道徳的拘束から、人々を解放するかのように思われる。

ピーター・ドラッカーは「新しい自由について語られることが多ければ多いほど、そこには自由がますます少ない」ことを正しく認めている。「しかしこの新しい自由はヨーロッパが自由について理解していたすべてのことのまったくの矛盾を覆い隠す単なる言葉にすぎない・・・・・、ヨーロッパにおいて説かれている新しい自由は、個人を不利にする多数の権利である」。

2011年2月9日

塩野七生 『ローマ人の物語38・39・40 キリストの勝利』 (新潮文庫)

Filed under: ローマ — 万年初心者 @ 06:00

単行本14巻目の文庫化。

叙述範囲は、337年コンスタンティヌス1世(大帝)の死から395年テオドシウス1世(大帝)死去後の帝国東西分裂まで。

単行本の巻辺りから、ほぼ毎巻、「進行ペースが遅いなあ、本当に15巻で収まるのか?」と思っていたが、結局残り1巻を残した時点で4世紀末まで来た。

476年西ローマ帝国滅亡を終着点と考えると、「最終巻で百年弱残すのみか、それなら余裕だな」と思う(しかし結局、全巻の末尾は違う時点でした)。

登場皇帝はコンスタンティヌス2世、コンスタンティウス2世、コンスタンス、(ダルマティウス、ハンニバリアヌス、マグネンティウス、ヴェトラニオ、)ガルス、ユリアヌス、ヨヴィアヌス、ヴァレンティニアヌス1世、ヴァレンス、グラティアヌス、ヴァレンティニアヌス2世、テオドシウス1世。

括弧内はごく短期間在位した副帝あるいは僭帝。(と説明するとガルスも括弧に入れないといけなくなるから不正確か。まあいいや。)

最初の三人はコンスタンティヌス大帝の子。

昔、モンタネッリ『ローマの歴史』(中公文庫)で、

まあできたことはしょうがないにしても、せめて三人の息子にもう少しまぎらわしくない名前をつけておいてくれてもよかったのではなかろうか。

と書いてあるのを読んで、笑ってしまった。

ダルマティウス、ハンニバリアヌスとガルス、ユリアヌスはその3人のいとこ。

マグネンティウスは西方帝国を一時簒奪した僭帝、ヴェトラニオはその際ごく短期間自立した人物(そもそもヴェトラニオは他の皇帝と同じように名前を挙げるのは不適当かもしれない)、ヨヴィアヌスはユリアヌス没後中継ぎ的に短期間在位。

ヴァレンティニアヌス1世が兄、ヴァレンスが弟、1世の子がグラティアヌスとヴァレンティニアヌス2世。

テオドシウス1世はヴァレンティニアヌス朝の血縁ではないが、ヴァレンティニアヌス2世の妹ガラとのちに結婚。

本書前半で最も長く在位したのはコンスタンティウス2世。

このコンスタンティウス2世については、猜疑心が強く冷酷であっても、曲がりなりにも20年以上帝位を保ち、外敵の撃退と帝国の統一に努力した人物として一定の評価をする見方もあるのでしょうが、本書での評価はかなり低い。

それに対して続いて正帝に登位した「背教者」ユリアヌスはなかなかの高評価。

これは著者のキリスト教に対する態度からして予想できたことだが、ただし絶賛一辺倒ではなく、専業の聖職者階級創設という形で異教復興を図ったこと、補給兵站およびアルメニア王国への外交交渉を軽視してペルシア遠征を行ったこと(結局これが命取りになったが)については批判的。

しかし、本書前半部の主役はやはりこの人でしょう。

昔、エドワード・ギボン『ローマ帝国衰亡史』(ちくま学芸文庫)を読んでいて、その物語の面白さには熱中しつつも、出てくる皇帝の多くが愚劣・醜悪・残忍・卑小であり、その所業の描写にややうんざりしていた。

そこでユリアヌスが登場し、「お、久々に事前に名前を知っている皇帝だが、こいつはどんな愚行と醜態を見せてくれるのかな」と思いきや、『衰亡史』全編を通じて最も好意的に描かれ称賛されているのに大変驚いた記憶がある。

続いて読んだ辻邦生『背教者ユリアヌス』(中公文庫)でも真摯で良心的で禁欲的な賢帝として描かれており、強い印象を受けた。

その後、バワーソック『背教者ユリアヌス』(思索社)のような批判的書物も読んでやや冷静になったが、それでも現在も好きな歴史人物ではある。

だから本書での叙述も普通なら素直に受け入れられるはずなのだが、どうも引っ掛かる面がある。

『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫)の記事でも書いたことですが、本書でも度々繰り返し説かれる、「一神教=不寛容、多神教=寛容、ゆえに前者の台頭と後者の退潮によってローマ精神は衰微した」という図式があまりに平板に感じられてならない。

もちろん、そうした面も多々あったには違いないんでしょうが、チェスタトンを読むと全く別の視点もあり得るのではないかと思ってしまう。

別にクリスチャンでもないんですが、単純なキリスト教批判には同意できない気がする。

なお、この時代のキリスト教史で注意すべきなのは、アリウス派の優勢という現象。

高校世界史では325年ニケーア公会議→アタナシウス派三位一体説勝利→異端とされたアリウス派はゲルマン人に布教という記述だが、実際にはコンスタンティヌス大帝の側近聖職者にはアリウス派が多数おり、コンスタンティウス2世は明確にアリウス派寄りの姿勢を見せていた。

カトリックの三位一体説が完全に定着するのはキリスト教が国教化されたテオドシウス1世時代。

この人は、ディオクレティアヌス、コンスタンティヌス1世と並んで高校世界史でも名前の出る後期帝政の重要三皇帝の一人であり、ギボンでも帝国の最後の支柱といった感じの記述だが、本書での存在感は驚くほど薄い。

最後の巨人皇帝というより、この時期西方帝国での最有力聖職者であるミラノ司教アンブロシウスの操り人形といっても過言ではないような描写である。

このアンブロシウスはアウグスティヌスやヒエロニムス、(カエサリアの)エウセビオスと違って高校世界史では出てこないが、重要人物であることは間違いないので要記憶。

なお、ローマ司教(教皇)ではなく、ミラノ司教であることもチェック。

当時はアッティラと同時代人であるレオ1世がローマの首位権を主張する前だし、ゲルマン布教で教皇位の重要性を増したグレゴリウス1世(位590~604)も遥か先。

まして五本山(ローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、イェルサレム、アレクサンドリア)のうち後ろ三つがイスラム勢力下に入ることなど想像だにできない時代なので。

他にメモすることといえば、テオドシウス帝の内乱鎮圧について。

西方でマクシムスの反乱が起こり、グラティアヌス帝が殺害される。

このマクシムスを東方正帝テオドシウスが打倒し、グラティアヌスの異母弟のヴァレンティニアヌス2世を西方帝に据える。

ところがこのヴァレンティニアヌスも反乱で殺害され、テオドシウスが再度西方遠征で第二次内乱を鎮圧する。

この第二次内乱を起こしたのがアルボガステスという将軍とその傀儡である皇帝エウゲニウスなのだが、両者の名前が本書ではなぜか全く出てこない。

本書くらいの叙述レベルなら、名前を出さないのは相当不自然に感じる。

加えて表記で気になるのが、主にユリアヌス帝時代の部分のみが残っている史書を書いたアンミアヌス・マルケリヌスという歴史家がいるのだが、この人が「アミアヌス」と書かれている。

塩野氏はトラヤヌスをトライアヌスと書いたり、コンモドゥスをコモドゥスとしたり、慣用となっているカナ表記を無視する傾向があるんですが、これはどうも悪い癖だなあと思ってしまう。

また、この巻からゲルマン民族の本格的大移動が始まりますが、オストロゴートが東ゴート、ヴィシゴートが西ゴートであると括弧して書いてないのは不親切。

最近このシリーズの記事では毎回同じ事を書いてますが、要領よく史実をまとめ、読みやすい物語に仕立ててくれていることは認める。

初心者にとってはそれだけで十分貴重。

しかし逆に言うと、このシリーズ後半三分の一は結局それだけかなあと・・・・・。

歴史解釈や史観において、感銘を受けるとか目の冴える思いがするといった体験は全くと言っていいほど無い。

全巻を通じた、ローマの巨視的な衰亡原因といっても、「敗者を滅ぼさずに自らに同化させる」というローマ人の精神と生き方が前期帝政時代までは機能していたが、それが行き過ぎて、全自由民に自動的に市民権が与えられるようになって獲得権が既得権に変化し公的献身へのモチベーションが失われたとか、そんなことくらいしか読み取れない。

(私がボーっと読んでいるせいかもしれないが、他には官僚・軍隊の肥大化と重税の悪循環とかありきたりのことしか思いつかない。)

実はこの巻から買うのも止めました。

本シリーズだけじゃなく、この方のエッセイもねえ。

現在の問題についてあれこれお書きになってますが、首を傾げたり、場合によっては顔をしかめたりすることが多いです(もちろん全てではないですが)。

昔みたいにそれを有難がる心境から遥かに離れてます。

同じ歴史作家でも司馬遼太郎さんのエッセイは全く逆で、以前違和感を感じていたのが、今は深い感銘を覚えるものが多いです。

『風塵抄』なんて産経新聞で連載してたとは思えないほど品位のある文章。

「人品の差かなあ・・・・・」なんて言うと怒られますけど、そういうこともつい口走りたくなります。

毎度毎度身の程知らずの偉そうな言い方で恐縮ですが、このシリーズをお読みになるのは全く不都合ありませんが、そこに留まることなく是非続いてギボン『衰亡史』を手に取って頂きたいです。

ファンの方には鬱陶しい事ばかり書きまして、申し訳ございません。

2011年2月7日

ルイ16世についてのメモ その6

Filed under: おしらせ・雑記, フランス — 万年初心者 @ 06:00

その5に続き、ベルナール・ヴァンサン『ルイ16世』(祥伝社)より。

1793年1月、ルイ16世の最期についての描写。

処刑判決を告げられた際。

王は判決を告げられても微動だにせず、その冷静さはエベールを含めてその場にいた者たち全員に感銘を与えた。エベールはほんの数日前、別名「裏切り者ルイ」のルイ・カペーの死刑を要求し、元国王を「夜は糞尿まみれの寝藁の上の豚のように鼾をかく」酔漢と呼び、「オーストリアの雌虎」であるマリー・アントワネットを「雌猿」に、その子供たちを「尾巻き猿の子供」に譬えて憚らなかった。きわめて過激な主張と野卑な言葉遣いで有名なあの「デュシェーヌ親爺」紙の創設者であり、王に対する好意があるなどと誰からも疑われるはずもないエベールは、判決告知の場面を称賛と感動をこめて伝えている。

「王は稀に見る沈着な様子で判決の言い渡しに耳を傾けた。その態度と言葉には敬虔、尊厳、気高さ、威信が満ちていたので私は堪え切れなかった。狂おしい涙が私の瞼を濡らした。王の眼差しと物腰には明らかに、人間を超えた何かがあった。止めようと思っても流れ落ちる涙をぬぐうため、私はその場を立ち去った。この職務はこれまでにしようと、と覚悟した」

この証言は貴重だが、しかしこう決意したはずのエベールが、数ヵ月後のマリー・アントワネットの裁判では、王太子との近親相姦疑惑まででっち上げて卑劣の限りを尽くすのだから呆れる。

下劣な誹謗中傷マニアの心性は、やはり死んでも直らないと言うべきか。

こいつが1794年3月に死刑に処された時の見苦しい取り乱し方は、威厳に満ちた態度で従容と死を迎えたルイ16世とマリー・アントワネットとは完全に対照的であり、失笑を禁じえない。

同じジャコバン派指導者でも、奔放で非教条的側面を持つダントンや、残忍・冷酷であると同時に高潔・清廉であったことも間違いないロベスピエールに一種妖しい魅力があることは認めるが、このエベールに対しては心底からの嫌悪と軽蔑以外の何物も感じない。

国民公会よりの使者が退出した後、監視の役人たちにルイ16世はこう述べたという。

「私は恐れることなく死を迎える。私の死がフランス国民に幸福をもたらし、不幸を遠ざけてくれることを願う。民衆がさまざまな徒党の犠牲者となり無政府状態に苦しめられ、犯罪が相次ぎ、フランスを引き裂く対立が続くことを私は予感している」

この予言は、その後第三共和政の安定まで100年間、フランスで的中し続けたとしか言うほかないし(引用文(トクヴィル1))、見方によっては現在に至るまで、フランスだけでなく他の民主主義国家すべてで的を射ているとも言える。

やっと終わりました。

プティフィスの伝記の縮刷版みたいな内容。

より短く、分量的に適切。

訳文がよくこなれていて、流れるように読める。

巻末にある年表もちょうどよい詳しさ。

眺めることで本文の復習ができる。

なお、私が書いた記事では、やたら「反革命的」傾向が読み取れるかと思いますが、これは私の関心と解釈から他の本の記述も引用してまとめたものですので、その点お含み置き下さい。

著者はフランス革命の意義を全面否定することはしていませんし、ある時期以降のフランスで共和政以外の政体の選択肢があったとは考えていないようです。

(これは現在のフランス人としては当然だと思います。プティフィスの本も同じく。)

よってこのブログの記述から本書についてある種の先入見は持たれない方が宜しいかと思われます。

(ただし、本書の叙述と全く相反し、関係無いことを記事で書き連ねたつもりもございません。)

かなり良く出来た伝記だと思いますんで、機会があればお手に取って下さい。

2011年2月5日

ルイ16世についてのメモ その5

Filed under: おしらせ・雑記, フランス — 万年初心者 @ 06:00

その4に続き、ベルナール・ヴァンサン『ルイ16世』(祥伝社)より。

ルイ16世は革命の動乱の中で翻弄され、結局不幸な最期を迎えることとなる。

本書では1789年10月の「ヴェルサイユ行進」について以下のように記されている。

この事件は、卑しいデマゴーグに煽られたパリの下劣な気狂い女どもが集団でヴェルサイユに押し寄せ、王妃マリー・アントワネットを殺害しようとし(未遂)、多数の衛兵を虐殺した上、国王一家をパリに強制的に連行したもの。

民衆の暴動が勝利を収めたのは、動き始めた歴史の歯車の力と勢いによるものだったのは間違いないだろうが、道徳の原理原則にあくまで忠実なルイ16世が手段を選ばない秩序の回復、すなわち民衆に発砲してでも王政を救うことを望まなかったからでもある。性格の弱さもしくは自身の名誉のために、臣民の血を流すことを拒否したのだ。この強硬手段拒否の代償をやがて自分の血で支払うことになろうとは、実に残酷な運命である。

こういう記述を読むと、「陛下、いくら何でも人が善すぎますよ・・・・・・」と言いたくなる。

狂った民衆にいくら譲歩しても、図に乗ってますます理不尽な要求を突き付けてくるだけ。

畜生以下の存在に成り下がった奴らに理解できる言葉は、剣と銃弾だけです。

この後起ったことを考えれば、思い切った強硬措置と正面突破の弾圧を試みていれば、ルイ16世と王室のみならず、フランス国民全体にとっても、現実より遥かにマシな展開になっていたのではないかと思えてならない。

しかしルイ16世はそうした手段に出るにはあまりに穏健で善良過ぎた。

89年7月のバスティーユ襲撃、10月のヴェルサイユ行進、92年の8月10日事件と、エスカレートする一方の民衆による暴力には、明らかに以下のような心理的メカニズムが働いている。

群衆の現わす感情は、よかれ悪しかれ、極めて単純でしかも極めて誇張的であるという、二重の性質を示す。この点についても、他の多くの点についてと同じく、群衆中の個人は原始人に似ている。微妙な差違を解し得ず、物事を大まかに見て、推移の過程を知らない。感情は、暗示と感染とによって非常に早く伝播し、それが一般の賛成を得ると、著しくその力を増大するのであるが、群衆における感情の誇張は、この事実によっていよいよ強められる。

群衆の感情が単純で、誇張的であることが、群衆に疑惑や不確実の念を抱かせないのである。それは、ただちに極端から極端へ走る。疑いも口に出されると、それがたちまち異論の余地ない明白な事実に化してしまうのである。反感や不服の念がきざしても、単独の個人の場合ならばさして強くはならないであろうが、群衆中の個人にあっては、それは、たちまちはげしい憎悪となるのである。

群衆の強烈な感情は、特に、異なった分子から成る異質の群衆において、責任観念を欠いているために、さらに極端となる。罰をまぬかれるという確信、群衆が多人数になればなるほど強まるこの確信、また多数のために生ずる一時的ではあるが強大な力の観念、それらが、単独の個人の場合にはあり得ない感情や行為をも、集団には可能ならしめるのである。群衆のなかにいれば、愚か者も無学者もねたみ深い人間も、おのれの無能無力の感じを脱し、その感じにとってかわるのが、一時的ではあるが絶大な暴力の観念なのである。

群衆における誇張癖は、不幸にもしばしば悪質の感情にも及ぶことがある。この悪質の感情は、原始人の本能の遺物であって、単独の、責任観念を持つ個人ならば、罰を恐れるがゆえに、これを抑制せざるを得ないのである。こうして、群衆が最も悪質の過激行為に走りやすい理由も説明される。

ギュスターヴ・ル・ボン『群衆心理』

より一般的に言って、君主や貴族や宗教など民衆を罰するものが消滅し、民衆のやることならどんな醜悪で残忍なことでも正当化される、近代というろくでもない時代が始まり、その最初の犠牲者がルイ16世とマリー・アントワネットだったと思える。

あるいは次のような観点から見てもよい。

民主政において、多数者市民は少数者に対して最も残酷な抑圧を加えることができます。激しい分裂がその種の国家組織内に遍く拡がる時は、(実際縷々そうならざるを得ないのですが)、何時でもそうなのです。

そして、少数者に対するその抑圧は、たった一本の王笏の支配からおよそ懸念され得る殆ど如何なる抑圧よりも遥かに多くの人々に及び、しかも遥かに激烈に行使されるのです。こうした民衆による迫害の下では、個々の受難者は、他の如何なる場合よりも何層倍も悲惨な境遇に置かれます。一人の暴虐な君主の下では、彼らには傷の痛みを和らげてくれる人類の心安まる同情があります。苦しみの下にあっても、その高邁な堅忍不抜を鼓舞する人々の喝采があります。ところが多数者の下で悪に苦しむ人々は、あらゆる外からの慰めを剥奪されるのです。人間種属全体の陰謀に打ちひしがれ、彼らは人類から見捨てられた如くに見えるのです。

エドマンド・バーク『フランス革命の省察』

啓蒙思想と言論の自由が広まるにつれ、上記多数者による抑圧はまず王室に加えられた。

国王と王妃の苦しみを、冷酷かつ卑劣極まりない心性で「見世物」としか受け取らなかった民衆は、制御不能となった「多数の暴政」に飲み込まれ、自らが現世地獄の悲惨を味わうこととなる。

そして、現在一見正常に思える民主主義国家でも、その内情は以下のような次第である。

アメリカほど一般に、自主独立の精神と真の言論の自由(が支配すること)の少ない国を私は知らない。・・・・・・アメリカでは、多数が思想にきびしい枠をはめている。その範囲内では、文筆にたずさわるものは自由であるが、あえてそれからはずれようとすると災難である。火あぶりの刑の恐れはないが、あらゆる種類の不快と、日々の迫害の的となる。政界での活躍の途は封じられる。それを開きうる唯一の権威を傷つけたからである。名声にいたるまで、すべてのものが拒まれる。その意見を公表するまでは味方がいると信じていたのに、すべての前に自己を明らかにしたいまでは、もはや味方はいないかに見える。非難する人々の声は高く、見解を同じくする人々は、それを公表する勇気に欠け、沈黙して遠ざかるからである。彼は譲歩し、そしてついには日々の営みに身を屈し、あたかも真理を語ったのを悔いるかのように、沈黙にかえる。

鉄鎖と死刑執行人、これが往時の圧制の粗野な用具であった。(君主)専制に、もはや何も学ぶ必要がないかに見えていたのであるが、今日では文明によって専制までが完璧になった。君主は、暴力を、いわば物理的に(使用)した。(これに対し)今日の民主的共和政は、みずからが抑制したいと思う人間の意思が理知的になるのとひとしく、暴力を知能的にした。個人の絶対支配、すなわち、専制は、人の魂にまで立ち入るために、肉体にはげしい打撃を加えた。魂はその打撃を逃れて、肉体を超えて輝かしく高揚した。しかし、民主的共和政では、圧制の過程はこれと全く違う。肉体を措いて、直接、魂に向かう。主人は「私と同じに考えろ。でなければ殺されるよ」とはもういわない。「おまえが私と同じ考えでないのは自由だ。生命にも、財産にも、すべてに異状は生じない。しかし、私に楯ついたその日から、おまえは異邦人だ。市民としての特権が依然としてあるが、そんなものは無用になる。選挙において同胞の支持を求めても、誰もおまえを支持はすまい。自分を認めてくれるだけでよいといっても、同胞は口実をもうけて拒むだろう。おまえは社会には住むが、人としての権利を失うであろう。仲間に近づこうとしても、仲間は何かけがらわしいものかのようにおまえを避けるだろう。無実を信じる人々でさえ、おまえを見捨てるだろう。さもないと、今度は自分が忌避されるから。安心して行け。おまえの命はとらぬが、その日々は死よりも辛いことだろう」という。

絶対君主政は専制を不名誉にした。民主的共和政がそれを復権させ、少数の人々にはこれを重い負担とする一方、大多数の眼にはその忌むべき堕落の様相をおおいかくす。そんなことにならぬよう注意しよう。

トクヴィル『アメリカにおけるデモクラシー』

すべての人間が平等であるということが無条件的に真理とされ、それに対して疑いを持つことすらタブーとなるような状況では、その平等な人間の多数派が支持するものは絶対視されるに至る。

卑劣・矮小・醜悪な煽動者が印象操作と大衆迎合によって作り上げた「民意」が、自由で平等で合理的な市民全体の意志であると僭称し、絶対的支配権を要求する。

社会の下層に位置する、精神的な(つまり言葉の真の意味での)賎民を操るデマゴーグがほとんど無敵の存在となり、既存の支配層を押し退け、過去のどんな権威主義的政治も及ばないほどの独裁的権力を握る。

上記のようなことは、この時期のフランスだけでなく、どの時代のどの国にでも起こり得るし、結局長期的に見れば、自由主義と民主主義はどこまでも肥大化した挙句、自己崩壊しその反対物をもたらす滅びの道なんでしょう(ナチについてのメモ その5)。

そんなことは人類史上初の民主主義の実験であるアテネの惨状を見たプラトン『国家』)がすでに見抜いていたことですが、そうした知見は全く引き継がれず近代の200余年が過ぎ去ったわけです(引用文(西部邁6))。

フランス革命というのは、歴史的大事件である分、本当にいろいろな教訓を与えてくれるもんだとつくづく思います。

やっぱり終わりませんでしたね。

次こそは終わります。

2011年2月3日

ルイ16世についてのメモ その4

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その3に続き、ベルナール・ヴァンサン『ルイ16世』(祥伝社)より。

フランス革命について高校レベルの事項を確認。

まず革命勃発の年1789年から2年ごとの奇数年、91年・93年・95年に憲法が制定されたことをチェック。

91年憲法が立憲君主政、93年が急進共和政、95年が穏健共和政。

革命の過激化が進行し、それが極限まで行った後、一定の揺り戻しがあったことをイメージ。

この前後関係で様々な事件を把握するのが基本で、偶数年の90年・92年・94年にどういう転機があったのか(あるいは無かったのか)を確認する。

95年以降は穏健的ブルジョワ共和派の総裁政府がジャコバン残党と王党派によって左右に揺さぶられながら存続するうちに、軍部が台頭、革命勃発からちょうど10年後の1799年ブリュメール18日のクーデタにより統領政府成立、ナポレオン時代へという流れ。

ここの細かな事項は後回しでもよいと思われるので、とりあえず89~95年の7年間に何があったのかを一年刻みで頭に叩き込む。

 

 

まずすべての始まりの年、1789年。

5月三部会招集、6月第三身分が国民議会を名乗り、さらに「球戯場の誓い」があって、憲法制定会議と称する。

7月14日バスティーユ襲撃、8月4日封建的特権の(有償)廃止、8月26日フランス人権宣言(この三つは教科書にも日付が載ってますね。ちなみにアメリカ独立宣言は1776年7月4日)。

ここで場所だけチェック。

三部会やら国民議会やら人権宣言やらはすべてヴェルサイユで行われた話。

この時期、議会も国王もパリではなくヴェルサイユにいる。

バスティーユ襲撃だけがパリでの事件。

それが10月ヴェルサイユ行進で国王一家が無理やりパリに向かわされ、テュイルリー宮殿に入る(国王の滞在場所はヴェルサイユ宮殿→パリのテュイルリー宮殿→パリのタンプル塔への幽閉の順)。

議会もパリに移り、以後パリ下層民の民衆運動による圧迫を常に受けることになる。

この時期の革命指導者はラファイエット、ミラボー、シェイエス、バイイら。

この年、農村では貴族や領主が「ごろつき」を集め農民を襲撃するという噂が広まり(実際はデマ)、「大恐怖」と呼ばれるパニック状態に陥った農民が逆に領主を虐殺する事態となる。

革命初年の農村暴動での死者が93年恐怖政治の犠牲者より多かったというのは、サイモン・シャーマ『フランス革命の主役たち』で読んで以来頭から離れない史実である。

社会のあらゆる人々が、煽動者に操られるままに利己心の虜になり、不平不満を爆発させ暴力を正当化し、隣人に襲い掛かる・・・・・。

ここここで引用した旧約聖書の一節を思い起こします。

あるいは、遥か後年、ドイツ国民が同じ病に罹ったときに、正気を保った人々によって広められた以下の詩も。

 

 

毒虫がほこりと

乾いた泥の中に、

軽い灰の中の焔のように

じっとかくれている。

雨と微風に

悪しき生命は目覚め

無から悪疫、

熱と煙が立ち上がる。

暗いほら穴から盗賊が

徘徊しようと立ちあらわれる。

獲物を求めようとして、

もっとよいものを見つける。

無意味な争いと

惑える知識と

ちぎれた旗と

愚かな民衆とを。

その行くところ、必ず

貧しき時代の空虚に会い、

厚顔無恥に歩み得て、

かくて盗賊は予言者となる。

塵芥の山に

悪の足ふみしめ、

呆れ顔の世間に

舌を鳴らしてあいさつする。

雲に包まれるように

卑劣に身を包み、

民衆の前の虚言者は

やがて巨大な権力をつかむ。

これに従う手下あまた。

位の高きも低きも、

機をうかがいつつ

頭にとり入ろうとする。

彼らは頭の言葉を、

かつて神の使徒が

五個のパンでしたように広め、

それは汚ならしくはびこってゆく。

はじめはかの犬めが欺いただけなのに

今は彼ら数千がそろって欺く。

嵐がふきまくるように、

今、彼の才は時を得て肥えふとる。

蒔いた種は高く伸び

国の姿は変りはて、

民は恥辱の生を生き

下劣な行いを意に介しない。

はじめはでたらめと思ったことが、

今や現実と化した。

よき人々は姿を消し

悪しき人々が群がっている。

いつかこの苦難が

遠く氷のようにとけたとき、

黒死病のように

語られることだろう。

子らは野に出て

藁人形をつくり、

苦しみを焼いて楽しみとし、

古き恐怖を焼いて光としよう。

ヘルマン・グラーザー『ドイツ第三帝国』

 

 

1790年。

この年は唯一と言える小康状態の年。

行政区画改定や経済自由化、メートル法導入検討などいくつかの改革が行われたのみ。

ただし「聖職者民事基本法」が制定され、以後聖職者は公務員と見なされ、教皇にではなく国家に忠誠を誓わされることになる。

これが敬虔なカトリック信者のルイ16世を大いに苦しめることになる。

 

 

1791年。

不気味な地滑りの予兆の年。

6月ヴァレンヌ逃亡事件、9月制限選挙・立憲君主政の1791年憲法、憲法成立と同時に立法議会召集。

この立法議会では明確な党派対立が生れる。

立憲君主主義のフイヤン派と穏健共和主義のジロンド派。

このうちフイヤン派はあくまでこの立法議会成立後の名称なので、代表者としてはラファイエット、バルナーヴ、デュポールらで、同じ立憲君主主義者でもすでに死亡しているミラボーは生前フイヤン派とすると間違いになるのか。

ジロンド派はボルドーを中心とするジロンド県選出議員が主導したためついた名称。

指導者はブリソ、ロラン夫妻ら。

ジロンド派が威勢よく共和政樹立と革命輸出のための対外戦争を主張したのが、この91年から92年。

しかし93~94年にはもう多くの指導者がギロチン送りになるか自殺する有様となる。

個人的感想ではこの一派は救いがたい阿呆というイメージです。

 

 

1792年。

革命急進化の最大の転機になった年。

4月ジロンド派主導で対オーストリア宣戦、8月10日事件(テュイルリー宮殿襲撃)、9月国民公会召集、第一共和政樹立。

前議会の立法議会では左派だったジロンド派がこの国民公会では右派となり、左派のジャコバン派に脅かされる情勢。

ジャコバン修道院を集会場にしたジャコバン・クラブという政治一派(ついでに、フイヤンも集会場所の修道院名)はもともと立憲君主派だったのがジロンド派が主流となり、ついで同派が脱退した後は最過激派の山岳派(議場の高い場所に議席を占めたことから)が残ったため、普通ジャコバン派と言えばイコール山岳派となる。

しかし本書ではジロンド派が分離する前、立法議会でフイヤン派と対立していた時のジャコバン・クラブを「ジャコバン派」と表現していたところが確か一箇所あったはず。

これはちょっと翻訳で配慮して避けて欲しかったところではある。

大衆による暴力支配に対する最後の防波堤が決壊した観のある8月10日事件については、プティフィスが要領よくまとめている。

8月10日は、第二のフランス革命、立憲議会によって整備された政治制度を打ち壊すという目標をもった、騒々しく、熱狂的で、荒々しい革命が誕生した日なのである。実際に勝利したのは、人民の主権などではない。過激派、いやむしろ暴力的で不寛容な諸分派の連合体、それに、権限もないのに人民の名において意思表示をする権利を奪取した数千の連盟兵と地区の民衆が勝利したのである。自由と人権にもとづき、諸特権が廃止された社会を作ろうとした1789年の革命は息絶えた。合法性や法治主義の尊重といったことには頓着しないもっと急進的な運動がそれに取って代わったのだ。・・・・・フランス革命の歴史において、決定的な断絶は、89年と93年、すなわち立憲議会と公安委員会の独裁のあいだにあるのではなく、89年と92年のあいだにある。というのは、この八月の動きというのは、ある特異な形態の権力、ジャコブ・レブ・タルモンの言葉を借りれば「全体主義的民主主義」の到来を告げるからである。(プティフィス『ルイ16世 下』

 

 

1793年。

ジャコバン独裁と恐怖政治でフランスが地獄に堕ちた年。

1月ルイ16世処刑、6月ジロンド派追放→ジャコバン派独裁。

93年憲法、封建的特権の無償廃止、公安委員会による恐怖政治、マリー・アントワネット処刑。

 

 

1794年。

恐怖政治の絶頂から、急転直下ジャコバン派の没落の年。

エベール、ダントン粛清、ロベスピエール独裁、7月テルミドール9日の反動。

 

 

1795年。

ブルジョワ共和派の支配確立の年。

95年憲法、国民公会解散、上下両院と総裁政府。

革命史のおさらいしただけでまた一記事。

たぶん、次の記事で終わります。

たぶん、ですけど・・・・・・。

2011年2月2日

ルイ16世についてのメモ その3

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その2に続き、ベルナール・ヴァンサン『ルイ16世』(祥伝社)より。

パリ条約と同年1783年、カロンヌが財務総監就任。

このカロンヌについては、脚注で(後世で言う)「ケインズ主義的」景気刺激策の主張者というようなことが書いてある。

その通り、モンゴリフェール(普通日本語訳のカタカナ表記は「モンゴルフィエ」か)兄弟の気球実験への援助やシェルブールの港湾施設整備などのプロジェクトを推進。

だが、やはり財政危機は放置できず、租税負担平等化、穀物流通自由化、土地所有者が選挙権を持つ議会創設などの本格的改革に向かう。

87年高等法院に対抗する意図で、政府が三身分から選出した名士会議招集。

しかしここでも特権層がまたも団結して抵抗、カロンヌは罷免、後任のブリエンヌにも強硬に反対、前述の国王自身が高等法院に出席することで勅令登録を強要する親臨法廷の効力すら否定する有様。

国王はパリ高等法院を追放するが、世論の反対でその撤回を余儀なくされる。

この時も、民衆は特権層の王権に対する反抗に拍手喝采し、カロンヌ・ブリエンヌ・王妃を憎悪の的にしてその肖像画を燃やして騒ぎ立てたというのだから、本当に頭がどうかしてますよ。

隠された意図を秘めたデマゴーグに煽られるままに、自分たちの利害と全く相反する政策を王政に強要したわけである。

それでいて、この少し後に三部会の票決方法で特権層と袂を分かつと、今度はいかなる調停も受け入れず、ただひたすら暴力で社会を転覆することに熱狂することになる。

どんな時代の、どんな国でも、「世論」なんてそんなもんです。

1788年、革命勃発前年、ルイ14世によるナントの勅令廃止(フォンテーヌブロー勅令)を撤回、プロテスタントに法的身分と私生活上における信仰の自由を認める。

本書ではその他にも、ユダヤ人解放の検討、拷問廃止など、ルイ16世の開明政策の例が多数挙げられている。

高等法院の権限を司法に限定する方針が立てられるが、当然これにも反発。

また新税は三部会の専権事項だとの主張が行われ、翌年の三部会招集が決定。

ブリエンヌが辞職、ネッケルが復帰。

ここで身分ごとの審議と身分ごとの投票か、一人一票の投票かの論争が起り、結論を見ないまま第三身分代議員の倍増だけが決まる。

もうこの時点で、各地で暴動が起こり騒然とした世相のまま1789年を迎える。

この時期ルイ16世は以下のように述懐している。

臣民の血を流し、対抗し、内戦を引き起こすには残忍な心が必要である。・・・・・あらゆる思いが余の心を引き裂いた。事を首尾よく運ぶために私が必要としたのは、皇帝ネロの心とカリグラ帝の魂であった。

しかし当然、ルイ16世はネロとカリグラの道は採らず、わが身の破滅を堪え忍ぶ道を選ぶことになる。

今日も短いですけど、ちょうど大革命直前まで行きましたんで、これまで。

さすがに長すぎるんで、革命期の描写は少しまとめます。

2011年2月1日

ルイ16世についてのメモ その2

Filed under: おしらせ・雑記, フランス — 万年初心者 @ 06:00

その1に続き、ベルナール・ヴァンサン『ルイ16世』(祥伝社)より。

ルイ16世即位が1774年、ということはそのすぐ翌年75年にレキシントン・コンコードの戦いでアメリカ独立戦争開始、翌々年76年に独立宣言となる。

まず七年戦争とフレンチ・インディアン戦争を終結させた1763年パリ条約の内容を復習。

最も重要なのは、カナダとミシシッピ川以東のルイジアナがフランスからイギリスに割譲されたこと。

(この「ミシシッピ川以東の~」とか「以西の~」という言い方、高校世界史ではお馴染みで懐かしいですね。)

フロリダもスペイン領からイギリス領へ。

替わりにスペインはミシシッピ川以西のルイジアナ獲得。

カナダと広大なルイジアナを失ったフランスだけが大損である。

他にも西アフリカ拠点のセネガルをイギリスに奪われているから、もう踏んだり蹴ったり。

このパリ条約は近世における植民地争奪戦の最終決着であり、北米を中心としたイギリスの第一次帝国の頂点を形作るもの。

イギリスに対する復仇と海上勢力再建を目指すルイ16世はヴェルジェンヌ外相と協力して、77年サラトガの戦いでの独立派勝利を機に78年仏米同盟を締結し参戦、79年にはスペインが、80年にはオランダも対英戦に参加。

英米以外で参戦したのは上記3ヵ国の模様。

参戦はしなかったものの、80年結成で英国の海上臨検を拒否する「武装中立同盟」には、ロシア・オーストリア・プロイセン・デンマーク・ポルトガル・両シチリア王国が加わっているから、イギリスは完全な孤立状態。

フランスは遠征軍司令官ロシャンボー、海軍提督ド・グラース率いる軍を派遣。

81年ヨークタウンの戦いで大勝利。

この時の兵力は、コーンウォリス率いる英軍が9000、ワシントンの米軍が8800、ロシャンボーとラファイエットの仏軍が9000、他にグラースが上陸させた兵が3000と記されているから、確かに仏軍の存在は極めて重い。

ただし陸戦ではヨークタウン戦が決定的だったが、続く海戦ではイギリスが勝利しグラース提督が捕虜になっている。

結局1783年、上記七年戦争終結条約から20年後、同名のパリ条約で、イギリスはアメリカ独立承認。

フランスから奪ったばかりのミシシッピ川以東のルイジアナも、イギリスはアメリカに割譲。

スペインにはフロリダ、フランスにはセネガルを返還、カナダは保持したものの、それ以外の63年条約で得た領土はほぼ吐き出す。

しかし、以後イギリスは短期間で立ち直り、インドを中心とした第二次帝国確立に向かうことになる。

なおミシシッピ川以西のルイジアナについては、アンドレ・モロワ『アメリカ史 上・下』(新潮文庫)で確認したところ、ナポレオン時代初期に中部イタリアのトスカナと交換する形でスペイン領からフランス領となる(この経緯は高校世界史では出てこないはず)。

それに脅威を感じたアメリカと、圧倒的優位にあるイギリス海軍を向こうに回して海外領土を維持する見込みの無いフランスとの妥協が成立、1803年ジェファソン政権によるルイジアナ買収となるのは高校教科書の通り。

著者が示唆するように、ルイ16世という「専制君主」の決断が無ければ、アメリカ合衆国は今存在していないはずである。

本書では1993年ルイ16世処刑200周年にコンコルド広場で開かれた集会に、当時の駐仏アメリカ大使が公式の立場で花束を捧げたことが記されている。

アメリカ独立についてのくだりだけで一記事書いてしまった・・・・・。

こりゃまだまだ続きますわ。

今日は短めだったので、明日も更新します。

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