万年初心者のための世界史ブックガイド

2011年1月27日

ベルナール・ヴァンサン 『ルイ16世  (ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物3)』 (祥伝社)

Filed under: フランス — 万年初心者 @ 06:00

2010年刊行開始の新シリーズ。

店頭で初めて見たときに、「この版元にしては気の利いたもの出すじゃないか」と非常に失礼な感想を持ってしまった。

やや縦に長い版形の単行本で、300ページ余りと適切な長さ。

まず「はじめに」で全体を通じた視点を説明。

フランス革命は元国王の首を切り落とすだけでは満足しなかった。ルイ16世がどのような国王、人間であったかという記憶の大部分を抹消することで、元君主を二度殺したのである。切断された頭部を受けた籠には、ルイ16世の人となりと功罪も一緒に投げ込まれ、捨てられたのである。・・・・・・

歴史的に見て、ルイ16世の捻じ曲げられたイメージ――年齢の割には老けこみ、背が低く肥満体型、内向的で度量に欠け、首尾一貫せず優柔不断、お人よしで気弱、頭が悪く、決断力に欠けて無気力というのが一般的なイメージであろう――は、米国におけるジョージ・ワシントンのやはり捻じ曲げられたイメージと好対照であるが、本質的には同じである。片や欠陥の塊とされ、片や神格化されているが、どちらも現実とは異なる。こうしたイメージと、それらが隠蔽している真実とを隔てる煙幕はあまりにも厚い。だから、公正な立場を守りつつ真実を明らかにすることは無謀な企てであると同時に、一種の冒瀆でもある。これこそ、ルイ16世をめぐって本書が受けて立とうとする挑戦である。

ルイ14世は1754年誕生。

祖父がルイ15世、父は王太子ルイ・フェルディナン。

洗礼名はルイではなくルイ・オーギュスト、ベリー公の称号を与えられる(即位時にルイ16世ではなく、ルイ・オーギュスト1世を名乗る可能性があったと本書では書かれている)。

三人の男兄弟がいて、兄がブルゴーニュ公、弟がプロヴァンス伯(のちのルイ18世)とアルトワ伯(のちのシャルル10世)。

1761年兄が病死、1765年父も死去したことにより自身が王太子に。

1770年マリー・アントワネットと結婚、1774年祖父のルイ15世死去によりルイ16世として弱冠二十歳で即位。

在位期間の長かったルイ14世を継いだルイ15世は14世の曾孫、16世は15世の孫。

即位後15年で大革命を迎え、処刑されたときは39歳だったことになる。

この時期の時代背景としては、フランスはイギリスとの植民地争奪戦で決定的敗北を喫し、七年戦争を終結させた1763年のパリ条約で北米・インドの拠点をほぼ失っている。

ルイ16世の人となりについての記述では、ギボン『ローマ帝国衰亡史』の最初の3巻を自身でフランス語に翻訳したと書かれているのが目に付いた。

これは私の読んだ『衰亡史』邦語訳の解説では一つの仮説扱いだったはずだが、本書では断定されている。

いずれにせよ、高い知性を感じさせる逸話である。

(ちなみにギボンは1794年まで生きていたが、彼はフランス革命に対してこのような認識を持っていた。)

他は、一部の固定的イメージとは違って、実際には飽食とは無縁で、太ったのは単に遺伝的体質だとされている。

それと身長が190センチ以上あり、当時としてはまれな大男だったと書かれているのが意外だった。

背が高いようなイメージ、全然無いですよね?

マリー・アントワネットとの間に4人の子をもうける。

長男は革命勃発直前に亡くなり、次男が「ルイ17世」扱い、両親の処刑後も幽閉され1795年病死、長女は捕虜交換でオーストリアに引き渡され生き延び、次女は生後まもなく夭折。

1774年即位にあたって、モールパが国務大臣、テュルゴーが財務総監、ヴェルジェンヌが外務大臣に就任。

その治世前期において最大の難関となったのが、高等法院の問題。

当時、国王が出す勅令が効力を持ち適用されるためには高等法院による「登録」が必要とされていた。

特にパリ高等法院は全国の75%を管轄し、特権階層の牙城となって、王権が推進しようとする税負担の平等化などの穏健な近代化政策に徹頭徹尾抵抗していた。

それに対し、ルイ15世とモープーが1771年「君主革命」を断行し、その権限を剥奪し売官制度を廃止していた。

ところがルイ16世が即位するとその復活を強硬に要求する世論が猛然と高まる。

王権よりも高等法院が大衆の支持を集めていた・・・・・高等法院を支配していたのはいわゆる法服貴族であり、間違っても国民の代表とは呼べなかった。ルイ15世によって「追放」された法官たちは失った権限を奪還しようとしたが、その目的が民衆の切実な要望に応えることではなく、代々の特権の永続的な享受であったのは子供にでもわかる事実だ。自分たちの主張を正当化し、貧しい人々や台頭しつつあるブルジョワの共感を得るため、法官たちが当時の最先端思想を旗印にしていたことは確かであるが。最先端思想とは、自然権やルソーの唱えた「社会契約」の考え方であり、君主を王国の絶対的支配者ではなく単なる国家の受託者とみなすものである。このような戦略をとった法官たちは迂闊にも、自分たちの特権を脅かす点ではルイ15世の「君主革命」よりも恐ろしいもう一つの革命――1789年の共和革命とそれに続く恐怖政治――へ通じる扉を開けてしまったのだ。

このように国王の改革路線に反対した特権層も、それを支持した民衆も全く愚かではある。

本来自分たちの利益と全く相反する政策を、煽られるままに訳も解らず無分別にも支持し、特権層と共に漸進的改革を不可能にした民衆が、事態が当然の行き詰まりを見せると、この少し後では暴力で国王を責め立てるのだから、不条理・理不尽もここに極まれりである。

この時期の王権による改革が遂行されたとしても、それは諸身分間の経済的公正を追求するだけのもので、身分制の枠組自体は保存されたでしょうし、決して原子的個人しか存在しない不定形・不安定な社会をもたらしはしなかったでしょう。

日本も、廃藩置県や秩禄処分を遂行できなければ、こんな状態になったのかもとふと思った。

世界史の教科書で「啓蒙専制主義」って出てくるじゃないですか。

あれにいいイメージ持ってる方はあまりいないと思いますが、上記フランスのような袋小路に陥って最終的に国家の破滅を招き寄せるくらいなら、そういう政治も十分な正当性を持つんじゃないかと思いました。

結局、ルイ16世とモールパは譲歩し、高等法院を復活。

財務総監テュルゴーは優れた行政手腕を持っていたが、直近の不作を考慮せず穀物流通自由化に踏み切るなど、実務上のセンスを欠いていたと本書では評されている。

高等法院に国王が臨席し勅令登録を強制することが可能な「親裁座」によって、法服貴族らの抵抗を排除することを試みられるが、テュルゴーは王の信任を失い、1776年解任(この年アメリカ独立宣言)。

なお、治世期間中、こうした人事に対するマリー・アントワネットの介入がしばしば取り沙汰されるが、実際にはルイ16世は政治問題に対する王妃の介入は全くと言っていいほど許さなかったと著者は書いている。

これはオーストリアにとっては期待外れであり、王妃の兄で、啓蒙専制君主であると同時に冷徹なリアリストの面も持つヨーゼフ2世が、1772年第1回ポーランド分割に続いてバイエルンの併合を目論み、フランスへ見返りを提示してその承認を求めたが、国際関係の道義的側面を重視するルイ16世の断固たる拒否にあったことが記されている。

1777年ネッケルが財務長官就任(外国人[スイス人]でプロテスタントだったため「総監」ではなく「長官」)。

公債の発行により財政問題を一時沈静化させる。

より抜本的解決として、高等法院と地方長官の統治を地方議会のそれに置き換える改革プラン提示。

地方議会は聖職者、貴族、第三身分から成り、貴族階層では法服貴族より伝統的軍人貴族を優先する計画だったが、これも失敗、81年ネッケル辞任。

今日はとりあえずここまで。

この本の記事も長くなりそうです。

いくつ続くか、わかりません。

(追記:続きは以下

ルイ16世についてのメモ その1

ルイ16世についてのメモ その2

ルイ16世についてのメモ その3

ルイ16世についてのメモ その4

ルイ16世についてのメモ その5

ルイ16世についてのメモ その6

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