万年初心者のための世界史ブックガイド

2011年1月25日

伊藤博文についてのメモ その2

Filed under: おしらせ・雑記, 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

その1に続き、瀧井一博『伊藤博文 知の政治家』(中公新書)の記事より。

第6章「清末改革と伊藤博文」。

1898年伊藤は清国訪問中に戊戌の変法と戊戌の政変に遭遇。

この1898年は同時に列強による中国分割進行の年でもある。

英仏独露日がどこを租借したか、あるいは他国への不割譲を認めさせたかは高校世界史で憶えさせられましたよね。

それを受けて中国進出に乗り遅れた米国が翌年、翌々年に門戸開放・機会均等および領土保全を提唱することになります。

政変の結果、西太后が実権再掌握、変法派の康有為、梁啓超は日本に亡命。

このとき西太后に協力した袁世凱は辛亥革命後、策略で大総統になったことも併せて、塚本哲也『メッテルニヒ』(文芸春秋)の記事で触れた通り、高校世界史レベルでの印象は最悪ですね。

横山宏章『中華民国』(中公新書)はイメージに反して袁と孫文の共通性みたいなことを述べているようだが、よく憶えていない。

同じ著者の岩波書店「現代アジアの肖像」シリーズで『孫文と袁世凱』があるが、未読。

高校レベルではこの袁世凱は戊戌政変と辛亥革命後しか出てこないが、実はそれ以前にもう一回歴史の表舞台に出ている。

日清戦争時の朝鮮駐在清国代表として、陸奥宗光『蹇蹇録』に登場。

この役回りは、初めて読んだとき、かなり意外であった。

話が逸れ過ぎですので、元に戻します。

変法派は洋務派とは違い、技術の導入に留まらず政治・社会制度の変革にまで踏み込むことを主張し、明治維新後の日本に倣う姿勢を持っていたから、伊藤と親和的とも思えるが、実際には伊藤はこれら変法派とは距離を置く。

その急進主義を危惧したのと、康有為らは洋務派の「中体西用論」は否定するものの、康も儒教から抽出した「孔子教」を国教化し改革の基礎に据えようとする別種の「中体西用」的傾向があり、その政教一致姿勢を伊藤が忌避したためと思われる。

政変後、伊藤は着実な改革路線の主唱者湖広総督張之洞と会見、大いに意気投合する。

帰国後の伊藤は中国政治の立憲化には悲観的意見を持つが、中国の経済的潜在力は大いに認め、日本が政治的野心を持って中国の混乱に巻き込まれることを避け、経済面での進出と提携を主とした大陸政策を主張することになる。

第7章「韓国統監の“ヤヌス”の顔」。

伊藤の悪いイメージのうち、その多くを形作っている韓国統治に関する章。

まず併合前の三つの日韓協約をチェック。

1904年第1次日韓協約=日露戦争中締結、日本が推薦する財政・外交顧問を置く。

1905年第2次日韓協約=外交権剥奪、保護国化、統監府設置、これが最も重要。

1907年第3次日韓協約=内政権限も譲渡、軍隊解散。

「1次が財政・外交顧問、2次が外交、3次が内政と軍」、「1次、2次が時間的に近くて3次が少し離れてる」とイメージ。

ただし著者は第2次協約の時点ですでに内政への相当の関与が想定されていたとしている。

これで設置されたのが「統監府」で伊藤が初代統監。

併合後の統治機関は「朝鮮総督府」ですが、「韓国統監府」という呼称は教科書などでは見た覚えが無く(たぶん本書でもそう)、単なる「統監府」。

「韓国統監府」と書くと間違いなのかなとも思うが、本書では時々「韓国統監」という書き方はあったはず。

結局よくわからない。

この統監について特筆すべきなのは、韓国駐留軍司令官に対する指揮命令権を持っていたこと。

「明治憲法下で唯一、文官が軍隊の指揮権を持ち得る官職」であると本書では記されている。

伊藤が初代統監に就任したのは、日本勢力下における韓国の近代化を進めるというだけでなく、この指揮命令権を利用して軍への統制を強め、いずれはそれを本国にも適用するための足掛かりにする意図があったのではないかと著者は推測している。

本章名の「ヤヌス」とは韓国に対する近代文明化の使徒と侵略者の二面性を表したのではなく、この伊藤の企図における外交と内政のそれを表現したもの。

統監としての伊藤は、韓国内の海軍防備隊司令官人事に関与、斉藤実海相(後年、二・二六事件で殺害される人ですね。名前の読み方は「みのる」じゃなくて「まこと」)に承認を与えたほか、陸軍の訓令にも介入、韓国民にいたずらに強圧的な部分を削除させるなど軍のコントロールに努める。

こうした観点から、著者は前回記事で触れた軍令成立は伊藤の山県への一方的譲歩ではないとしている。

それまで陸軍大臣単独輔弼で決せられていた勅令のうち、陸軍給与令、憲兵令、陸軍補充条例など少なからぬものが公式令すなわち首相と陸相の連署で改正されている、と書いてある。

つまり伊藤による「1907年の憲法改革」は少なくとも全面的失敗ではなく、軍の統制強化の第一歩を築くことには成功しており、後世の人々が伊藤の路線をさらに進めることができず大きな失敗を犯したとしても、この改革の意義は十分認められるべきだ、との解釈。

そう書かれると、なるほどと思い、立憲政治・議会主義確立のための、伊藤の終始一貫したリーダーシップに頭の下がる思いがする。

しかし保護国体制下の韓国の漸進的近代化路線は事実上失敗する。

もともと伊藤はナショナリズムに超越的価値を認める政治家ではなく、日本で対外強硬論を押さえ、着実な近代化路線を追求してきたように、韓国の施政を行うつもりだったが、自国民のナショナリズムに対して必ずしも理解を持っていなかったように、日本に対する反発を緩めない韓国民のナショナリズムの強さも伊藤は見誤った。

結局、完全併合慎重論だった伊藤も1909年には容認に転ずる。

この方針変更についても、著者は軍抑制の意図があったとする。

日露戦争後の満洲での権益拡大と軍政継続を目論む陸軍を抑えるために、交換条件として韓国については併合を承認したのではないかと本書では推測されている。

山県有朋についてのメモ その2で書いたように、この満洲軍政継続問題でも児玉源太郎のイメージが下がりますね。

併合を容認したと言っても、伊藤の考えでは、韓国民には植民地議会と韓国人による責任内閣が認められるべきであり、自治能力が備わった暁には、韓国再独立と真の日韓同盟締結がその視野に入っていたのではないかと記されている。

あー、やっと終わった・・・・・・・。

新書にしては長いが、焦点を絞ったアプローチで書かれており、まだ読みやすい方でしょう。

伊藤についてほぼすべての側面をカバーしている分、やたら長い伊藤之雄『伊藤博文 近代日本を創った男』(講談社)にいく前に、これで準備運動をしてもよい。

末尾の年譜も、簡にして要を得たもので、十分役に立つ。

なお、本文を読んでいく中で、曖昧な基礎事項は教科書・年表・用語集などで一々確認しましょう。

面倒ではありますが、そうすればよく頭に入るし、それをしない場合、史書を通読する効用がかなり下がります。

一冊の本を読む場合、その中で完結するのではなく、関連事項をその都度確認するというのが私を含めた初心者にはお勧めです。

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