万年初心者のための世界史ブックガイド

2011年1月22日

伊藤博文についてのメモ その1

Filed under: おしらせ・雑記, 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

瀧井一博『伊藤博文 知の政治家』(中公新書)の記事続き。

第5章「明治国制の確立――1907年の憲法改革」。

1889年(フランス革命勃発のちょうど100年後)制定の大日本帝国憲法(明治憲法)に関して、世間で一般的に欠陥と見なされているものとして、(1)天皇主権、(2)統帥権の独立、(3)首相権限の弱さ、がある。

これらに対して伊藤がどのように対応したかがこの章の内容。

まず(1)について、天皇主権だからダメで国民主権ならいいとかいう単純な話ではなく、そもそも主権概念自体を疑うべきという意見もあるし(西部邁『思想史の相貌』)、私もなるほどと思うが、通俗的見解に従ってとりあえずこれを「欠陥」と見なして話を進める。

これに関して伊藤は帝室制度調査局総裁として、皇室の国制化を進めその実質統治者性の形式化によって天皇の政治利用の余地を狭め、同時に政治的責任問題からの回避を徹底させ皇室を安泰たらしめることに努力しており、この問題についてもきちんと手を打っている。

次に(2)。

「統帥権の独立」という言葉はよく聞くが、これは軍の統帥が「内閣から」独立して、天皇に直属しているという意味。

統帥といっても当然天皇は象徴的統治者であるに過ぎないから、政治による軍の統制が効きにくく、軍の独走の下地になる。

昭和に入るとその弊害が顕になり、誰も否定できない害毒を流しますが、これもねえ・・・・・・。

本書を読みながら頭の片隅でポソッと思ったことなんですが、自由民権運動と在野勢力がどれほど無思慮無責任な対外強硬論に走りがちであったかを考えると、憲法制定時点で軍と官僚を、将来政党が支配しかねない内閣からできるだけ切り離しておこうという考えにも一理はあったのではないかという感想がふと浮かんだ。

もちろん日露戦後のこの時期にはそれを抑えようとする伊藤の立場が正しかったんでしょうが。

伊藤の対応については次の(3)と共に述べます。

(3)の、内閣総理大臣の権限が弱体であったことは、前2項とは違って、中学高校の歴史教育ではあまり触れられません(引用文(高坂正堯1・岡崎久彦1)参照)。

この時期、伊藤は首相職権と軍統制の強化に乗り出す。

そもそも内閣制度が確立した1885年成立の「内閣職権」では首相が各大臣・行政各部に対する指示・統督をなすとされ、法律・命令には首相の副署が必要とされていた。

それが1889年の「内閣官制」では法律および一般の行政に関わる勅令には首相副署が必要だが、各省専任の行政事務に属する命令は各省大臣の副署のみで足りるとされ、首相権限が後退。

これに対し、伊藤が主導した1907年の「公式令」においては、すべての法律・命令に首相の副署が必要とされ、同時に「内閣官制」も改正され首相の閣令制定権・警視総監と地方長官への指揮監督権が明文化された。

著者はこれを「大宰相主義」の復活と表現している。

この改革は軍部の帷幄上奏の慣例に対する挑戦と見なされた。

明治憲法11条の統帥大権に関するものに限定されるはずの軍令事項が肥大化し、12条の編制・常備兵額を定める天皇の大権(編制大権)までが、あたかも統帥権の一部であるかのようになってしまっていた。

軍令というのは、帷幄上奏として、内閣を経由せず軍から直接天皇に上奏するもので、国民への公布も不要とされた。

これが文官・議会の干渉を排するために拡大解釈されていった。

本書がその例として挙げているのは、1896年陸軍雇用者の給与支給について大山巌陸相が単独上奏し、その後閣議で事後承諾を要求した事件。

予算変更を伴う措置で、以前の閣議決定を上回る額の要求だったため、当時首相だった伊藤は激怒し、陸軍の要求を拒否、帷幄上奏の濫用を戒める通牒が出された。

大山巌というと、司馬遼太郎『坂の上の雲』でしか知らない人間(つまり私)にとっては、西郷隆盛の衣鉢を継いだ、大人風の名司令官という印象しかないでしょうが、こういうイメージもやや崩れますよねえ・・・・・・。

児玉源太郎のアモイ事件に関する行動と並んで(山県有朋についてのメモ その1参照)。

この伊藤の動きに対して、山県有朋が巻き返しに出る。

「軍令ニ関スル件」(軍令第一号)が裁可され、帷幄上奏として発令される統帥事項には正式に軍令の名が与えられ、そのうち公布(公示)される勅令は陸海軍大臣の副署のみが必要とされた。

これによって表面上は、軍がその法的地位を守り固めて決着した形になる(ただしあくまで「表面上」の話で、これが伊藤の山県への一方的譲歩ではないことが本書の終わりの方で出てくる)。

山県という人は元々イメージが良くないが、伊藤之雄『山県有朋』(文春新書)でその肯定的側面を多く知り、軍部大臣現役武官制など、山県が定め、のちに軍の暴走に繋がったとされる制度も、後世の人間が適切に変更を加える余地はあり、それを山県の責任にするのは不適当だという見解も読んだことがある(福田和也『総理の値打ち』(文春文庫))。

だがここで山県の果した役割はやはりマイナスであったと評価するしかないんではないかなあと思った。

もっとも山県が生きている間は、昭和前期のような軍の下克上や暴走などは一切許さなかったことも事実だろうが。

そう思っていたら、この後の章で以下のような記述を見つけた。

上記の軍令第一号が成立したことを山県に報告に行った軍人の回想。

定めし元帥から賞められるといふことを予想して居りましたが豈図(あにはか)らんや元帥は賞められない。「お前達調法なものが出来たと思つて、濫用したら承知せぬぞ」とお叱りを受けました。

これを読むと、やはり一廉の見識を持った人物であったと思うが、しかし出来ることなら、自分のような元老・重臣が去った後のことについて、もっと想像力を持って欲しかったところではある。

一章だけのメモでこれだけかかった・・・・・・。

この、内閣による軍の統制強化とそれに対する軍令成立に関することは伊藤之雄『伊藤博文』(講談社)でもかなりの紙数で取り上げられており、着目はしていたのだが、やや複雑なので上記記事では何も書かなかった。

それもあって今回かなりメモしたんですが、疲れますね。

あと2章残っているので続きます。

単なる記事数稼ぎの感もありますが、まあいいじゃないですか。

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