万年初心者のための世界史ブックガイド

2011年1月7日

国際連盟についてのメモ

Filed under: おしらせ・雑記, 国際関係・外交 — 万年初心者 @ 06:00

篠原初枝『国際連盟』(中公新書)の記事続き。

1931年日本が起こした満州事変によって連盟は危機を迎える。

もちろん日本にも多くの言い分があろうし(マクマリー『平和はいかに失われたか』)、(左記マクマリーの記事で名を出した)クリストファー・ソーン『満州事変とは何だったのか』(草思社)のように、これを最終的に第二次世界大戦へつながる「始まり」と見なすのではなく、多くの矛盾と無理を抱えていた既存秩序の「終わり」という性質の強い事件とする見解もあるようだが、秦郁彦氏がどこかで言っていたように、やはり九ヵ国条約やパリ不戦条約に抵触する可能性が極めて高い事件を、まず日本が引き起こしたことは、何となく後味が悪い。

中国は連盟に提訴、日本の軍事行動拡大につれて加盟国の態度は硬化。

オブザーバーで参加したフーヴァー政権下の米国がスティムソン・ドクトリン(九ヵ国条約・不戦条約・連盟規約に反する行動の結果に対する不承認主義)表明。

32年(第一次)上海事変、リットン調査団派遣、連盟へのリットン報告書作成、その間日本は五・一五事件後成立した斉藤実内閣が満洲国承認。

報告書は日本の軍事行動を自衛行為と認めなかったが、満洲において日本が特別な権益を持つことは認める。

今思えば、報告書の勧告を受諾し、満洲が中国の主権下にあることを認めた上で、日中両政府の話し合いと妥協で満洲に自治政府を作るというくらいで矛を収めておけば良かったのにというところですが・・・・・。

たとえ後知恵でもそう言いたくなります。

33年3月に日本は連盟脱退。

32年2月から33年6月までジュネーヴ軍縮会議が開かれていたが、その途中、33年1月に政権を握ったヒトラーは、10月ドイツの連盟脱退を敢行。

前年32年には元イギリスの委任統治領だったイラク王国が独立、連盟に加盟している。

34年9月にはソ連が加盟、常任理事国に。

ヒトラー政権の脅威に備える点で、英仏とソ連の思惑がとりあえず一致した結果。

スターリンは外相リトヴィノフを表に立て、人民戦線戦術などの柔軟路線を演出。

翌35年には仏ソ相互援助条約、ソ連・チェコ相互援助条約が結ばれるが、その3年後には独ソ不可侵条約で親枢軸路線に転換することになる。

33年には事務総長が初代ドラモンドから仏人アヴノールに替わる。

(この人が実質最後で、基本二代のみと考えてよいようだ。)

35年イタリアのエチオピア侵攻。

経済制裁が検討されるが、最重要軍需物資の石油は、その禁輸を宣戦布告と見なすとムッソリーニ政権が表明していたので、制裁項目から外される。

(日本もハル・ノートをくらった時点でこれを公表し、南部仏印進駐以後の石油禁輸の継続は戦争行為に等しいと大々的に宣言しておくべきでしたね。ルーズヴェルトに余計な宣伝材料を与えてしまいました。)

同35年ドイツ再軍備宣言、36年ラインラント進駐(ロカルノ条約破棄)、ベルリン・ローマ枢軸、スペイン内戦、37年日中戦争、38年オーストリア併合、ズデーテン危機、ミュンヘン会談、39年独ソ不可侵条約、第二次世界大戦と坂を転げ落ちるように国際関係は悪化、39年11月にはすでにドイツとポーランドを分割していたソ連がフィンランドにも侵攻、連盟はソ連を追放。

大戦末期、1945年4~6月にサンフランシスコで国際連合創設会議、10月に発効し国際連合発足。

一方国際連盟は46年4月まで存続し、同月解散。

国際連盟の英語表記がLeague of Nationsなのに対し、国際連合はUnited Nationsすなわち連合国なのは周知の通り。

上記の歴史の中で日本が果した役割については、とりあえず高坂正堯『外交感覚 同時代史的考察』(中央公論社)での以下の文章に沿ったような暫定的理解をしておいては如何でしょうか。

1930年代にはそれまでの国際秩序は崩壊していた。すなわち、各国の行動を律する基準は怪しいものとなり、そのなかで各国はその力を拡大し、国益を増進するためにそれぞれ勝手なことをした。イギリスがポンド圏を作りブロック経済をしいたのはそのひとつであり、それはよいこととはいえない。ソ連は自国の生存のためとはいえ、ナチス・ドイツと談合し、1939年にポーランドを分割したが、それもよいことではない。アメリカにしても、たかまり行く危機からできるだけ身を引いていようとしたのであり、それも称讃されることではない。

つまり、当時において、各国の政治家は状況がよく見えていなかった。ただ日本の指導者はとくにそうであって、そのため、いつの間にか、どう見ても国際正義に反すること――それも他の諸国よりも相対的により重大な侵犯――をおこなってしまったのである。すなわち日本は「侵略」をおこなったのであるが、それは日本の指導者たちが愚かで、貪欲であったというより、状況の難しさに負けてしまったのである。けっして軍国主義者とはいえない米内光政は、日本が「魔性の歴史」にひきずられたといったが、そこには実感があふれている。そのことも認識し、教えなければ歴史教育とはいえない。

私自身、こうした見方より遥かに「右傾化」していた時期もあったし、今もそういう考えは残っている。

米英仏中露など戦勝国の公式的見解が正しいとも思えない。

例えば米国については、上記に加え大戦後最大の債権国になったにも関わらず国際経済秩序を維持するリーダーシップの必要性に対する認識が希薄で(このことは高坂先生も書いていた)、愚かにも経済バブルを膨らませた上、その崩壊に全世界を巻き込み、さらにスムート・ホーレイ法によってブロック経済化の先鞭をつけ世界恐慌を一層深刻化させたことは、意図的でないからといって不問に付されていいとは思わない。

しかしここで書いたように、私は「自虐史観」よりも民主主義が嫌いなので、「デモクラシーの失敗の一形態としての戦前日本」という考えが頭に浮かぶ今、先の大戦を全面肯定するような言説にはかなりの距離感を感じます。

極めて巨視的に見た場合、先の大戦が欧米列強のアジア侵略に対する対抗という性質を持っていたことは事実だが、しかし自国民のみならず近隣国民に多大の損害を与えたことに対する反省の姿勢は維持し、だがあの時代で「もし自分なら何ができたか」という自省を忘れず、当時の指導者を後世の安全な場所から一方的に指弾するような真似はするべきではない、という意味のことをある人が書いていたのを読んだことがあるが、今の自分の考えはそれに一番近いか。

閑話休題。

本書で気になった所を以下3点ほど(いずれも私が読んだ初版において)。

まず5ページ、カント『永遠平和のために』についての文章で、「民主主義が平和的な国家間関係の構築に最適であるという国内政治体制と国際平和の関連性であり・・・・・」と書かれているが、限られた紙数で説明しなければならないということは十分わかりますが、ここはもう少し慎重で丁寧な書き方をされた方が宜しいのではないでしょうか(中西寛『国際政治とは何か』)。

250ページ、「1939年9月23日の独ソ不可侵条約」とあるが、ドイツのポーランド侵入が9月1日、英仏の対独宣戦が9月3日だから、もちろん正しくは8月23日です。

単なるケアレスミスでしょうが、これはできれば編集者様か校正の方に見つけて頂きたかったです。

177ページ、「1926年3月8日連盟理事会が開かれたとき、イギリスからはネヴィル・チェンバレン外相・・・・・」という文章を読み、「え?」とやや引っ掛かったのですが、これはネヴィルじゃなくて、兄のオースティン・チェンバレンではないでしょうか。

『角川世界史辞典』を引くと、オースティンの項で「外相1924~29」、ネヴィルは「蔵相1923~24、31~37」とありますから、たぶん間違いないはずです。

一個上の事例と合わせて、増刷・重版の際に直して頂けると幸いです。

ちなみに父のジョゼフ、弟のネヴィルと違って、オースティン・チェンバレンは高校世界史範囲外ですが、この人はフランスのブリアン、ドイツのシュトレーゼマンと並んで、1920年代後半における協調外交の時代を代表する人物として憶えておいた方がいいと思います。

読みやすく、標準的な内容の概説で、割と良い。

普通に役立つ入門書。

年表、加盟国一覧、規約翻訳と付録も充実。

(最初に書名を出したクリストファー・ソーン『満州事変とは何だったのか』(草思社)は、頻繁に「連盟規約第○○条に基づく制裁措置」云々と出てくるのに、肝心の規約が載っていないのが不満でした。)

最後に重箱の隅つつきみたいなこと書きましたが、十分読むに値する本だと思います。

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