万年初心者のための世界史ブックガイド

2011年1月5日

篠原初枝 『国際連盟  世界平和への夢と挫折』 (中公新書)

Filed under: 国際関係・外交 — 万年初心者 @ 06:00

第一次世界大戦後に誕生した、史上初の普遍的国際組織の概説。

国際連盟は1920年設立、本部はスイスのジュネーヴ。

この国際連盟にアメリカが参加しなかったことは中学校の社会科教科書にも載っているし、何か「不完全な組織」とのイメージがあるが、実際は当時の独立国の大半が加盟した事実がある。

もちろん植民地が依然世界の多くの地域を占めていたし、一度加盟したものの脱退した国も少なくないが、本書巻頭の地図で見ると、全くの非加盟を通したのは米国の他ではサウジアラビア(1924~32年まではヒジャーズ・ネジド王国)が目立つくらい。

(その他ネパール、ブータンも非加盟の表示。両国は当時イギリスの保護国だったか?うろ覚えではっきりしない。)

最初に近世ヨーロッパ以降、国際組織の構想についての歴史を概観。

一方、その実践としては1863年の赤十字国際委員会、1874年の万国郵便連合、1899年・1907年の二回にわたるハーグ平和会議などが挙げられている。

第一次大戦中に国際組織設立を求める多くの民間団体の活動があり、1918年ウィルソンの「十四ヵ条の平和原則」における最後の項に国際平和機構設立が盛られる。

同18年休戦・ドイツ降伏、1919年パリ講和会議。

(ちなみに講和条約はヴェルサイユ条約だが、講和会議は「パリ」講和会議で、「ヴェルサイユ講和会議」とするのは誤りと以前習った。たしか高校時代、それでバツをくらった覚えがある。)

同19年ヴェルサイユ条約の一部に連盟規約が組み込まれた形で調印、20年発効、国際連盟成立。

この規約には、ウィルソンの主張で、モンロー宣言のような米国の一方的声明を承認する条項が含まれていたにも関わらず、上院の反対で米国が加盟しなかったのは周知の通り。

ちなみに、この過程で日本が主張し、仏・伊・中が賛成した人種平等条項(山東半島・青島の旧ドイツ租借地問題などで日本と激しく対立した中国もこの問題では賛成した)が、米英の反対で盛り込まれなかったことは有名。

これも今では相当知られた事実だし、煽情的に取り上げるのは良くないとは思うが、それでもこの時のウィルソンの対応にはある程度の悪感情を抱かざるを得ない。

もともとウィルソンについては、ドイツとの休戦交渉において皇帝退位と民主化を条件とすることで、ドイツの国家体制を脆弱にし、軍部ではなく穏健な議会政治家に過酷な講和条件の責任を負わせることによってナチズムへの道を開いたようなものだと思って、「まったく知恵の足りない理想主義者の典型で、とんでもない人物だ」という印象を持っていたのだが、牧野雅彦『ヴェルサイユ条約』(中公新書)で実はドイツの体制変革についてはかなり慎重な姿勢を示していたことを知り、少々見直していた。

しかし本書での記述を読むと、高坂正堯『不思議の日米関係史』(PHP研究所)の以下の文章を読んで得たイメージはやはり修正する必要がないのかなと感じた。

正直言って、私はウィルソン大統領が余り好きではない。とくに彼がメキシコに介入するのをためらわず、日本にも人種的偏見のようなものを持っていたことを考えると、彼は正義の原則や理想を重んじはしたが、生身の人間は好きではなかったのではないか、と思う。彼が第一次世界大戦中に高い理想を掲げながら、それを現実化できなかったのは、当時では彼の理想が高すぎたというだけでなく、前述の人となりにもよるような気がする。

旧ドイツ植民地・旧トルコ領は単なる戦勝国による分配を避け、連盟から各国への委任統治領となる。

植民地支配のカモフラージュに過ぎないとしばしば言われるが、著者は、戦勝国が委任統治領と植民地を区別して扱っていた具体例を挙げて、一定の評価を与えている。

イギリスの自治領カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカも単独加盟。

これらはまあ理解しやすいが、イギリスは植民地のインドも「自治植民地」になる見込みだとして加盟させる。

確か国際連合が設立される際、ソ連が連邦構成共和国すべての加盟を主張し、妥協としてソ連の他にウクライナと白ロシア(現ベラルーシ)のみが単独で加盟した事実があったはずで、この例を連想してしまった。

主要機関は総会と理事会と事務局と常設国際司法裁判所。

理事会は現在の国際連合での「安全保障理事会」と違って、名称は単なる「理事会」。

常任理事国と非常任理事国から成るのは今と同じで、常任理事国は米不参加のため、当初、英仏伊日の四ヵ国。

秦郁彦氏が『二十世紀日本の戦争』(文春新書)で似たようなことを言っていたが、明治初年から考えると、日本が世界の五(四)大国の一員とは目も眩むような地位なのだから、この少し後に自らを「持たざる国」なんて被害者意識ばかり募らせずに、冷静になるべきだったと思わぬでもない。

初代事務総長にはイギリス人ドラモンド就任(~33年)。

その下に副事務総長がいて、さらに事務次長。

新渡戸稲造が事務次長になったのは有名。

敗戦国のオーストリア、ブルガリアが20年、ハンガリーが22年加盟。

23年エチオピア、32年トルコ加盟。

24年ドーズ案、25年ロカルノ条約によってようやくヨーロッパ情勢が安定し、26年には最大の懸案だったドイツの加盟が実現、即常任理事国に。

この時常任理事国の地位を要求して容れられなかったスペイン、ブラジルが脱退表明、スペインは結局残留したが、ブラジルは脱退、以後復帰せず。

その間、1921年上部シレジア問題(独・ポーランド間)、23年コルフ島事件(伊・ギリシア間)の解決に連盟は貢献。

通商、労働、難民、保健衛生、知的交流などの分野でも成果を挙げる。

日本人も連盟で活躍し、主な人物として新渡戸稲造の他、石井菊次郎、安達峰一郎、杉村陽太郎、佐藤尚武の名が挙げられている。

上記のうち、石井菊次郎は1917年石井・ランシング協定の締結者ですね。

この協定は、ほぼ常に日本の中国進出に警戒的だった米国に日本の中国における特殊権益の存在を珍しく認めさせたことで有名。

佐藤尚武は臼井勝美『日中戦争』(中公新書)で少しだけ名前の出た外交官で、終戦時には駐ソ連大使だった人です。

連盟にとって苦難の時代である1930年代以降は続きます。

(続きはこちら→国際連盟についてのメモ

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