万年初心者のための世界史ブックガイド

2011年1月29日

ルイ16世についてのメモ その1

Filed under: おしらせ・雑記, フランス — 万年初心者 @ 06:00

ベルナール・ヴァンサン『ルイ16世』(祥伝社)の記事続き。

この頃、世論の中で王妃マリー・アントワネットの悪評が広まる。

本書でも、よく言われる浪費癖など、王妃にとって不名誉な事実が隠されているわけではない。

しかしそれを勘案しても、当時の世論における悪意の高まりは明らかに常軌を逸しており、狂的な異様さを感じる。

「絶対王政」という政体名からくるイメージとは全く異なり、王妃や王に対する下劣な誹謗中傷が卑しい民衆の「娯楽」として公認されていたかのような状態である。

恥辱的な風刺文やパンフレット、悪意のこもった歌のハミングは王妃の私生活を攻撃してやまなかった。姦通だの、乱交だの、同性愛だの、近親相姦だのが口の端にのぼった。この外国女の淫奔さを非難して回った。背徳的な放埓で、王室の褥を汚したというのだ。幻想を膨らませる的として、また性的禁忌の違反を責められる的として、彼女はそうしたものを禁じられている人々にとって、恰好のはけ口となった。・・・・・王妃はあらゆる悪徳の、貴族社会のあらゆる欠陥の象徴となってしまったのだった。この憎悪には、外国人嫌いとナショナリズムが、当然のように含まれていた。(ジャン・クリスチャン・プティフィス『ルイ16世 上巻』

上辺だけモラリストの仮面を被った匿名の民衆世論が自らの底無しの卑しさと下劣さを棚に上げ、ただその攻撃欲を満足させるという目的のためだけに、社会の上層部に対して理不尽な非難を加え続ける。

世論の中心には、とりわけ国民の最下層の人々のあいだには、異端審問官のような、道徳を説くことを好む風潮があった。おそらくジャンセニスト的な鋳型から生まれたこの風潮は、おそらくは革命下で、粛清をこととするピューリタニズムを、「清廉潔白な者たち」、つまりあの「善」の騎士たちの出現を、そしてギロチンの出現を予告するものであった。

人々は清い魂と善良な人間の役を演じていた。ありとあらゆる憤慨の言葉が口にされ、不品行、高位にある者たちの、いわゆる不品行を詰り、人々は彼らの頽廃ぶりに立腹したふうを装った。その実、彼らに関する好色な、もしくは猥褻な記事や、ポルノグラフィックな戯画を、楽しんでいたのである。

善良なルイ16世の治下、すでに行進を始めていた美徳は、恐怖(テルール)の序文を書きつつあったのだ・・・・・。(『同上』)

歯止めが効かず、ますます過激化する世論の標的は、最も注目を浴び逃れようの無い君主一家へ向かう。

こうした王妃に対する憎悪の高まりの中では、無頓着な彼女の、ほんの小さな軽率さ、媚態が鬼畜のごとき犯罪になり、女友達との無垢な友情がレズビアンとみなされてしまう。そして、何気ない言葉が皮肉たっぷりに歪曲され、彼女に跳ね返ってくるのだ。フーキエ・タンヴィル[革命裁判所検事]の前に出る前に、王妃はすでに、贖罪の生贄として民衆に提供されていた。そこでは、醜悪で狡猾なさまざまな問いが噴出した。

中傷、誹謗の恐るべき力、それは、今日、メディアを通じて著名人に襲いかかるときどれほどの効果を発揮するか誰もがよく知っているが、そうした力に、王妃と王は怯えていくことになる。それは獲物を捕らえて放さない地獄の罠である。興奮状態があるレヴェルにまで達すると、世論という法廷は荒れ狂い、熱狂と欲動を結晶させ、著名人に向かって社会的制裁を集中させる。

こうなってしまうと、その人間がたとえ何を言っても、また無実を叫び、それを証明するために、たとえどんなことをしても無駄で、ますます深みにはまり身動きが取れなくなってしまう。それはまるで罠にかかってもがき暴れる動物と同じで、人々はそれが死にいたるのを待っているのである(『同上』)

こうした雰囲気が生み出す、責任感と自己懐疑に一切欠けた、卑怯・愚劣な他罰主義的精神態度が、急進的社会変革への狂信とそのための暴力の正当化に結びつくのは容易に想像がつく。

しかし無制限の自由が予定調和的に進歩をもたらすと盲信した知識人と、それを盲信したふりをして実際上の利益を得る地下パンフレットの製作者などには、そんなことを言っても一切通じない。

「ブルジョワ的公共空間」の周辺では、教養がなく粗暴だといわれた下層民たちが、独自の記号、煽動的な風聞、「下品な言説」によって、調整役にも倫理にも欠いた不安定な域圏を作り出していた。嘘や中傷、偽りの噂は策動家や出版元を喜ばせ、真面目で客観的な情報と混じり合うことになった。ブルジョワと下層民の二つの域圏は、今のところは重なり合うことも対立することもないまま、権力に関する二とおりの見解、国民の二つの代表、二つの合法性の兆しを宿していた。この二つの合法性は、やがて革命のさなかに、下層民の言説を組織化したジャコバン主義が人民の名において語り始めたときに、周知のとおりの激しさでぶつかり合うことになる。(『同上』)

「専制政府」に対し啓蒙思想を説く「言論の自由」を擁護した「高尚な」人々は、同時に自分たちがどれほど卑しく恐ろしい獣を解き放ったのかを理解しなかった。

しかし上記の通り、いずれそのことを嫌というほど思い知ることになる。

この時期のフランスだけでなく、どの時期のどんな国でも、文明がある程度を越えて進んでしまい以下のような状態に達すると、何をしても止めようが無く、どんな救いもありえないようになるんでしょうね。

・・・・ヴィーコの歴史の見方は、各民族が原始社会から始まって万人平等の民主的な文明社会にいたるまで段階的に進歩・発展を遂げてゆく進歩史観の一つと思われるかもしれない。しかし、ヴィーコの歴史観のユニークな点は、すでに少し述べておいたように、こうして第三段階の民主的な文明社会に到達した民族が、ふたたび第一段階の原始状態に引き戻されると説く点である。彼は、ギリシアもローマもエジプトもフランスなどの西欧民族も、いずれも上記の三段階を経て発展するが、最後には、停滞し没落して出発点の原始状態に「再帰」せしめられると考える。

では、なぜ、第三段階の民主的な文明社会にまで到達した各民族は、出発点に「再帰」を余儀なくされるのか。それは、要するに、どの民族も折角手に入れた自由を乱用して堕落し、無政府状態におちいるからである。人間とは、自由を手に入れれば、それを無政府的あるいは無制限的に行使し、骨の髄まで堕落してゆくのである。そして、贅沢・柔弱・貪欲・嫉妬・傲慢・虚栄といった自分で抑制できない情念の奴隷と化してゆく。あるいは、嘘つき・ペテン師・中傷家・泥棒・臆病者・偽善者などのありとあらゆる悪習にまみれ切ってしまう。

腐敗した民族は、各自がまるで野獣のように自分自身の個人的な利益のことしか考えない習慣におちいってしまう。しかも、極端に神経質になるために、まるで野獣のように、ほんのちょっと気に障ることがあると、腹を立てていきり立つであろう。精神においても意志においても、市民たちは、この上なく深い孤独のなかで、各自が自分自身の快楽や気まぐれにしたがって生きている。そして、たとえ二人の人間の間でも、ほとんど合意に達することは不可能になってしまう。こうしたことすべてのために、彼らは執拗きわまる党派争いと絶望的な内乱を惹き起こし、都市を森と化し、森を人間の巣窟と化してしまう野田宣雄『歴史をいかに学ぶか』

少し話を戻すと、この辺の記述を読んで痛感するのが、啓蒙思想に侵食された末期の「絶対王政」がその安定をいかに世論に依存していたか、反抗の兆しを見せ始めた世論に対しいかに脆弱だったかということ。

コーンハウザーなどが説くように、前近代的な権威主義的専制政治は、その権力行使において必ず一定の限界を持っている。

真に恐るべきなのは、人民主権の理念浸透、言論の自由、民衆の政治参加、社会の平等化が進んだ後に(決して「前に」ではなく)、大衆煽動によって増幅された民衆の狂信と愚劣さを基盤にして(断じて「少数の伝統的支配層の悪意や野心や驕慢ゆえに」ではなく)出現する独裁政治であり、それだけが言葉の本当の意味で全体主義と呼ばれるに値する。

このブログは政治的意見の宣伝のためにやっているわけではないので、もし何か自分と全く異なる政治的見解があれば、「なんじゃこりゃ」と無視して下さればいいのですが、それでも私がたとえほんのわずかな数であっても、同意してくれる人が増えて欲しいと思っているのは、上記のような認識だけです。

2011年1月27日

ベルナール・ヴァンサン 『ルイ16世  (ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物3)』 (祥伝社)

Filed under: フランス — 万年初心者 @ 06:00

2010年刊行開始の新シリーズ。

店頭で初めて見たときに、「この版元にしては気の利いたもの出すじゃないか」と非常に失礼な感想を持ってしまった。

やや縦に長い版形の単行本で、300ページ余りと適切な長さ。

まず「はじめに」で全体を通じた視点を説明。

フランス革命は元国王の首を切り落とすだけでは満足しなかった。ルイ16世がどのような国王、人間であったかという記憶の大部分を抹消することで、元君主を二度殺したのである。切断された頭部を受けた籠には、ルイ16世の人となりと功罪も一緒に投げ込まれ、捨てられたのである。・・・・・・

歴史的に見て、ルイ16世の捻じ曲げられたイメージ――年齢の割には老けこみ、背が低く肥満体型、内向的で度量に欠け、首尾一貫せず優柔不断、お人よしで気弱、頭が悪く、決断力に欠けて無気力というのが一般的なイメージであろう――は、米国におけるジョージ・ワシントンのやはり捻じ曲げられたイメージと好対照であるが、本質的には同じである。片や欠陥の塊とされ、片や神格化されているが、どちらも現実とは異なる。こうしたイメージと、それらが隠蔽している真実とを隔てる煙幕はあまりにも厚い。だから、公正な立場を守りつつ真実を明らかにすることは無謀な企てであると同時に、一種の冒瀆でもある。これこそ、ルイ16世をめぐって本書が受けて立とうとする挑戦である。

ルイ14世は1754年誕生。

祖父がルイ15世、父は王太子ルイ・フェルディナン。

洗礼名はルイではなくルイ・オーギュスト、ベリー公の称号を与えられる(即位時にルイ16世ではなく、ルイ・オーギュスト1世を名乗る可能性があったと本書では書かれている)。

三人の男兄弟がいて、兄がブルゴーニュ公、弟がプロヴァンス伯(のちのルイ18世)とアルトワ伯(のちのシャルル10世)。

1761年兄が病死、1765年父も死去したことにより自身が王太子に。

1770年マリー・アントワネットと結婚、1774年祖父のルイ15世死去によりルイ16世として弱冠二十歳で即位。

在位期間の長かったルイ14世を継いだルイ15世は14世の曾孫、16世は15世の孫。

即位後15年で大革命を迎え、処刑されたときは39歳だったことになる。

この時期の時代背景としては、フランスはイギリスとの植民地争奪戦で決定的敗北を喫し、七年戦争を終結させた1763年のパリ条約で北米・インドの拠点をほぼ失っている。

ルイ16世の人となりについての記述では、ギボン『ローマ帝国衰亡史』の最初の3巻を自身でフランス語に翻訳したと書かれているのが目に付いた。

これは私の読んだ『衰亡史』邦語訳の解説では一つの仮説扱いだったはずだが、本書では断定されている。

いずれにせよ、高い知性を感じさせる逸話である。

(ちなみにギボンは1794年まで生きていたが、彼はフランス革命に対してこのような認識を持っていた。)

他は、一部の固定的イメージとは違って、実際には飽食とは無縁で、太ったのは単に遺伝的体質だとされている。

それと身長が190センチ以上あり、当時としてはまれな大男だったと書かれているのが意外だった。

背が高いようなイメージ、全然無いですよね?

マリー・アントワネットとの間に4人の子をもうける。

長男は革命勃発直前に亡くなり、次男が「ルイ17世」扱い、両親の処刑後も幽閉され1795年病死、長女は捕虜交換でオーストリアに引き渡され生き延び、次女は生後まもなく夭折。

1774年即位にあたって、モールパが国務大臣、テュルゴーが財務総監、ヴェルジェンヌが外務大臣に就任。

その治世前期において最大の難関となったのが、高等法院の問題。

当時、国王が出す勅令が効力を持ち適用されるためには高等法院による「登録」が必要とされていた。

特にパリ高等法院は全国の75%を管轄し、特権階層の牙城となって、王権が推進しようとする税負担の平等化などの穏健な近代化政策に徹頭徹尾抵抗していた。

それに対し、ルイ15世とモープーが1771年「君主革命」を断行し、その権限を剥奪し売官制度を廃止していた。

ところがルイ16世が即位するとその復活を強硬に要求する世論が猛然と高まる。

王権よりも高等法院が大衆の支持を集めていた・・・・・高等法院を支配していたのはいわゆる法服貴族であり、間違っても国民の代表とは呼べなかった。ルイ15世によって「追放」された法官たちは失った権限を奪還しようとしたが、その目的が民衆の切実な要望に応えることではなく、代々の特権の永続的な享受であったのは子供にでもわかる事実だ。自分たちの主張を正当化し、貧しい人々や台頭しつつあるブルジョワの共感を得るため、法官たちが当時の最先端思想を旗印にしていたことは確かであるが。最先端思想とは、自然権やルソーの唱えた「社会契約」の考え方であり、君主を王国の絶対的支配者ではなく単なる国家の受託者とみなすものである。このような戦略をとった法官たちは迂闊にも、自分たちの特権を脅かす点ではルイ15世の「君主革命」よりも恐ろしいもう一つの革命――1789年の共和革命とそれに続く恐怖政治――へ通じる扉を開けてしまったのだ。

このように国王の改革路線に反対した特権層も、それを支持した民衆も全く愚かではある。

本来自分たちの利益と全く相反する政策を、煽られるままに訳も解らず無分別にも支持し、特権層と共に漸進的改革を不可能にした民衆が、事態が当然の行き詰まりを見せると、この少し後では暴力で国王を責め立てるのだから、不条理・理不尽もここに極まれりである。

この時期の王権による改革が遂行されたとしても、それは諸身分間の経済的公正を追求するだけのもので、身分制の枠組自体は保存されたでしょうし、決して原子的個人しか存在しない不定形・不安定な社会をもたらしはしなかったでしょう。

日本も、廃藩置県や秩禄処分を遂行できなければ、こんな状態になったのかもとふと思った。

世界史の教科書で「啓蒙専制主義」って出てくるじゃないですか。

あれにいいイメージ持ってる方はあまりいないと思いますが、上記フランスのような袋小路に陥って最終的に国家の破滅を招き寄せるくらいなら、そういう政治も十分な正当性を持つんじゃないかと思いました。

結局、ルイ16世とモールパは譲歩し、高等法院を復活。

財務総監テュルゴーは優れた行政手腕を持っていたが、直近の不作を考慮せず穀物流通自由化に踏み切るなど、実務上のセンスを欠いていたと本書では評されている。

高等法院に国王が臨席し勅令登録を強制することが可能な「親裁座」によって、法服貴族らの抵抗を排除することを試みられるが、テュルゴーは王の信任を失い、1776年解任(この年アメリカ独立宣言)。

なお、治世期間中、こうした人事に対するマリー・アントワネットの介入がしばしば取り沙汰されるが、実際にはルイ16世は政治問題に対する王妃の介入は全くと言っていいほど許さなかったと著者は書いている。

これはオーストリアにとっては期待外れであり、王妃の兄で、啓蒙専制君主であると同時に冷徹なリアリストの面も持つヨーゼフ2世が、1772年第1回ポーランド分割に続いてバイエルンの併合を目論み、フランスへ見返りを提示してその承認を求めたが、国際関係の道義的側面を重視するルイ16世の断固たる拒否にあったことが記されている。

1777年ネッケルが財務長官就任(外国人[スイス人]でプロテスタントだったため「総監」ではなく「長官」)。

公債の発行により財政問題を一時沈静化させる。

より抜本的解決として、高等法院と地方長官の統治を地方議会のそれに置き換える改革プラン提示。

地方議会は聖職者、貴族、第三身分から成り、貴族階層では法服貴族より伝統的軍人貴族を優先する計画だったが、これも失敗、81年ネッケル辞任。

今日はとりあえずここまで。

この本の記事も長くなりそうです。

いくつ続くか、わかりません。

(追記:続きは以下

ルイ16世についてのメモ その1

ルイ16世についてのメモ その2

ルイ16世についてのメモ その3

ルイ16世についてのメモ その4

ルイ16世についてのメモ その5

ルイ16世についてのメモ その6

2011年1月25日

伊藤博文についてのメモ その2

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その1に続き、瀧井一博『伊藤博文 知の政治家』(中公新書)の記事より。

第6章「清末改革と伊藤博文」。

1898年伊藤は清国訪問中に戊戌の変法と戊戌の政変に遭遇。

この1898年は同時に列強による中国分割進行の年でもある。

英仏独露日がどこを租借したか、あるいは他国への不割譲を認めさせたかは高校世界史で憶えさせられましたよね。

それを受けて中国進出に乗り遅れた米国が翌年、翌々年に門戸開放・機会均等および領土保全を提唱することになります。

政変の結果、西太后が実権再掌握、変法派の康有為、梁啓超は日本に亡命。

このとき西太后に協力した袁世凱は辛亥革命後、策略で大総統になったことも併せて、塚本哲也『メッテルニヒ』(文芸春秋)の記事で触れた通り、高校世界史レベルでの印象は最悪ですね。

横山宏章『中華民国』(中公新書)はイメージに反して袁と孫文の共通性みたいなことを述べているようだが、よく憶えていない。

同じ著者の岩波書店「現代アジアの肖像」シリーズで『孫文と袁世凱』があるが、未読。

高校レベルではこの袁世凱は戊戌政変と辛亥革命後しか出てこないが、実はそれ以前にもう一回歴史の表舞台に出ている。

日清戦争時の朝鮮駐在清国代表として、陸奥宗光『蹇蹇録』に登場。

この役回りは、初めて読んだとき、かなり意外であった。

話が逸れ過ぎですので、元に戻します。

変法派は洋務派とは違い、技術の導入に留まらず政治・社会制度の変革にまで踏み込むことを主張し、明治維新後の日本に倣う姿勢を持っていたから、伊藤と親和的とも思えるが、実際には伊藤はこれら変法派とは距離を置く。

その急進主義を危惧したのと、康有為らは洋務派の「中体西用論」は否定するものの、康も儒教から抽出した「孔子教」を国教化し改革の基礎に据えようとする別種の「中体西用」的傾向があり、その政教一致姿勢を伊藤が忌避したためと思われる。

政変後、伊藤は着実な改革路線の主唱者湖広総督張之洞と会見、大いに意気投合する。

帰国後の伊藤は中国政治の立憲化には悲観的意見を持つが、中国の経済的潜在力は大いに認め、日本が政治的野心を持って中国の混乱に巻き込まれることを避け、経済面での進出と提携を主とした大陸政策を主張することになる。

第7章「韓国統監の“ヤヌス”の顔」。

伊藤の悪いイメージのうち、その多くを形作っている韓国統治に関する章。

まず併合前の三つの日韓協約をチェック。

1904年第1次日韓協約=日露戦争中締結、日本が推薦する財政・外交顧問を置く。

1905年第2次日韓協約=外交権剥奪、保護国化、統監府設置、これが最も重要。

1907年第3次日韓協約=内政権限も譲渡、軍隊解散。

「1次が財政・外交顧問、2次が外交、3次が内政と軍」、「1次、2次が時間的に近くて3次が少し離れてる」とイメージ。

ただし著者は第2次協約の時点ですでに内政への相当の関与が想定されていたとしている。

これで設置されたのが「統監府」で伊藤が初代統監。

併合後の統治機関は「朝鮮総督府」ですが、「韓国統監府」という呼称は教科書などでは見た覚えが無く(たぶん本書でもそう)、単なる「統監府」。

「韓国統監府」と書くと間違いなのかなとも思うが、本書では時々「韓国統監」という書き方はあったはず。

結局よくわからない。

この統監について特筆すべきなのは、韓国駐留軍司令官に対する指揮命令権を持っていたこと。

「明治憲法下で唯一、文官が軍隊の指揮権を持ち得る官職」であると本書では記されている。

伊藤が初代統監に就任したのは、日本勢力下における韓国の近代化を進めるというだけでなく、この指揮命令権を利用して軍への統制を強め、いずれはそれを本国にも適用するための足掛かりにする意図があったのではないかと著者は推測している。

本章名の「ヤヌス」とは韓国に対する近代文明化の使徒と侵略者の二面性を表したのではなく、この伊藤の企図における外交と内政のそれを表現したもの。

統監としての伊藤は、韓国内の海軍防備隊司令官人事に関与、斉藤実海相(後年、二・二六事件で殺害される人ですね。名前の読み方は「みのる」じゃなくて「まこと」)に承認を与えたほか、陸軍の訓令にも介入、韓国民にいたずらに強圧的な部分を削除させるなど軍のコントロールに努める。

こうした観点から、著者は前回記事で触れた軍令成立は伊藤の山県への一方的譲歩ではないとしている。

それまで陸軍大臣単独輔弼で決せられていた勅令のうち、陸軍給与令、憲兵令、陸軍補充条例など少なからぬものが公式令すなわち首相と陸相の連署で改正されている、と書いてある。

つまり伊藤による「1907年の憲法改革」は少なくとも全面的失敗ではなく、軍の統制強化の第一歩を築くことには成功しており、後世の人々が伊藤の路線をさらに進めることができず大きな失敗を犯したとしても、この改革の意義は十分認められるべきだ、との解釈。

そう書かれると、なるほどと思い、立憲政治・議会主義確立のための、伊藤の終始一貫したリーダーシップに頭の下がる思いがする。

しかし保護国体制下の韓国の漸進的近代化路線は事実上失敗する。

もともと伊藤はナショナリズムに超越的価値を認める政治家ではなく、日本で対外強硬論を押さえ、着実な近代化路線を追求してきたように、韓国の施政を行うつもりだったが、自国民のナショナリズムに対して必ずしも理解を持っていなかったように、日本に対する反発を緩めない韓国民のナショナリズムの強さも伊藤は見誤った。

結局、完全併合慎重論だった伊藤も1909年には容認に転ずる。

この方針変更についても、著者は軍抑制の意図があったとする。

日露戦争後の満洲での権益拡大と軍政継続を目論む陸軍を抑えるために、交換条件として韓国については併合を承認したのではないかと本書では推測されている。

山県有朋についてのメモ その2で書いたように、この満洲軍政継続問題でも児玉源太郎のイメージが下がりますね。

併合を容認したと言っても、伊藤の考えでは、韓国民には植民地議会と韓国人による責任内閣が認められるべきであり、自治能力が備わった暁には、韓国再独立と真の日韓同盟締結がその視野に入っていたのではないかと記されている。

あー、やっと終わった・・・・・・・。

新書にしては長いが、焦点を絞ったアプローチで書かれており、まだ読みやすい方でしょう。

伊藤についてほぼすべての側面をカバーしている分、やたら長い伊藤之雄『伊藤博文 近代日本を創った男』(講談社)にいく前に、これで準備運動をしてもよい。

末尾の年譜も、簡にして要を得たもので、十分役に立つ。

なお、本文を読んでいく中で、曖昧な基礎事項は教科書・年表・用語集などで一々確認しましょう。

面倒ではありますが、そうすればよく頭に入るし、それをしない場合、史書を通読する効用がかなり下がります。

一冊の本を読む場合、その中で完結するのではなく、関連事項をその都度確認するというのが私を含めた初心者にはお勧めです。

2011年1月22日

伊藤博文についてのメモ その1

Filed under: おしらせ・雑記, 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

瀧井一博『伊藤博文 知の政治家』(中公新書)の記事続き。

第5章「明治国制の確立――1907年の憲法改革」。

1889年(フランス革命勃発のちょうど100年後)制定の大日本帝国憲法(明治憲法)に関して、世間で一般的に欠陥と見なされているものとして、(1)天皇主権、(2)統帥権の独立、(3)首相権限の弱さ、がある。

これらに対して伊藤がどのように対応したかがこの章の内容。

まず(1)について、天皇主権だからダメで国民主権ならいいとかいう単純な話ではなく、そもそも主権概念自体を疑うべきという意見もあるし(西部邁『思想史の相貌』)、私もなるほどと思うが、通俗的見解に従ってとりあえずこれを「欠陥」と見なして話を進める。

これに関して伊藤は帝室制度調査局総裁として、皇室の国制化を進めその実質統治者性の形式化によって天皇の政治利用の余地を狭め、同時に政治的責任問題からの回避を徹底させ皇室を安泰たらしめることに努力しており、この問題についてもきちんと手を打っている。

次に(2)。

「統帥権の独立」という言葉はよく聞くが、これは軍の統帥が「内閣から」独立して、天皇に直属しているという意味。

統帥といっても当然天皇は象徴的統治者であるに過ぎないから、政治による軍の統制が効きにくく、軍の独走の下地になる。

昭和に入るとその弊害が顕になり、誰も否定できない害毒を流しますが、これもねえ・・・・・・。

本書を読みながら頭の片隅でポソッと思ったことなんですが、自由民権運動と在野勢力がどれほど無思慮無責任な対外強硬論に走りがちであったかを考えると、憲法制定時点で軍と官僚を、将来政党が支配しかねない内閣からできるだけ切り離しておこうという考えにも一理はあったのではないかという感想がふと浮かんだ。

もちろん日露戦後のこの時期にはそれを抑えようとする伊藤の立場が正しかったんでしょうが。

伊藤の対応については次の(3)と共に述べます。

(3)の、内閣総理大臣の権限が弱体であったことは、前2項とは違って、中学高校の歴史教育ではあまり触れられません(引用文(高坂正堯1・岡崎久彦1)参照)。

この時期、伊藤は首相職権と軍統制の強化に乗り出す。

そもそも内閣制度が確立した1885年成立の「内閣職権」では首相が各大臣・行政各部に対する指示・統督をなすとされ、法律・命令には首相の副署が必要とされていた。

それが1889年の「内閣官制」では法律および一般の行政に関わる勅令には首相副署が必要だが、各省専任の行政事務に属する命令は各省大臣の副署のみで足りるとされ、首相権限が後退。

これに対し、伊藤が主導した1907年の「公式令」においては、すべての法律・命令に首相の副署が必要とされ、同時に「内閣官制」も改正され首相の閣令制定権・警視総監と地方長官への指揮監督権が明文化された。

著者はこれを「大宰相主義」の復活と表現している。

この改革は軍部の帷幄上奏の慣例に対する挑戦と見なされた。

明治憲法11条の統帥大権に関するものに限定されるはずの軍令事項が肥大化し、12条の編制・常備兵額を定める天皇の大権(編制大権)までが、あたかも統帥権の一部であるかのようになってしまっていた。

軍令というのは、帷幄上奏として、内閣を経由せず軍から直接天皇に上奏するもので、国民への公布も不要とされた。

これが文官・議会の干渉を排するために拡大解釈されていった。

本書がその例として挙げているのは、1896年陸軍雇用者の給与支給について大山巌陸相が単独上奏し、その後閣議で事後承諾を要求した事件。

予算変更を伴う措置で、以前の閣議決定を上回る額の要求だったため、当時首相だった伊藤は激怒し、陸軍の要求を拒否、帷幄上奏の濫用を戒める通牒が出された。

大山巌というと、司馬遼太郎『坂の上の雲』でしか知らない人間(つまり私)にとっては、西郷隆盛の衣鉢を継いだ、大人風の名司令官という印象しかないでしょうが、こういうイメージもやや崩れますよねえ・・・・・・。

児玉源太郎のアモイ事件に関する行動と並んで(山県有朋についてのメモ その1参照)。

この伊藤の動きに対して、山県有朋が巻き返しに出る。

「軍令ニ関スル件」(軍令第一号)が裁可され、帷幄上奏として発令される統帥事項には正式に軍令の名が与えられ、そのうち公布(公示)される勅令は陸海軍大臣の副署のみが必要とされた。

これによって表面上は、軍がその法的地位を守り固めて決着した形になる(ただしあくまで「表面上」の話で、これが伊藤の山県への一方的譲歩ではないことが本書の終わりの方で出てくる)。

山県という人は元々イメージが良くないが、伊藤之雄『山県有朋』(文春新書)でその肯定的側面を多く知り、軍部大臣現役武官制など、山県が定め、のちに軍の暴走に繋がったとされる制度も、後世の人間が適切に変更を加える余地はあり、それを山県の責任にするのは不適当だという見解も読んだことがある(福田和也『総理の値打ち』(文春文庫))。

だがここで山県の果した役割はやはりマイナスであったと評価するしかないんではないかなあと思った。

もっとも山県が生きている間は、昭和前期のような軍の下克上や暴走などは一切許さなかったことも事実だろうが。

そう思っていたら、この後の章で以下のような記述を見つけた。

上記の軍令第一号が成立したことを山県に報告に行った軍人の回想。

定めし元帥から賞められるといふことを予想して居りましたが豈図(あにはか)らんや元帥は賞められない。「お前達調法なものが出来たと思つて、濫用したら承知せぬぞ」とお叱りを受けました。

これを読むと、やはり一廉の見識を持った人物であったと思うが、しかし出来ることなら、自分のような元老・重臣が去った後のことについて、もっと想像力を持って欲しかったところではある。

一章だけのメモでこれだけかかった・・・・・・。

この、内閣による軍の統制強化とそれに対する軍令成立に関することは伊藤之雄『伊藤博文』(講談社)でもかなりの紙数で取り上げられており、着目はしていたのだが、やや複雑なので上記記事では何も書かなかった。

それもあって今回かなりメモしたんですが、疲れますね。

あと2章残っているので続きます。

単なる記事数稼ぎの感もありますが、まあいいじゃないですか。

2011年1月20日

瀧井一博 『伊藤博文  知の政治家』 (中公新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

2010年4月刊。

確か去年サントリー学芸賞を受賞した本。

同じ著者の『文明史のなかの明治憲法』(講談社選書メチエ)の名は聞いたことがあるが、未読。

新書にしては相当分厚いが、単行本の伊藤之雄『伊藤博文 近代日本を創った男』(講談社)ほどではない。

この本と本書では視点を同じくする部分が多い。

目次で各章名を見ると、第1章「文明との出会い」、第2章「立憲国家構想」、第3章「1899年の憲法行脚」、第4章「知の結社としての立憲政友会」、第5章「明治国制の確立――1907年の憲法改革」、第6章「清末改革と伊藤博文」、第7章「韓国統監の“ヤヌス”の顔」とあるように、最後の二章を除いては立憲政治確立のための内政面での働きに常に重点が置かれている。

その主題に沿わない事項についてはバッサリ省略。

例えば、第2次伊藤内閣(1892~96年)時の日清戦争については、驚くほど記述が無く、実質ゼロに等しい。

しかし伊藤のすべての活動面を拾っていったら、この厚さの新書で3分冊、4分冊になっても足りないだろうし、上記伊藤之雄氏の伝記と同じになる。

読み終えてみると、一つのテーマを軸に全編通したのは正解じゃないでしょうかという気になった。

実際に本文に入ると、第1章で幕末から明治初年にかけてをあっさり済ませてくれているのは助かる。

この辺苦手なんですよ。

むしろその分しっかり読んで把握しなければならないのはわかってますが、伊藤氏の本みたいにあんまり長々やられるとその時点で挫折しそうになります。

第2章以降で日本に立憲政治と議会主義を根付かせるための伊藤の奮闘を描く。

まずは本文をじっくり読みながら、以下のような超重要事項の年代を記憶し、その前後関係でその他の出来事の時期を捉えるという作業を地道にやっていきましょう。

1868年明治改元、1871年廃藩置県、同年岩倉使節団派遣、1873年征韓論政変、1877年西南戦争、1881年明治十四年政変、1882~83年憲法調査渡欧(シュタインに学ぶ)、1885年初代内閣総理大臣、1888年首相辞任、枢密院初代議長、1889年大日本帝国憲法。

この辺の本書の記述を読んで思うことを言うと、「天皇主権の欽定憲法作成者の伊藤が、実はこんなに民主的で近代的な考えの持ち主だったんですよー」という叙述のコンセプトはわかるが、個人的にはそうした論旨では大した感銘は受けない。

むしろ「民主主義と近代主義の先にとんでもない落とし穴が待ち受けているのをしっかり認識して、こういう留保や予防措置を採ってたんですよー」というようなことを書いてもらった方が何十倍も感心するが、残念ながら本書からはそうした面はあまり感じ取れない。

14ページにおいて、伊藤が津田梅子に「アメリカを知る最良の本」としてトクヴィル『アメリカのデモクラシー』を薦めたというエピソードが載っていることから判断しても、伊藤が上記のような認識を持っていたと十分思えるのですが。

このエピソードは本書の末尾で著者も改めて触れていて、トクヴィルはデモクラシーの不可避性を認識しつつ、それが民衆に与える精神面での影響をネガティヴに捉えていたとはっきり書いてあるのに、それに対する伊藤の対応として漸進主義と実用主義を挙げるだけであっさり済まされてるのは隔靴掻痒の感が否めない。

これを、著者があえて深く触れなかったゆえと判断するか、それとも無条件的明治礼讃を事とする政治的右派と違った保守派の人々がいうように、そもそも明治の指導者に進歩主義に対する根本的懐疑が欠けていたと見なすべきなのか。

どの途、私ごときが判定するには問題が大き過ぎますので、この話はこれまで。

第3章、第4章辺りの話として、1898年に第3次伊藤内閣成立、自由・進歩両党合併→憲政党成立、隈板内閣(第1次大隈内閣)、第2次山県内閣成立という激しい動きがあった後、1900年旧自由党系の憲政党を中心に伊藤を総裁とした立憲政友会結成という流れをチェック。

著者は、政友会という党名に着目。

文字通り政友「会」であり、利益誘導と猟官と党争に明け暮れたこれまでの政党と一線を画し、国民統合・人材育成の組織およびシンクタンクとなることを期待しての命名だとしている。

同1900年第4次伊藤内閣ができるが、これは実質政友会単独内閣。

外相加藤高明、陸相桂太郎、海相山本権兵衛以外の閣僚は政友会党員。

政党内閣というと、隈板内閣と原敬内閣(1918~21年)がすぐ思い浮かぶが、本書ではこの第4次伊藤内閣も実質政党内閣だとしている。

話が全く逸れますが、上記で原敬内閣の存続年代を書いてふと思ったんですが、1919年韓国の三・一独立運動は原敬内閣時代に起ったんですよね。

教科書でバラバラで出てくるから普段は意識しない。

「平民宰相」の本格的政党内閣と三・一運動鎮圧は表面的イメージではあまり結びつかない。

まあその結果「文化政治」政策に転換したんだから、その意味ではイメージ通りか。

やっぱり一個の記事じゃ終わりませんわ。

続きます。

(追記:続きは以下

伊藤博文についてのメモ その1

伊藤博文についてのメモ その2

2011年1月18日

2011年センター試験について

Filed under: おしらせ・雑記 — 万年初心者 @ 06:00

毎年恒例、先日行われた大学入試センター試験・世界史Bの問題を翌日の新聞で見て、解いてみた感想です。

しかし、当日は寒かったですねえ。

北日本在住で一応寒さには慣れてる私でもこたえました。

受験生の方は大変でしたね。

さて、今年の出来は・・・・・・。

やっぱり、一問間違えました。

それも一番最後の問題で。

畜生・・・・・・。

途中までは、「おっ、今年は満点か」と思っていたのが、最後の最後でこれですから。

悔しさ倍増。

第4問の問9、南インドの歴史を問う問題。

「a 14世紀、ヴィジャヤナガル王国が成立した。」と、「b 17世紀、マドラスがイギリス東インド会社の拠点となった。」という文章の正誤の組み合わせを答える。

正解はa、bどちらとも正しい。

ところが私はa、bどちらも誤りという選択肢を選んでしまった。

二重の間違いという恥晒し。

ヴィジャヤナガル王国は、滅亡はムガル盛期だけど、確かムガル朝に直接滅ぼされたわけじゃなかったんだよな(中公全集『ムガル帝国から英領インドへ』)、建国はいつだったっけ?、ムガル朝成立の16世紀に入ってからかな、などと考えていて、見事に間違う。

存続年代は1336年~1649年だから問題文の通り。

教科書には「3世紀にわたってヒンドゥー文化の伝統をまもり続けた」と書いてある。

16世紀成立と想定すると、ムガル帝国盛期の滅亡なら100年ちょっとしか続いていないことになってやや不自然だと判断すべきでした。

bの問題文も正しい。

浜渦哲雄『イギリス東インド会社』の記事で、ちゃんと「1640年マドラスに要塞建設」と書いてあるじゃないですか・・・・・・。

18世紀半ばでクライヴとデュプレクスの英仏抗争、1757年がプラッシーの戦い、よってその時点でカルカッタ・ボンベイ・マドラスの三大拠点が確立していたことは間違いない、しかし17世紀中ではどうか、英東インド会社設立が1600年だし、そこからすぐにインドに拠点を持てるかなあ、アウラングゼーブの死が18世紀初頭だし、その後にマドラスも獲得したと考えるのが自然か、などと類推して大間違い。

この時点では領土支配と植民地化の先触れというより、(明代の1557年にマカオ居住を許可されたポルトガルのように)単に通商拠点を持っただけということでしょうが、英のスーラト・カルカッタ・ボンベイ・マドラス、仏のシャンデルナゴル・ポンディシェリ獲得は、ジャハンギール、シャー・ジャハーン、アウラングゼーブなどムガル帝国盛期の皇帝たちの治世に行なわれていると、上記リンク先記事でメモしている。

完全に頭から抜け落ちてました。

これは、高校生にはちょっと難しいんじゃないですかね。

あと、もう一つ、間違えかけた問題がありまして、第2問の問8。

上記と同じく二つの文章の正誤判定組み合わせ。

「a 宋代に、衛所という地方小都市が発展した。」

「b 明代に、郷紳と呼ばれる地方有力者が成長した。」

正解はa=誤、b=正。

まずaは、宋代の地方小都市って、少なくとも衛所じゃないよな、「草なんとか」と「ちん」だったんじゃないかと考えて何とかクリア。

(「衛所制」は明の洪武帝が設立した兵農一致の兵制。)

正しくは「鎮」と「市」。

地方の小規模な交易所が「草市(そうし)」と呼ばれ、そこから鎮・市に発展したものも多かったということ。

教科書にもちゃんと載ってますが、苦手なんですよ、こういうの。

bの「郷紳」も割とよく聞いた憶えのある用語だが、「明代に」と限定されると迷う。

教科書には明清の社会についての項で、在郷の科挙合格者や官僚経験者の総称として名前が出ている。

私はかなりあやふやで、宋代の支配層で名の出るのは士大夫とか読書人だよなあ、じゃあ郷紳は明代でいいか、くらいの頼りない根拠で何とか正解を出す。

毎回思うことですが、ちょっと真剣にやってみると、自分の弱点が分かり、知識の補強ができます。

難関大の入試問題には到底手が出ませんが、センター試験をほぼ満点取れるくらいの知識はこれからも出来るだけ維持していきたいと思っています。

追記:

暇だったので、ついでに日本史Bの問題もやってみました。

たぶんポロポロ取りこぼすだろうなと思っていたら、意外なことに、こちらも一問間違えただけで済んだ。

第4問の問5、江戸時代の人材育成に関する正誤判定問題、「人材育成のために閑谷学校など郷学が設けられたが、庶民の入学は許されなかった。」という文章。

正解は「誤」。

私はよく考えず、庶民の教育機関というと私塾と寺子屋だろうと判断して間違えた。

ここは、藩学(藩校)と郷学(郷校)を区別して、後者には庶民の入学が許可されることもあったことを問う問題(ですよね? たぶん・・・・・。違ってたら御免なさい)。

他は特に引っ掛かった問題は無かった。

ここ2、3年、近代日本史についてはかなり読み込んできたので、近現代史の第5問と第6問は非常に易しく感じた。

前近代史も、突っ込んだ複雑な知識が要求される問いは少なく、簡単な消去法で対応できるものが多数を占める。

例えば上記の関連で言うと、個々の藩学として、秋田の明徳館やら米沢の興譲館やら萩の明倫館やら熊本の時習館やら薩摩の造士館やらを区別させる問題が出たら、完全にお手上げだったが、そこまでのレベルを要求する問いは、少なくとも今年の試験では無かった。

古代から明治初期辺りまでの日本史知識が穴だらけなのを自覚しているので、石川晶康『NEW石川日本史B講義の実況中継』(語学春秋社)のような受験参考書を再読しようかと考えてるくらいなのですが、それでもこれだけ得点できた。

私は「世界史より日本史の方が楽だ」という考え方が理解できないと度々書いてきましたが、難関大クラスでなく、センター試験レベルならば、上記の考えもある程度妥当なのかなという気がしてきました。

2011年1月16日

ハプスブルク家についてのメモ

Filed under: おしらせ・雑記, ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

河野淳『ハプスブルクとオスマン帝国』(講談社選書メチエ)の記事続き。

対オスマン最前線として「兵営化」していたクロアチアの軍事植民制について。

軍役の替わりに土地を与えられ、在地領主の支配を免れ、ハプスブルク家に直属、裁判・行政においても大幅な自治。

クロアチアはカトリック圏であるにも関わらず、植民者の正教信仰維持が認められ、これは最大の宗教戦争である三十年戦争中でも撤回されなかった。

クロアチア諸侯は中世以来の「人体としての国家論」に基づく王国の一体性を主張し、軍事植民者の自治廃止を訴えたが、国境防衛の重要性の見地から現実論を説くハプスブルクに拒否される。

中世的思弁政治から近代的実証主義政治への移行の前提となる心性について。

「数量化革命」=中世後期からルネサンスにかけて、ものの性質を問題にする考えから、その数量を問題にする考えへと人々の心性が変化したことを示す言葉、クロスビーの論。

「16世紀文化革命」=山本義隆が主張、数量化にとどまらない経験的知のあり方が文字利用の拡大を背景に社会に普及、実践的知識が古典的知をおしのけたことを示す。

その実戦的知が大学というハイカルチャーの場でさらに発展し、17世紀「科学革命」(この言葉は高校教科書にも出てる)に繋がる(ニュートン、ボイル、ホイヘンス、ラヴォワジェ、ハーヴェーなど)。

近代政治は立憲政治のことか?という問題提起。

憲法・国制など抽象的概念装置が公的なものとして秩序を保つことは近代的とは言えない、中世キリスト教共同体の役割を個別の世俗国家が受け継ぎ完成させただけであり、立憲政治自体、イギリスのように目に見えない国王に対する信仰を出発点にしており、立憲的要素とは中世的なものである。

実証主義政治は近世前半の思想のない政治。

英=上記の通り思弁政治が主、17世紀内乱を経て実証主義政治へ。

仏=「ナショナルな聖性」が王権神授説で継続、大革命で実証主義政治に向かうが、同時にナショナリズムという別の思弁政治を生み出す。19世紀以降の他国と同じく思弁・実証主義両政治の共存。

ハプスブルク=オスマンという外圧により実証主義政治に。

フェルディナント1世、マクシミリアン2世の非宗教的実証主義政治。

マクシミリアンの子ルドルフ2世、その弟マティアスに続く、いとこのフェルディナント2世(在位1619~37年)は帝国の再カトリック化という思弁政治的行動を採り三十年戦争へ(しかし対オスマン戦では実証主義政治を維持[クロアチア軍事植民者の自治特権維持])。

1683年第二次ウィーン包囲撃退、1699年カルロヴィッツ条約でオスマンの脅威は大きく後退。

続くスペイン継承戦争で世界帝国を再建するという思弁政治的行動が出るが、18世紀半ばのマリア・テレジア、ヨーゼフ2世時代には実証主義政治が定着。

途中から箇条書きのメモになったので、何やら訳がわからない部分もあるでしょうが、まあ気になる方は実際にお読み下さい。

事前に思っていたよりは面白かったので、書名一覧での評価は予想の2から3にするか迷う。

しかし、最近「評価3、易」が多過ぎるかもしれないので、あえて2にしますか。

特に強い印象を受けなかった本は、つい3にする癖がついてしまっている。

「3」の範囲がやたら広くて、「2」「4」が狭く、「1」「5」はめったに付けません。

以後少しはメリハリを利かせることを心がけます。

難易度についても、最近はやや根気がついて、わからない部分は飛ばし読みすることに慣れてきたので、「易」が多い。

まあ古典的著作は大抵「難」を付けますが、これも少し歯ごたえのあるものは「中」を意識して付けることにします。

追記:

当記事とは全然関係無いんですが、A・J・P・テイラー『第二次世界大戦の起源』(中央公論社)が講談社学術文庫で復刊されたようです。

初心者には少々厳しい内容ですが、やはり重要な本だと思いますんで、未読の方はこれを機に通読するか、もしくは品切になる前にとりあえず購入されては如何でしょうか。

それにしても、中央公論刊だった名著の版権譲渡が目立ちます。

営業上の御判断に口を挟むつもりはございませんが、買収前の中央公論社の世界史関連書籍に大いに親しんだ者としては、幾ばくかの物悲しさを覚えます。

そういえば、高坂正堯氏も最晩年はあまり中公から著作を出されませんでしたね。

どうせ読売傘下に入ったのなら、『ジョージ・F・ケナン回顧録』(読売新聞社)なんかは中公名義で復刊してくれませんかね。

今でも、とりあえずは一番応援したい出版社ではあるので、良書復刊とその長期在庫に淡い期待を持ち続けることにします。

2011年1月14日

河野淳 『ハプスブルクとオスマン帝国  歴史を変えたの発明』 (講談社選書メチエ)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

世界史関係で手頃な良書揃いで、このブログでも度々記事にする講談社選書メチエからまた一冊。

と言っても実は本書は立ち読みでの印象はあまり芳しくなかったが、たまたま手元に読む本が無かったので通読。

近世初頭、オスマン帝国の脅威を受けたオーストリア・ハプスブルク帝国の政治を分析した本。

まずウォーラーステインの「世界システム論」から筆を起こし、それが市場原理の自動的働きにより「中心」「周縁」「半周縁」という国際的地位が形成されたことを説く理論であるのに対し、本書では国家の政治的軍事的行動の重要性を強調、ハプスブルク家がオスマン朝をバルカンに押し止めたことが近代世界システムの確立に決定的であったと評価している。

具体的史実を挙げた部分に沿ってメモすると、まず1389年コソヴォの戦いでセルビアがオスマン支配下に入り、1453年ビザンツ帝国滅亡。

1440年フリードリヒ3世以後、神聖ローマ帝国帝位は常にハプスブルク家に。

子のマクシミリアン1世がブルゴーニュ公女マリアと結婚してネーデルラント獲得。

その子フィリップ美公がスペイン王女フアナと結婚して両者から生れたカール5世(カルロス1世)がスペイン・オーストリア両国を統治(他にネーデルラント、ナポリ、それに加えて新大陸領土も)。

カールの弟フェルディナントがボヘミア・ハンガリー王女アンナと結婚、妹マリアは同国王ラヨシュ2世と二重縁組が結ばれる。

このラヨシュ2世はヤゲウォ家出身。

高校世界史だと、「ヤゲウォ朝=ポーランド(とリトアニア)」というイメージだが、近世初頭には一時ボヘミアとハンガリーを含め、中東欧四ヵ国の王位を占めていた(中公新版世界史全集『ビザンツとスラヴ』参照)。

ところが1526年モハーチの戦いでラヨシュ2世はオスマン軍に敗死、ブダ(現首都ブダペストの一部)を含むハンガリーの主要部分はオスマン領となって、ボヘミア・ハンガリー王位は上記婚姻関係によりハプスブルク家に転がり込んでくる。

(ちなみにヤゲウォ朝は1572年ポーランドでも断絶、選挙王制に移行。)

1556年カール5世退位後、スペインは子のフェリペ2世、オーストリア・ハンガリー・ボヘミアは弟のフェルディナント1世が継ぐ。

フェルディナント1世の次がマクシミリアン2世(在位1564~76年)。

本書後半ではこのマクシミリアン2世の治世が多く扱われている。

ハプスブルクを脅かしたオスマン朝軍のうち正規軍はシパーヒーとイェニチェリに分かれる。

シパーヒーはティマール(封土)を与えられた封建的騎兵。

それに対しイェニチェリは元キリスト教徒子弟から徴集した火器を装備した歩兵で、こちらが軍の主力となっていく。

ハンガリーの多くがオスマン領になったこの時期、ハプスブルク帝国防衛の最前線はクロアチア。

この国は中世以来ハンガリーと同君連合を形成していた(南東欧諸国史概略)。

(それに対し同じ旧ユーゴ構成国のスロヴェニアは近代に至るまで独自国家形成せず。)

近世のイギリスなどは中世封建制を打破し徴税制度を導入と常備軍整備を成し遂げた「財政・軍事国家」モデルとして理解される。

クロアチアは多大の軍備が置かれたものの財政基盤は到底それを支え得るに足らず、「財政なき軍事国家」とでも言うべき状態。

しかし一国単位ではなく神聖ローマ帝国全体を眺めると、帝国内の軍事力の弱い中小領邦が対オスマン防衛費用を負担、各国の分業と機能分化が認められる。

クロアチアは「財政なき軍事国家」であると同時に「開かれた軍事国家」であり、他領邦は「開かれた財政国家」であると言える。

この防衛費用負担に当たって、キリスト教世界全体の統治者というフィクションを持つ皇帝は英仏国王のような「ナショナルな聖性」を発揮することができず、「公益」や「共通の危機」を訴え、具体的情報を提示し、事実に基づく現実主義的心性を育み、それが近代政治の誕生に繋がるというのが本書の主要テーマ。

帝国に「トルコ税」(防衛費)を課すため、民衆レベルではパンフレットなどでオスマンの脅威をしばしば実態以上に誇張した形で宣布。

帝国議会レベルでは上記現実主義的心性による議論のあり方が認められ、それが中世的「思弁政治」と区別される近代的「実証主義政治」の始まりであるとされている。

この帝国議会は選帝侯部会、諸侯部会、都市部会の三つに分かれ、どの部会にも皇帝自身は参加できないが、ハプスブルクはオーストリア大公として諸侯部会に参加しているし、提議・意見修正要求・決議拒否による議論の誘導が可能であった。

マクシミリアン2世即位後の、オスマンとトランシルヴァニア侯連合軍に対するハプスブルクの戦争についてかなりの紙数を割いて書かれているが、細かな具体例はパスして、以上のような視点を確認できればそれでよいでしょう。

それほど長々とメモしたい本でもないんですが、一つの記事にするにはちょっとだけきついんで、続きます。

(追記:続きはこちら→ハプスブルク家についてのメモ

2011年1月12日

引用文(鹿島茂1)

Filed under: 読書論, 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

鹿島茂『成功する読書日記』(文芸春秋)より。

『怪帝ナポレオン3世』の著者。)

・・・・・最初のうちは、最小限の情報を書きとめるに留めたほうがよいのです。読書日記だったら著者と題名、これだけでいいのです。

この段階で批評や感想を書くよりも、むしろ、読んだ文章を引用することをお勧めしたいと思います。

その昔フランス滞在中に一人のフランス人学生と知りあって、その学生のアパルトマンに遊びに行ったことがあります。すると驚いたことにアパルトマンには蔵書というものがほとんどないのです。・・・・・なんで本が一冊もないんだと尋ねると、その学生は、自分は貧しい家庭に育ったので、リセにいたときから、本は図書館で借りて読むようにしていた。そのときの癖で本を読んだら気になる箇所をノートに引用する習慣がついた。おかげで一発でバカロレアにも合格できたし、エコールノルマルというグランド・セゴールにも入学できた。僕の蔵書は、リセの図書館や国立図書館で写したノート数十冊分の引用、これだけだと胸を張って語っていました。

引用のためのアドバイスをしておけば、気になった箇所のページは読みながら、端を折っておくといいと思います。貴重な本や図書館で借りた本であれば、付箋を貼っておくといいでしょう。

考え得る究極の方法は、自分では一切本を持たず、図書館の本を徹底利用するということになってきます。つまり私が読書日記のところで例として出したフランスの学生のように、図書館で借りた本から必要な部分はすべて引用しておき、読書ノートを書庫のかわりとするのです。

膨大な蔵書を誇る図書館が書庫の代わりになりますから、お金はかからないわ、スペースはいらないわ、でこんなにいいことはありません。

数年前、これを読んだとき、「こんなことはとてもできない、自分には全然向いていない、やはり本気で精読するつもりの本は買って手元に置いておかないとダメだ、ノートを取るより本に直接線を引いたり書き込んだ方がずっと効率がいい」と考えていました。

しかし最近このブログをノート替わりに使って上記のやり方にかなり近い読書法になってしまっている。

読みたい本を全部買ってたら、さすがに金も続かないし、狭い部屋では置き場所もすぐ限界が来る。

たまたま買って所有している本でも、貧乏性のため、なかなか気軽に赤ボールペンで線を引くという気持ちになれない。

ただし、「どうしても」という本はこれからも買うつもりですし、再読する際に線を引くものもあるでしょうから、結局折衷的やり方になりそうです。

2011年1月10日

宮城谷昌光 『楚漢名臣列伝』 (文芸春秋)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 06:00

この方は司馬遼太郎亡き後、歴史小説の大家扱いで、月刊「文芸春秋」に『三国志』を、読売新聞に後漢・光武帝の小説を連載してますが、私はその膨大な著作のうち、『長城のかげ』しか読んでません。

他の本はどうも読む気がせず、上記『長城のかげ』と同じく、個人的に好きな秦末漢初の時代を扱った本書を手にとってみた。

これは小説というより評伝。

最初、「楚漢の時代」という簡単な時代説明があって、そのあとの10章で一人ずつ描かれる。

10人は、張良、范増、陳余、章邯、蕭何、田横、夏侯嬰、曹参、陳平、周勃。

范増が項羽配下の謀臣、章邯が秦将、陳余と田横が独立勢力である他は皆劉邦の臣。

以上、高校世界史では誰一人出てこない名だが、私にはすっかり馴染みになっている。

三国志の登場人物よりも、これらの名前の方により親しみを覚える。

内容自体はまあ普通。

知っている話が多いせいで、特に引き込まれることもないが、時々重要と思う指摘がある。

まず超基本事項のチェックとして、春秋時代が前770~403年、戦国時代が403~221年。

春秋時代が370年弱なのに対して戦国時代は180年余りと、こちらの方がかなり短い。

著者は、春秋時代は晋と楚の南北朝時代だと評している。

それに対し、戦国時代は秦と魏の戦いの時代と見なすことができ、秦に対して最も非妥協的で連衡策に乗らず激しく抵抗した魏の滅亡によって戦国時代の特色は失われたと書いてある。

戦国の七雄のうち、秦以外の六国の滅亡順を書くと、まず前230年に韓滅亡、次に225年魏滅亡、223年楚、222年趙・燕が相次いで倒れ、最後に残った斉が221年滅んで、秦王政の全国統一完成。

一部に趙の滅亡を前228にしている本もあるが、これはどういう史実を考慮しているのか不明(調べるのが面倒なのでパス)。

なお、劉邦が、自身の最初の根拠地とした、沛の位置から、魏人としての意識を持っていたということも書いてました。

以下の指摘も面白い。

魏は春秋時代の超大国であった晋を引き継いだという誇りが高く、この名門意識が為政者に濃厚にあったため、王族と貴族の力が強く、他国から魏に移った頭脳あるいは異能を活用しなかった。兵事だけではなく、司法と立法に巨大な才能をもっていた呉起を楚に亡命させ、秦で富国強兵をなしとげるまえの公孫鞅を無視し、比類なき天才兵法家の孫臏を斉へ逃がし、中山の名将であった楽毅を厚遇せず燕王へゆずった。呉起、公孫鞅、孫臏、楽毅など歴史上の偉才は、魏にいたのである。

全般的な筆致としては、項羽と劉邦の両者に対する冷めた視線が目立ち、兄の田栄と共に斉に依拠して奮闘した田横や、かつての「刎頚の交り」の友だが、劉邦足下となった張耳と対立し、趙で戦った陳余など、独立勢力の人物に好意的なのが印象に残る。

(項羽に降伏した後その配下となり、劉邦と戦って敗れた章邯も。)

そこそこ面白くはあります。

しかし、やはり司馬遼太郎『項羽と劉邦』の人物造型の巧みさ、素晴らしさは抜きん出ているなあと再認識したのも事実である。

日本人が書いた、中国歴史小説では最高傑作じゃないでしょうか。

宮城谷氏のこの本については、私のように漢楚争覇の時代が好きだという方にはお勧めしておきます。

2011年1月7日

国際連盟についてのメモ

Filed under: おしらせ・雑記, 国際関係・外交 — 万年初心者 @ 06:00

篠原初枝『国際連盟』(中公新書)の記事続き。

1931年日本が起こした満州事変によって連盟は危機を迎える。

もちろん日本にも多くの言い分があろうし(マクマリー『平和はいかに失われたか』)、(左記マクマリーの記事で名を出した)クリストファー・ソーン『満州事変とは何だったのか』(草思社)のように、これを最終的に第二次世界大戦へつながる「始まり」と見なすのではなく、多くの矛盾と無理を抱えていた既存秩序の「終わり」という性質の強い事件とする見解もあるようだが、秦郁彦氏がどこかで言っていたように、やはり九ヵ国条約やパリ不戦条約に抵触する可能性が極めて高い事件を、まず日本が引き起こしたことは、何となく後味が悪い。

中国は連盟に提訴、日本の軍事行動拡大につれて加盟国の態度は硬化。

オブザーバーで参加したフーヴァー政権下の米国がスティムソン・ドクトリン(九ヵ国条約・不戦条約・連盟規約に反する行動の結果に対する不承認主義)表明。

32年(第一次)上海事変、リットン調査団派遣、連盟へのリットン報告書作成、その間日本は五・一五事件後成立した斉藤実内閣が満洲国承認。

報告書は日本の軍事行動を自衛行為と認めなかったが、満洲において日本が特別な権益を持つことは認める。

今思えば、報告書の勧告を受諾し、満洲が中国の主権下にあることを認めた上で、日中両政府の話し合いと妥協で満洲に自治政府を作るというくらいで矛を収めておけば良かったのにというところですが・・・・・。

たとえ後知恵でもそう言いたくなります。

33年3月に日本は連盟脱退。

32年2月から33年6月までジュネーヴ軍縮会議が開かれていたが、その途中、33年1月に政権を握ったヒトラーは、10月ドイツの連盟脱退を敢行。

前年32年には元イギリスの委任統治領だったイラク王国が独立、連盟に加盟している。

34年9月にはソ連が加盟、常任理事国に。

ヒトラー政権の脅威に備える点で、英仏とソ連の思惑がとりあえず一致した結果。

スターリンは外相リトヴィノフを表に立て、人民戦線戦術などの柔軟路線を演出。

翌35年には仏ソ相互援助条約、ソ連・チェコ相互援助条約が結ばれるが、その3年後には独ソ不可侵条約で親枢軸路線に転換することになる。

33年には事務総長が初代ドラモンドから仏人アヴノールに替わる。

(この人が実質最後で、基本二代のみと考えてよいようだ。)

35年イタリアのエチオピア侵攻。

経済制裁が検討されるが、最重要軍需物資の石油は、その禁輸を宣戦布告と見なすとムッソリーニ政権が表明していたので、制裁項目から外される。

(日本もハル・ノートをくらった時点でこれを公表し、南部仏印進駐以後の石油禁輸の継続は戦争行為に等しいと大々的に宣言しておくべきでしたね。ルーズヴェルトに余計な宣伝材料を与えてしまいました。)

同35年ドイツ再軍備宣言、36年ラインラント進駐(ロカルノ条約破棄)、ベルリン・ローマ枢軸、スペイン内戦、37年日中戦争、38年オーストリア併合、ズデーテン危機、ミュンヘン会談、39年独ソ不可侵条約、第二次世界大戦と坂を転げ落ちるように国際関係は悪化、39年11月にはすでにドイツとポーランドを分割していたソ連がフィンランドにも侵攻、連盟はソ連を追放。

大戦末期、1945年4~6月にサンフランシスコで国際連合創設会議、10月に発効し国際連合発足。

一方国際連盟は46年4月まで存続し、同月解散。

国際連盟の英語表記がLeague of Nationsなのに対し、国際連合はUnited Nationsすなわち連合国なのは周知の通り。

上記の歴史の中で日本が果した役割については、とりあえず高坂正堯『外交感覚 同時代史的考察』(中央公論社)での以下の文章に沿ったような暫定的理解をしておいては如何でしょうか。

1930年代にはそれまでの国際秩序は崩壊していた。すなわち、各国の行動を律する基準は怪しいものとなり、そのなかで各国はその力を拡大し、国益を増進するためにそれぞれ勝手なことをした。イギリスがポンド圏を作りブロック経済をしいたのはそのひとつであり、それはよいこととはいえない。ソ連は自国の生存のためとはいえ、ナチス・ドイツと談合し、1939年にポーランドを分割したが、それもよいことではない。アメリカにしても、たかまり行く危機からできるだけ身を引いていようとしたのであり、それも称讃されることではない。

つまり、当時において、各国の政治家は状況がよく見えていなかった。ただ日本の指導者はとくにそうであって、そのため、いつの間にか、どう見ても国際正義に反すること――それも他の諸国よりも相対的により重大な侵犯――をおこなってしまったのである。すなわち日本は「侵略」をおこなったのであるが、それは日本の指導者たちが愚かで、貪欲であったというより、状況の難しさに負けてしまったのである。けっして軍国主義者とはいえない米内光政は、日本が「魔性の歴史」にひきずられたといったが、そこには実感があふれている。そのことも認識し、教えなければ歴史教育とはいえない。

私自身、こうした見方より遥かに「右傾化」していた時期もあったし、今もそういう考えは残っている。

米英仏中露など戦勝国の公式的見解が正しいとも思えない。

例えば米国については、上記に加え大戦後最大の債権国になったにも関わらず国際経済秩序を維持するリーダーシップの必要性に対する認識が希薄で(このことは高坂先生も書いていた)、愚かにも経済バブルを膨らませた上、その崩壊に全世界を巻き込み、さらにスムート・ホーレイ法によってブロック経済化の先鞭をつけ世界恐慌を一層深刻化させたことは、意図的でないからといって不問に付されていいとは思わない。

しかしここで書いたように、私は「自虐史観」よりも民主主義が嫌いなので、「デモクラシーの失敗の一形態としての戦前日本」という考えが頭に浮かぶ今、先の大戦を全面肯定するような言説にはかなりの距離感を感じます。

極めて巨視的に見た場合、先の大戦が欧米列強のアジア侵略に対する対抗という性質を持っていたことは事実だが、しかし自国民のみならず近隣国民に多大の損害を与えたことに対する反省の姿勢は維持し、だがあの時代で「もし自分なら何ができたか」という自省を忘れず、当時の指導者を後世の安全な場所から一方的に指弾するような真似はするべきではない、という意味のことをある人が書いていたのを読んだことがあるが、今の自分の考えはそれに一番近いか。

閑話休題。

本書で気になった所を以下3点ほど(いずれも私が読んだ初版において)。

まず5ページ、カント『永遠平和のために』についての文章で、「民主主義が平和的な国家間関係の構築に最適であるという国内政治体制と国際平和の関連性であり・・・・・」と書かれているが、限られた紙数で説明しなければならないということは十分わかりますが、ここはもう少し慎重で丁寧な書き方をされた方が宜しいのではないでしょうか(中西寛『国際政治とは何か』)。

250ページ、「1939年9月23日の独ソ不可侵条約」とあるが、ドイツのポーランド侵入が9月1日、英仏の対独宣戦が9月3日だから、もちろん正しくは8月23日です。

単なるケアレスミスでしょうが、これはできれば編集者様か校正の方に見つけて頂きたかったです。

177ページ、「1926年3月8日連盟理事会が開かれたとき、イギリスからはネヴィル・チェンバレン外相・・・・・」という文章を読み、「え?」とやや引っ掛かったのですが、これはネヴィルじゃなくて、兄のオースティン・チェンバレンではないでしょうか。

『角川世界史辞典』を引くと、オースティンの項で「外相1924~29」、ネヴィルは「蔵相1923~24、31~37」とありますから、たぶん間違いないはずです。

一個上の事例と合わせて、増刷・重版の際に直して頂けると幸いです。

ちなみに父のジョゼフ、弟のネヴィルと違って、オースティン・チェンバレンは高校世界史範囲外ですが、この人はフランスのブリアン、ドイツのシュトレーゼマンと並んで、1920年代後半における協調外交の時代を代表する人物として憶えておいた方がいいと思います。

読みやすく、標準的な内容の概説で、割と良い。

普通に役立つ入門書。

年表、加盟国一覧、規約翻訳と付録も充実。

(最初に書名を出したクリストファー・ソーン『満州事変とは何だったのか』(草思社)は、頻繁に「連盟規約第○○条に基づく制裁措置」云々と出てくるのに、肝心の規約が載っていないのが不満でした。)

最後に重箱の隅つつきみたいなこと書きましたが、十分読むに値する本だと思います。

2011年1月5日

篠原初枝 『国際連盟  世界平和への夢と挫折』 (中公新書)

Filed under: 国際関係・外交 — 万年初心者 @ 06:00

第一次世界大戦後に誕生した、史上初の普遍的国際組織の概説。

国際連盟は1920年設立、本部はスイスのジュネーヴ。

この国際連盟にアメリカが参加しなかったことは中学校の社会科教科書にも載っているし、何か「不完全な組織」とのイメージがあるが、実際は当時の独立国の大半が加盟した事実がある。

もちろん植民地が依然世界の多くの地域を占めていたし、一度加盟したものの脱退した国も少なくないが、本書巻頭の地図で見ると、全くの非加盟を通したのは米国の他ではサウジアラビア(1924~32年まではヒジャーズ・ネジド王国)が目立つくらい。

(その他ネパール、ブータンも非加盟の表示。両国は当時イギリスの保護国だったか?うろ覚えではっきりしない。)

最初に近世ヨーロッパ以降、国際組織の構想についての歴史を概観。

一方、その実践としては1863年の赤十字国際委員会、1874年の万国郵便連合、1899年・1907年の二回にわたるハーグ平和会議などが挙げられている。

第一次大戦中に国際組織設立を求める多くの民間団体の活動があり、1918年ウィルソンの「十四ヵ条の平和原則」における最後の項に国際平和機構設立が盛られる。

同18年休戦・ドイツ降伏、1919年パリ講和会議。

(ちなみに講和条約はヴェルサイユ条約だが、講和会議は「パリ」講和会議で、「ヴェルサイユ講和会議」とするのは誤りと以前習った。たしか高校時代、それでバツをくらった覚えがある。)

同19年ヴェルサイユ条約の一部に連盟規約が組み込まれた形で調印、20年発効、国際連盟成立。

この規約には、ウィルソンの主張で、モンロー宣言のような米国の一方的声明を承認する条項が含まれていたにも関わらず、上院の反対で米国が加盟しなかったのは周知の通り。

ちなみに、この過程で日本が主張し、仏・伊・中が賛成した人種平等条項(山東半島・青島の旧ドイツ租借地問題などで日本と激しく対立した中国もこの問題では賛成した)が、米英の反対で盛り込まれなかったことは有名。

これも今では相当知られた事実だし、煽情的に取り上げるのは良くないとは思うが、それでもこの時のウィルソンの対応にはある程度の悪感情を抱かざるを得ない。

もともとウィルソンについては、ドイツとの休戦交渉において皇帝退位と民主化を条件とすることで、ドイツの国家体制を脆弱にし、軍部ではなく穏健な議会政治家に過酷な講和条件の責任を負わせることによってナチズムへの道を開いたようなものだと思って、「まったく知恵の足りない理想主義者の典型で、とんでもない人物だ」という印象を持っていたのだが、牧野雅彦『ヴェルサイユ条約』(中公新書)で実はドイツの体制変革についてはかなり慎重な姿勢を示していたことを知り、少々見直していた。

しかし本書での記述を読むと、高坂正堯『不思議の日米関係史』(PHP研究所)の以下の文章を読んで得たイメージはやはり修正する必要がないのかなと感じた。

正直言って、私はウィルソン大統領が余り好きではない。とくに彼がメキシコに介入するのをためらわず、日本にも人種的偏見のようなものを持っていたことを考えると、彼は正義の原則や理想を重んじはしたが、生身の人間は好きではなかったのではないか、と思う。彼が第一次世界大戦中に高い理想を掲げながら、それを現実化できなかったのは、当時では彼の理想が高すぎたというだけでなく、前述の人となりにもよるような気がする。

旧ドイツ植民地・旧トルコ領は単なる戦勝国による分配を避け、連盟から各国への委任統治領となる。

植民地支配のカモフラージュに過ぎないとしばしば言われるが、著者は、戦勝国が委任統治領と植民地を区別して扱っていた具体例を挙げて、一定の評価を与えている。

イギリスの自治領カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカも単独加盟。

これらはまあ理解しやすいが、イギリスは植民地のインドも「自治植民地」になる見込みだとして加盟させる。

確か国際連合が設立される際、ソ連が連邦構成共和国すべての加盟を主張し、妥協としてソ連の他にウクライナと白ロシア(現ベラルーシ)のみが単独で加盟した事実があったはずで、この例を連想してしまった。

主要機関は総会と理事会と事務局と常設国際司法裁判所。

理事会は現在の国際連合での「安全保障理事会」と違って、名称は単なる「理事会」。

常任理事国と非常任理事国から成るのは今と同じで、常任理事国は米不参加のため、当初、英仏伊日の四ヵ国。

秦郁彦氏が『二十世紀日本の戦争』(文春新書)で似たようなことを言っていたが、明治初年から考えると、日本が世界の五(四)大国の一員とは目も眩むような地位なのだから、この少し後に自らを「持たざる国」なんて被害者意識ばかり募らせずに、冷静になるべきだったと思わぬでもない。

初代事務総長にはイギリス人ドラモンド就任(~33年)。

その下に副事務総長がいて、さらに事務次長。

新渡戸稲造が事務次長になったのは有名。

敗戦国のオーストリア、ブルガリアが20年、ハンガリーが22年加盟。

23年エチオピア、32年トルコ加盟。

24年ドーズ案、25年ロカルノ条約によってようやくヨーロッパ情勢が安定し、26年には最大の懸案だったドイツの加盟が実現、即常任理事国に。

この時常任理事国の地位を要求して容れられなかったスペイン、ブラジルが脱退表明、スペインは結局残留したが、ブラジルは脱退、以後復帰せず。

その間、1921年上部シレジア問題(独・ポーランド間)、23年コルフ島事件(伊・ギリシア間)の解決に連盟は貢献。

通商、労働、難民、保健衛生、知的交流などの分野でも成果を挙げる。

日本人も連盟で活躍し、主な人物として新渡戸稲造の他、石井菊次郎、安達峰一郎、杉村陽太郎、佐藤尚武の名が挙げられている。

上記のうち、石井菊次郎は1917年石井・ランシング協定の締結者ですね。

この協定は、ほぼ常に日本の中国進出に警戒的だった米国に日本の中国における特殊権益の存在を珍しく認めさせたことで有名。

佐藤尚武は臼井勝美『日中戦争』(中公新書)で少しだけ名前の出た外交官で、終戦時には駐ソ連大使だった人です。

連盟にとって苦難の時代である1930年代以降は続きます。

(続きはこちら→国際連盟についてのメモ

2011年1月2日

ナチについてのメモ その7

Filed under: おしらせ・雑記, ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

明けましておめでとうございます。

今年一発目は、その6に続き、グイド・クノップ『ヒトラー 権力掌握の二〇ヵ月』より。

SA(突撃隊)の党上層部への批判が不穏な空気を醸し出す中、1934年6月、副首相パーペンが体制批判的な演説を行い、外相ノイラート、財務相シュヴェーリン・フォン・クロージクと共に辞表を提出。

演説は、顧問のエトガー・ユングが執筆したもの。

聴衆は目を見開いて、この反ナチの狼煙になったかもしれない演説に耳を傾けた。連立パートナーである保守派がヒトラーの党に苛立っていたことのすべてが、ここには述べられていた。「政治が宗教的領域に干渉するなら、その対象となった人々は、反自然的な無制限の権力支配に対して、宗教的理由から拒否せざるを得ない」・・・・・「ドイツ国民は暴力と不正に敏感である。偽りの美化によって欺こうとする無様な試みを嗤う。声高なプロパガンダであっても、それだけで長期的に信頼を維持することはできない」・・・・・かつてヒトラーの首相任命にあたって保守派は不名誉な役割を演じたが、副首相はその事実をなかったことにしたいかのようだった。当時、ゲーテの描く「魔法使いの弟子」のように、パーペンは暗黒の力を御することができると思い込んでいた。今、おそらく彼にはわかったのだろう。実はヒトラーこそが魔法使いの師匠であり、鉄の箒でもって舞台から敵を一掃するつもりであったのだ、と。

パーペンに対して当然ながら峻厳な評価を下している、ゴーロ・マン『近代ドイツ史』でも、この演説についてだけは誉めている。

即座にゲッベルスが報道管制を敷き、ヒトラーがいつもの通り、冷静さと余裕を装った、嘲笑と侮蔑に満ちた反論を吐いたが、事態は予想以上に流動的。

ヒンデンブルクと国軍もSAの暴状に不満を募らせていることが伝えられる。

ここで、大統領・保守派・軍部の連携が実現し、戒厳令布告、ナチ政権排除、権威主義的軍事政権樹立となっていれば、ドイツも世界も救われたはずなのだが、残念至極にもそうした展開にはならなかった。

ヒトラーはSA粛清の態度に決し、それを条件に大統領と軍を宥め、保守派勢力を孤立化させ排除するという手段にでる。

6月30日、レームらSA幹部を電撃的に逮捕、処刑。

同時にナチ体制への潜在的反対者をも抹殺する。

まず、上記エトガー・ユングが殺害、パーペンはあやうく死を免れる。

ナチ党の元反ヒトラー派グレゴール・シュトラッサー、かつてミュンヘン一揆を鎮圧したバイエルンの右翼政治家カール、前首相で軍の実力者だったシュライヒャー将軍も抹殺された。

宣伝組織は、ナチ体制の芳しからぬ事象の罪をすべてSAに被せ、SA粛清があたかもヒトラーが「穏健化」した証拠であるかのような錯覚をヒンデンブルクと軍、そして一般国民に植え付けることに成功する。

実際には、トカゲのしっぽ切りそのもので、自らの卑劣・野蛮・醜悪な意志を忠実に実行していた手先を、冷酷無残に切り捨てただけに過ぎないのに。

正規軍に取って代わる野望を抱いていたSAが排除されたことで、国家の唯一の実力組織の地位を維持したことに満足し、シュライヒャーの殺害すら受け入れた、国防相ブロムベルク、陸軍統帥部長官フリッチュ、ライヘナウらの軍主流派はあまりにも愚かだった。

国軍の独立性など現実には存在せず、SAに替わり、ヒトラーに絶対的忠誠を誓うSS(親衛隊・長官ヒムラー)が台頭、国家のナチ化は取り返しのつかない地点にまで進む。

34年8月大統領ヒンデンブルク死去、ヒトラーは「首相兼総統」として全権を握り、それが国民投票で承認される。

(高校時代、「総統」が大統領と首相の権限を併せた職名だと説明されていた気がしましたが、本書では大統領は故ヒンデンブルクの称号として残し、自らは首相兼総統と呼んでほしいというヒトラーの言明が載せられていますから、総統というのはナチ党党首の称号に過ぎないのか?)

この国民投票では、なお一割の反対票があったことが記録されているが、適切な代表制を通じて選ばれ、確固とした特権に守られた議員による議会での自由かつ穏当な議論が無い国家での人民投票など、独裁のカモフラージュと正当化に使われるだけである。

まだ自由な反対者が存在する余地があるかのような誤解を国内外で与える恐れがある分、より悪いとすら言える。

1938年にはノイラート、ブロムベルクがナチの陰謀であるスキャンダル工作によって解任され、この年から「平時のナチズム」は終わり、ヒトラーはかねてからの戦争政策を推し進めることとなる。

ようやく終わりました。

通読していくと、いやーな汗が出てきたり、恐ろしくなって思わずページを閉じ、沈思黙考してしまう箇所が、あまりに多い本でした。

まるで寄生虫的エイリアンが人間の体内に侵入し、外見上何も起っていないかのように見えるうちに、内臓を次々貪った末、ついには腹を食い破って出てくるかのような歴史である。

「昔は言論の自由が制限され民主化も不十分で、社会の中に君主制や貴族制の残滓である前近代的・非民主的な要素が多かったせいでファシズムが生まれたけれども、今は民衆が主権者となり民主主義が完全に定着したから、もうあんなことは起りえないですね、目出度し目出度し」という物語に安住することが、どれほど愚かで危険なことかを思い知らされる。

率直に言って、こうした事態は現在の民主主義国でも、いや民主主義国だからこそいつ繰り返されてもおかしくないと思います。

本書も実に読みやすく、面白い。

しかし本文の外に枠で囲って置かれている同時代人や登場人物の親族の証言が通読にあたって邪魔に感じる。

写真が多いせいもあり、本文は結構速く読み進められるのに、それでペースを乱される感がある。

それ以外は短所はほとんどありません。

関連書としては、まず何と言っても林健太郎『ワイマル共和国』

気付けば初版刊行後、半世紀近くにもなる本で、一部古い箇所も見受けられるんでしょうが、しかしこの本の初心者向け物語的史書としての完成度は本当にすごいです。

初めて読み終えた時の感動と充実感は今も決して忘れられません。

同じく、セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』も絶対のお勧め。

この二つは、このブログで取り上げた全ての本の中で、ベスト30はもちろん、ベスト10にも入ります。

それらを読んだ後、本書に取り組めば、得るものが多いと思います。

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