万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年12月25日

グイド・クノップ 『ヒトラー 権力掌握の二〇ヵ月』 (中央公論新社)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

『ヒトラーの共犯者 上』『同 下』『ヒトラーの戦士たち』と同じ著者。

ただし出版元は違う。

本書はナチ独裁確立期に焦点を絞った本。

タイトルの「二〇ヵ月」は1933年1月ヒトラーの首相就任から34年8月ヒンデンブルク大統領死去まで。

本文に入る前にまず準備作業として、マックス・ウェーバー『社会主義』の記事でも書いた、ワイマール共和国の政党名をすべて憶える。

左派から右派への順に、共産党・独立社会民主党・社会民主党・民主党・中央党・人民党・国家人民党・ナチス。

以下各政党について簡単な説明。

政界で極左陣営を形成するドイツ共産党はコミンテルンを通じてソ連に盲従、極右のナチスと共に反議会主義的政党として、共和国末期には議会制を機能不全に陥れるのに貢献してしまう。

1917年反戦を旗印に多数派社会民主党から分離した独立社会民主党は、1920年ボリシェヴィキへの絶対服従を定めた規約に従いコミンテルンに加入するかどうかの問題で左右に分裂、両派がそれぞれ共産党・社会民主党に合流して、ごく初期の段階で存在が消滅。

社会民主党・民主党・中央党は「ワイマール連合」と呼ばれ、この中道・左派三党が共和国の主たる安定勢力となる。

最大政党はもちろん社会民主党だが歴代首相は中央党から出た人物が多い。

民主党は進歩的自由主義政党でマックス・ウェーバーやフーゴー・プロイス(ワイマール憲法起草者)など著名な知識人が加入。

中央党はもちろん、高校世界史でも馴染みのカトリック政党。

この政党は、一時文化闘争の標的となったビスマルク時代からヴィルヘルム2世親政時代、大戦期、共和国安定時代、大恐慌期としぶとく勢力を保持し続けた党で、宗教政党ならではの継続性を持つ。

中央党については、南ドイツのバイエルン地方にのみ「バイエルン人民党」という独自組織があり、これが中央党と友党関係にあった。

このバイエルンの独自性は戦後から現在に至る(西および統一)ドイツでもそうで、全国的保守政党のキリスト教民主同盟は、バイエルン州のみ「キリスト教社会同盟」名で活動していることを頭の片隅に入れておくといいでしょう。

バイエルン人民党は基本中央党と同一行動を取るが、本来中央党よりやや右寄りの政党であり、時に取る別行動が大きな結果を引き起こすこともあった(後述)。

既成政党の右派陣営を形成するのが人民党と国家人民党。

本書では国家人民党は「国家国民党」と訳されている。

普通の日本語の語感だと右派政党に「人民」の名は適合しないように思えるから、この方がいいのかもしれない。

(その場合人民党も「国民党」と訳すことになるのか。余談ですが林健太郎『昭和史と私』では、戦前の日本においては「人民戦線」という言葉が出てくる前は、「人民」は「臣民」に近い語感を持っていて、左翼の間では「民衆」「大衆」の言葉が多く用いられていたという意味のことが書いてあったのが意外でした。)

ただ、私は少々昔から耳に慣れているので、この記事では国家人民党のままにします。

人民党はシュトレーゼマンの所属政党であることをチェック。

帝政派的傾向を持つ両党だが、特に人民党はしばしば政権与党となり、シュトレーゼマンの指導で右から共和国を支えることになる。

しかし共和国末期には人民党と民主党(のち国家党と改称)は勢力・議席を激減させ、主要政党の座から転落する。

国家人民党も稀に政権に参加することがあったが、恐慌襲来後の危機の時代には党内穏健派が勢力を失い、フーゲンベルクという右翼政治家の下、ナチスとの危険極まりない協同関係に踏み出すこととなる。

ヒトラー政権樹立期の政治的プレイヤーとして、まずこのフーゲンベルクは要記憶。

大実業家で新聞・通信・出版社・広告代理店などを支配下に置く「メディア王」だと本書では評されている。

左翼勢力はデマゴーグ的なヒトラーより、大資本に基盤を持つフーゲンベルクこそが真の敵だと見なしていたというが、これはナチを利用しようとした保守派と同じくらい致命的な錯誤だった。

フーゲンベルクはヒトラー以前では最有力の右翼政治家だが、伝統的価値に縛られずより下劣なレトリックとプロパガンダを駆使し、建設的提案は一切せず無恥と無責任に徹してひたすら他党派を罵倒するだけのナチスに、国家人民党は支持基盤を侵食され続ける。

結局、国家人民党はロシア革命期に一時ボリシェヴィキと連立した社会革命党(エスエル)左派と同じような役割を果すことになってしまう。

ナチスは1929年以前は極右の泡沫政党でしかなかった。

大恐慌が襲来した時の政権は、1928年以来のヘルマン・ミュラー内閣。

社会民主党首班の内閣で、中央党・バイエルン人民党・民主党・人民党が与党。

大統領はもちろん、1925年エーベルト死後の選挙で勝利したパウル・フォン・ヒンデンブルクが在職。

ナチの政権獲得にはこのヒンデンブルクという個人の行動が大いに関わっているわけで、この時期別の人物が大統領ならとの思いを抱かずにはおれない。

左派・中道派統一候補を破ったヒンデンブルクの当選には独自候補に拘った共産党の行動が結果として貢献している。

共産党はナチ政権成立後は真っ先に残忍な弾圧を受けるし、本書におけるその描写を読むと確かに心動かされるものがあるが、この大統領選での方針、社会民主党を主敵とする「社会ファシズム論」、議会主義への軽蔑、モスクワへの盲従と暴力革命の主唱がドイツ国民に与えた恐怖感、それがナチへの支持を促進したこと、などを考えるとやはりヒトラー政権成立に対する共産党の責任というものも考えざるを得ない。

なおこの時、バイエルン人民党が中央党の方針に反してヒンデンブルクを支持したことも注目される。

共産党かバイエルン人民党の票が対立候補に入れば、確実に結果はひっくり返っていたと林健太郎『ワイマル共和国』には書いてあった。

(もっともその場合下記の32年大統領選でヒトラーを阻止できたかという問題が残るが、既成政党が右から左までナチスに対抗して団結することが何より重要で、そういう立場から統一候補を立てる展開になるべきだったんでしょう。)

経済破綻による混乱の中、ミュラー内閣は倒壊、1930年議会多数派に依存しない大統領内閣として中央党所属のブリューニングが首相就任。

同年総選挙でナチスが大躍進を遂げ、一躍第二党に。

ブリューニングは議会制維持とナチ政権成立阻止に奮闘するが、緊縮財政とデフレ政策に固執し経済状況はますます悪化。

1932年春の大統領選ではヒトラー当選を阻止するため、社会民主党など左派と中道派がヒンデンブルクを支持し、ヒンデンブルク再選。

32年6月国防軍実力者の将軍シュライヒャーがブリューニングを追い落とし、内閣崩壊、中央党最右派のパーペンがシュライヒャーの傀儡として組閣。

7月総選挙で遂にナチスが第一党。

同月全国の五分の三の面積・人口を占めるプロイセン州の地方政府をクーデタに近い方法で廃止、中央政府直轄に。

シュライヒャーは議会制廃止と独自の権威主義国家樹立のためにナチ運動を利用しようとするが、断固として全権を要求するヒトラーは拒絶。

11月当年二度目の総選挙でナチスは第一党の地位は守ったものの、議席を大きく減らし、さしものナチズムも退潮傾向かとの期待を抱かせた。

12月パーペンを見限ったシュライヒャーが倒閣、自らが組閣。

すると今度は、それを恨みに思ったパーペンがシュライヒャー政権打倒のため、ナチとの連携を目論むのだから酷いもんです。

ヒトラーに政権への道を開いた最も大きな短期的・直接的責任はこのパーペンにあると言える。

本当に最低最悪のボンクラ野郎です。

そしてドイツと世界にとって運命の年、1933年を迎える。

ダラダラ書いてたら、本書の内容に入るまでの準備で一つの記事になってしまいました。

以後かなり続きます。

(続きは以下

ナチについてのメモ その5

ナチについてのメモ その6

ナチについてのメモ その7

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