万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年12月10日

引用文(西部邁6)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

西部邁『小沢一郎は背広を着たゴロツキである』(飛鳥新社)より。

 

ともかく、文明にとっての最重要の必要条件をデモクラシーだとするのはだらしない思考習慣である。公心を忘れて私心を剥き出しにする「自由な世論」がまともな政治の基礎たりえないことは誰にとて判断できるところである。

デモクラシー(民衆政治)がディクテーターシップ(独裁制)やオリガキー(寡頭制)よりも勝るという保証はどこにもない。なぜといって、ローマのカエサルやフランスのナポレオンを持ち出すまでもなく、ムッソリーニもヒットラーも、またスターリンも毛沢東も、公民ならざる民衆の歓呼の声によって独裁者に祭り上げられたのだからである。しかも、1933年のドイツの(独裁の)授権がそうであったように、レファレンダム(国民投票)によって独裁者が選ばれるときすらある。それは、民衆が民衆政治を民衆政治によって自己否定するの光景であった。

政治学は、プラトンによって始められたとき、民衆政治への(懐疑というよりも)論難を旨とするものであった。民衆政治はティモクラシー(評判政治)からプルトクラシー(金権政治)へ、さらにディクテーターシップへと堕ちていく、とプラトンはいったのだ。この過程を観察するに当たって、「デマ」(民衆に流通する嘘話)が「デマゴギー」(民衆煽動)の接頭語であること、つまり「デマ」は民衆の馴染みやすい表現法だということを忘れてはならない。

近代の政治学者のほとんどすべてが、このプラトンの洞察について、つまり、近代史も現に実証しているその重い経験則について、知っていながら知らない振りをして、民衆政治を最良の政治形態とみなしつづけている。現代政治学はげに一個の巨大なスキャンダルなのだ。

政治学者たちの多くは、リパブリック(共和制)がモナキー(君主制)やアリストクラシー(貴族制)よりも勝る、と断言してもいる。これもデマである。どだい、リパブリックを「共和制」と訳すのはほとんど誤訳なのではないか。リパブリックには「共に和する」という意味は何もなく、むしろ「公民制」と訳されるのが適切である。そして公民には、イギリスがそうなっているように、自分らの国家象徴として君主制や歴史象徴としての貴族制を進んで戴く可能性が大いにあるのである。

フィロソファ・ルーラー(哲人支配者)の登場を期待する、などという空想話をここでしたいのではない。民衆の持つ公民性と大衆性の両面に着目せよ、といいたいだけのことだ。マス(大衆)というのは、大衆社会論の常套に従って、世論を典型とする社会のマス(大量)現象に自己の欲望・意見・行動を適応させていくような人間類型のことをさす。デモクラシーがマスクラシー(大衆政治)に滑り落ちていく勾配が次第に強くなっていく、それが近代二百余年の趨勢であった。

引用文(中江兆民1)参照。

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