万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年11月10日

ナチについてのメモ その3

Filed under: おしらせ・雑記, ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

グイド・クノップ『ヒトラーの戦士たち』(原書房)の記事続き。

 

 

第3章「戦略家」エーリヒ・フォン・マンシュタイン。

第二次世界大戦時のドイツで最も有能な将官とも言われる人物。

プロイセンの由緒ある軍人家系の出身。

第一次大戦での従軍と戦後の国防軍への参加は他の人物と同じ。

自分の奉じるプロイセン保守主義とヒトラーの国家社会主義との間にどれほど深い溝があるか、マンシュタインには長い間わからなかった。早い時期にナチ政府の人種政策と衝突し、国防省の決議に公然と抗議していたにもかかわらず。1934年2月28日、国軍相ヴェルナー・フォン・ブロムベルクは、「アーリア人条項」を陸軍にも導入することを決めた。・・・・・この条項に反対するには市民として信念を主張する勇気が必要だった。・・・・・マンシュタインがはっきり反対したのは、ただこの条項をさかのぼって適用すること、つまりすでに戦友であるユダヤ人を追放することに対してのみであった。それを将来に適用すること、つまり今後ユダヤ人の入隊を認めないということには、彼もさほど問題視しなかったようだ。

34年レーム事件の折、過去ヒトラーの政権奪取を妨害しようとしたシュライヒャー、ブレドウ両将軍が殺害される。

これに対するマンシュタイン、参謀総長ベックの抗議は不発、ヒンデンブルク死去によって軍はますますヒトラーとその運命を結び付けられる。

38年戦争への危機が高まる中、ベックは辞任、後任はハルダー。

40年の対仏戦、当初シュリーフェン・プランと同じくオランダ・ベルギー方面に主力を置く作戦が採られるところだったが、そのように見せかけて戦車通過不可能と見られていたアルデンヌの森を突破し大西洋岸まで進出、オランダ・ベルギー方面にひきつけた仏軍大部隊を分断・孤立化させるというマンシュタインの案が採用、これが大成功を収め6月にフランス降伏。

独ソ戦では最南端を行く軍を指揮、クリミア半島とセヴァストポリ要塞制圧成功。

以下はその時期のエピソード。

マンシュタインは「総統」に、ユダヤ人に何が起きているのかを質問した。この同じころ、アウシュヴィッツ-ビルケナウでは、数万、数十万ものひとびとが虐殺されていたというのに、ヒトラーは(ピッカーによれば)こう答えた。「ユダヤ人には自前の国家を作ってやらねばならん。はじめはパレスチナを、それからマダガスカル島を考えた。だがユダヤ人国家はわれわれがコントロールできるものでなければならん。そこでポーランド総督領のルブリンに作ることにした。そこならユダヤ人国家をわれわれがコントロールできる」。「絶滅」にはひと言も触れなかった。マンシュタインはこの回答に満足し、それ以上追求しなかった。

本書では、前線の背後で行われていた絶滅収容所以外での虐殺についても、マンシュタインは薄々気付いてはいたが深く知ることを拒否したと、批判的に記している。

ソ連赤軍のスターリングラード包囲網突破に失敗、軍事作戦上ヒトラーと度重なる衝突。

43年7月クルスクで大戦車戦が行われるが、より早期の決戦を主張していたマンシュタインの意見は容れられず、戦機を逸し敗北。

以後戦争の主導権を赤軍に完全に奪われる。

44年3月にヒトラーにより解任。

ロンメルと同じく、軍内レジスタンスと接触しその行動を黙認するが、自身は積極的行動を起こさず。

戦後49年になってイギリスの軍事法廷に告発され禁固刑を受けるが、戦勝国からもチャーチルなどが抗議の声を挙げ、53年釈放。

その後西ドイツ再軍備にあたって徴兵制などについてアドバイスを請われる。

1973年に死去。

第4章「虜囚」フリードリヒ・パウルス。

1890年官吏の両親の間に生まれ、陸軍入隊。

このパウルスが戦略教官として、のちに「電撃戦」の主力となった装甲部隊(機甲師団とも言うか)をグデーリアンと共に育成した一人であることは、意外に無視されていると記されている。

ヒトラー政権成立前から親ナチ派軍人として目立っていたライヘナウの下に勤務。

参謀本部第一部長に就任。

独ソ戦二年目、東部戦線南方での攻勢開始にあたって、第六軍司令官に(推薦者のライヘナウはこの時病死)。

42年8月スターリングラード攻撃開始。

市街戦に入って進撃停滞、11月には赤軍によって包囲される。

補給を断たれ、救援も失敗、適時撤退もヒトラーに拒否され、43年1月末降伏。

長くソ連の捕虜となり、プロパガンダの道具に使われる。

53年には東ドイツに「帰国」、自身は共産主義的信念は持たないが、西ドイツ再軍備・NATO加盟への反対意見などを公表する。

57年に死去。

第5章「パイロット」エルンスト・ウーデット。

少年時代からライト兄弟に憧れ、パイロットの道に進み、第一次大戦で戦闘機乗りに。

有名な「レッド・バロン」ことマンフレート・リヒトホーフェンの隊に加わる。

(この時期ゲーリングと知り合う。)

敗戦後、航空ショーのパイロットや映画出演で著名人に。

ミュンヘン一揆後、リヒトホーフェン戦隊戦友会がゲーリングを除名したのを支持したような立場だったが、ヒトラー政権成立後、1933年5月にナチ入党。

知名度を生かして、国内外でナチの広告塔の役割を果す。

批判的なアメリカのジャーナリストの質問に対し、彼は大口をたたいて請けあった。「ドイツでのヒトラーの立場が、外国では理解されていないし、正しく評価されていない。ヒトラーは自分がのぞむことをしているのではない。そうではなくて、彼の後ろにいる4000万ドイツ人がのぞむことをしているのだ。ドイツで起こっていることは、誇大に報告されている。確かなことが一つある。皇帝が復位することはないだろうということだ。そうした時代は終わった。ユダヤ人がひどい扱いを受けたケースもいくつかはあるが、実際より大げさに取りざたされている。ドイツのユダヤ人は自分で自分の面倒をみる良き市民であり、危害をくわえられることはない。そして他のひとびともみな、共産主義政党にくわわっていなければ、普通に、平穏に暮らしている。世の中の動きは、共産主義勢力の膨張と蔓延に対し、何らかの手を打たねばならない段階に達したからね。」

のちに電撃戦の勝利に貢献したシュトゥーカ(急降下爆撃機)の評判を高めるために利用される。

35年ドイツ再軍備宣言、ヴェルサイユ条約で禁止された空軍の存在を公表。

ちなみに、第二次大戦において、イギリス・ドイツは独立の空軍が存在したが、日本・アメリカは航空戦力はすべて陸軍または海軍に所属していたことを頭の片隅に入れておく(フランス・イタリア・ソ連などは・・・・・忘れた・・・・・)。

同時期ウーデットも空軍入り。

長い年月親密な友人同士であったカール・ツックマイヤーとエルンスト・ウーデットにとって、1936年は別れの年となった。「この国を永久に立ち去って外国へ行くんだ。もどってきてはならない。この国にはもはや人間の尊厳など存在しない」。ウーデットは友人にそう頼んだ。[ツックマイヤーはユダヤ人であった]。「で、きみは?」とツックマイヤーはたずねた。「ぼくは空を飛ぶことのとりこだ――もう逃げられない。でもいつの日か、悪魔がぼくたちみんなをさらって行くだろう」。ふたりは二度と会うことがなかった。

技術局長を経て、39年空軍装備局長に。

ライバルである元ルフトハンザ取締役エアハルト・ミルヒが航空省次官。

ゲーリングはウーデットとミルヒを意図的に競わせる態度を採る。

しかしウーデットはあくまで元パイロットで、技術的側面には造詣が深くとも、空軍力生産機構を組織する能力には欠け、次第に追い詰められていく。

40年英本土上空の決戦で、独空軍は英空軍に完敗。

ウーデットは41年11月に自殺。

テスト飛行中の事故死と公表される。

あと一人分終わりませんので、また続きます。

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