万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年11月7日

グイド・クノップ 『ヒトラーの戦士たち  6人の将帥』 (原書房)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

『ヒトラーの共犯者』下巻が済んだ後にこれも読む。

原著は1998年刊。

本書では軍人を扱う。

副題の「6人」は、ロンメル、カイテル、マンシュタイン、パウルス、ウーデット、カナリス。

やはり本書でも一人だけ全く未知の人名がある。

ウーデットは著名パイロット上がりの空軍装備局長。

 

 

第1章「英雄」エルヴィン・ロンメル。

1891年シュヴァーベンの教養市民層の家に生れる。

軍に入隊、第一次大戦で各地を転戦、多くの勲章を受ける。

ワイマール共和国でも軍に留まるが不遇。

そしてヒトラー政権樹立を迎える。

ヒトラーが権力を固めたナチ政権の初期は、とりわけ軍ヒエラルキーにおいて旧エリート層に考慮する必要があったので、ロンメルの目には体制の肯定的な面しか見えなかった。服従・規律・秩序といった軍隊的な美徳を政権は尊重するらしい。多くのひとびとと同じように、彼もまたそのことを歓迎した。たとえ最終的にその政権が崩壊して、ドイツに対し世界中が軽蔑を浴びせることになるとしても・・・・・・

ただし自身はナチ党には最後まで入党しなかった。

1940年の対フランス戦では装甲師団を指揮し、迅速果敢な進撃で殊勲を挙げる。

開戦当初中立を守っていたイタリアがこの年フランス降伏直前に参戦、同年9月イタリア軍がリビアからエジプトに進撃するが、英軍の反撃を受け反ってリビア東部キレナイカを占領される。

41年2月ロンメルが伊支援のためアフリカ上陸、一時英軍を押し戻すが結局後退。

42年に再度攻勢に出て、6月にキレナイカの英軍拠点トブルクを陥落させる。

その勢いのままエジプト領内に攻め込むが6月末エル・アラメインの戦いで撃退。

ちなみに42年6月と言えば、太平洋戦線ではミッドウェー海戦があった時期で、偶然にも両地域で戦いの転機を迎えている。

(そのちょうど二年後、大戦末期の44年6月にはノルマンディー上陸作戦とマリアナ沖海戦が同時期に行なわれていることは、児島襄『太平洋戦争 下』(中公文庫)記事で指摘済み。)

10月から英軍司令官モントゴメリーがさらなる反撃に出て、11月には米英軍がモロッコ・アルジェリアに上陸、東西から独伊軍を挟撃。

ロンメルは撤退を進言するが、それを拒否するヒトラーと衝突、43年3月ロンメル解任・帰国。

5月ドイツ・アフリカ軍団は降伏。

アフリカの戦いがゲッベルスの大々的なプロパガンダで喧伝されたこともあって、ロンメルの人気は帰国後も衰えず。

しかし著者はロンメルの指揮能力は認めながらも、アフリカで戦ったドイツ師団は3個だったのに対し、東部戦線では150を超える師団が死闘を繰り広げていたとして、アフリカ戦線はあくまで副次的戦場だったとしている。

頑迷固陋な戦争指導を繰り返すヒトラーへの疑念が膨らんでいく。

自分の頭で考えることのできるロンメルのような人物が、ユダヤ人の国際的陰謀にかんするナチ・プロパガンダの理論に真剣に同調していたなどと、とうていありえることではない。だがナチ首脳部の考え方に対し、ロンメルの態度がどれほどナイーヴであったかは、1943年のあるエピソードによく現れている。あるときのヒトラーのテーブルトークにおいて、ドイツのユダヤ人政策が、外国での国際的威信の低下を招いていることを、ロンメルは強く言上する。ドイツの名声を取りもどすために、彼はこんな提案を行った。「ユダヤ人の大管区指導者がひとり生れれば、わが国の世界での立場は良くなるでしょう」。これはヒトラーの激昂をかった。「ロンメル、貴君はわたしの意志を何一つ理解しておらんのか」。ロンメルがその場を辞したあと、ヒトラーは信じられないといった風情であっけにとられていた。「ユダヤ人がこの戦争の原因であることが、あの男には理解できないのか?」と。実際ロンメルはそう理解してなどいなかったが。

連合軍のフランス上陸に備える西方軍の一つの軍集団の最高司令官に就任するが、44年6月のノルマンディー上陸作戦は阻止できず。

44年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に連座したことはよく知られている。

反ヒトラー派と接触しながら、暗殺などの行為に関与することは拒否していたが、10月に自殺を強いられたのは、ライバルのカイテルなどの策略によると見られる。

本書では積極的レジスタンスに加わらず、表面的忠誠に囚われてヒトラー打倒のために必要な決断を為さなかった人物としてやや厳しい評価を下しているが、それでもやはり魅力的な側面を多く持っていたことは伝わってくる。

第2章「協力者」ヴィルヘルム・カイテル。

農場主の息子に生まれ、軍に入隊、第一次大戦中に参謀本部首席将校に。

この頃、後に国防相となるブロムベルクと知り合う。

敗戦後も新生国防軍に残留することに成功、陸軍編成局長に。

33年ヒトラー内閣が成立、ブロムベルクが国防相、ノイラートが外相。

このブロムベルクとノイラートは、保守派とナチとの(致命的な)連携の象徴として名前を憶えておいた方が良い。

カイテル自身はヒトラーの熱心な支持者に。

38年国防相ブロムベルク、外相ノイラート、陸軍総司令官フリッチュがいずれも解任され、保守派が追放。

後任国防相は置かれず、陸軍総司令官はブラウヒッチュ、外相はリッベントロップ、国防軍最高司令部が新設されその長官にカイテルが就任、アルフレート・ヨードルが作戦部長役に。

国防軍最高司令部長官とは大仰な名前だが、実際はヒトラーのイエスマンに過ぎなかった。

著者は、この事件によってヒトラーは軍を掌握し、完全な全体主義的権力を確立したとしている。

以後カイテルはヒトラーへひたすら追従し、捕虜・民間人殺害を正当化し、独ソ戦を「絶滅戦争」に転落させるのを不可避にする命令を発布。

・・・・・カイテルは、軍部にナチ「精神」を形成することにいそしんだ。たとえば彼は、かつて皇帝に仕える中尉であったというのに、ヴィルヘルム2世生誕80年祝典へ軍部の参加をいっさい禁じることにより、この精神形成に役立とうとしている。

ヒトラーは古きプロイセン軍を模範として国防軍に示すのを好んだが、当のプロイセン軍そのものは、不道徳な命令に従うことを重大な犯罪行為とみなしていた・・・・・。したがって犯罪的な命令を作成したり発行したりすることは、本当は軍隊の――もちろんプロイセンの――伝統とはもはや何のかかわりもなかった。それどころか、カイテルをはじめとする将校たちは、軍の伝統という基盤をとっくの昔に捨てていたことになる。

また戦局の悪化とともに脱走と見做された行為を裁判抜きの即時射殺で報いるよう命じている。

46年ニュルンベルク裁判で絞首刑。

まだ二人しか終わりません。

続きます。

(追記:続きは以下

ナチについてのメモ その3

ナチについてのメモ その4

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