万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年11月28日

塩野七生 『わが友マキアヴェッリ  フィレンツェ存亡  1』 (新潮文庫)

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塩野氏のイタリア史関連の著作は、『海の都の物語』『ルネサンスの女たち』『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』『神の代理人』などを読んできたが、本書は手に取ったことが無かった。

以前中公文庫の分厚い一巻モノに気後れしていた。

それが新潮文庫に移って3分冊に。

だがはっきり言って中公に比べれば好きな版元ではないので、買う気は全く無かったのが、たまたま図書館で見かけたので借りてみた。

ちょうど本文の1、2、3部ごとに巻が分かれている。

この第1巻は第1部「マキアヴェッリは、なにを見たか」が収録されており、マキャヴェリの生誕から公職に就くまでの人生と、同時代のフィレンツェ史概説。

例によって超基本事項の確認。

当たり前過ぎるが、14・15世紀ルネサンスの中心がフィレンツェで、マキャヴェリもこの都市出身であることをチェック。

そして当時のイタリアの五大国、ミラノ公国・ヴェネツィア共和国・フィレンツェ共和国・ローマ教皇領・ナポリ王国の名前を、「公国」「王国」「共和国」の部分も含めて頭に叩き込む。

当然位置関係もチェック。

イタリア半島の長靴の後ろの付け根、イタリアとバルカンに挟まれたアドリア海の奥にあるのがヴェネツィア。

反対側、ティレニア海の付け根にジェノヴァがあるが、この時期はもう大国ではない。

ジェノヴァ北側に接するのがロンバルディア地方にあるミラノ。

そのさらに西にはサヴォイア公国。

首府はトリノで、のちにサルデーニャ王国としてイタリア統一の原動力となる国だが、王国名が「サルデーニャ」と言っても中心はあくまで本土のピエモンテ地方。

ミラノから南下して太ももあたりの内陸部にあるのがフィレンツェ。

そこから西に向かい、ティレニア海への出口になるのがピサ。

太ももを北東から南西へ横断した形でローマ教皇領が広がる。

そのうち、フィレンツェの東側はロマーニャ地方。

半島のひざ辺りから南はすべて広大なナポリ王国。

他の地名はその都度巻頭の地図で確認すればよいが、以上くらいは頭に入れておかないと読み進むのが面倒なので記憶。

各国の特徴としては、まずヴェネツィア共和国が対内的安定性、対外的独立性のどちらでもずば抜けており、イタリアで全くの例外であることを強烈に印象付ける。

他国のほとんどが実質君主制あるいは僭主制に移行したのに対し(教皇領を君主制というのは変ですが)、ヴェネツィアのみは伝統的に寡頭制的共和政体を維持。

あと少し面倒だが、ナポリとシチリアの支配者の系譜だけ軽く確認。

ノルマン人の征服でイスラム教徒から取り返された後、婚姻関係でドイツの皇帝家ホーエンシュタウフェン朝領土になるが、フリードリヒ2世死後、仏王ルイ9世の弟シャルル・ダンジューが征服。

フランス支配への反乱である「シチリアの晩鐘」事件で、アラゴンから王族が迎えられ、シチリアはスペイン系、ナポリはフランス系王国に。

そこから確かナポリもスペイン系の支配になったはず(この辺あやふやです)。

よってこの近世初頭の時期は南イタリアは親スペイン的な統治者による支配。

それに対して英仏百年戦争を終えたフランスが、ナポリの継承権を主張してイタリアに勢力を伸ばし、スペイン(少し後ではスペイン・オーストリアのハプスブルク帝国)と覇権争いを繰り広げるというのがイタリア政治の基本構図になる。

ニコロ・マキャヴェリは1469年生まれ、名門出身ではなく、大学も出ていない。

フィレンツェは1434年以降はコジモ・デ・メディチが実質君主として君臨。

任期一年の大統領に当たる「正義の旗手」という名の最高職をはじめとする共和国の政体は維持しながらも実質メディチ家の僭主制下。

コジモ自身は「正義の旗手」には三度就任したのみで、他の面で国政を動かす。

1464年コジモ死去、子のピエロが継いだ後、1469年孫のロレンツォが弱冠二十歳で当主となる。

この時期フィレンツェとメディチ家は全盛期を迎え、ロレンツォ・デ・メディチは「イル・マニフィコ」(偉大な人)とあだ名される。

イタリア内の小国保全と現状維持、勢力均衡に努め、西欧で台頭しつつあった領土大国のイタリア介入を阻止、イタリア・ルネサンスの繁栄をもたらす。

1478年パッツィ家の陰謀、教皇シクストゥス4世も絡んだ反メディチ・クーデタが失敗。

ヴェネツィア、ミラノ、フランス(ルイ11世)は親メディチの態度を採るが、ナポリは反メディチ陣営に加わり、教皇と組んでフィレンツェと開戦。

ロレンツォは自らナポリ王フェランテと直談判し和解、オスマン朝の脅威が高まりつつあったこともあり、講和に成功。

1483年仏王シャルル8世即位。

1484年には教皇インノケンティウス8世即位、フィレンツェ・ローマ間の関係が大きく改善。

1492年のロレンツォの死によってイタリアに暗雲が立ち込める。

この年はもちろんレコンキスタ完了とコロンブスのアメリカ到達の年、ちなみに新教皇にボルジア家のアレクサンデル6世が即位。

メディチ家はピエロが継ぐが父の才覚は全く無し。

1494年ナポリ王フェランテ死去を機に、シャルル8世率いるフランス軍がイタリア侵入、(広義の)イタリア戦争開始。

ミラノ公国の実力者ルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)、ジュリアーノ・デラ・ローヴェレ(次の教皇ユリウス2世)などがシャルルの軍を引き入れる役割を果す。

仏軍侵入への恐怖の中で同年フィレンツェのメディチ支配は崩壊、修道士サヴォナローラの支配確立。

仏軍はイタリアを縦断してナポリに入城するが、1495年反仏同盟樹立、これにはイル・モーロも加わり、結局シャルルはイタリアを撤退。

親仏政策を続けたフィレンツェは孤立化、ピサも独立して海への出口を失う。

1498年サヴォナローラの神政政治崩壊、サヴォナローラが火刑に処せられるところで本書はおしまい(この年ヴァスコ・ダ・ガマがカリカット到達、インド航路発見)。

2、3巻に続きます。

2010年11月25日

マイケル・ハワード 『改訂版 ヨーロッパ史における戦争』 (中公文庫)

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原著は1976年初版、2009年改訂版刊行。

著者は有名な軍事史家だが、私程度では「何度か名前を聞いたことがあるなあ」と思えるくらい。

戦争の技術的側面にだけ着目するのではなく、常に社会との関係に留意した、簡潔・明解なヨーロッパ戦争史。

本文は、「封建騎士の戦争」→「傭兵の戦争」→「商人の戦争」→「専門家の戦争」→「革命の戦争」→「民族の戦争」→「技術者の戦争」という章建てで進んでいく。

それぞれの章が大体どの年代に当たるのか、そしてその時代の戦いの大まかな様相をイメージできるようになれば良い。

個人的感想を言えば、ヨーロッパの黄金時代はやはり19世紀ではなく18世紀(上記区分で言えば「専門家の戦争」の時代)ではないかと思えた。

当時は戦争の限定的性格が最も強かった時代で、民間への被害も少なく、戦争は王朝国家間の厳格なルールに則った一種のゲームであり、戦闘の規模も小さく、徹底性にも欠けていた。

戦争は、イデオロギーや熱狂に煽られた「世論」には基づいておらず、純粋に上層階級による国益の計算によって遂行された。

近世初頭の宗教的熱狂は後退し、フランス革命以後の民衆的ナショナリズムは未だ知られていない時期。

交戦状態にある国民同士が憎悪し合うこともなく、合従連衡の同盟の組み合わせも頻繁に変化した。

こういうバランスが崩壊して19世紀を迎え、そこで人類史上最悪の20世紀の悲劇が準備されたように思える。

それほど細かな史実が取り上げられているわけではないが、全くの初心者が読むには不適当と思われる。

他の概説などを一通り読みこなした人がざっと通読してイメージをより明確にするための本というべきか。

悪い本ではないです。

・・・・・軍国主義的ナショナリズムは純然たるブルジョワ的現象ではなかった。マルクスが労働者は国家を持たないと書いたとき、彼は実は初期産業革命の労働者について語っていたのである。彼らは、田舎の安定した社会から引き離され、都市に惨めな状態で群がっていたが、都市はいまだ一体感を発展させておらず、彼らを搾取する社会からまさしく疎外されていたのである。しかし、五十年後、国家教育、合法化された強力な労働組合、そして多分最も重要であった、安価で煽情的な新聞が、この状況を一変させた。二十世紀の初めまでに、労働者階級は、社会主義の刺激と少なくとも同じように、ナショナリズムの刺激に対しても進んで反応していた。その両方の主張を混ぜ合わせられる者が、最も成功した政治指導者となった。国境を越える階級統合の訴えは、1914年に一たびラッパが鳴り始めるや、雲散霧消してしまった。

一部の歴史家が示唆したところによれば、二十世紀初頭の熱狂的で軍国主義的なナショナリズムは、革命から大衆の支持を引き離して、彼らを既定の秩序の方に引き付けるように教え込もうとする、反動的支配階級によって引き起こされたものであった。しかしこれは粗雑な機械論である。ナショナリズムを最も信じなかったのは、実は、支配階級の中の最も反動的な人々であった。ヘーゲルとマッツィーニの思想はそれ自体の価値と主張を持っていたし、デモクラシーとナショナリズムとは互いに養分を与え合っていた。国事への参加意識が大きければ大きいほど、国家は国家を生み出した唯一無比の価値体系の具現化だと見なされるようになり、国家を守り国家に奉仕する責務はいよいよ大きくなった。その上、組織宗教の力が低調になってきた時代には、民族が人びとの忠誠の焦点として現われてきたのである。奇蹟の時代は卒業したが、流行歌スターの時代にはまだ入っていなかった人々は、国家によって、目的、生彩、刺激、威厳を与えられた。

・・・・・もし本当に社会の軍国主義化が古いエリートの用意周到な計略であったのならば、彼らは非常に悪い取引をした。というのは、彼らを滅ぼすようになったのは、不可能な勝利を求めてあらゆるものを犠牲にした、他ならぬ愛国的な民衆であったからである

以上、20世紀以降君主制・貴族制が崩壊した、多くの国で同じですね。

(日本も似たようなものか。)

それに比べて民主主義国はお気楽なもんです。

例えば、不確かな根拠で予防的先制攻撃を仕掛け他国に侵攻した指導者を民衆が圧倒的に支持しておいて、それがどう頑張っても弁護しきれない程の悲惨な状況をもたらすと一転反対党の候補を指導者に押し上げ、他国の膨大な犠牲者は忘れた素振りで「私たちは過ちも犯すが、それを正す力も持っている」と更なる自己満悦に耽る、と・・・・・・。

全く結構な政治体制です。

バークのこの引用文を思い出します。

2010年11月23日

引用文(ニスベット3)

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ロバート・ニスベット『保守主義』(昭和堂)より。

 

保守主義は、進歩、つまり自由主義的-急進主義的な進歩観をひっくり返してしまう。こうして、近代主義者が歴史の進歩的展開という自分たちの主張のなかに次々と取り込む要素――技術、民主主義、個人主義、ロマン主義、平等といった――を、たいていの保守主義者は少なくともいくつかの感情の入り混じった複雑な態度でもってながめることになる。この点について、保守主義者なら、おそらくこう言うであろう。なるほど、こうした要素はある程度まで、そしてその範囲内では、ありがたいものだとしても、実際には歴史を見てもわかるように、しばしば生活にとって有害な諸力、つまり礼儀と道徳を転覆させる要素であり、大衆や、人民に根ざす専制や、個人を存在感や帰属意識の生来の根から切り離す全般的な疎外といったものの前兆である、と。これはつとに1796年に、ボナルドがその権威の研究においてとっていた見解であった。中世的な伝統に対する四世紀に及ぶ浸蝕と反逆のはてに、フランス革命が勃発したが、この革命は「権威の弱さゆえに忍びこむ悪しき諸原理を社会という身体から自然が根絶やしにするための、恐ろしいが、ためになる危機」であった、というわけである。初期の保守主義者たちは、中世以降に生じたいっさいの出来事への不信を表明することによって、リズムの破綻を内に含む悲劇的な歴史の見方を提示する。ゆっくりとした漸次的上昇があるのでもなければ、その逆の下降があるのでもなく、むしろ歴史という次元そのものが周期的に危機に見舞われるという見方である。歴史とは複合的で突発的なものであり、ボナルドとド・メストルの直接的影響下にあったサン-シモンの言葉を借りるなら、「有機的」でしかも「危機をはらんだ」各時期の、ほとんど果てしなく続く過程である。事実、保守主義者たちは、無秩序とデカダンスという危機の時期を、そうでない時期よりもはるかにつよく強調する傾向をもっていた。W・H・マロックは、たいていの保守主義者を代弁する形で、『人生は生きるに値するか』のなかで、こう語った。「もしわれわれが、進歩の対極にあるものを肯定的に理解することができなければ、こうしたすべての『進歩』の結果は、この上なく静穏なアンニュイ、あるいはこの上なく魂を欠いた官能以外のなにものでもないであろう。」ドイツでは、ショーペンハウエルが、これまでにない倦怠の広がりを予見していたが、それはまさしく近代的進歩の遺産であり、麻薬か暴力への逃避によってしか中断されないような倦怠であった。

コールリッジもこう述べている。「商業は何千人もの人々を豊かにし、知識と科学の拡大の原因となってきたが、はたしてそれは幸福や道徳的進歩をほんの少しでもつけ加えてきたであろうか。それは、義務への理解をいっそう真実に近づけたり、人間の自然的感情の改善によってわれわれを再生させ維持することに貢献してきたであろうか。断じて、否である!」

ブルクハルトは、晩年のトクヴィルと同様に、この問題をさらにつきつめて考えた。

わたしは、未来になんの希望も抱いていない。ひょっとして部分的には我慢できるような数十年間、一種のローマ帝政期が、今後しばらくまだつづくかもしれない。わたしは早晩民主主義者とプロレタリアートが、ますますひどくなる専制に服従せざるをえなくなる、と考えている。

2010年11月21日

引用文(ニスベット2)

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ロバート・ニスベット『保守主義』(昭和堂)より。

 

保守主義者が政治権力を扱う場合のもうひとつの視点を代表しているのは大衆である。すなわち、大衆と、西欧諸国における権力の集中化・濃密化との関係である。わたしはここで「大衆」ということばを、とりわけオルテガ・イ・ガセットやハンナ・アレントの著作のうちに見出される意味で、すなわち、数によってというよりは内的社会構造、統合的伝統、道徳的価値の共有の欠如によって識別される集合体という意味で、用いている。バークの考えでは、ニヒリズムというフランス革命に固有の形態の様々な効果のうちのひとつは、人間を脱社会化する効果、伝統的な社会的きずなを破壊することによって国民を原子化する効果であった。こうしてバークによれば、フランス革命は「下位集団のきずなを分断し、それを原初の断片からなる非社会的で非市民的でばらばらの混沌に[解体した]」のである。彼は別の箇所で、革命政府は「あらゆる種類の市民をできるかぎりひとつの同質的なかたまりに練りあげようとし、その上でこの混合物を多数のばらばらの共和国に分割した」と書いている。

 

大衆という観念は19世紀になって発展し、広まった。この観念はトクヴィルにおいて顕著であって、彼は民主政の大きな危険のひとつは、第一に大衆を生み出したこと――多数派の強調によって、また国民を均一化する傾向のある平等主義的価値によって――であり、第二に人民投票的独裁をもたらす大衆への依存を強めたことであると考えた。ブルクハルトニーチェキルケゴールはみな、大衆社会の到来とそれが個人にもたらす社会解体的な効果を危惧しつつ書いた。この効果は政府を保護者と専制君主の統合物とするであろう。

こうして1929年オルテガ・イ・ガセットが『大衆の反逆』を世に問うずっと以前から、西欧思想における「大衆」の用法にはかなりの伝統があった。近代生活における大衆の出現と全体主義国家の出現との間には緊密な共生関係がある、とオルテガは考えた。オルテガは問いかける。支配される国民がかつてはその社会組織を形づくっていたあらゆる形態の権威と機能を剥奪された場合、国家はその権力と責任において当然全体的になりうるのではなかろうか、と。しかしそれによってまた、「大衆は国家権力を自分たちの権力と感じることにもなる。国家を通じて、国家という手段によって、大衆という匿名の機械は自分たちのために活動する。」ややおくれて、主としてヒットラーのドイツを念頭におきながら、ピーター・ドラッカーは「大衆の絶望がファシズムを理解するかぎである」と書いている。「古い秩序の崩壊と新しい秩序の不在によって引き起こされた寒々とした絶望感」がなければ、「群衆の反乱」も「破廉恥なプロパガンダの勝利」もありえなかった。『経済人の終焉』でドラッカーは、これこそ全体主義国家の起源であり、かつまたその存在理由であると結論している。ハンナ・アレントはその記念碑的な『全体主義の起源』において、この連綿としてつづいてきた大衆に関する保守主義者の主張をあらためて敷衍しているにすぎない。

2010年11月19日

引用文(ニスベット1)

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ロバート・ニスベット『保守主義』(昭和堂)より。

同様に民主政と戦争の拡大および水平化との間にも、緊密な関連が存在する。初期の保守主義者がひとしく指摘しているように、歴史上はじめて国民皆兵制、有名な総動員を制度化したのはフランス革命であった。戦争は突如かつて革命以前の時代に見られた限定的な性格を失うと共に、多かれ少なかれ制限された目的――通常は王朝間のいざこざもしくは領土をめぐるもの――、戦闘の定められた秩序、封建制以後の多分に儀式的要素といったものも失った。

革命軍の行進と共に戦争は自由、平等、博愛の十字軍になり、このことは不可避的に19世紀に見られるような軍隊の絶えざる肥大化と目的の絶えざる拡張をともなった。テーヌが述べているように、民主政はすべての成人男子に投票用紙をあたえる一方で、彼に背嚢を背負わせる。20世紀になると前々からうすうす予感されていたこの種の巨大戦争は、第一次世界大戦において現実のものとなり、何百万人という人々が軍隊という屠殺場に閉じ込められ、組織的に砲弾を浴びせかけあいながら、一回の戦闘で獲得する陣地はせいぜい百ヤード程度という巨大でほとんど動きのない軍隊によって、古い戦争技術はとって代わられた。ウィンストン・チャーチルは書いている。「戦争はかつては残忍で壮大であったが、いまでは残忍で卑小である。」科学と民主主義のおかげで、だれもが大平等主義者気どりでいる、とチャーチルはつけ加えている。

チャーチルのことばに歴史的な広がりと深みをあたえ、国民国家の人工的および政治的基礎の拡大と、それに伴う西欧における戦争の様式全体の拡大との間に緊密な関係があることを歴史的に詳細に示したのは、保守主義者であったフラー少将であった。すなわち、戦争が人間的な面で巨大化したこと、破壊的な兵器が絶えず増大していったこと、そしてなかんずく領土上および王朝の目的からイデオロギー的および道徳的な目的へと目的が拡大していったことである。フラー、ドーソン、チャーチル、その他の保守主義者が強調しているように、封建時代の戦争は、テクノロジーや戦争に加わる人数、騎士道精神、奉仕すべき契約ないし義務の限定、教会の禁止命令などによって、ほとんどあらゆる面で制限されていた。それにひきかえ、第二次世界大戦の開始とともに西欧の民主社会は、無制限な目標、無条件降伏条項、何十万単位で人々を殺りくできる兵器、たった一年間でこれまであったすべての戦争を合計したよりも大きな死と破壊をもたらしうる段階にまで達していた。

2010年11月16日

ロバート・ニスベット 『保守主義  夢と現実』 (昭和堂)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

原著が1986年、翻訳が1990年に出た本。

著者はアメリカ人。

150ページほどとごく短い。

エドマンド・バークを中心とした保守主義の概説。

第1章は、フランス革命の衝撃とそれに対するバークの批判からはじまった保守主義の起源、および19世紀以後の展開。

第2章は、伝統・偏見・権力・自由と平等・財産・宗教などについての保守主義の教義を概観。

第3章は、保守主義が主に19世紀のものの考え方に与えた影響。

第4章でガラッと毛色が変わって、1950年代の保守主義復興、60年代から70年代の新左翼への反発、80年代の米レーガン政権内における保守的党派の分類など、アメリカ国内の政治勢力の話が来てお仕舞い。

レーガン支持派として挙げられているのは、権力志向の極右・福音主義の宗教右派・自由至上主義者(リバタリアン)・直接民主制志向のポピュリスト・「小さな政府」志向の伝統的保守主義者など。

他に、新左翼と伝統的保守主義双方に対抗するニューライト・宗教右派が「新しい(ニュー)保守主義」で、右傾化した元リベラリストが「新(ネオ)保守主義」みたいなことが訳者註などに書いてあるが、この辺ややわかりにくい。

この章で、アメリカ史においては第一次大戦、第二次大戦、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争と民主党政権が戦争を始めて共和党政権が収拾する、といったことが書いてあり、確かに20世紀中はそうだったが、小ブッシュがすべてをぶち壊したのでそれも当てはまらなくなったなあと思った。

著者は、アーヴィング・クリストルやウィリアム・バックリーなどいわゆるネオコン人脈に連なる人物らしく、その点やや警戒心を持ってしまう。

ただし著者自身の考えは4章の一部を別にして強くは浮かび上がってこないので、まあいいでしょう。

著者が、社会主義・共産主義を批判して、自由民主主義と市場経済を擁護し絶対視するだけの自称「保守」ではないことは充分わかる。

バークに始まる歴代の保守主義者が中世封建制社会の長所を実にしばしば強調し、近代資本制社会そのものに強い批判の念を持っていたことを本書ははっきり記している。

しかし、やはり市場主義への批判は抑え気味ではないかと感じた。

バークやトクヴィルを経済的レッセ・フェール支持者として称賛している部分には強い違和感、というより嫌悪感すら感じた。

私有財産制の尊重を言うのはもっともではあるが、市場社会への批判が、巨大企業の独占や政府官僚への批判に留まるならば、結局新自由主義的言説に回収されてしまうのではと思った。

ただし、あまり知られていない人を含む豊富な引用文を交えながらの叙述はかなり効用が高い。

コンパクトな分量で訳文も読みやすいのも長所。

(ただし明らかな誤植が数ヶ所あったのは残念。)

末尾の訳者による保守主義の文献ノートも貴重。

翻訳のあるものは少ないが、名前を知るだけでも有益。

コーンハウザーの本でも名の出たヴィーレックやカークの翻訳を期待したいです。

 

「機械主義への信仰、物質的なものの全能性への信仰は、いつの時代でも弱さと盲目の不満の共通の避難所である。」[カーライル]

「いまやわれわれを煽りたて脅かしている階級間の、また様々な信条の間の闘いには、ただひとつの治療法しかない。それは忠誠と畏敬、人民の権利と社会的同情の制度として説明することのできるある制度[封建制]に本気で立ち返ることである。」[ディズレーリ]

「一見民主的な運動ほど、高度に組織され確信をもった小数者の意志が動きの鈍い未組織の大衆の意志を支配する有様を明確に説明する運動はない。」アーヴィング・バビット]

「貴族的な古い土地階級と新しい貨幣階級との間の――かならずしもつねに意識されてはいないが――ほんとうの戦争状態において、最も利用しやすいがゆえに最も大きな力は、後者の手中にあった。貨幣階級は、本性的にいかなる冒険にもすぐ応じるし、また貨幣所有者は、いかなる新しい事業にもとりかかる意志がある。・・・・・したがって、それは変化を望むすべての物が頼りとする種類の富である。」[バーク。革命派と新興ブルジョワ階級との結び付きを非難して。]

「邪悪なものは生起した。この邪悪なものは原理的かつ模範的になされている。そしてわれわれはそれが[終わる]時期について、われわれ自身の手よりもより高次の手の善意を待つほかない。・・・・・わたしが過去しばらくの間やり、これからもずっとやっていくであろうことは、積極的にも受動的にもこの大変動にいささかも手を貸さないようにすることだけである。」バーク]

保守主義者による自由主義批判の核心は、自由主義は要するに全体主義のための「おとりのヤギ」であるという点にある。近代人のなかではとりわけバークからドーソン、エリオット、カークに至る人々がそのように考えてきた。社会内の伝統的権威や役割から人々を解放するという不断の努力を通じて、自由主義は社会構造を弱体化し、「大衆型」人間の増加をうながし、そしてこれによって、出番を伺っていた全体主義者たちを招き入れたというわけだ。エリオットによれば、「人々の社会慣習を破壊することによって」、「彼らの自然な集団意識を個々の構成要素に解消することによって、・・・・・自由主義はそれ自身を否定するものへの道を準備することになる。」またクリストファー・ドーソンも、ムッソリーニの全盛期に、イタリア・ファシズムは基本的には近代自由主義が生みだしたものだと断定している。上記「自由主義」を「民主主義」「資本主義」に置き換えてもいいでしょう。]

保守主義者は、主として、確固たる正統性から離脱した人間はなんらかの混乱や平衡感覚の喪失に陥りやすいという十分に根拠のある確信に基づいて、宗教を支持した。バークが息子宛の手紙に書いているように、宗教は「人間の砦であり、これがなければ世界は不可解で、それゆえ敵対的となっていたであろう。」トクヴィルは、個人的には生粋のローマ教会信仰をもっていたにもかかわらず、臨終の信仰告白まではそれをひけらかさないように心に決めていたが、その彼の鮮かな説明によれば、政府と社会にとっての、また自由にとっての、宗教の価値は次の点にある。

政治における以上に宗教において権威の原理がもはや存在しないとき、たちまち人々は無拘束の独立状態に驚かされることになる。周囲のあらゆるものの絶え間ない動揺が人々に警告し、彼らを消耗させる。・・・・・わたしには、人が完全な宗教的独立と完全な政治的自由とを同時に保持しうるかどうか疑わしいように思われる。だから、わたしは、信仰が欠けているとき、人は服従しなければならない、また自由であるとき、人は信仰をもたなければならない、と考えたいのである。

2010年11月13日

ナチについてのメモ その4

Filed under: おしらせ・雑記, ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

その3に続き、グイド・クノップ『ヒトラーの戦士たち』(原書房)より。

 

 

第6章「謀反人」ヴィルヘルム・カナリス。

帝政時代、ティルピッツ提督率いる海軍に入隊。

第一次大戦時、南米で乗艦が沈没した後、スペインで諜報活動に従事、続いてUボート艦長も務める。

戦後、ローザ・ルクセンブルク殺害犯の減刑に力を貸す。

ワイマール時代に、のちのSD(親衛隊保安諜報部)長官ラインハルト・ハイドリヒと知り合う。

両者は、緊張と対立を隠した、愛憎入り混じった複雑な親交を長く続けることになる。

35年国防軍諜報部長に就任。

ラインラント進駐やスペイン内戦に関して、ヒトラーに的確な情報を提供。

しかしこの頃からナチ体制への疑念を持つようになる。

「上から下まで、どいつもこいつも犯罪者だ。よってたかってドイツを潰そうとしている」このころカナリスは友人にそう言明している。人間は「損か得か、だけで」決断してよいわけではない、「根本的な倫理を守らねばならない」と。

38年夏ズデーテン危機。

この時、参謀総長ハルダー、その前任者ベック、外務次官エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー、前ライプチヒ市長カール・ゲルデラーらによるクーデタ計画にカナリスも協力。

しかしミュンヘン会談での英仏の屈服、国内でのヒトラーの威信高揚によってクーデタは挫折。

ここで以下のような文章が記されている。

運命は、ヒトラーに味方すると決めたようだ。チェンバレンの歴史的訪問によって、独裁者は、知らないうちに二つの危機を同時に切りぬけていたのである。一つはヒトラーがのぞんでいた戦争の危機。このとき戦争をしていれば、それは1938年にドイツの敗北で終わっていただろう。軍事史家は今日そう考えている。そしてもう一つは、目前にせまっていた国内での失脚の危機。「ヒトラーにとどめをさせるはずだった」。阻止された反乱者のひとり、カール・ゲルデラーは、あきらめたようにそう言った。

こうした見方は同じ著者の『ヒトラーの共犯者 下巻』での記述と著しく異なる。

本書の記述では、38年時点での軍事情勢は英仏(とチェコ)が独に対して優勢であり、開戦すればドイツは敗北しヒトラー政権は崩壊するという、考えうる限りベストの展開になったことになる。

国内クーデタ勃発の場合はいくつかの可能性を以下に空想。

(1)クーデタが成功し、ナチ体制が崩壊、軍人たちの政権の下、徐々にドイツの国内体制が正常化していくのが、最も望ましいパターン。

しかし国内での反乱が新たな「匕首」「背後の一突き」伝説を連想させ、それに力を得てナチが巻き返し、政権を再度奪還する可能性もある。

(2)しかしヒトラーさえ亡き者とされていれば、ゲーリング、ゲッベルス、ヒムラー、ヘスなど誰が後継指導者であっても少なくともホロコーストがあれ程の規模と徹底さで遂行されたとは想定できない気がする。

「ホロコースト抜きの第二次大戦」でも現実に起こったことよりは遥かにマシでしょうね。

あるいは後継者が膨張政策を一時ストップして、国際関係は小康状態が続く一方、国内ではナチ体制が存続することも考えられる。

この場合はどういう結末になるのか、想像しにくい。

(3)しかしヒトラーがクーデタを鎮圧し、生き延びた場合は史実よりもより完全にドイツ国家を掌握して戦争を始めることになる。

だが軍事情勢が英仏優位で、加えて肝心の両国の抗戦意志が固いという想定なら、(後継者が開戦に踏み切った場合の)二つ目と三つ目の場合でも、どの途ドイツの早期敗北は動かないか。

と言う事は、どのように考えてもチェンバレンの宥和政策はやはり間違いだったという結論になるのか。

結局38年時点の各国軍事力をどう評価するのかで結論が根本から変わってきますよね。

「東欧随一の工業国で議会主義が唯一順調に発達した国」と高校教科書にも出てくるチェコがその侮りがたい軍事力で抵抗するうちに英仏軍がドイツになだれ込みナチ体制崩壊となればいいですが、史実より二年早く仏敗北、本土レーダー網と戦闘機隊の未整備な英国にドイツ陸軍上陸成功、なんて事態になってたら・・・・・・。

本書の記述は上記本と整合的ではないが、結局どう解釈すべきなのか、不明です。

ミュンヘン会談後、ドイツ全土で「総統崇拝」がますます高まり、クーデタなど考えられない情勢となる。

カナリス自身もそれにある程度影響された。

彼は依然としていまの体制を、ドイツで考えられるかぎり君主制に次いでベストだとみなしていたので、その体制に逆らう計画をこれ以上ねらなくてもよいことに安堵したのである。また特筆に値することだが、いわば職務上のルートでテロを阻止できる、カナリスはひきつづきそう考えていた。・・・・・ナチの犯罪をリストアップして上官に送ることを、もちろんカナリスはやめることはなかった。帝政時代の、法にもとづいた安定性こそが、めざすべきノーマルな状態であると信じるカナリスは、わらにもすがる思いで、法と秩序にかんする自分の考えを譲らなかった。

しかし第二次大戦開戦後、その期待は完全に裏切られる。

・・・・・開戦から一週間後、親衛隊の特別行動部隊が組織的に大量射殺を行っているという知らせも、とくに誇張したものではないことを、ハイドリヒがカナリスにうちあけた。「そのへんの人間に手を出すつもりはない」と、この乗馬仲間は冷ややかに言った。「だが貴族や坊主、それにユダヤ人は始末しなければならん」。

クラウゼヴィッツの言うように、戦争とは「別の手段をもちいてすすめる政治」であるとすれば、ヒトラーのポーランド侵攻は、もはや戦争ではなかった。ここでは血なまぐさいイデオロギーが戦っていた。そのめざすところは勝敗を決することではなく、生きのびるか殲滅するか、であった。帝政時代に士官候補生だった男は、いまや新しい大元帥の穿った奈落の底を覗き見ていた。「ありとあらゆる道徳を片っぱしから無視して戦争をやっても、勝てるわけがない。この世には、神の定めたもうた摂理があるのだ」と、彼は部長代理のビュルクナーに語っている。

残虐行為への抗議を込めた上申書はカイテルによって無視され、カナリスは自らの職権を用いてユダヤ人など迫害にさらされた人々が逃亡するのを助ける。

フランス降伏後、ドイツが表面的に最も優勢だった時に会談した旧知のフランコには、スペインの中立を密かに勧め、軍内レジスタンスにも接触。

44年2月に解任、軟禁状態におかれる。

同年7月20日事件後、逮捕。

45年4月強制収容所内で絞首刑。

米軍が到着するわずか数日前だったという。

どの章も興味深いエピソードを積み重ねた記述で、実に面白い。

分量のわりに通読は極めて楽。

訳文もよくこなれていて読みやすいが、ごくまれに誤植と思われる部分があった。

できればウーデットを外して、グデーリアンかハルダーを入れてくれればより良かったかとも思うが、まあいいでしょう。

最低限の基礎ができたら、手にとってみるのも良いです。

2010年11月10日

ナチについてのメモ その3

Filed under: おしらせ・雑記, ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

グイド・クノップ『ヒトラーの戦士たち』(原書房)の記事続き。

 

 

第3章「戦略家」エーリヒ・フォン・マンシュタイン。

第二次世界大戦時のドイツで最も有能な将官とも言われる人物。

プロイセンの由緒ある軍人家系の出身。

第一次大戦での従軍と戦後の国防軍への参加は他の人物と同じ。

自分の奉じるプロイセン保守主義とヒトラーの国家社会主義との間にどれほど深い溝があるか、マンシュタインには長い間わからなかった。早い時期にナチ政府の人種政策と衝突し、国防省の決議に公然と抗議していたにもかかわらず。1934年2月28日、国軍相ヴェルナー・フォン・ブロムベルクは、「アーリア人条項」を陸軍にも導入することを決めた。・・・・・この条項に反対するには市民として信念を主張する勇気が必要だった。・・・・・マンシュタインがはっきり反対したのは、ただこの条項をさかのぼって適用すること、つまりすでに戦友であるユダヤ人を追放することに対してのみであった。それを将来に適用すること、つまり今後ユダヤ人の入隊を認めないということには、彼もさほど問題視しなかったようだ。

34年レーム事件の折、過去ヒトラーの政権奪取を妨害しようとしたシュライヒャー、ブレドウ両将軍が殺害される。

これに対するマンシュタイン、参謀総長ベックの抗議は不発、ヒンデンブルク死去によって軍はますますヒトラーとその運命を結び付けられる。

38年戦争への危機が高まる中、ベックは辞任、後任はハルダー。

40年の対仏戦、当初シュリーフェン・プランと同じくオランダ・ベルギー方面に主力を置く作戦が採られるところだったが、そのように見せかけて戦車通過不可能と見られていたアルデンヌの森を突破し大西洋岸まで進出、オランダ・ベルギー方面にひきつけた仏軍大部隊を分断・孤立化させるというマンシュタインの案が採用、これが大成功を収め6月にフランス降伏。

独ソ戦では最南端を行く軍を指揮、クリミア半島とセヴァストポリ要塞制圧成功。

以下はその時期のエピソード。

マンシュタインは「総統」に、ユダヤ人に何が起きているのかを質問した。この同じころ、アウシュヴィッツ-ビルケナウでは、数万、数十万ものひとびとが虐殺されていたというのに、ヒトラーは(ピッカーによれば)こう答えた。「ユダヤ人には自前の国家を作ってやらねばならん。はじめはパレスチナを、それからマダガスカル島を考えた。だがユダヤ人国家はわれわれがコントロールできるものでなければならん。そこでポーランド総督領のルブリンに作ることにした。そこならユダヤ人国家をわれわれがコントロールできる」。「絶滅」にはひと言も触れなかった。マンシュタインはこの回答に満足し、それ以上追求しなかった。

本書では、前線の背後で行われていた絶滅収容所以外での虐殺についても、マンシュタインは薄々気付いてはいたが深く知ることを拒否したと、批判的に記している。

ソ連赤軍のスターリングラード包囲網突破に失敗、軍事作戦上ヒトラーと度重なる衝突。

43年7月クルスクで大戦車戦が行われるが、より早期の決戦を主張していたマンシュタインの意見は容れられず、戦機を逸し敗北。

以後戦争の主導権を赤軍に完全に奪われる。

44年3月にヒトラーにより解任。

ロンメルと同じく、軍内レジスタンスと接触しその行動を黙認するが、自身は積極的行動を起こさず。

戦後49年になってイギリスの軍事法廷に告発され禁固刑を受けるが、戦勝国からもチャーチルなどが抗議の声を挙げ、53年釈放。

その後西ドイツ再軍備にあたって徴兵制などについてアドバイスを請われる。

1973年に死去。

第4章「虜囚」フリードリヒ・パウルス。

1890年官吏の両親の間に生まれ、陸軍入隊。

このパウルスが戦略教官として、のちに「電撃戦」の主力となった装甲部隊(機甲師団とも言うか)をグデーリアンと共に育成した一人であることは、意外に無視されていると記されている。

ヒトラー政権成立前から親ナチ派軍人として目立っていたライヘナウの下に勤務。

参謀本部第一部長に就任。

独ソ戦二年目、東部戦線南方での攻勢開始にあたって、第六軍司令官に(推薦者のライヘナウはこの時病死)。

42年8月スターリングラード攻撃開始。

市街戦に入って進撃停滞、11月には赤軍によって包囲される。

補給を断たれ、救援も失敗、適時撤退もヒトラーに拒否され、43年1月末降伏。

長くソ連の捕虜となり、プロパガンダの道具に使われる。

53年には東ドイツに「帰国」、自身は共産主義的信念は持たないが、西ドイツ再軍備・NATO加盟への反対意見などを公表する。

57年に死去。

第5章「パイロット」エルンスト・ウーデット。

少年時代からライト兄弟に憧れ、パイロットの道に進み、第一次大戦で戦闘機乗りに。

有名な「レッド・バロン」ことマンフレート・リヒトホーフェンの隊に加わる。

(この時期ゲーリングと知り合う。)

敗戦後、航空ショーのパイロットや映画出演で著名人に。

ミュンヘン一揆後、リヒトホーフェン戦隊戦友会がゲーリングを除名したのを支持したような立場だったが、ヒトラー政権成立後、1933年5月にナチ入党。

知名度を生かして、国内外でナチの広告塔の役割を果す。

批判的なアメリカのジャーナリストの質問に対し、彼は大口をたたいて請けあった。「ドイツでのヒトラーの立場が、外国では理解されていないし、正しく評価されていない。ヒトラーは自分がのぞむことをしているのではない。そうではなくて、彼の後ろにいる4000万ドイツ人がのぞむことをしているのだ。ドイツで起こっていることは、誇大に報告されている。確かなことが一つある。皇帝が復位することはないだろうということだ。そうした時代は終わった。ユダヤ人がひどい扱いを受けたケースもいくつかはあるが、実際より大げさに取りざたされている。ドイツのユダヤ人は自分で自分の面倒をみる良き市民であり、危害をくわえられることはない。そして他のひとびともみな、共産主義政党にくわわっていなければ、普通に、平穏に暮らしている。世の中の動きは、共産主義勢力の膨張と蔓延に対し、何らかの手を打たねばならない段階に達したからね。」

のちに電撃戦の勝利に貢献したシュトゥーカ(急降下爆撃機)の評判を高めるために利用される。

35年ドイツ再軍備宣言、ヴェルサイユ条約で禁止された空軍の存在を公表。

ちなみに、第二次大戦において、イギリス・ドイツは独立の空軍が存在したが、日本・アメリカは航空戦力はすべて陸軍または海軍に所属していたことを頭の片隅に入れておく(フランス・イタリア・ソ連などは・・・・・忘れた・・・・・)。

同時期ウーデットも空軍入り。

長い年月親密な友人同士であったカール・ツックマイヤーとエルンスト・ウーデットにとって、1936年は別れの年となった。「この国を永久に立ち去って外国へ行くんだ。もどってきてはならない。この国にはもはや人間の尊厳など存在しない」。ウーデットは友人にそう頼んだ。[ツックマイヤーはユダヤ人であった]。「で、きみは?」とツックマイヤーはたずねた。「ぼくは空を飛ぶことのとりこだ――もう逃げられない。でもいつの日か、悪魔がぼくたちみんなをさらって行くだろう」。ふたりは二度と会うことがなかった。

技術局長を経て、39年空軍装備局長に。

ライバルである元ルフトハンザ取締役エアハルト・ミルヒが航空省次官。

ゲーリングはウーデットとミルヒを意図的に競わせる態度を採る。

しかしウーデットはあくまで元パイロットで、技術的側面には造詣が深くとも、空軍力生産機構を組織する能力には欠け、次第に追い詰められていく。

40年英本土上空の決戦で、独空軍は英空軍に完敗。

ウーデットは41年11月に自殺。

テスト飛行中の事故死と公表される。

あと一人分終わりませんので、また続きます。

2010年11月7日

グイド・クノップ 『ヒトラーの戦士たち  6人の将帥』 (原書房)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

『ヒトラーの共犯者』下巻が済んだ後にこれも読む。

原著は1998年刊。

本書では軍人を扱う。

副題の「6人」は、ロンメル、カイテル、マンシュタイン、パウルス、ウーデット、カナリス。

やはり本書でも一人だけ全く未知の人名がある。

ウーデットは著名パイロット上がりの空軍装備局長。

 

 

第1章「英雄」エルヴィン・ロンメル。

1891年シュヴァーベンの教養市民層の家に生れる。

軍に入隊、第一次大戦で各地を転戦、多くの勲章を受ける。

ワイマール共和国でも軍に留まるが不遇。

そしてヒトラー政権樹立を迎える。

ヒトラーが権力を固めたナチ政権の初期は、とりわけ軍ヒエラルキーにおいて旧エリート層に考慮する必要があったので、ロンメルの目には体制の肯定的な面しか見えなかった。服従・規律・秩序といった軍隊的な美徳を政権は尊重するらしい。多くのひとびとと同じように、彼もまたそのことを歓迎した。たとえ最終的にその政権が崩壊して、ドイツに対し世界中が軽蔑を浴びせることになるとしても・・・・・・

ただし自身はナチ党には最後まで入党しなかった。

1940年の対フランス戦では装甲師団を指揮し、迅速果敢な進撃で殊勲を挙げる。

開戦当初中立を守っていたイタリアがこの年フランス降伏直前に参戦、同年9月イタリア軍がリビアからエジプトに進撃するが、英軍の反撃を受け反ってリビア東部キレナイカを占領される。

41年2月ロンメルが伊支援のためアフリカ上陸、一時英軍を押し戻すが結局後退。

42年に再度攻勢に出て、6月にキレナイカの英軍拠点トブルクを陥落させる。

その勢いのままエジプト領内に攻め込むが6月末エル・アラメインの戦いで撃退。

ちなみに42年6月と言えば、太平洋戦線ではミッドウェー海戦があった時期で、偶然にも両地域で戦いの転機を迎えている。

(そのちょうど二年後、大戦末期の44年6月にはノルマンディー上陸作戦とマリアナ沖海戦が同時期に行なわれていることは、児島襄『太平洋戦争 下』(中公文庫)記事で指摘済み。)

10月から英軍司令官モントゴメリーがさらなる反撃に出て、11月には米英軍がモロッコ・アルジェリアに上陸、東西から独伊軍を挟撃。

ロンメルは撤退を進言するが、それを拒否するヒトラーと衝突、43年3月ロンメル解任・帰国。

5月ドイツ・アフリカ軍団は降伏。

アフリカの戦いがゲッベルスの大々的なプロパガンダで喧伝されたこともあって、ロンメルの人気は帰国後も衰えず。

しかし著者はロンメルの指揮能力は認めながらも、アフリカで戦ったドイツ師団は3個だったのに対し、東部戦線では150を超える師団が死闘を繰り広げていたとして、アフリカ戦線はあくまで副次的戦場だったとしている。

頑迷固陋な戦争指導を繰り返すヒトラーへの疑念が膨らんでいく。

自分の頭で考えることのできるロンメルのような人物が、ユダヤ人の国際的陰謀にかんするナチ・プロパガンダの理論に真剣に同調していたなどと、とうていありえることではない。だがナチ首脳部の考え方に対し、ロンメルの態度がどれほどナイーヴであったかは、1943年のあるエピソードによく現れている。あるときのヒトラーのテーブルトークにおいて、ドイツのユダヤ人政策が、外国での国際的威信の低下を招いていることを、ロンメルは強く言上する。ドイツの名声を取りもどすために、彼はこんな提案を行った。「ユダヤ人の大管区指導者がひとり生れれば、わが国の世界での立場は良くなるでしょう」。これはヒトラーの激昂をかった。「ロンメル、貴君はわたしの意志を何一つ理解しておらんのか」。ロンメルがその場を辞したあと、ヒトラーは信じられないといった風情であっけにとられていた。「ユダヤ人がこの戦争の原因であることが、あの男には理解できないのか?」と。実際ロンメルはそう理解してなどいなかったが。

連合軍のフランス上陸に備える西方軍の一つの軍集団の最高司令官に就任するが、44年6月のノルマンディー上陸作戦は阻止できず。

44年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に連座したことはよく知られている。

反ヒトラー派と接触しながら、暗殺などの行為に関与することは拒否していたが、10月に自殺を強いられたのは、ライバルのカイテルなどの策略によると見られる。

本書では積極的レジスタンスに加わらず、表面的忠誠に囚われてヒトラー打倒のために必要な決断を為さなかった人物としてやや厳しい評価を下しているが、それでもやはり魅力的な側面を多く持っていたことは伝わってくる。

第2章「協力者」ヴィルヘルム・カイテル。

農場主の息子に生まれ、軍に入隊、第一次大戦中に参謀本部首席将校に。

この頃、後に国防相となるブロムベルクと知り合う。

敗戦後も新生国防軍に残留することに成功、陸軍編成局長に。

33年ヒトラー内閣が成立、ブロムベルクが国防相、ノイラートが外相。

このブロムベルクとノイラートは、保守派とナチとの(致命的な)連携の象徴として名前を憶えておいた方が良い。

カイテル自身はヒトラーの熱心な支持者に。

38年国防相ブロムベルク、外相ノイラート、陸軍総司令官フリッチュがいずれも解任され、保守派が追放。

後任国防相は置かれず、陸軍総司令官はブラウヒッチュ、外相はリッベントロップ、国防軍最高司令部が新設されその長官にカイテルが就任、アルフレート・ヨードルが作戦部長役に。

国防軍最高司令部長官とは大仰な名前だが、実際はヒトラーのイエスマンに過ぎなかった。

著者は、この事件によってヒトラーは軍を掌握し、完全な全体主義的権力を確立したとしている。

以後カイテルはヒトラーへひたすら追従し、捕虜・民間人殺害を正当化し、独ソ戦を「絶滅戦争」に転落させるのを不可避にする命令を発布。

・・・・・カイテルは、軍部にナチ「精神」を形成することにいそしんだ。たとえば彼は、かつて皇帝に仕える中尉であったというのに、ヴィルヘルム2世生誕80年祝典へ軍部の参加をいっさい禁じることにより、この精神形成に役立とうとしている。

ヒトラーは古きプロイセン軍を模範として国防軍に示すのを好んだが、当のプロイセン軍そのものは、不道徳な命令に従うことを重大な犯罪行為とみなしていた・・・・・。したがって犯罪的な命令を作成したり発行したりすることは、本当は軍隊の――もちろんプロイセンの――伝統とはもはや何のかかわりもなかった。それどころか、カイテルをはじめとする将校たちは、軍の伝統という基盤をとっくの昔に捨てていたことになる。

また戦局の悪化とともに脱走と見做された行為を裁判抜きの即時射殺で報いるよう命じている。

46年ニュルンベルク裁判で絞首刑。

まだ二人しか終わりません。

続きます。

(追記:続きは以下

ナチについてのメモ その3

ナチについてのメモ その4

2010年11月5日

引用文(佐伯啓思3)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

佐伯啓思『日本という「価値」』(NTT出版)より。

マルクスの資本主義分析は理論的に破綻しているし、ヒルファーディングやレーニンもあくまで時代の産物であった。マルクスの経済理論で今日の経済を分析できるというわけにはいかない。マルクス理論の要になる労働価値説はまったく支持できない。

にもかかわらず、マルクスの直感は完全に間違っていたわけでもない。マルクスの直感とは、資本主義は「純粋化」し、高度化すればするほど、利潤率の低下に直面し、挙句の果てには無政府的な(つまりは、グローバルな)過度の競争に陥って、きわめて不安定化する。こういうものであった。

ここで、資本主義が「純粋化」するというのは、労働や資本といった基本的な生産要素を徹底して商品化し、規制のかからない市場で自由に流動化してゆくことである。そして、このような「資本主義」の「純粋化」こそ、グローバリズムという名で、今日、世界的規模で生じていることだ。労働や資本がほぼ完全に「商品化」され、競争市場で自由に流動するようになる資本主義は、きわめて不安定なものだ、というのがマルクスの直感であった。マルクスの資本主義分析は理論的には大きな欠陥をもっているが、この直感まで間違っていたというわけにはいかない。

・・・・・・・

確かに、資本主義は社会主義に対して勝利したのである。社会主義が経済的パフォーマンスにおいて不満足なものでしかないということは、理論的には、すでにミーゼスやハイエク、それを引き継いだアメリカ経済学が明らかにしていたが、それが80年代を通じて実地に論証されたのであった。

しかし、それは、決して、資本主義が無条件に予定調和的である、などということを意味したわけではない。むしろ、90年代に警戒すべきは、社会主義崩壊以降、資本主義の暴走にいかに歯止めをかけるか、という点にあったはずだ。「資本主義の勝利」はよいとしても、「資本主義の奢り」を戒める何かが必要だったのである。

何が必要だったのか。私はそこに「保守主義」という思想の役割があった、といいたい。ただし、残念なことに、90年代には、いわゆる「保守主義者」も、この種の「奢り」から自由ではなかった。それどころか、問題を混乱させたのは、「新自由主義」と「保守主義」の関係である。「新自由主義」はしばしば「新保守主義」とも呼ばれ、80年代のレーガノミックスの登場以来、市場万能論の「新自由主義」は「新保守」と等値されることとなってしまったからである。

私自身、繰り返し書いてきたことだが、「新自由主義」と「保守主義」は異なっている。両者を区別しなければならない。市場原理主義にたち、金融グローバリズムをほぼ無条件に擁護する「新自由主義」と、市場経済を、ある特定の社会の歴史的経緯や社会的構造、文化と不可分のものとして理解する「保守主義」とは全く異なったものなのである。

「新自由主義者」はグローバルな市場経済を組み立てている「普遍的な原理」がある、と考える。市場を構成するのは合理的な諸個人であり、彼らはともかく自己利益を追求するものだ、と考える。個人の能力は個人の成果として彼に帰属すべきだと考える。そして、新自由主義者は、人間の合理性をもっぱら金銭的利益を追求するところに見出し、すべてを金銭的利益のタームに解消することをいとわない。

しかし、「保守主義者」はそうではない。あらゆる社会に妥当する唯一の普遍的な経済原理があるとは考えない。市場を構成するのは、個人というより、さまざまな利害を複合した企業組織であり、人々のつながりであり、生活の安定を求める家族だ、とみなす。人は必ずしも利潤を求めて生きているわけではないのである。また、個人の能力は、他者との協同の中で発現する社会的なものだから、すべての成果が彼個人に帰属するわけではない、と考える。ここでは、社会という共同体を安定化したり、維持したりすることが、時には個人の利益や成果よりも優先されるのである。安定した社会と人々を結びつける組織がなければ、自由な個人による経済活動さえも成り立たないからである。

「資本主義の暴走」をもたらしたのは、「新自由主義者」の奢りであった、といわなければならない。それに対する歯止めがかからなかったのである。その理由は、「保守主義」と「新自由主義」が混同された点にあった。「社会主義」という歯止めが外れてしまった90年代に、「資本主義の暴走」を食い止めるものがあるとすれば、それは「保守主義」以外にはなかったのではなかろうか。

ところが、その「保守主義」が、自らの本質を見失ってしまった。社会主義という「左翼」との対決を保守の本分であるとみなしていたからである。社会主義との対決が意味をもったのは、あくまで、社会主義が存在した時代、すなわち冷戦時代のことであった。ポスト冷戦時代においては、保守主義の役割は、「資本主義革命」が押し進める、各国の伝統や文化への攻撃、歴史性の無視、組織の解体、社会秩序の破壊・不安定化をいかに回避するかにこそ向けられるべきだったのである。

2010年11月3日

引用文(佐伯啓思2)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

佐伯啓思『日本という「価値」』(NTT出版)より。

80年代の「新自由主義者」によるケインズ主義への批判は、もっぱら、財政政策というケインズ政策への批判であった。しかし、ケインズが終生説いたのは、実は、グローバリズムへの警戒なのである。

これは経済学者があまり強調しない点である。ケインズといえば不況対策としての財政拡張・公共事業論者ということになっている。しかし、ケインズは20年代中ごろから明快に公共事業の必要を唱えていた。それは、何よりもまず、グローバル化の中で、イギリスから海外に資本が流出することを恐れたからである。

そのことをきわめて印象的に表現したのが、1933年に雑誌に発表された「国民的自給自足」と題する論文であった。そこで、彼は、国境を越えて動く投機的な資本を「頽廃的で国際的で個人主義的な資本主義(デカタント・インターナショナル・インディヴィデュアリスティック・キャピタリズム)」と呼び、それが世界をかけめぐり、国内経済(ナショナル・エコノミー)を破壊することをこそ恐れたのである。「それは、知的でなく、美的でなく、公正ではなく、有徳ではない。われわれは、それを嫌っている。いまやそれを軽蔑し始めている」と彼は書いている。この「資本の気まぐれな浮動」から、一国の経済を守らなければならない。それこそが、ケインズをして、政府による資本の管理と公共投資を唱えさせた理由なのである。そして、住宅、個人的サーヴィス、都市の美観、地方生活のアメニティ、といった「国際商品ではないもの」をこそ重視したのである。

もしも、今日の先進国の経済問題の深層に、その表面的な消費の沸騰とは裏腹に、経済活動の潜在的な「過剰」、すなわち、生産能力の過剰、モノへの(真の)欲望の枯渇、があるとすれば(そしてそれゆえにこそ今日のグローバル競争が生じているのだが)、このグローバル競争経済は、ますます事態を深刻にするだけであろう。景気が悪化すれば株価が下がり、政府は市場の要求するがままに、ひたすら貨幣を供給する。金融市場へ金をつぎ込むことでともかく「成長」を維持しようとしている。これがいずれ破壊的な事態をもたらすことは明らかである。

本当は「成長モデル」が求められているのではなく、「脱成長モデル」こそが求められているといわねばならない。生産力が過剰となった時代には、過度な競争によって一見、経済は活況を呈するように見えるものの、実際には、それは破滅への道にほかならない。このような時代に必要なことは、「競争」から「共生」への転換であり、自由市場からある程度管理された市場への転換である。「自由放任的競争」から「規制された競争」へといってもよかろう。

2010年11月1日

J・M・ケインズ 『ケインズ説得論集』 (日本経済新聞出版社)

Filed under: 史論・評論 — 万年初心者 @ 06:00

今年4月に出たもの。

既訳があるが、ケインズ死後60年余りが過ぎて著作権切れとなったのを機に訳したと、巻末の山岡洋一氏による訳者あとがきに書いてある。

ケインズの著作のうち、専門的論文ではなく一般読者でも読めるものというと、ニュートンなどを描写した『人物評伝』でも手に取るべきかとも思ったが、たまたまこれが目に付いたので読んでみた。

インフレとデフレ、金本位制への復帰、自由放任の終わり、「孫の世代の経済的可能性」、繁栄への道、の四部構成。

この訳書では原著から一部を取捨選択して現在の読者の関心に応えるような構成にしているとのこと。

「自由放任の終わり」を全編収録してくれたのは有難いと思う。

内容はまあ、完全な経済学門外漢の私でも何とか読めるかなあといったレベル。

真ん中の金本位制についての文章は相当苦しい部分があったが、わからない所は飛ばせばいいと思います。

たまにはこういう本を読むのもいいんじゃないでしょうか。

さまざまな時期に自由放任の教義を基礎づけてきた形而上学の原理や一般的な原理を、ここで一掃しようではないか。個人が経済活動に関して、慣行として「自然な自由」を与えられているというのは、事実ではない。もてるもの、取得せるものに恒久的な権利を与える「社会契約」は、実際には存在しない。世の中が、私益と公益がつねに一致するように天上から統治されているというのは、事実ではない。現実に私益と公益が一致するように地上で管理されているというのも、事実ではない。洗練された自己利益がつねに公共の利益となるように作用するというのは、経済学の原則からの推論として、正しくはない。自己利益がつねに洗練されているというのは、事実ではない。個人が独立して自分の目標を追求するとき、あまりに無知かあまりに無力なために、自分の目標すら達成できない場合の方が多い。事実をみていけば、個人が社会的な組織の一員として行動しているときには、個々人がばらばらに行動しているときより先を見通せてはいないとはいえない。

したがって、バークがいう「立法にあたってとくに微妙な問題の一つ、つまり、国が公共の英知を使って指揮を引き受けるべき点は何で、干渉を最小限に抑えて、個人の努力に任せるべき点は何なのかを判断する問題」は、抽象的な理論によって解決することはできず、その是非を詳細にわたって検討していかなければならない。ベンサムがいう「なすべきこと」と「なさざるべきこと」を区別すべきであり(いまでは忘れ去られているが、有益な用語だ)、その際には、政府の干渉は「一般に不必要で」、しかも「一般に有害だ」とするベンサム流の予断をもたないようにするべきである。・・・・・

考えと感情が混乱しているため、語ることも混乱している。多くの人が、実際には生活様式としての資本主義そのものに反対しているのに、資本主義自体の目標を達成する点で効率が悪いことを根拠に反対しているかのように語っている。逆に資本主義の熱心な支持者は往々にして極端なまでに保守的になっており、実際には資本主義を強化し、維持するのに役立つ可能性があっても、資本主義から離れる第一歩になりかねないと恐れて、技術的な改革を拒否している。とはいえ、いずれ時期がくれば、資本主義を効率的かどうかという技術的な観点での議論と、資本主義そのものが望ましいか望ましくないかという観点での議論とを、現在よりはっきりと区別できるようになるだろう。わたし自身の見方をいうなら、資本主義は賢明に管理すれば、現時点で知られているかぎりのどの制度よりも、経済的な目標を達成する点で効率的になりうるが、それ自体としてみた場合、さまざまな点で極端に嫌悪すべき性格をもっていると思う。いまの時代に課題となるのは、効率性を最大限に確保しながら、満足できる生活様式に関する見方とぶつからない社会組織を作り上げることである。

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