万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年10月20日

村上泰亮 『産業社会の病理』 (中公クラシックス)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

著者のお名前はかなり以前から知っていたが、著作を読むのはこれが初めて。

1970年代前半に書かれた諸論文に加筆訂正の上、75年に中公叢書として刊行されたものが原本。

第一部が現代資本主義論、第二部が経済学方法論という構成。

この方が書かれた『反古典の政治経済学 上・下』(中央公論社)は日本の社会科学の金字塔だと言えるほど素晴らしい名著だと仄聞してはいるが、当然私レベルでは読めない。

実は本書も少し苦しい部分はあるが、何が書いてあるのか全く意味が取れないということもない。

所々深い印象を受ける文章がある。

たまには自分の関心と知的レベルを超えたこういう本を読むのも宜しいんじゃないかと思いました。

これまで人類は生命の必然から自分自身を解放するための努力をいろいろな形で試みてきた。生活の必然を超えたさまざまな活動、例えばスポーツ、音楽、造型美術、言語表現を用いた各種の芸術などの活動は、有史以来のすべての文化において(文化によって各種活動の相対的評価は異なるけれども)、人間にとって最高の生き甲斐とみなされてきた。生命の必然を超えた活動とはどこまでの範囲を含むのか、またそれらのさまざまな類似の活動のなかでどれが最も重要か、などの議論は実は果てしもない迷路である。例えば、ホイジンガのいうホモ・ルーデンスとしての人間における「遊び」、ハンナ・アレントのいう労働や仕事と区別された意味での「活動(アクション)」などの概念は、生活の必要とは関係なく自由に行われうる行動を把えようとするそれぞれの努力であろう。しかしここではその議論に足を踏み入れる余裕はない。いまは単に、生存を超えて永遠性と卓越性とをめざす活動が常に人類の最高の目標の一つであったことを、指摘すれば足りるのである。

例えば、古代ヨーロッパでの奴隷制は、貴族という名の一部階層にこの種の活動の自由を与えるための工夫として理解することもできる。有史以来の大半の人類社会の特徴であった階層制度は、この意味で少なくとも二つの面をもつものとみるべきであろう。つまり、一面においては、階級制度は大多数を占める下層階級に労苦と時に悲惨とをもたらすという影の面をもつが、他方においては、「永遠性」と「卓越性」の追求を一部上層階級に委託するという面をももっている。階級構造を物的搾取のための支配構造とのみみるのは、おそらく一面的であり(物的搾取の側面がないとみるのもまた一面的である)、この本での問題意識からすればそのような一面的認識は、産業社会の今後の重大な選択に関して誤りに導く可能性が高い。階級構造は、人類の生き甲斐追求についての一種の分業の制度化であったという事実認識を、その制度の是非を論ずる以前に、はっきりともつ必要がある。

 

 

このようにして、欧米の産業社会では、手段的能動主義=個人主義の価値複合体が産業化を推進するが、産業化の進行もまたそれらの価値観を強化するという相互補強的な関係が成立する。しかしそのなかで個人主義の強化は、個人の社会的統合という問題をひき起こす。またそのような個人主義の強化は経済システムの場で行われるから、経済システムとそれ以外のシステムとの間のバランスという問題が同時に起ってくる。

この問題に対する最も楽天的な考え方としては、適切なインパーソナルな制度によって統合は自然に達成され、人々を統合するための集団主義的価値観はとくに必要でない、という主張がある。例えば、経済上の自由放任主義は、市場メカニズムというインパーソナルな制度が統合機能を十分に果すという楽天的主張である。しかし第三章でも述べたように、市場メカニズムは必ずしも理想的には働かない。さらに問題になるのは、市場メカニズムのルールや適用範囲は、ときに応じて調整されなければならないが、そのようなルール自体を市場メカニズムで決めるわけにはいかない。どのように有効な制度も、結局、最終的には、統合への指向性をもった価値観が人々の間に存在することに依存している。これはわれわれが先に統合のシステムと呼んだもの、あるいはパーソンズが「社会におけるコミュニティ(societal community)と呼んだものの本質である。

個人主義と手段的能動主義との価値複合体の働きに対して危惧の念を抱いた人は、個人主義を尊重する人の中でも少なくない。産業社会を論じる文脈のなかでこの問題を初めて明瞭にとらえたのは、おそらくエミール・デュルケームであろう。彼の考えていた具体的な統合の制度は、国家と個人との間に「中間項的集団」を介在させることであり、それらの集団に培われた価値観に抑制的な働きを期待したのである。しかし彼の言う中間項的集団とは、具体的には職業団体、とくに同業組合であり、中世的自治都市という伝統的社会からの遺産に他ならない。彼の期待が空しかったことは、ほぼ歴史が証明しているように思われる。

同じような危惧の念を抱いていたのはシュンペーターである。彼は、資本主義は固有の統合機能を産み出さず、前産業社会以来の貴族階層の価値観(そして貴族に対する大衆の伝統的尊敬)と政治技能が、資本主義社会の統合機能を支えていた考える。

デュルケームとシュンペーターに共通しているのは、資本主義的産業社会が、それ独自の統合機能、統合のための抑制型価値観を産み出さなかったという考え方である。言いかえれば、資本主義は前産業社会からの遺産を食いつぶすことによって統合を保っている。しかしそのような遺産は、時代の推移と共に、とくに大衆教育の高度化によって使い尽くされていくのかもしれない。そのとき、手段的能動主義と個人主義の価値複合体に何が起るだろうか。

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